水中技術振興協会の話も一段落付いた。附けてしまったというべきだろう。手元にある残された史料をもっと、くわしく引用して、そのころのことを考えようと思っていた。今、振り返ってみて、この水中技術振興協会が、ターニングポイントだったよう思う。そして、こうなったことが必然のようにも思える。
なぜ、水中技術振興協会が消滅したのか、スクーバダイビング業界は、援助してくれる、世話をしてくれる代議士先生を養っておけるほと豊かではなかった。
他の業界の人と付き合い、話をすると、スクーバダイビング業界が、その利益を代表する公益法人をもっていないことが、不思議と言われた。日本潜水科学協会は、本来この業界と言わず、水産も、スポーツも科学研究者もすべてをまとめあげて、社会的な地位を上げ、安全性を確保し、その立場を社会に対して、あるいは政治に、あるいは官に主張、発言するべき公益法人であるべきであったのだが、海底居住など、後になって考えればどうでも良いようなことに走ってしまった。
そして、その穴を埋めるべく、水中技術振興協会が作られようとした。失敗の原因はお金が集まらないと言ったが、潜水科学協会のように、構成する人達が、下から持ち上げた者ではなくて、上から押しつけるようにしてまとめようとしたからだと思う。
もしも、この水中技術振興協会が成功して、上級潜水士とか潜水指導員のシステムが機能していたとすれば、そして、すべての省庁から課長補佐クラスが集まってスクーバダイビングのための委員会をつくっていて、ダイバー有力者のアンケートにみられるような団結があったとすれば、どうなっただろう。このように並べ立てて、良いことを書くと、やはりそんなうまくは行くはずがないとも思うのだが、もしも出来ていたとすればどうなったのだろう。1970年である。PADIの本格的名活動開始が1980年だから、まだ、10年後のことだ。
ダイバーは、利益を持ってしか釣れない。代議士先生が考えるスケールの利益ではなく、ほんのちっぽけな利益で釣れたのだけれど、もしも、あの時、一億まで行かない、数千万の先行投資をするならば、今のPADIが日本のダイビングから得られる利益も得られ、その上に、国の補助金を得ることができる。何故消えたのだろう。やはり、ダイビングのことを、ダイバーのことを本気になって考えていたわけではなく、そこから得られるメリットだけを見ていたのではないだろうか。
水中技術振興協会が発足するためのブルーオリンピックをやっている昭和44年、1969年、5月、僕は9年6ヶ月お世話になり、100m潜水などわがままをやりたいようにやらせていただいた東亜潜水機を退社した。理由は、もっと潜りたかった、そして、やはり同族会社だから、僕が経営者になれる可能性はない。心残りがあったし、引き留めてもいただいたけれど、やめた。
独立、そして、あたらしい仕事のために奔走、そして、日本潜水会の運営、 そして、その1970年(昭和45年)5月、日本で初めての本格的、水深10mを持つ潜水訓練プールを持つ、日本海洋技術開発株式会社 JOTEC(ジョテック)の発足に関わっていた。とても、水中技術振興協会のことなど、詮索している時間も余裕も無かった。どうでも良かった。
この写真はその日本海洋技術開発株式会社 JOTEC(ジョテック)のプール、川崎の下丸子に作った。水深5mの位置に、レストランからプールを覗ける窓がある。
背中に着けているのは、その当時のフーカーである。