2月12日(土曜日)
昔のスポーツ大会では、水中射撃が一番出場選手が多かった。水中射撃の練習:海洋公園プール
昨日11日、日本潜水会の忘年会を。日本潜水会は、1967年に誕生し、1969年には、ロレックスをスポンサーにして、第一回の全日本水中スポーツ大会を、伊豆の海洋公園で開催した。1972年には、関西潜水連盟、中部日本潜水連盟とともに、全日本潜水連盟を結成した。1975年には、沖縄海洋博で、これもロレックスをスポンサーにして、全世界から選手を集めて、海洋博水中スポーツ大会と、日本の海 写真展を開催した。やがて、全日本潜水連盟の中で、関西、中部、九州と名称を統一するために、日本潜水会の名前では潜水の指導活動を停止して、関東潜水連盟になった。
しかし、潜水の指導から撤退しても、日本潜水会は、大人のとても良い倶楽部だったので、消滅させるには惜しく、1982年に同窓会を始めた。それからでも28年の月日がながれ、毎年12月になると、忘年会・同窓会で集まった。しかし、年月の経過は、人の年齢も加える。このままでは、日本潜水老人会になってしまう。それぞれの二世、若い後輩を加えて、若い人たちに、自分たちの想いをバトンにしようと、日本で唯一の利益追求ではない、大人の楽しい忘年会をつないできた。
しかし、次第に古い仲間は、出てきてくれなくなり、中心になっている10人ほどの友人の他は、全部、日本潜水会が活動していた時代のことをしらない人に移ってきた。それでも、伝統というものは価値があるもので、新しい人も、自分は日本潜水会なのだという誇りをもってくれているようだ。
今年の春、全日本潜水連盟の理事長を辞することになった。
全日本潜水連盟からは、1972年以来、39年、ボランティアで、理事長でも会費は取られていたから、持ち出し同然で働いてきた。それがすべて無になる辞め方だった。しかし、自由になったことで、新しい世界が開けたから、それはそれで良かったということで、何も悔いはないのだが、ダイビング界でまだまだやり残した理想がある。日本潜水会にもどって日本潜水会を再び復活させようとした。しかし、古い会を復活させるのではなく、新しい会を作り、日本潜水会の友人が応援してくれるという形で、特別非営利活動法人 日本水中科学協会を作ることになった。今、どるふぃんの紹介をしているが、どるふぃんを出していたのは、日本潜水科学協会である。潜水と水中が異なるだけである。
その日本水中科学協会の発表を兼ねた昨日の忘年会であった。日本水中科学協会の目的の一つは、僕が元気にダイビングを続行しているうちに、僕の人脈とそこから枝分かれするネットワークを整備して次の世代に残すことである。そして、そのネットワークで理想を追う。実現しないことを理想というのだ、と、僕の年齢では知ってしまっているけれど、その理想とは、自分の命は自分で守る。自分の失敗を他に転嫁しないという至極あたりまえのことなのだが、それが理想になってしまうのが今の日本のスクーバダイビングである。
1967年ごろ、スクーバで事故を起こす理由は、へたくそ、病気、思い上がりの三つであり、へたくそが事故原因の筆頭である。スクーバは、上手になるか、止めるかの二つしか途はない。今でもそれは間違っていないと思っている。
日本潜水会の古い友達、そして新しい仲間でも、僕の最後のチャレンジを応援してくれる。だから、日本水中科学協会はそれとして、日本潜水会の方も何かの形で残さなければいけないと願っている。