スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」:リサーチ・ダイビング
2023-12-14T13:15:18+09:00
j-suga1
89歳になります。スクーバダイビングによる水中活動の支援を展開しています。、
Excite Blog
1214 サイエンス・ダイビング ①
http://jsuga.exblog.jp/33586901/
2023-12-14T13:15:00+09:00
2023-12-14T13:15:18+09:00
2023-12-14T13:15:18+09:00
j-suga1
リサーチ・ダイビング
blogが本当に滞ってしまっている。
「サイエンス・ダイビング」という本を、久保彰良君と合冊共著で書いている。合冊共著、そんな言葉があるかどうか知らないが、共著というと、一緒に、相談して手分けした書く。ここまでは、良いのだけれど、共著となると、書いた後も、お互いの意見主張に矛盾がないかとか、話し合い、相談してまとめるのだと思う。その相談する編集をやめようというのだ。
ダイビングのスタイルもまったくちがう。相談して個性をころしてしまうのは、つまらないし、もったいない。
どちらも、正しいし、お互いにそれなりの根拠があって書いている。
いいとこ取りを、読者に投げてしまおう。
そんな考えが、編集者である成山堂の小野さんに通るかどうかわからないけれど、僕は「有り」だと思っている。
互いに別の分野を書いているから、意外にうまく合冊でまとまるかもしれない。
ついでにかいてしまうと、既に、書きあげている、総論その一、「サイエンス・ダイビング・70年」というブロックが、他の部分、「サイエンス・ダイビング撮影術」「ライン調査」の章と整合しないのではないか?いや、整合しなくてもいい。これは、自分の中での合冊なのだ。
そんなこんな、事で、blogがとおくなってしまっている。
僕のブログでも、何時も読んでくださっている人もおられるし、書かなくてはと筆を執った。
このあと、「潜水部70年史」というテーマで、本とは別に、blogも書くつもりにしている。
写真は、住んでいる部屋の、玄関を出たところから、見下ろした光景。
撮ったカメらは、ウエアラブル「SJ・CAM」、これは旧型で、使わないでいたものを発掘してきて、テストしてみた。現在使っている 5000型、4000型と比べて、悪くない。多分1000型か?
書いている、「サイエンス・ダイビング」の撮影術で、ウエアラブルカメラの代表格であるGoProを、僕は推していない。
GoProも現在、8と10を使っているが、8は故障中である。バッテリーを入れて、一晩おくと、電池が放電されてしまう。
僕は原則として、この手の消耗品カメラは修理にださない。壊れたときが寿命だ。
そして、GoProはなぜか、タイム・インサートが、画面にでない。画面の左下に出ているのが、タイムインサート;撮影日時だ。
GoProは、かたくなに、このタイムインサートを画面に出すことを拒否している。使わないならば、消した設定にすればいいと思うのだが、ださない。
これは、GoProが、映像を使うプロをプロだけを相手にしているという意志表示なのかもしれない。このタイムインサート表示が入っているとプロが、テレビ放送などでは使えない。スタジオでの録画でもつかわない。編集できない、前後の入れ替えが不自然になってしまう。繋げなくなってしまう。GoProもタイム設定はするが、それは、プロパティでみる。画面にはない。
一方で、サイエンス・ダイビング、水中調査撮影では、タイム・インサートは、必需ともいえる。記念撮影でも単発で使う場合には、これがあると、何時のことかが証明される。ただし、撮影行為に入る前、一日に一度は時間が正確か、チェックしている必要があるけれど。
そして、その価格だが、現在のSJ・CAM 5000が1万3千円である。GoPro一台の値段で、3~5台買える。水中調査撮影のカメラは消耗品である。
絵がそこそこきれいで満足でき、丈夫で、捨てても良い。そして、タイムインサートが、できる。
なお、SJと並ぶカメラにAKASOというのがある。これは陸上のカメラとしては面白いのだが、水中で撮影した時に、水の色が、SJの方が、本当っぽく見える。本当の水の色は、わからないが。なお、この価格帯のカメラで、「水中」という設定にすると、水の色が赤茶けてしまう。赤いフィルターを使う人もいるけれど、僕は着けない。 SJ・CAM 5000
AKASO 7000 PRO
GoPro 10 下も
真面目にテスト撮影をしての結果ではない。この手のカメラは、設定によって全く別のカメラになってしまうし、真面目にやったところで、この価格帯のカメラは,ばらつきが多くて、骨折り損になってしまうだろう。
まあ、GoPro10がきれいに見えるが、SJが、安くて捨てても惜しくなく、タイムインサートが入り、それなりの満足が得られる。消耗品としてのカメラとしては、SJでいい。
※ なお、ウエアラブルカメラを使った水中調査撮影は、すべて動画で撮り、動画から、PC上で、静止画を切り出す。上記の映像もすべて、その手法で取り出した。
なお、今日12月14日、お台場の撮影調査のワークショップをやるが、ウエアラブルカメラとして僕は、GoPro10、GoPro8 (故障しているが、だましだまし使っている)SJ5000 を使っている。
次回、12月の調査で、SJと AKASO GoPro10 を並べて設置撮影で、使って見る。
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0208 ヒューリスティックス
http://jsuga.exblog.jp/30420538/
2021-02-08T12:11:00+09:00
2021-02-08T12:11:35+09:00
2021-02-08T12:11:35+09:00
j-suga1
リサーチ・ダイビング
ヒューリスティックス
☆最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか ジェームスRチャイルズ 高橋健次訳
草思社文庫
前に、といっても2017年発行の本だから、3年前、読み終えた本、栞を入れて、マーカーで何カ所か印がつけられている。
「リサーチ・ダイビング」の内容ともかかわるので、書き写した。
①
ほとんどの人間は、統計に基づくのではなく、自分が実際に経験したことによって自分の確率を決めている。これを心理学者は、「ヒューリスティックス」の適応と呼んでいる。ヒューリスティックスとは、世界の営みに関して、われわれが受け入れる一般法則であり、それは自分自身が目撃した種々のものごとや、親族・友人といった信頼できる情報源から聞いた雑多な情報から導き出される。ヒューリスティックスは、あらゆる情報のなかで最も信用できるものーー自分の目で見た事実と、信頼する相手からの証言にもとづいているように見えるので、だれもがそうした信念に大きな価値を認めている。とはいえ、各人のヒューリスティックスは、時間とともに変化する。新しい情報が加わって、元の情報が押し出されたり、かっては鮮明だった記憶が薄れたりするからだ。
②
ひとつの専門分野で長期間はたらくことができる人たちは、直感にきわめて近いものを発達させることができる。クラインはこの技量を「現場主義的意思決定」となづけている。そうした人間は、非常事態が起こると、その場の事実を記憶の中のモデルにあてはめることによって、まずまずの作戦をすばやく考え付くことができる。現状がモデルにあてはまらない場合も、そうした人たちは、未経験の地に自分が立っていることを自覚しながら、本来のやり方とは、別のところで当意即妙の案を見つけ出す。
一方 ヒューリスティックスについてウィキペディアで見ると、
ヒューリスティクス(英: heuristics, 独: Heuristik[注釈 1])または発見的(手法)[1] [2]:7 [3]:272とは、必ず正しい答えを導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることができる方法である。発見的手法では、答えの精度が保証されない代わりに、解答に至るまでの時間が短いという特徴がある。
主に計算機科学と心理学の分野で使用される言葉であり、どちらの分野での用法も根本的な意味は同じであるが、指示対象が異なる。すなわち、計算機科学ではプログラミングの方法を指すが、心理学では人間の思考方法を指すものとして使われる。なお、論理学では仮説形成法と呼ばれている。
ちょっと視点がちがうようだ。
自分の考えをいうと、人は、ダイビング事故で起こるようなとっさの事態では、論理的に考えて判断を下す時間がない。経験から得た判断、直感で行動する。それは、個人のものなのだが、知識として獲得できる部分もある。
知識と経験の相関は、個人差も大きく、一概に結論できることではないが、車の両輪と言ってよいだろう。
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1011 RD リブリーザー
http://jsuga.exblog.jp/30251801/
2020-10-11T19:03:00+09:00
2020-10-12T16:16:29+09:00
2020-10-11T19:03:07+09:00
j-suga1
リサーチ・ダイビング
リブリーザに初めて触り、それで潜水したのは2004年だった。自分の100m潜水から、足かけ7年の月日が流れている。その7年の間にもいろいろあったが、それは、省略。
ここでもう一度、くどいようだけど、ここに書くことは自分の知見、経験であって、情報の類である。ただ、事物は違う視点から見ることが大事だから、価値のある情報だろう。
2003年まで、リブリーザの概念は知っていた。アメリカの飽和潜水研究、シーラブ計画で、リブリーザを付けた研究員が、ケアレスな間違いで死亡して、シーラブが中止になる一因になったという噂、そして、開発途上にあるリブリーザは、危険度が高いという情報は耳にしていた。危険ではあるけれど、リブリーザこそが、次世代の潜水機であるとも思い、感じていた。しかし、自分もやってみなければ、話にならない。ただ、ここまで自分が生き延びてきたのは、リブリーザをやらなかったおかげかな、と思ったりもしていた。
