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2010年 08月 07日
何度も使ったことがあるアルバムなのだが、1967年のことを書こうとしてファイルを開いたら、消失してしまっている画もある。もう一度アルバムからコピーしなおした。
エントリー場所から上がって来た、友竹さん、魚を捕る網を持っている。浅見さん。 多分、2番の根だろうと思う。 1967年12月、東拓海洋公園で、1週間の合宿をやり、日本潜水会がスタートした。指導員講習、合宿の最初である。よく、インストラクター講習の同期生は、一生の友だちになるというけれど、この時の仲間も一生の友だちになった。 中山千夏さんの本にも書かれている。僕たちは、その時、もうスピアフィッシングはやめよう。スピアを捨てない限り、スクーバダイビングの発展はないと決議した。なにしろ、皇太子殿下の天覧に供したスピアフィッシングである。やめることには、痛みがともなった。しかし、とにかくやめて、それでは次にどうしよう。一つはスピアをカメラに持ち替えて、水中撮影を中心にする。もう一つは、スポーツ性の高い、競技会をやろうということだった。 益田さんはその二つともに、強力に協力してくれた。水中撮影と言っても、今のデジタルの時代とは違って、フィルムの時代である。フィルムも高いし、まだ水中ストロボがないから、フラッシュバルブを炊く、ダイバーの使いすてた捨てる、フラッシュバルブが公害になるというほど、消費する。バルブ一個がコーラ一本と同じくらいの値段である。フィルムで36枚撮れば、コーラを36本飲むことになる。若いダイバーには大変な出費である。 益田さんは、図鑑を作り、フィッシュウオッチングを振興させ、IOPニュースを死の直前まで出して、水中撮影と水中生物観察を普及することにその後の生涯をかけた。フリッパー競泳についても、一番熱心だった、今でも、益田グループのチームが出場して、優勝を争っている。千夏さんもこの大会に出て、50歳代の部で金メダルを取った。 競技会は、1968年から、数年前までは、僕がプロデューサーで開催した。今の主催団体である(財)社会スポーツセンターが僕を70歳停年だと申し渡して、今は実行委員長になっているが、これは名誉職であり、プロデューサーではない。しかし、(財)社会スポーツセンターが、この大会を大きく育ててくれた。バトンタッチが出来た。感謝している。 日本潜水会は、関西潜水連盟、中部日本潜水連盟と合同して全日本潜水連盟になった。益田さんは、日本潜水会には名誉会員として、最後までつきあってくれたが、全日本潜水連盟には、お客様としてのスタンスだった。全日本潜水連盟も、海洋公園を指導者講習会の場として使ったし、毎年、水中スポーツ大会を開催したから、良いお客様だ。これはすべて、益田さんがつくった50mの長水路競技用のプールがあったからこそであるが、とにかく、全日本潜水連盟も海洋公園をホームグラウンドにするお客様ではある。 しかし、僕は全日本潜水連盟に日本潜水会を合流させたことは、失敗だったと思っている。関西潜水連盟も中部日本潜水連盟も、スピアフィッシングをやめなかった。やめなかったばかりか、何とかして、規則を改正してスピアフィッシングを日の当たる場にひきだそうと努力をした。あれほどの議論をして、決意したのに、ぐずぐずになってしまった。清濁併せのむことによって継続する方向で努力したが、やはり主張に芯が通っていなければ、継続しただけのことであり、何かを残すことにはならなかった。それと、全日本潜水連盟が最初の母体となって(財)社会スポーツセンターをダイビングの団体にしたということは、良かったとおもっている。個人的には、自分の意図した方向とは全く違う団体になったが、自分の意図がすべて正しいわけのものでもない。(財)社会スポーツセンターは、ユーザーユニオンにしたいと思っていた。文部科学省の管轄だから、ビジネスの業界を代表する団体になる筋ではない。今は、業界をまとめる団体になっている。それはそれで、良いと思う。自分の意図するところは、自分でやらなければいけない。こんど始める水中科学協会は、業界を代表することもないでろうし、全体をまとめるつもりもない。僕も、気質的には、益田さんと同じ、まとめられることは嫌いだ。まとめられることが嫌いなのに、まとめる役をやってきた。なんだったのだろう、全日本潜水連盟にしなければ良かった。気持ちのあった日本潜水会までで、よかったのではないかと反省している。結局、全日本潜水連盟も、発足当時の日本潜水会以下のスケールになってしまったのだから。それでも40年続いたのは、すごいことだろう。役人の耐用年数は30年、だから、人工魚礁の耐用年数が30年になっている。40年は、まあまあだ。水中科学協会は、残りの生涯をかけるつもりだけれど、あと5年が僕に残された時間だから、レールを引けるかどうか。引かなくては! 益田さんは、自分の意図を貫いて、最後まで妥協しなかった。しかし、益田さんの本当にやりたかったこと、伊豆海洋公園を海洋研究機関としてのIOPにしたかった夢は、夢で終わってしまった。益田さんが亡くなって、海洋公園はお客様の使いやすいダイビングリゾートになったという。僕は益田さんの居ない、ダイビングリゾートには行く気持ちになれなかったが、ひねくれていないで、今年の秋ぐらいに行こうかとも思う。でも、もっと小さくても良いから、フィッシュウオッチングダイバーが集まる、レクリエーションダイバーのための海洋研究所になっていてくれれば良かった。中村宏治が育って行った頃の海洋公園は、そんな雰囲気だった。何時でも、若者が二階にごろごろしていて、階下の水槽には、採集してきた魚が居て、益田さんは図鑑の写真を撮っていた。友さんはビールを飲んでいた。幸せな時代だった。僕はほんの少し、その時代を共有できた。 振り返ってみると、僕が今、特定非営利活動法人・日本水中科学協会を始めたが、20年遅かった。益田さんの海洋研究機関の夢がそこにあり、僕の同級生たちが、大学の教授であり、水産庁の研究所の所長であり、同級生が政治家、あるいは、官僚だったとき、始めていればと思うけれど、やはりそれは出来なかった。僕の上には、どっしりと、海中開発技術協が錘になって乗っていたし。はねのけるパワーは僕には無かった。海中開発技術協、潜水科学協会のなれの果てであり、僕の恩師たちが中心だった。今のレジャースポーツダイビング産業協会は、そのさらになれの果てであり、業界全部をまとめるプロジェクトを考えている。まとめてどうするのか、せめてダイバーズフェスティバルを盛大にするぐらいの目標は掲げて欲しい。それに、業界全部をまとめるコンセプトは、(財)社会スポーツセンターも同じだ。どうゆう風にまとまるのかな。 野垂れ死にとは、自分の思いが届くところまで行けずに倒れることなのかもしれない。それでも歩き続ける。僕も益田さんも野垂れ死になのか。野垂れ死にでいいから、僕は、今度こそ妥協しないで、行けるところまで行かなくては。
by j-suga1
| 2010-08-07 12:35
| 旅行
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Comments(1)
Commented
at 2010-08-07 15:51
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