「海軍伏龍特攻隊」光文社NF文庫 の著者である門奈鷹一郎さんのお話を聞きに藤沢まで行った。
友人である、武本さんが主催する講演会である。武本さんは、パパラギという、PADIのダイビングショップチェーンを大々的に展開している人で、江ノ島でスノーケリングを積極的に進めても居る。スノーケリングのシンポジュウムを僕が計画したときにお話をしてもらって、以後、親しくなった。
僕とは生き方も考え方も違うけれど、尊敬できる商売人である。商売人であるけれど、社会に何か貢献しようという気持ちも持っておられて、このような会をやる。そして、その会も商売につなげてしまうところがすごい。
何時の日か、ダイビングの歴史について書こうと僕は思っていて、その中で伏龍特攻隊は、一つのポイントである。一度は門奈さんにお目にかかっておきたかった。
技術的なこと、当時の人間関係などについて、お聞きしたいこともあったのだが、講演を聴いた印象では、ほとんどが本にすでに書かれていて、僕の聞きたかったことはご存知無いようだった。
しかし、本当に良い人で、お目にかかってよかったと思う。
この伏龍特攻と言うのは、人間が考え出した戦闘で、最もばかばかしく、正気とは思えないコンセプトであった。門奈さんも同じ意見で、そのようにお話されていた。
この特攻は、潜水器を着けて、爆薬を先につけた竿を持ち、敵が上陸してくる直前に、上陸地点の浜から、海に入ってゆき、水中で50m間隔で整列する。その上に上陸用舟艇が通ったら、下から爆薬を突き上げて、一緒に自爆するという特攻である。
この模型は、現在久里浜の野比中学においてあるそうだ。
伏龍に使った潜水器は、全重量が68キロで、ヘルメット式と同じ、ごわごわの潜水服を着て波打ち際を歩けるわけがない。今で言う、半閉鎖式の酸素呼吸潜水器だから、長時間潜水できるが、それでも5時間が限度だと言う。上陸してくる前、5時間以内に海に入らなければならない。不可能だ。
ダイバーだったらすぐにわかる。キロを背負って、3mほどの爆薬の付いた竿を背負い、苦しい潜水機から呼吸し、波打ち際からエントリーし、海底をあるいて定められた地点に行く。多分、敵が上陸してくる海岸には、波もある。海に入ったことのない人の発想だ。
先ごろ、硫黄島の映画が公開された。硫黄島では、水際での邀撃はやめて、島全体に地下の壕を掘り、上陸させてから戦う戦闘を行い。太平洋戦争で、初めて、日本の戦傷者よりも米軍海兵隊の戦傷者が多く、それを恐れた米軍が、日本本土への上陸をできれば避けたい。そして、原爆の投下に繋がってしまうのだが、それなのに、水際の水中作戦をやろうとしたのが、伏龍だ。
僕が27歳のときにやった100m潜水の総指揮をお願いした人が、清水登さんで、伏龍に使った潜水器の設計製作者であった。清水さんはもう、この世にいない。もっと詳しく、伏龍のことを聞いておけば良かったのだが、聞いておかなかった。
清水さんは、特攻のためを考えて、潜水機をデザインしたのではないと思う。実験的に数台つくるだけだったら、悪い潜水機ではなかったかもしれない。今でいう半閉鎖式のリブリーザーである。
特攻兵器として、1000台以上作ろうとした。物資の無い時代である。材料は粗悪だったはずだ。構造上、リブリーザーは、壊れたり、穴があいて浸水したりすれば、命にかかわる。
そのために事故が発生したのだろう。今のスクーバだって、レギュレーターが何時停止するかわからないといわれて潜るのならば、命がいくつあってもたりない。
尾道のマリンテクノの教官をされていた、三宅さんも伏龍の経験者である。三宅さんにもまだ話を聞いていない。
早く聞こうと思うのだが、僕の時間がない。