潜水部の後輩に古島くんという、有名カメラマンがいる。ビデオのカメラマンで中川の競争相手だ。その古島とは、一度も一緒に仕事、潜ったことがない。一度くらいは、と思って、龍泉洞を企画したが企画だけで終わってしまった。その古島が、リブリーザで鯨を撮ったりしていて、その際のアシスタントが、豊田君という人だ。リブリーザでは古島が先輩だから、相談すると、その豊田君を紹介してくれた。
豊田君の店は、新橋烏森口の駅から数分の商店街の真ん中、車を停めてはいけないような場所のビルの三階、エレベータのない3階だ。タンクとか機材を担いで上がらなくてはいけない。身体が猛烈に鍛えられるだろうが、豊田君本人は、細身のどちらかと言えば小柄な人だ。
もらった名刺を見ると、お店はテクニカルダイビングセンター ジャパンで、IANTD の日本代表とある。それまで、リブリーザのこと、そして、テクニカルダイビング業界のことは何も知らないでいた。このIANTDのことも知らなかった。International asociation of nitorox & tecnical diver's の略だ。
まず、リブリーザはたいへんに危険な潜水機なので、IANTDの講習を受けないと売ることはできないという。古島の紹介だから便宜を図ってくれるかとおもったのだが、そういうことはなかった。あとで、親しくしていたテクニカルダイビングの一人者、田中光嘉になんで、俺のところに来なかったかと叱られた。
見積金額は180万その中にはINATD のマスターダイバー検定とフィリピンでの8日間のリブリーザ講習がふくまれている。
リブリーザは、インスピレーションという機種で¥1218000だ。トレーニング費用 マニュアルと申請量が¥250000、限定水域(プール)2日間 ¥46000 海洋 8日間で¥264000だ。ビジネスライクで厳しい。
まあ、容赦なくお金を簒奪するものだ。考えた。67歳、今やらなければ、リブリーザを体験しないで、死んでしまう。アクセプト!やることにした。
ダイビングの講習は、大学3年の時に受けた。後は終始教える側だった。
一人だけというのも、寂しい。バディが必要、名古屋の浅井さんに声をかける。浅井さんのショップの川島君が参加することになった。
ほどなく、1228000円のリブリーザ、が届いた。インスピレーション、重さが30キロもある。リブリーザ素人だったので、日本のフィーノから押して考えて、オープンサーキットよりも軽いのだとおもっていた。
リブリーザの講習を受けるためには、IANTD のマスターダイバーの資格が必要だと検定を受けさせられた。僕のネームバリューなどは通用しない。検定はする側であって受けたことなどない。それも、ちがうスタイルのダイビングだ。湯河原のプールだった。なんとか合格したが、知らない団体のマスターを67歳で情実なしで合格するのは、大変だ。
同じプールで初めて、インスピレーションを背負って呼吸した。炭酸ガス吸収剤は必ず自分で詰めなければいけないとか、吸ったり吐いたりしても浮力は変わらないとか、マウスピースを口から離すときには、必ずシャットする。など、身体で覚えた。
さて、見積もりでは、海洋は伊豆といわれていたが、フィリピンのセブに変更になった。コンチキというショップでINATDの看板がでている。混合ガスの充填ができる設備が整っている。なるほど、フィリピンはアメリカのようなものだから、ダイビングでは日本よりも先進だ。
セブでの講習は、海で泳ぎながら、段階的に、いくつかのエキササイズをやる。たとえば、潜水中に酸素センサーが壊れて、壊れないようにマスターとスレーブ二つのセンサーを持っているのだが、もしも、なにかの原因で二つ同時に壊れて分圧が狂ったとして、異常を感じたら、直ちにマウスピースを離して、サイドマウントで着けている6リットルの空気を呼吸する。空気を呼吸しながら、酸素センサーをリセットする。分圧がもとに戻ったら、再びリブリーザから呼吸して、脱出・浮上する。マーカーブイを上げて減圧停止する練習もした。
結果、IANTDの合格基準を満たすことはできなかったとして、僕は不合格だった。。ダイビングのスタイルが、自分が50年余身体に染み着いたダイビングと違うのだ。8日間ではこれを消し去って新しいスタイルに、リブリーザが仕える程度まで、熟達するのは、70歳の自分では無理だった。
その後、日本水中科学協会を設立して、プライマリーコースというプログラムで、トリム、水平姿勢の講習をやることになり、3年間これを練習したが、上達しなかった。ある程度はできるようになったが、練習を続けていないと元に戻ってしまう。スキンダイビングを基本とする僕のスタイルでは、プールでスキンダイビングのトレーニングをすると元に戻ってしまう。
若い、40歳以下の人だったら、二つのスタイルのダイビングをできるようになるだろうし、教えている学生、東大の海洋調査探検部などは、フリッパーレースに出場しながら、トリムのダイビングもできるが、高齢者にはむりだった。何とか形だけはできるが、カメラを構えたりすると、30度の姿勢にもどってしまう。
しかし、リブリーザのダイビングは、トリムのスタイルだけとは限らない。海底にしっかり足を下ろしてしまえば良い。と、僕は考えた。魚礁の調査をするならば、魚礁の中に入り込んで、座っていればいい。浮上はケーブルダイビングを使ってあがってくる。
人工魚礁調査にも使って見たが。
それはそれとして、せっかく持っているリブリーザの練習をしなければ。
仕事ではないトレーニングにボートをチャーターするお金はない。70歳でスガ・マリン・メカニックを引退して、田沼君に会社を任せているから、会社からお金を引き出すこともできない。大瀬崎の先端でトレーニングすることにした。ビーチからのエントリーでたやすく60mに行かれる。そのころ、深いダイビングに同行したのは、東大海洋調査探検部のコーチで、理論天文学で、東大史上、若年で教授になった小久保英一郎君だった。振り返れば、めちゃくちゃだ。小久保君は、普通のスクーバで潜る。もちろん空気でだ。当然窒素酔いになる。二人とも窒素酔いジャンキーのきらいがあった。深く潜るダイバーは、今のテクニカルダイバーも含めて、スタイルはそれぞれだが、皆、ジャンキーのきらいがある。
2回、危ないことがあった。
リブリーザは、エントリーする前、純酸素状態で何分間か呼吸する。これで、動きが良くなる。水に入ると酸素を薄める空気のコックを開く。酸素センサーが働いて、設定しておいた、適切な分圧になる。エントリーするときに酸素を薄める空気のコックを開くのを忘れると、酸素分圧が高くなり警告のブザーがなる。その警告音が、当時から少し耳が悪くなっていた僕は聞き取れなかった。それをバディで潜っている小久保が聞いて、注意してくれた。そのまま潜っていたら酸素中毒になり危なかった。今では、この警告をランプの点滅で知らせる方式もあるようだが、耳の悪い僕は、危ない。
もう一度は、一人で潜って居るときだった。
純酸素を薄める空気のタンクは3リットル、純酸素も3リットルで併せて6リットルしかないが、循環させて酸素の消費分だけが失われるのだから、長時間の潜水が可能である。しかし、ダイバーが浮き上がると、膨張したガスが回路から逃がされる。沈むと自動的に供給される。つまり、浮き沈みをするとガスがどんどん失われる。水深60mで上下動を繰り返せば、3リットルはあっという間になくなってしまう。この薄めるガスが無くなると、インスピレーションは、自動的にガスの供給を停止する。酸素分圧が深い水深で高くなると、酸素中毒が恐ろしい。自動的に停止して呼吸できなくなるから、サイドマウントで持って行く6リットルの空気に切り替える。水深60mに潜っていれば、かなりの減圧停止が必要になる。60mから、減圧停止点までの浮上でも空気は消費される。減圧停止が十分にできない可能性もある。これも、水面の舟から空気が供給されれば問題ないが、ビーチエントリーでは危ない。幸いにして僕は減圧症にはならなかったが、覚悟して浮上した。このときは自分一人の潜水だった。
これは、もう自主トレは、危ない。といって、舟を雇ってまで、本格的にトレーニングする必然性のある仕事もない。ちょうどそのころ、酸素センサーの寿命がつきた。酸素センサーは、化学的なもの、生ものなので、定期的に交換しなければならない。交換すると7万ぐらいかかる。
仕事があり、組織的にやるのでなければ、やめた方が良いと判断した。手元に置いておくと、また、必ずやるだろう。中古で40万で手放した。
一回だけ仕事に使った。「東京タワー」という映画の撮影だった。見た方もいると思うけれど、主人公の岡田准一が、プールの10mの飛び込み台から突き落とされるシーンがある。それを、もちろんスタントがやるのだが、プールの底から仰角で撮る。習志野のプールで撮ったのだが、仰角のカメラに自分の出す気泡が写ってはいけない。気泡の全く出ないリブリーザが役に立った。
さて、リブリーザの有用性だが、半ば趣味であるテクニカルダイビングで使う。これは、趣味なのだから問題ない。ヘリウムも高騰しているので、ガス消費が少ない利点がある。仕事としては、無音が要求される場合、無気泡が要求される場合。これは、音響機雷の処理など軍事目的がまず考えられる。リサーチでも無音、無気泡が要求される場合がある。
危険度は、開放式スクーバよりも高い。業務として、深く潜る潜水機としては、特殊な場合を除いては使えない。シーラカンス撮影のローラン・パレスタが使って成功している。彼は、SDCとリブリーザを使った撮影調査を行い最近発表している。日本でもシーラカンスプロジェクトが行われ、親しかった田中光喜は、それで命をおとしてしまった。
リブリーザーは、非常に魅力的で、命を懸けてもやりたくなる危険性がある。
リブリーザについて(続き)
ブログをフェイスブックに転載した。
現役のリブリーザインストラクター・ダイバーである倉品君からもコメントをいただいた。
なにぶんにも、前に書いた原稿をもとにしたブログなので、改めて考えることが多々あった。「リサーチ・ダイビング」には、このまとめを中心にしてかくことになるだろう。
まず、オープンサーキットは、スキンダイビングの延長線上にあり、スキンダイビングが上手であれば、少しの練習で技術的にはマスターすることができる。
理論などは別であるが。
リブリーザは、スキンダイビングの延長線上にはない。もちろん、水慣れ、緊急の処置などにスキンダイビングは役に立つが、もう一つ別のスタイルのダイビングを身につけなければならない。
