朝、10時、鶴町が亡くなったという電話を受けた。
入院中だったのが、正月は家に帰って過ごすということだったから、そういうこともあるかとは思っていたが、みっともないけれど泣いてしまった。
鶴町通世は、僕の今のバディである。
鶴町が、中央大学のダイビングクラブ、「中央大学海洋研究部」を卒業して、正式にはたしか、経済学部だったかを卒業して、僕の会社・スガ・マリン・メカニックに来たのは、1977年だったか1978年、創立してから7年目に一緒にやっていた高橋実君(現、ダイビング指導団体 スリーアイ代表)がやめた後だった。その時、面接もどきをやったのだが、その話は前にもブログに書いた。けれど、もう一度思いだそう。
僕はダイバーとして、一番格好が良い時だった。僕は鶴町に言った。
「僕たちの仕事のスクーバダイビングは、ロシア・ルーレットのようなものだ。輪胴式のピストルに弾を一発だけ入れて、グルぐるっとまわす。頭に銃口をあてて、引き金を引く、カチッと言えば生き残り、これは決闘のやり方だから、次は、相手がまた輪胴を回してカチッ、次に自分がまた回す。何回かのうちにドンとなれば終わりだ。そんなつもりで潜っている。」
本当にそんなつもりで潜っているわけではないけれど、格好をつけてそう言った。
あとで、ずいぶん後、この二三年前だったけれど、あれが格好よかったから、僕の会社に入ったのだと言っていた。すぐにやめるつもりだったけれど、10年以上いることになってしまった。おもしろかったから。
入社してすぐだったけれど、ダムのトンネルに行って、一緒に潜っていた人が、(僕の会社の社員ではなかったけれど)トンネルから出られなくなって死んだ。それから、僕たちは世界を股にかけた。ポンペイのナンマタール遺跡に行って、呪いを受け、釜石湾口防潮堤の工事で、水深65mに二人で潜り、アンカーを引きずる労働をして、半ば意識を失い。龍泉洞にも一緒に潜り、水深73m、(鶴町は80mを超えていたと言うのだが)まで行き、ガラパゴスにも行き、思い出しきれない。ロシア・ルーレットの弾は出なかった。
そして、会社を辞めて、藻場の調査の専門になり、そして、カメラマンとしても世界の豪華船クルーズのシリーズを撮っていた。僕がスガ・マリン・メカニックを引退して、一人で調査の仕事をするようになり、また、彼を頼りにするようになった。いつも一緒に潜り、年老いた僕の両腕になってくれた。
そして、癌に倒れた。急性の癌だったから、もう助からないと思ったが、胃を全摘してたちまち復活し、抗がん剤を飲みながらまた二人で潜った。その抗がん剤ももう飲まなくて良くなった。良かったと思うまもなく、転移した。この春のことだ。
しかし、それも手術で復活し、今年の夏、7月には、広島大学の練習船豊潮丸の航海に一緒に来てもらった。
写真はこの航海で、広島大学の堀教授が撮影したものだ。7月14日撮影。
楽しい航海だった。また涙が出てしまう。
あまり良く撮れていないけれど、ゴムボートの上で、僕のタンクを引き上げてくれている。
そして、最後に一緒に潜ってのは、ログを見ると、11月19日
「須賀・鶴町・久保 ライン3の調査 透視度は良くはなかったが、なんとか撮影できる程度。途中、エチゼンクラゲに群がっているウマヅラハギを撮影、東防波堤に接近している部分でムツ、タカベの群れ、水面近くをイナダが通り過ぎる。ドライスーツの左足部分水漏れ。」
12月の8日ごろに入院、した。
そして、今日だ。
車で走りながら、こんな話をしていた。
「僕もこんな年齢で潜っている。鶴町も癌なのに潜っている。人並み以上に身体も動く、どうしてだろうね。」
「きっと、子供の頃、危ないと言われた遊び以外はしなかったからだと思います。」