自分の場合、それが困難だった。
そして、業務の潜水だが、これとも全くスタイルが違う。業務のスタイルのダイバーで、リブリーザができる人は、それなりの時間をかけた訓練が必要であり、現状では数えるほどの人しかいないのではないか。良いリブリーザダイバーであっても、作業、業務には「使えない」これも、経験、修練が必要だろう。
そして、60m以上の潜水でリブリーザを業務に
使う場合、自分であれば、ステージ、もしくはライフラインがなければできないし、社員でもそのようにさせる。
科学、研究者の場合だが、リブリーザは、無音、無気泡であり生物の観察には利点が多いが、使う場合には、研究者も一応のリブリーザトレーニングを受けた後、リブリーザのエキスパートダイバーをアシスタントにして1:1のバディで潜水するべきである。
自分の場合には、70歳でリブリーザを試用したが、スキンダイビングを基本とするダイビングを50年近くやっており、しかも、自分の安全の基本が命綱、送気式ホース、有線通話などのサーフェスコンタクトに寄っていて、それが根強いため現行スタイルのリブリーザダイビングは危ないとあきらめた。
もう、その時間はないが、僕がリブリーザを使うとすれば、有線通話器を中心とするスタイルを作り上げて、ボートからの潜水とする。
なるほど、左に付けている。講習を受けている講習生
現役のリブリーザインストラクターである倉品君から、僕がベイルアウトタンク(6リットル)を右体側に着けていた(写真から)ことについて、リブリーザでのエマージェンシーはすべて、左側からであると指摘をいただいた。僕は右利きなので、何をするにも右からはじめてしまうが、左側からに改めなくてはならない。まず、左手で持ち、支えて、右手で作業をするという意味だろう。カメラを持っていたら右手でカメラを持ち、左手で操作するという意味だろうか。
僕の場合、右側であったとしても、とにかく、ベイルアウトを持っていたために、助かった。リブリーザでは、ベイルアウトが必須である。何かが起こった場合、水面に逃げられない。またバディから空気をもらうこともできない。
僕の場合、とにかくベイルアウトを持っていた。豊田君からリブリーザを買ったが、ベイルアウトは田中君から買った。それが僕の命を救った。
日本での事故で記憶している例、フリーダイビングの監視をしていたリブリーザダイバーの事故では、ベイルアウトを持っていなかった。
なお、ベイルアウトタンクが6リットル1本では、深い潜水では、減圧症罹患の可能性が高い。タンクを2本にするか、バディのベイルアウトを使うか、ボートならば、減圧用のタンクを別につり下げておく。
もう、今後自分がリブリーザを使うような潜水をすることは無いが、リブリーザを体験したいみはあった。講習不十分で実際にやってみたこと、よい子には薦められないが、講習費用が、ワンブロックで50万はかかるので、致し方なかった。(予算が無かった)これから、一応の技術があるスクーバダイバーがリブリーザを始めるとすれば、機材関係が150ー200万、講習費用が100万、合計300万はかかる。(交通、宿泊費などを含めて)僕のように、古いダイバーであれば、古い技術は役にたたないので、500万は用意しておく必要があろう。それを僕のようにケチった場合、命がけになる。
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メディカルチェックという障壁 (60歳の100m潜水―4)
http://jsuga.exblog.jp/30210737/
2020-09-08T10:29:00+09:00
2020-09-08T11:18:15+09:00
2020-09-08T10:29:40+09:00
j-suga1
リサーチ・ダイビング
すでにジャムステックは、有人潜水 すなわちダイバーという人間が直接海に潜る潜水の実験からは撤退してしまっている。日本で混合ガス潜水、飽和潜水について実験を続けているのは、久里浜にある海上自衛隊の潜水医学実験隊だけである。
実際の海でヘリオックスを呼吸する前に、潜水医学実験隊の施設でシミュレーションをやって見たい。これを機会にダイビングのすべてを紹介しようとしているテレビ番組も430mの海上自衛隊の実験を取材したい。
430mに潜ったダイバーが、飽和減圧中だったので、インタビューした。ヘリウムボイスで通訳なしではききとれなかった。
すでに退役されていたが、海上自衛隊の潜水医学の総括をされていた大岩先生にご紹介をいただいた。大岩先生は、私が一応高齢と言える60歳で意味も無く100mに潜水することについて、最初に相談した潜水医学の泰斗である。大岩先生ならば、なんでも賛成してくれるにちがいない、という確信もあった。大賛成してくれている。
10月には、丁度行われていた430mの飽和シミュレーション潜水の取材をした。430mとは、日本の潜水艦が潜れる最高深度らしい。その10月には実験隊のドクターが不在であり、施設を使うための健康診断を受けることが出来なかった。
私は高血圧症だ。河合先生に主治医になっていただいて、脳の血管をMRIチェックし、消極的な許可をもらっている。
潜水医学実験隊の妹尾ドクターのもとに、潮美と一緒に健康診断を受けに行く、彼女も、一緒に再圧室に入り、60mそうとうの圧力でヘリオックスを呼吸する予定だ。
番組撮影のため、潮美だけが60mでのヘリオックス体験を行った。
先生がが僕の血圧を計ったが三回計っても160/100以下に下がらない。後藤與四之先生、大岩先生、そして今目の前にいて血圧を計ってくれている妹尾先生らがかかわって、スポーツダイビングの健康基準についてのシンポジュウムが、1993年、横浜で開催された。このシンポジュウムでテキスト的に紹介されたのが「スポーツ・スクーバダイバーのための健康診断:ジェファーソン・デイビス編」で血圧についての基準などがしめされている。
「最高/最低血圧の両方またはいずれか一方が160/ 100を越えるものを高血圧症といい、アマチュアであれば、直ちに潜水を中止する。血圧をコントロールして140/ 90以下に安定させなければ潜水を再開できない」と述べられている。後から考えれば、降圧剤を飲んで、コントロールすればよかっただけなのだが、薬を飲むということに抵抗感があった。
このジェファーソン・デイビス編の健康診断基準では、さらに運動負荷心電図について、「基準値を設定し、すべてのダイバーについて血清脂質、危険因子解析、安静時及び運動負荷時の心電図検査、さらに運動負荷シンチグラムの検査結果が得られるような周期的心血管系スクリーニング検査プログラムを実施することが理想であろう。しかしこのようなことはスポーツダイバーにとっては実際的ではない。というのは潜水医学に携わる医師は更に検査を広げ、高い危険性のある人々を見いだそうとするからである。スクーバダイビングをしようとする四十歳以上の人たちや四十歳以下でも体調の良くない人たちにたいしては、運動負荷心電図検査を行うべきであるというのが本書初版での示唆であった。スクーバダイビングに参加するとなれば、約十四メッツ(METS)を達成することが必要とされるであろう。運動負荷心電図に異常が認められるような者については、運動負荷心電図とともにタリウムシンチグラフィーを行うか、更に可能であれば冠動脈造影を行うことが良いと思われる。以下略」
メッツ(METs)とはメタボリック・イクイバレンツを略したもので、安静時の代謝で必要とされる酸素要求量を基礎として、運動をしたときにその何倍なっているかを示している。要するに運動の強さを示す数値である。トレッドミルに乗って負荷をかけるときに、何メッツまで負荷を掛けるかを決めたり、あるいは、完全にまいってしまったオールアウトの状態で何メッツになっていたか、というように使う。スクーバダイビングをするためには、一四メッツまで耐えられなければならないということだ。。
私の場合には、運動負荷心電図ではなく、ホルター式心電図計を水密ケースに入れて、身体に取り付けて、プールで1000m泳ぐテストを行った。このほうが14メッツをかけるテストよりも潜水の実情にあっていると考えたのだ。
しかしとにかく、トレッドミルに乗って14メッツでの心電図を測定し、妹尾先生に提出することになった。
トレッドミルとは回転する走路である。回転する走路の上を走れば、一カ所に留まったまま、早く走ることができる。走路の速さを増やして行けば、上に乗っている人間は走らないわけには行かないので、強制的に走らせられる。さらに走路の傾斜も変えることができるので、きつい上り坂にすることもできる。走路の速さと傾斜を組み合わせて、意図する運動負荷を加減してかけることができる。心電図計を身体に付け、血圧計も身体に付けて、トレッドミルの上を走りながら心電図検査をする。
潜水医学実験隊は、国の施設である。しかも、規則には絶対従わなければならない自衛隊の施設である。妹尾先生としては、120%の安全が保証されなければ民間人である私に施設を使わせる許可を出すわけには行かない。
施設を使はなければとりあえずは問題ないのだろうが、ルール違反を指摘されて、潜水を実行し、もしものことがあれば、主治医をお願いした河合先生の立場がなくなってしまう。
酸素耐性テストは、潜水医学実験隊の施設でやらせてもらえることになった。(荏原病院でもこのテストをおこなった。施設紹介としては、わかりやすいので)再圧室に入り、1.8㎏/c㎡(ゲージ圧)、水深18m相当の圧力をかけた上体で、純酸素を30分間呼吸する。実際の潜水で、純酸素を呼吸して良いのは、水深4.6m相当、ゲージ圧で0.46㎏/c㎡までだ。
酸素中毒になって痙攣状態になった場合に取り押さえたり、舌を噛まない様に処置したりする兵隊さんが一人ずつ付き添って、潮美と一緒にテストを受けた。二人とも問題なく通過したが、誰でも通過すると言うものでもない。また、この日に通過しても、別の時には酸素中毒を起こすこともある。しかし、まずまず、純酸素を呼吸しての減圧は行うことができる。
とりあえず、潜水実行日を11月28日と決めた。
テレビ番組放送の時間が、1月中旬に内定している。2時間の特別番組である。これに間に合わせるためには、11月のうちに潜水を実行する予定にしなければならない。
館山の船形漁業組合に、潜水の許可をもらいに行った。なんと、組合長は、第一回目の大深度潜水をやった当時に私の潜水に何度か付き合ってもらった船頭の田川さんだった。問題なく、協力を約束してくれた。
約束どおり、順天堂大学病院でトレッドミルによる運動負荷心電図をとった。担当の医師がついて、緊急医療の準備もととのえて、胸に心電図計のセンサーをつけ、腕には血圧計を巻いてトレッドミルに乗る。最初はゆっくり、段階を付けて、次第にミルのスピードが速くなり傾斜がきつくなる。心臓や肺が苦しいというよりも、走る足が棒のようになる。毎日水泳はクロールで一〇〇〇メートルずつ泳いでいるが、ランニングは殆どしていない。毎日走っていれば、足が棒にはならないのだがと思いつつ頑張る。耐えられなくなる前に機械がとまって、トレッドミルの計器はアカランプが点灯し、ブザーが鳴っていた。そばにあったベッドに腰をおろした。担当していた医師は、「一〇〇メートル潜水は、止めた方が良いのではないですか。」という。
後で、聞いたところでは、一四メッツを越えて、一六メッツに近づいていたそうで、血圧は二〇〇/一八〇になっていた。走るのを中止して、ベッドに腰を下ろしてからも不整脈は一〇分間ぐらい続いたそうだ。つまりかなり危険な状態だったらしい。河合先生は、16メッツもかけて、もしものことがあったらどうするのだ、と言っておられたが、自分としては、それほどつらくはなかった。
この負荷心電図の検査を経験して、以前に起きた法政大学合宿の立ち泳ぎ事故の要因がわかったような気がした。立ち泳ぎで倒れた彼も、それほど苦しくはなかったのではないだろうか。私がオールアウトに近づいて、不整脈が多発していても苦しさはそれほど感じなかったように。だから寸前まで泳ぎ続けられた。それに、合宿ではスキンダイビングのトレーニングを重ねていたから、苦しさに耐えることにはなれているはずだ。息こらえは苦しさを耐えることそのものなのだから。
水流を機械的に作り出して、水流に逆らっておなじところに留まって泳ぎつづける、スイミングミルという装置もある。スイミングミルでの泳法の研究が大選手を生み出す一助になっていると聞く。立ち泳ぎは、ダイビングにおけるスイミングミルのようなものだ。自由に負荷を大きくし続けることが出来る。スイミングミルのようなものであるからこそ、この事故は起こったのだろう。もちろんギブアップすることはできるのだが、私がトレッドミルに乗ったときも、14メッツになったことがわからず、オールアウトになるまでギブアップしなかった。しかも危険な状態になったのは計器でわかったのであり、自覚はしなかった。
それにしても、高齢でダイビングを始めようとする人に一律に一四メッツを要求して負荷心電図をとることは危ないのではないかと思う。そして、高齢化社会を迎えて一四メッツが達成しなければスポーツダイビングを行うことはできないとすれば、ダイビング業界は壊滅する。。
レクリエーションでも負荷心電図の検査は必要であろう。しかし、トレッドミルに乗る負荷心電図ではなく階段を上がり下りする程度の軽い負荷での心電図検査で充分なのではないだろうか。検査のために心臓発作を起こしてしまっては本末転倒である。
私はこの100m潜水が終わった後、四〇〇メートルをフィン・マスク・スノーケルを使って泳ぐプール競技に毎年参加し、六〇歳代の部で、65歳まで優勝を続けた。60歳から競技に参加したのだが、毎年、自分の記録を伸ばし続けた。、
最初の一〇〇メートルはある程度セーブして泳ぐ。二〇〇メートルから三〇〇メートルの間が辛い。競技を棄権しようとさえ思う。ペースをスローダウンさせて、呼吸を整える。三五〇メートルを越えたら最後のダッシュをしてフィニッシュする。自分でペースをコントロールできるから完泳できる。苦しいときに自分の意志でペースダウン出来なければ危ない。
※
高円宮様がスカッシュをプレイしていて、心臓突然死(SCA : Sudden Cardiac Arrest) で亡くなったことから自動除細動器についての関心が高まった。国外ではサッカー選手の心臓突然死の例がいくつか、ニュースで紹介された。
立ち泳ぎの事故はおそらくは心室細動による心臓突然死だったのだろう。電気的自動除細動器が海洋公園にあれば助かっただろうか?
トレッドミルによる検査のデータを潜水医学実験隊に持参した。が、「100mのみならず、プールで泳ぐことも禁忌の状態かもしれない」と忠告された。
妹尾先生の忠告は、心からのものだった。これには答えなければいけない。また、無理にもお願いした河合先生にご迷惑をかけることはできない。
大岩先生、後藤與四之先生、妹尾先生らが、かかわっている「スポーツ・スクーバダイバーのための健康診断:ジェファーソン・デイビス編」では、「運動負荷心電図に異常が認められるような者については、運動負荷心電図とともにタリウムシンチグラフィーを行うか、更に可能であれば冠動脈造影を行うことが良いと思われる。」と書かれている。ならば、冠状動脈造影を行うしか道がない。もしそれで駄目ならばあきらめよう。
その時点で、予定日の11月28日まで一週間もない。延期を決断し、関係先に電話で連絡をとった。このまま決行して、自分では成功すると確信はしているが、データーもそろえずに命がけの特攻をやったと言われたら、この潜水の意味が無くなるし、お世話していただいた医学関係者に迷惑をかけてしまう。。結果オーライではいけないのだ。
スガ・マリンメカニックの河合君が、私が潜る予定だった館山湾の100mポイントをROV(自走式無人ビデオカメラ)で撮影してくれたので映像を見た。大潮だったが流れも少なく100m点では透視度も良い。今となっては悔しいだけだ。
ハミルトン博士から船上減圧の表が送られてきた。
気分は完全に心臓病患者になった。胸のあたりに不定愁訴があり、息苦しく、身体がだるい。
予約していた潜水母船、500トンの新洋丸のスケジュール変更が大きな問題になった。キャンセルしてしまえば、この線は使えなくなる。とりあえず、延期でおねがいした。
11月27日
冠状動脈造影検査のために入院。急だったので病室が無く、特別室に入ることにしてしまった。どうせ三日で退院するのだからと、贅沢をしてしまった。
本当に良いお天気で風もない。予報では明日も良い天気だ。予定では今日が器材の積み込みだ。絶好の天気で出港できたはずだ。世の中はこんなものだ。手術検査をする桜井教授が話しに来てくれた。豪放磊落な人だ。河合先生も顔を出してくれる。
11月28日
潜水の予定日に冠状動脈カテーテルをやる。皮肉なものだ。ストレッチャーに載せられて手術室に向かう。これはもう本格的な手術みたいな検査だ。
ベッドに移されて、心電図のセンサーと身体に取り付ける。心電図のモニターを見て波形を観察する。息を吸い込むと脈拍が67から70ぐらいまで上がり、息を吐き出すと63ぐらいに下がる。こんなことは知らなかった。麻酔はいつされたのかわからない。腕だけの局部麻酔だから、話もできる。
腕の動脈の部分を切開してカテーテルを入れる。血管の中を通して行くのだから、細い管だと思っていたが、意外に太いので驚いた。動脈と言うのはずいぶん太いのだ。だからもしも外傷で切断されてりしたら、血液が失われてしまう。すぐにカテーテルは心臓の入り口まで来てしまった。入り口を求めて、カテーテルが首を振っている。桜井先生が操作している。「ハイ、シュート」先生が言うと、カメラが音を立てて廻り始める。35mmのフィルムカメラだ。ちらっと横目で見ると、アリフレックスらしい。造影剤が入ると身体が熱くなる。
冠状動脈も、腹部の動脈も、心臓もなんとも無かった。
妹尾先生にお礼状をだした。
「本来ならば、計画の当初からこの検査を受ければ良かったのですが、カテーテルを血管に入れる恐怖は、100m潜水を超えるものであり、河合先生に無理を言って、他のテストで代用させていただいてしまいました。もし、最初からやっていたら、先生にご心配もかけず、自衛隊の施設も使わせていただけたかも知れません。
人間の身体は本当に微妙なもので、診断の次の日からは、血圧も下がってしまいました。・・・・」
妹尾先生からは、丁重なご返事をいただいた。
素もぐりで世界で最初に50mの壁を越えたジャック・マイヨールは、それまで30mが素もぐりの限界といわれていたのに、なぜ壁を越えられたのかを究明するために、すごいことをやっている。水中にレントゲン装置を水深30mに持ち込み、動脈にカテーテルを入れたまま、素もぐりして、水中で造影剤のパイプをつなぎ、心臓付近の動脈の撮影をしているのだ。血も氷るような話だ。
私は、順天堂病院の特別室に入院して、カテーテル検査をやった。
その後、マイヨールを越えて深く潜るダイバーが続出している。しかし、誰が何メートル潜ろうと、このカテーテル検査だけで、マイヨールの勇気には遠く及ばない。しかし、マイヨールはその後、何年にも渡って、動脈の感染症に悩まされたという。
動脈カテーテルによる、冠状動脈撮影は、決して安全な検査ではないらしい。順天堂病院は、これまで無事故を誇っている。一方、病院によっては、事故を起こして他の病院に転送する例もあるそうだ。
心疾患が認められない人に対して、検査だからと言って冠状動脈検査をやるのは、犯罪ではないかという先生も居る。私の場合は高血圧症という事情があり、しかも、100mへのチャレンジというタイトルだ。できるテストはすべてやるべきだったのだが、医学には、大きな巾がある。
そして、今回の潜水は、医学的なチャレンジ、メディカルチェックへのチャレンジだったことを改めて、思い知った。人が生きるということは、概してそういうことなのだろうが、ダイビングという行為はそれを際立たせる。
※この文章は、以前に書き、出版はしていない「ブルー・ディープ」の原稿を下敷きにしてリライトしている。現在、2020年の考えは、この項の終わりに補筆する。
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0828 RD 60歳100m潜水 2 アランの潜水
http://jsuga.exblog.jp/30197236/
2020-08-28T12:27:00+09:00
2020-08-30T18:42:38+09:00
2020-08-28T12:27:03+09:00
j-suga1
リサーチ・ダイビング
CMAS(世界水中連盟)の日本支部をFEJAS(フェジャス)という名称で立ち上げ、三笠宮殿下を総裁にしてしまうという離れ業をやってしまった、関邦博 神奈川大学教授(当時)は、ジャック・マイヨールを日本に紹介した人でもある。「イルカと海に還る日」は関さんが書いた。関さんは、毀誉褒貶が大きいが、僕とは、助けたり、助けられたりの仲であった。これらのことは、「ダイビングの歴史」で書くつもり、書かなくてはいけない。書く義務?があると思っているのだが、それは、置いておき、関さんは、ある時期、サンゴの研究に集中していた。
一般ダイバーは、サンゴというとサンゴ礁を造る造礁サンゴのことを思ってしまうが、ここでのサンゴは「金銀珊瑚綾錦」と言われる宝石珊瑚である。今頃の若い女性は、宝石珊瑚を身につけたこともなければ、触ったこともないのではないだろうか。「コーラル・ルネッサンス」珊瑚を今再びというプロジェクトを珊瑚取扱商社が企て、関さんの研究と係わるようになったが、これは関さんが売り込んだ企画だろう。
珊瑚は動物である。やがて、希少生物を採集したり移動したりすることを禁じるワシントン条約の対象になるのではないかと珊瑚商社は気遣う。サンゴの人工的な養殖が成功すれば、養殖した珊瑚はワシントン条約の対象にはならない。いや、地中海あたりの珊瑚商、富豪は、もはや、十分な量のストックを持っていて、条約で採れなくなれば、値上がりするから採算はとれるとか。珊瑚のもう一つの消費の中心の中国は、そんな条約などものともせず、小笠原に密漁船を送り込んだり。
日本も珊瑚の生産地である。小笠原、四国の高知、九州の男女群島、奄美大島、沖縄などで水深100m以上の岩礁に珊瑚が生きている。ここぞと言うところに鉄の採集器を降ろして曳き廻す。この方法では折れ砕かれて採集できない部分も多い。小形潜水艇、あるいはダイバーによる方法が良い。
宝石サンゴの本場の地中海、サルディニア、コルシカでは、ダイバーによる採集が日常的に行われている。
日本で、養殖のために珊瑚の棲息場所の状況を調査しつつ採集しようと、関さんは二人のダイバーをコルシカ島から呼んで、四国・高知の足摺、今でも毎年のようにお世話になる、宿毛の森田さんのところをベースにして、潜水させた。アランとエリの二人である。私がこの珊瑚プロジェクトに係わったのは、水深80m以上で壊れないスチルカメラを用意することであった。
日本にやってきた二人のコルシカ島ダイバーに、浜松町のホテルで会い、カメラを手渡して、使い方を教えた。この後、宿毛での、珊瑚採集潜水とその結末もおもしろいが、ここでは脱線しない。
この100m潜水では、関さんに頼んで、コルシカ島にアランを訪ねて、彼の潜水方法を詳細に見て、要点を教えてもらうことにした。
60歳100m潜水のテレビ番組は、二時間枠の番組になった(大作)なので、僕の100mでは、1時間しか持たない。自分の潜水の他に、スクーバの発祥の地である地中海をレポーターになって旅をする計画になた。
ジャック・イブ・クストーにも、アポイントをとったが、体調不良ということで、パリまで行きながら、現地でキャンセルになった。その後まもなくクストーは、亡くなる。返す返すも残念だ。
モナコでは、海洋博物間を訪ねて、未だ、奮闘中だった三宅島潜水博物館との提携を申し入れて、快諾を得た。副館長のシモーヌさんは、水産大学に留学していたことがあり、宇野教授の教室、僕の後輩になる。
※この部分にまちがいがあること、一緒に「水中写真の撮影を書いた、小池康之氏に指摘いただいた。
さて、28日の「アラン」の部分で、以前も記述された「モナコの海洋博物館」を再度紹介されておられますが、今回も副館長の名前が違っていますのでご連絡差し上げます。
モナコ博物館についてはすでに2018年12月9日に同様に館長と副館長の名前が違う件をお伝えいたしました。その日差し上げたメールを再度下記に貼り付けます。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~もう一件はモナコの海洋博物館を訪問された折の記載の人名です。館長さんの名前(ドモンジョ)と副館長で私の友人の名前(シモーヌ)が違いますので、正確な名前をお伝えしておきます。館長はフランス語で[François Doumange] 日本語読みで「フランソワ・ドウマンジュ」です(亡くなりました)。また友人の副館長はフランス語で[François Simard] 日本語読みで「フランソワ・シマール」です。お二人のファーストネームがたまたま同じですね。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ フランス人の名前には日本語で正確に発音や記載するのが難しいことがありますが、この二人はそれほど難しくないと存じます。シマール君とは長いこと交信がありませんが、今はスペインで活躍されているようです。 ニースにある、アクアラング発祥のスピロ・テクニックの工場を訪ねて、1943年に作られた、アクアラングのプロトタイプを見せてもらい、さわってもみた。これは、スピロの系列である日本アクアラングの上島社長(当時、同級生)の紹介で実現した。
そして、ニースからコルシカ島のアジャクシオに飛び、さらに車で2時間、サルテーヌという町へ。ここで、珊瑚採り100m潜水を日常の仕事にしている、日本の宿毛にも来たアランのダイビングを見学取材する。関さんの紹介である。
サルテーヌに泊まり、朝、アランの奥さんが迎えに来てくれる。ベトナム人の個性的な美人だ。
先導する奥さんの車はルノーで、ホンダのオデッセイに似ている。舗装していない道の、しかも下り坂の曲がりくねった道を奥さんは平均80キロで飛ばして行く。ほとんど暴走族だ。30分で港に着いた。チザノという小さい港だ。小さな漁船が15隻ほどで満員になってしまう。
アランの船は40フィートほどの高速艇で一人用の再圧チャンバーが組み込まれるように積んである。
アランがボロボロのジープでやってきた。お互いの顔は覚えていないが、東京の晴海埠頭、四国行きのフェリーの乗り場でカメラの受け渡しをしたことは覚えていた。一瞬にして古くからの親友のような気分になれる。
私はバイキングのドライスーツだけを持って来た。それにデジタルの小さなビデオカメラだ。タンクとウエイトを貸してくれるようにアランに頼んであったのだが、無い、という。彼は、必要とする自分の機材の他は置いていないという。愕然とした。何とかしなくては。
タンクは30リットルくらいの予備があった。空気は100キロぐらい入っている。20mのホースがついたフーカーのレギュレーターがあった。これで何とかなる。鉛は周囲の漁船から、魚網の鉛をかき集めてロープに通した。これを腰に巻く。
アランにはジャックという助手が居て、彼が殆ど全ての仕度、雑用、船の操船をする。アランはただ潜るだけに集中できる。
出港して10分ぐらい走ると、今日の潜水予定点に到着した。目印に、ペットボトルが浮かべてある。タコ糸よりも、もう少し太い、水切りの良い丈夫な糸が海底に伸びている。この糸に沿って潜るのだ。
アランが背負うタンクは、二本組のタンク、これは10リットル程度のタンクを二本連結してある。二本のタンクの間に少し細長い12リットルぐらいのタンクを乗せて束ねてある。計三本だ。二本組には空気が詰められている。そして、一本がボトムガスで、今日は70%の空気に30%のヘリウムを加えてある。空気は酸素と窒素だから、このガスはトライミックスである。計算すると、14%の酸素、30%のヘリウム、56%の窒素になる。これで100mまで潜ると、空気で70mに潜ったのと同様な窒素酔いになる。アランは、この程度ならば窒素酔いに耐えられる。ヘリウムを多くして、減圧停止時間を長くするよりは、窒素酔いに耐えた方が良いという選択だ。毎日潜っているので、窒素酔いに対する耐性も強くなっているはずだ。
ボートの上には親ビン(街の鉄工場でよく見かける、大きな酸素ボンベ。)が二本ころがしてあり、一本は酸素、もう一本は50%の酸素と50%の窒素の混合ガスが詰められている。これらは減圧用のガスで、フーカーホース式で供給する。
私は先に入って、潜ってくるアランを迎えて、下に送りだす撮影をする。
アランは、潜水前に瞑想して、これから水中に入ってからの手順、どんな風に推移するか頭の中でシミュレーションする。これをやらないと、危ないし、成功することもできない。アランはこの瞑想集中の時間を大切にしている。深く潜るダイバーは、いくつかのパターンがあるが、みんな潜水前の心の集中をやる。
7mのところまで潜って、水面の輝きを見上げるポジションでアランの飛び込みを待つ。
アランは凧糸のような細い潜降索に沿って、矢が突き刺さるように潜って行く。手には、平べったい篭を持っている。篭には鉛が入っている。海底に到達したら、鉛は捨てて、この篭に珊瑚を摘み取って入れる。宝石サンゴと言っても地中海のこの場所の珊瑚は、人間の手の指くらいの太さで、長さも短い。磨けば真紅の色になる。奄美大島や小笠原にあり、潜水艇で採集している珊瑚は太い樹木のようなものもあり、一本が数千万円もするものもあるが、ここの珊瑚はそれほどのものは無い。みんなとりつくした。しかし、うまく当たれば一年分の稼ぎに近い金額になるという。小さい小枝で、経費を出しつつ、バクチ的な大当たりをねらう。ハンターだ。100mの海底で、100万、1000万の珊瑚をねらう。そして、海底の宝石珊瑚は、口では表現できないと、一度見たら、とりつかれると宿毛の森田はいう。窒素酔いもジャンキーになるのだから、相乗効果があるだろう。
私は一旦、船上に上がり、アランが戻ってくるのを待つ。
海底では、トライミックスを呼吸している。これはタンク一本だけだから潜水時間は短い。水面から海底に降下する時間と、海底での時間、そして、50mまで浮上してくる時間、全部を加えたもので、だいたい15分ぐらいだ。50mまで浮上してくると、呼吸を空気に切り替える。方針としては、できるだけヘリウムを吸わないことが、減圧停止時間を短くする結果になる。それに、ヘリウムは、高価でもある。
50mまで戻ってくると、アランは、空気を入れてふくらました黄色いマーカーブイを水面に上げる。黄色いブイにはもちろん細いロープが付いていて、そのロープにアランはつかまって、少しずつ浮上してくる。
ボートはこの膨らませたブイをつかんでボートに上げる。ブイに付けられたロープはそのままだ。これでアランはボートと直接にロープで繋がったことになる。ブイのロープに這わすような形で、12mmぐらいのロープに10キロ以上のウエイトをつけた減圧索をおろす。減圧索には大きな白いブイが付けられている。白いブイは、水面に浮かすが、ブイと船とは、別の細いロープと取って結んであるので、船の縁から5mほどのところにブイがある。さらに、この減圧索に沿わせるようにして送気ホースを降ろす。送気ホースには、有線通話機の線と温水のホースが束ねられている。アランが50mの地点で待っているのだから、ホースの長さは、50mと決めていて問題ない。
アランが背負ったタンクから、降ろされたホースの送気に乗り換えると、電話線からアランの呼吸音が聞こえてくる。このあたりは、僕のケーブル・ダイビング・システムに近い。ホースから送っているのは、50%の酸素と50%窒素の混合気体だ。浮上・減圧の課程では、酸素中毒にならない範囲内で出来るだけ酸素の分圧の高い気体を呼吸することが、減圧の時間を少なくする。言い換えれば減圧症(潜水病)になる可能性を少なくする。
テンダー(水面で世話をする人)のジャックは忙しい。最初に浮き上がった黄色いブイは、船に取り入れてあるのだが、そのロープを引き揚げる。ロープの先には、採取した珊瑚の篭が結び付けられている。無駄が無い。
珊瑚を処理しながら通話機を通じて送られてくるアランの指示に従って、アランの浮上に従って送気ホースを少しずつ手繰り込んで行く。
浮上の速度をその時に計測していなかったのだが、毎分1mから2mの速度である。
水深12mまで上がってくると、送気を純酸素に切り替える。通常、純酸素の呼吸は、酸素中毒を防ぐために水深4・6mまでとされている。しかし、減圧時間を短くするためには純酸素の呼吸が最高度に有効であり、ヘリウム-酸素混合気体潜水では、18mで純酸素を呼吸する減圧表もある。酸素に対する抵抗は個人差があり、耐性試験を行ってからでなければ水深4.6mを越しては純酸素は呼吸できない。
私は潜水の仕度をして、減圧中のアランを撮影するために水に入る。
アランは温水のホースを手首からウエットスーツに差し込んで、身体をゆすって温水を身体全体に行き渡らせている。ホースから温水を手に受けて見ると、ほんのり暖かい程度だ。船上に置いてあるのはプロパンガスを使う家庭用の湯沸かし器で、小さなものである。コンプレッサーの冷却水ポンプのような小さいポンプでお湯を送り出している。
ドライスーツは首を締め付け、手首を締め付け、服の中の空気の浮力を相殺するために10キロ以上のウエイトを着ける。水中での敏捷性と快適性はウエットスーツに遠く及ばない。ドライスーツは敏捷に動けないし、体力が消耗させられるので、大深度潜水には向いていない。地中海のこの辺りは、秋の10月、普通のダイビングならば、ウエットスーツでも問題ない。しかし、長時間の減圧をする深い潜水では、温水装置が必須である。
アランが手招きする。近づくと有線通話機のレシーバーを手渡してくれる。耳に当てると、水面からの指示で、「これからアランは、全部の装備を外すから撮影するように」と言って来た。
減圧コンピューター、ナイフなど小物をはずして、タンクのハーネスベルトにくくりつける。タンクを脱いで、ロープを下ろさせて、水面に引き揚げさせる。ホースの呼吸に切り替えているので、とうにタンクは不要になっている。アランは薄い3mmのウエットスーツを重ね着している。そのウエットスーツを水中で脱ぎ始めた。装備を外すといってもウエットスーツまで脱ぐとは予想できなかった。かぶりのウエットスーツだから上着を脱ぐためにはマスクを外さなければならない。ズボンを脱ぐためにはフィンを外さなければならない。日常のことなので、慣れであるが、大変な技術である。脱いだウエットスーツやマスク、フィンを次々とロープにくくりつけて水面に上げさせ、最後にフーカーのマウスピースを口から放して、水深9mから水面にベイルアウト(緊急脱出)の姿勢で浮上する。このあたり、最終の3mは、超ゆっくり、という一般潜水の常識とはちがう。純酸素を吸えるぎりぎりの12mで酸素を吹い、最終減圧は船上のタンクでする、一瞬でも早く、タンクに飛び込まなくてはいけないのだ。
アランの減圧は、日本では船上減圧と呼ばれている方法である。減圧は12m、9m、6m、3mの4段階で停止するが、6mとそして3mの段階が最も長時間が要求される。最大では、3時間必要である。それを水中ですごすことは、辛いだけでなく効率が悪いし、海が時化てきたときなどは港に逃げ戻れないので危険である。9m、6mと3mの段階を、船の上のタンクに入って加圧すれば、安楽に効率良く、安全に過ごすことができる。船上減圧を行うためには、9mから浮上して、再圧タンクに入り、9mの水圧に加圧する間の時間を出来るだけ短縮する必要がある。9mから減圧途中で浮上したダイバーは、減圧症に罹患した状態にあるのだが、症状が発現しないうちに、再圧治療を開始してしまおうとするものだ。
通常は3分以内にタンクに入り、加圧が開始されれば良いとされているが、時間が短ければ短いほど良い。
水中でウエットスーツまでも脱いだアランは、浮上すると同時にバスロープを着てそのまま再圧タンクに跳び込む。おそらくは、2分もかかっていない。アランのボートの再圧タンクは一人用であり、タンクの中でウエットスーツを脱ぐスペースは無い。タンクの中での長い時間をウエットスーツを着たまますごすのは、不快であり、毎日のことだから、不健康でもある。ボートの上でウエットスーツを脱いでいたのでは、3分の制限時間を越えてしまう可能性がある。それにあわてて、激しく身体を動かせば、減圧症が発症してしまう可能性もある。
水中でウエットスーツを脱いでしまったアランは、酸素を吸入しながら、本を読んだり音楽を聴いたり、リラックスして時間を過ごすことができる。その日、アランがタンクの中で減圧していた時間は2時間強だった。
「減圧テーブルは、どんなものを使っているのか」とアランに訊ねた。減圧表は何種類もあり、企業秘密になっている表もある。毎日のように100m前後を潜っていて、事故を起こしていないアランの表は、世界に通用するものであり、関心も深いものだろうと思ったのだ。
返って来た答えは、「表など使っていない。」であった。これには少しばかり驚いた。サンゴの採取は、その日その日で深さも違う。身体の疲れ方も違う。自分の身体と相談して、無理をしたなと思う時は、タンクの中の減圧を長くする。およそのことを言えば2時間から3時間で、自分の身体で感覚的にわかるから、自分で良しと納得すればタンクから出てくる。
複数、多数の人、多種の仕事、多種の機材を使う潜水のすべてをカバーする表を作ろうとするから、責任もあるし、計算の理論も必要になる。このことは、後の100m潜水でも、痛感することになる。
アランの家に昼食を招待された。このために今日は深さと潜水時間をコントロールして短時間で減圧を切り上げたのだろう。
アランの塩気で錆が出て、底が抜けているようなジープに同乗して、アランの家に向かった。海岸近くに家があるのかと思ったが、山の上にある。車で20分ぐらい走る。羊飼いの家を作り変えたという家だ。プールが一段下がった目の下にあり、その先は低い山の連なりの先に青い海が見える。海で、毎日潜っているのに山の上にプールを作っている。かなり贅沢な生活であり、それだけの稼ぎもあるのだろう。
奥さんの作った料理はベトナム料理だという。箸で食べる。まずまずおいしく食べられた。昨夜、コルシカの猪料理を食べたが、高くておいしくなかった。日本人の口にはベトナム料理が合う。だから、フランスに来て、ベトナム料理ばかり食べていたことになった。
アランとの話を撮影した。複雑な話になると、二人の英語では無理なので、通訳として来てくれた三浦さんにお願いした。
アランに聞かれた。「なぜ、仕事でもないのに100m潜るのか。そして、深く潜るのは、毎日のように潜っていて、次第に深く潜るのが普通で、一発勝負で100m潜るのはプロのやることではない。」
答えるのが難しい。
「若い頃、27歳の時に空気で100mを目指して、死にそうになって90mまでしか潜れなかった。今度は60歳になった記念に念願だった100mに潜りたい。日本では60歳、70歳の節目で自分のやりたいイベントをやる習慣がある。還暦のお祝いだ。」
「それで納得したが、それならばここで潜ることにしたらどうだ。毎日のことでなければ、再圧タンクも二人は入れる。パリのテレビの記者が来て、一緒に潜ったことがある。後でテープを見せるが100mまで潜った。同じようにやれば良い。」
「日本でのスケジュールを決めてしまっているので、残念だけれどそれは出来ない。」
「それならば、僕が日本に行ってやろう。旅費と宿泊費を出してくれれば、ギャラはいらないよ。この前に関と一緒に足摺の珊瑚を潜水した時もそうだった。あの時は本当に冒険だった。自分の船も無いし、道具も不満足なものだった。でも僕は、この仕事を半分はスポーツのつもりでやっている。だから、日本で潜って見たかった。日本の珊瑚を見たかったんだ。」
これは大変に魅力的な提案で、後になって本気で考えることにもなった。
アランの潜水方法は100mに最小のコストで、コストの範囲で最大限の安全が期待できる、これまでに見た大深度の潜水方法のうちで最もスマートな方法だった。
同じような潜水方法はサルジニアでもイタリーのダイバーが行っていて、何人もの事故を乗り越えて、作り上げられた方法だという。
部屋の中に自転車が2台置いてある。奥さんと二人で自転車競技をやっている。
「このまま、一生ダイバーをやっているつもりは無いんだ。ある程度やったら商売を変えるつもりだ。」
スポーツとしてのダイビング、プロのダイビングについても考えさせられた。
プロのダイビングという場合、そのプロという定義は二種類あると思う。一つは、純粋にお金稼ぎのプロだ。もう一つは、それがやれなくては、生きていられない、生きるためにその活動が必須であるというプロだ。この二つは入り組んでいるのだが、自分はお金稼ぎプロではない。そのことが、自分の短所であるとも思った。そして、スポーツという概念もある。お金稼ぎプロならば、100m潜水なんて、バカなことはやらない。
アランの採集した宝石サンゴの3cmほどの一片をもらった。ぼやけた色をしているが、磨けば真紅になるはずだ。
次の日、アランに別れを告げに港に行った。早朝に沖に出て10時ごろに入港すると聞いていた。ボートは港に入ってきたが、アランは未だ再圧タンクの中だ。インターフォンで話ができる。「また会いたいね。」「今度は一緒に深く潜ろう。」
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0827 リサーチ・ダイビング 60歳100m潜水 1
http://jsuga.exblog.jp/30195730/
2020-08-27T10:22:00+09:00
2020-08-27T10:26:39+09:00
2020-08-27T10:22:31+09:00
j-suga1
リサーチ・ダイビング
ブログが滞ってしまっている。「リサーチ・ダイビング」の原稿を優先させているからなのだが、このリサーチ・ダイビングも出口が見つからなくなっている。書いている原稿も出版の時には、大半を削除することになるだろう。ならば、これまで通りにブログにのせて、それを削ればいい。として、ここしばらくそのスタイルで行く。
「60歳の100m潜水」 1、
何故潜るのか
1996年、1月、私は60歳になる。輝之の事故がおこってから7年が過ぎていた。
私は100mに潜ろうとしていた。1963年に100m潜水を企て、90mで引き返した時から数えて33年が経過した。もはや、100m潜ることなど記録でもなんでもない。
※表現のすべては、1996年当時のこととしている。2020年現在ではない。2020年、あまりにも故を付ける人が多くなってしまっている。故を付けるべきか否か迷った。まだ迷っている。
今回、第一回目だけに故をつけよう。また、本にする原稿からは、すべて、故をとってしまおう。自分が故になっているかも知れない。
ほんとうに、とっくに故になっているはずの自分が、こうして書いている。人間の寿命は健康診断ではわからない。
そして今、60歳という人は、まだまだダイバー人生の途上である。僕のダイビングの大半をお世話、ガイドしてもらっている館山、波佐間の荒川さんは、ぼくよりも三つ年下だから、82歳?だっただろうか。彼は多分90まで、このままいくだろう。
この潜水で一緒に潜ってくれる田島雅彦は伊豆大島の水産高校を卒業し、茨城県立水産高校の専攻科に入り、卒業して私のところに来た。最初の仕事が釜石湾口防波堤の水深70Mの工事であり、これは、船上減圧で、ヘリウムを使った、続いて海洋技術センターの深海潜水コースに入り、ナヒモフ号の現場に派遣された。
※若かった田島も、今では故だ。
日本海海戦で沈んだロシアの巡洋戦艦「アドミラールナヒモフ」に積まれていたという黄金を引き揚げようと、笹川陽一さんが行っていた潜水プロジェクトは、水深90m以上の飽和潜水作業である。
田島は、23歳で入社して、ナヒモフ号から帰って来たときには30歳を越えていたはずだ。浦島太郎のようなものだ。カメラマンとして非凡なものを持っていたのに、深海ダイバーにされてしまった。100m潜ることは、彼にとって日常の潜水であった。
いまさら記録でもない100mに潜ることにどんな意味があるのだろうか。
私はただ潜りたいから、私として100mに到達したいから潜る。そのことに理屈をつけるとこうなる。動物は適応の範囲をあらゆる方向に常に拡大しようとする。人間は特にその本能の強い動物である。だから、良かれ悪しかれ今日の人類がここに存在している。高い年齢にも適応しようとする。深く潜りたい。高く飛びたい。それは本能だ。つまり潜りたい。すこしでも深く潜りたい。ダイバーの本能だ。
高齢化社会を迎えて人は何歳までどんなことができるのか、自分で知りたい。人に知らせたい。
これは後から付いてきたかっこうの良い理屈だ。とにかく生涯をダイバーとして過ごしたい。自分としてできることはすべてやる。潜水して体験できることはすべてやりたい。自分の身体で体験しないことは、理解したことにならない。自分の身体と自分の知能と、自分の経験で判断して行かないと何もわかったことにならない。ダイビングについて、全てをわかりたかった。
深海ダイバーは、40歳までと言われている。40歳を過ぎたら現役では深海ダイバーを努める事は生理的に無理だとされていた。そして、自分だが、50歳までは、40歳の時とは殆ど変わらずに潜水できた。それから更に10年が経過して、60歳になった。
(2020年の今は85歳になってしまっているが)
直接にお金を産まない計画をやろうと思う時、トロイ、ミケーネを発掘したシュリーマンのことを思い浮かべる。シュリーマンは貧しく生まれて、粉骨働いて財を成し、50歳を過ぎてからその財で発掘を成功させた。夢の実現の前に蓄財をするか、常に夢を追うかどちらが選ぶべき道なのだろう。例えば金融業などに精をだし、それからダイビングをやるというシュリーマンの途もある。
現在は、1800年代のシュリーマンの昔と異なり、夢を追いつつも、夢そのものを蓄財の手段にすることができる時代である。ただし、運と才能が必要だ。海の中には、小さなビルを一軒建てるくらいの種は、いたるところに転がっている。
会社を15人以上にはしないという考え方で過ごして来た。まちがいではなかったと思うけれど、消極的に過ぎたかもしれない。小さいビルを建てるチャンスを次々と空振りした。
とにかく私には自分の企てを自分のお金で実現させる財力は無い。この企てが実現できたことは、全て、周囲の人の好意、おかげである。自分にあったのは、ただ願いだけだった。これから書いてゆくうちに挙げさせてもらう名前の全て、名前を挙げられなかったが応援してくれた人のすべてのおかげで、私はこの60歳100m潜水計画を実施することが出来た。
水深60mを越えたら、普通の空気では潜れない。ヘリウムを混合しなければ窒素酔いと窒素の呼吸抵抗による炭酸ガス中毒で倒れてしまう。30年前の90m潜水の繰り返しである。ヘリウムの供給と、潜水計画全体のアレンジをしてくれたのは、故石黒信夫さんだった。彼は日本の海上自衛隊で一隻目の潜水艦、黒潮に乗っていた。潜水艦乗りは、沈没したときに脱出できるように、脱出訓練をする。これこそ本当のフリーアセントだ。当然潜水の訓練も受ける。退役して日本アクアラングに入社し名古屋支店の所長などを経て、本社の帝国酸素に転任した。帝国酸素ぐらいの大会社になると、本社から子会社に転出する人は多いが、子会社に入社して親会社に移り、最終的には部長まで登った人はそうはいない。
減圧症・減圧表に係わる潜水医学については後藤與四之先生にお世話してもらった。彼は、医大に在学中に日本潜水会のメンバーになった。素もぐりダイバーとしては、鶴耀一郎の弟分で、一時的には鶴耀一郎と甲乙つけがたいスキンダイビング能力を持っていた。
腕の良い外科のお医者さんでもあり、鶴耀一郎の胃がんは後藤先生が切った。潜水医学関係のお医者さんも、他の分野のお医者さんも含めて、ダイビング関係のドクターのうちでも素もぐり能力では彼の右に出るものは居なかったはずだ。今現在素もぐり能力がどのくらい残っているかはわからないが。
東京医科歯科大学の故真野教授にも相談に行った。ぜひやりなさいと励ましていただいた。
真野先生は、何時でも励ましてくれる。私がまちがいを冒した場面でも励ましてくれて、出来るだけの応援をしてくれる。脇水輝之の事故の時も私が基本的には間違っていないことを、レポートに書いてくれて、事故の経験を今後のダイビングのために最大限に生かすようにと励ましてくれた。
テレビ番組の制作は、テレビ朝日の故 長谷川格プロデューサー、福田俊男プロデューサーのお世話になり実現した。ニュースステーションにかかわる忘年会で、娘の潮美と張り合って、60歳のイベントをやりたいと挨拶したのを、「面白い、応援しよう」と取り上げてくれたのが長谷川格さんだった。
娘の潮美も出演して力になってくれた。親と子の交情みたいなテーマが無かったら、ただ誰かが100m潜るだけだったら番組としては成立しない。
ディレクターは、乾弘明君が引き受けてくれた、ニュースステーションで一緒に旅をかさねた仲間だ。
番組に出演してのレポーターとナレーションは、故 三浦洋一さんが引き受けてくれた。本当に長いお付き合いで、テレビ朝日の午前中の報道番組で、日本の沿岸を一年にわたって潜り巡る番組を撮影させてもらった。惜しくも亡くなってしまったが、今の役者さんで、かけねなくダイビングのインストラクター級の技術を持っていた。
謝辞を重ねていたら、本が一冊できるほどの多くの人たちのお世話になった。
潜る身体
潜って行く人間の身体は、潜水艇のようなものだ。この潜水艇に、人間の頭脳、心、が乗りこんで潜って行く。そんな風に考えるのが好きだ。潜水艇が壊れていれば、当然生きて戻れない。
60歳になったら、人間は誰でもどこか身体に故障を持っている。潜水艇はそうとうにガタが来ている。私の艇は高血圧症だ。
人間死ぬ時は必ず来るのだから、死ぬことは恐ろしくない。恐ろしいのは、生きながら廃人同様になってしまうことだ。これだけはいやだ。高血圧は脳梗塞の玄関みたいなものだ。
順天堂大学病院の河合祥男先生に診察をお願いした。河合先生は古い魚突き時代からのダイバーで、今(1990年代)でも日曜日には、千葉県の内房で潜っている。
大きな病院は、待ち時間が長い。特に、河合先生は評判の良い循環器内科のお医者さんだから待ち時間が長い。待っているうちに血圧も上がる。下が100、上が160ぐらいある。瞬間的には190ぐらいになるのだろう。
こんな高血圧が100mに潜ろうと言うのだから、困ったはずだ。黙って勝手に潜って倒れるのならば仕方が無い。相談された以上責任が出来てしまう。指導団体としては、高齢者はまず医師に相談してという旗を掲げているから、団体の中心メンバーである私が医師に相談しないわけには行かなかった。
椅子の上に登ったり降りたりする運動を繰り返したあとで心電図を測定する負荷心電図の検査を行い、次いで心電図の測定をしながら息を止めていて、氷の入った袋を顔に乗せて潜水反射の検査を行った。哺乳動物は水に身体を漬けると脈拍が遅くなる。脈拍を遅くすることで、酸素の消費を少なくして、呼吸の回数を少なくして、呼吸のできない水中という環境で少しでも長く生きながらえるように適応を計っている。マッコウ鯨などの深く潜る哺乳動物は、極度に脈拍を遅くして、1000mにまで潜り、一時間以上潜水していられる。人間も、水に潜ると脈拍が遅くなる。潜水除脈である。
「さすがダイバーですね。潜水除脈がはっきりしている。」
普通、幼児は除脈がはっきりしているが、年を重ねるにしたがって薄れてくるものなのだそうだ。除脈がはっきりしていることは、ダイバーとして適性がある、喜ぶべきことなのかと思った。やがて、アザラシのように毎分数回の脈になり、数十分も潜れるようになるのか?
実は良くないことのようだ。脈の間隔が遠くなると、その間で心室細動が起こる可能性が大きくなる。不整脈は誰でもあるのだが、悪い不整脈と、それほど気にしなくても良い不整脈がある。私には少し気になる不整脈があるので、あまりハードなスキンダイビングはしない方が良いと忠告された。ハードとはどのくらいのことなのだろう。「水深10mぐらいなら大丈夫ですか?」「無理をしないことです。」となった。10mは無理ではないので、きっと良いのだろう。と解釈した。
その日から、腕巻き式の血圧計で一日に何度も血圧を計る毎日になった。
低血圧の人は、ブーッと一回手首を圧迫する袋に空気が入る。正常な人は二回鳴る。三回鳴ると境界型の高血圧だ。四回鳴ると高血圧症だ。五回鳴ると、すぐにでも頭の血管が破裂するのではないかとパニック状態になる。もちろん血圧も上がる。血圧を計ることは血圧に良くない。
脳の血管のMRIをとった。血管の一部に瑠があるみたいだと河合先生に告げられた。
「くも膜下出血の可能性があります。」「そうなると、どんなことになりますか。」「ものすごく痛いのです。」
痛いだけではないことは私も知っている。テレビ朝日の親しいプロデューサー、もし生きていてくれたらと願うプロデューサーがくも膜下出血で亡くなった。海釣りが好きで、ハードな毎日の間でようやく休みをとり、船釣りに言った。目の下一尺という大鯛を釣り上げた瞬間に倒れた。
確認するために、造影剤を使った検査をした。MRIよりもだいぶ大げさで手術の感じがする検査だった。
「MRアンギオグラフィーによる検査で、前交通枝に小さな動脈瘤を思わせる異常陰影を認める。経静脈造影剤点滴によるデジタル「減算」脳血管撮影では正常血管造影像を示し、MRアンギオグラフィーで疑われた動脈瘤は認められず、血管の重なりのためと考えた。」
河合先生の報告書からの抜粋だが、とにかく脳の血管は大丈夫ということになった。
いよいよ、全てにわたってGO サインが出て、11月末を実行の日と決めた。場所は館山湾で、できれば、28歳の時に100mまで到達できずに90mで引き返した同じ地点に潜りたい。
春から夏にかけては快調で、夏のスケジュールは、他の撮影で必殺のスケジュールだった。そんな過密スケジュールをこなしても血圧は正常値を保った。夏のスケジュールが一段落ついて、いよいよ、100m潜水の撮影に入る。
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0621 ダイビングログ 波佐間海中公園
http://jsuga.exblog.jp/30110522/
2020-06-21T18:08:00+09:00
2020-06-21T18:37:23+09:00
2020-06-21T18:08:06+09:00
j-suga1
リサーチ・ダイビング
6月16日 波佐間
15日の予定を、天候調整で16日に延ばした。15日だったら、14日 大井埠頭中央公園 から15日と連続だから無理だったかもしれない。とにかく16日、16日は山本さんが撮影の講習とかで、こられない。中川の車に乗せてもらうことにした。
7時中川の車で増井さんも同乗して出発 9時少し過ぎ波佐間着、早崎さんも腰痛とかでキャンセル。メンバーは、須賀、高野、増井、佐藤允昭、そして中川だ。波佐間はおかげさまで、けっこう繁盛していて、僕ら以外のお客が3組、僕らは彼らが帰ってきてから、11時頃の船だ。のんびり支度ができる。
左腰の筋肉痛はかなりひどく、体を折り曲げて、地面にあるものを取り上げることができない。
久ぶりで、0.8m角のコンクリートブロック魚礁 (1981年沈設 波佐間で一番古い)、ここではニューパラダイスと呼んでいる魚礁に入ることとした。
僕と一緒は、荒川さんと中川だ。後の3人はドリームから入って、西へ100mほどのきょりであるこちらに来て、僕らに合流して浮上することにした。
かなり、気候も暑くなったので、ウエットスーツにしようかと、15日に、古いウエットを着てみた。何とか着られたのだが、フードジャケットが無い、若干左腕から水漏れするが大したことはないので、ドライにした。どらいにして、よかった。僕はドライでも寒かった。
少し流れがあり、ブイまで泳ぐのに息が上がった。しかし、ブイロープを離して流され、合流に失敗した経験があるので、なんとかブイを捕まえてロープから潜降した。
予想に反して、ニューパラは寂しい状態だった。イセエビが何時もいるので探したが、見つけられない。メバルの群れもいない。どうしたことだろう。結局、ユウダチタカノハ(最初、ミギマキだと間違えていた)とタカノハをアップで撮った。なお、ユウダチタカノハは、この魚礁にいつも群れている。今日は数が少ない。
タカノハという名前がついているだけで蹴飛ばしているがきれいな魚だ。
それからも、何か?と探しまわった。残圧をみたら、60になっている。僕のターンプレッシャーは、10リットルタンクで80だ。昔は20で浮上したのに、80を切っていると不安になる。そのころドリームから3人が来た。荒川さんを探したが見えない。先に浮上したのだろう。一緒に上がればよかった。
浮上のサインをするが、どのロープから上がったらいいのかわからない。ここのロープの構造は、中断にロープが張り巡らされていて、そこから水面に上がれるのは一本だけだ。適当なロープで中段まで上がったが、上に通じるロープが無い。不安になる。中川が横に張ったロープをたどって、水面に行くロープを探し出した。それにつかまって浮上する。
流れが強くなって、減圧をしっかり見ないうちに吹き上げられるようにして、中川と一緒に上がった。荒川さんはボートに上がっていて、カメラをとってくれた。中川にフィンを外してもらって、自力で、腰の痛みに耐えて梯子を上がった。残圧は20だった。久しぶりの波佐間の強流だった。なぜ、お台場が良いかというと、水深2-3mだから、残圧を気にしないで良いことだ。空気が無くなったら戻ってくれば良い。減圧停止も必要ない。
2回目の潜水は佐藤允昭君のリクエストで、波佐間神社に潜る。僕は腰の痛みが強いのでやめることにした。荒川さんは水中でタンクを外せば大丈夫だと言ってくれ、中川は、水中で荒川さんと僕のツーショットが撮りたいようだったが無理しないことにした。若くないのだ。
無理、といえば、無理しないで引きこもってしまったら、寝たきり老人になる。寝たきりになった人には悪いけれど、断固拒否して、無理を続ける。
中川は、ほどほどに痛みに耐えて、身体をいじめろ、という。ほどほどにしないで、疲れ切ると免疫力をなくしてしまう、と水野さんは忠告してくれる。
フェイスブックのコメントで。安田さんは、好い加減が大事だと。
好い加減がダイビングの極意だと思う。しかし、生涯のある時期、多分、高校時代、好い加減でなく、死ぬほど身体をいじめないといけない。スポーツ第一、勉強が第二の時代だ。そのときに造った身体が生涯を支える。運が良ければ、ダイバーやってても85歳までは生きられる。僕は85歳だけど、これからどうなる。
これからは、ダイビングのログは、「這ってでも潜る」にしよう。
腰の筋肉痛のため 今日(21日)の予定だった、大井の野鳥公園は断念した。ここは、グーグルで見る感じでは干潟だ。筋肉痛での干潟歩きは、やりたくない。
おかげさまで、筋肉痛も若干良くなった。次の予定、28日のお台場までには治るだろう。
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0511 地底の湖
http://jsuga.exblog.jp/30058060/
2020-05-13T17:38:00+09:00
2020-05-13T17:42:56+09:00
2020-05-13T17:38:53+09:00
j-suga1
リサーチ・ダイビング
5-3 地底の湖
人間、勢いに乗っている時には、願っているとチャンスが向こうからやってくる。
釜石湾口防潮堤の翌年、昭和56年(1981)防波堤工事の休日にみんなで観光に行って、潜りたいねといった竜泉洞の水中撮影の依頼が、NHK仙台の大橋晴夫プロデューサーからあった。
テレビ番組はビデオカメラで撮影するのが今の常識である。しかしフィルムのカメラから電子的なビデオカメラに移り変わるころ、報道番組やドキュメンタリーは、未だフィルムで撮影した映像をテレビ信号に変換して放送が行われていた。やがて小型と言っても、今のビデオカメラの数倍大きいのだが、小型のビデオカメラが出来てENG(エレクトリック・ニュース・ギャザリング)が主流になる、ニュースもドキュメンタリーもフィルムからビデオカメラに移り変わって行くその時期に、ナン・マタールに行き、仕事としてビデオで水中撮影を専門にするカメラマンになった。
なけなしのお金を振り絞って、ビデオカメラを買い、ハウジングを作った。最初は、ビクターのKY-2000という、安いけれど、なんとかテレビ番組ができる画質で撮れるカメラだった。安いと言っても、レンズを入れれば150万、ハウジングの価格と、カメラの価格は、およそ同じぐらいというのが水中撮影カメラの常識だから、合わせれば300万だ。画質は多分、今のGoProよりは悪い、それでも、NHKとか、日本テレビが持っている水中カメラハウジングに比べると大きさは、三分の二くらいだ。この世界、ある程度の画質、性能があれば、小さいことは良いことなのだ。
そのカメラで、 NTVの木耀スペシャルをやり、ナショナルドキュメンタリー劇場をやり、テレビ朝日の水耀スペシャル、川口探検隊も撮った。そして、このNHKの龍泉洞も。
NHKには、日本初の潜水指導団体である日本潜水会を一緒に始めた親友の河野、竹内カメラマンから始まって、畑中、森江、南方、蕗谷 枚挙の暇も無いくらいのベテランカメラマン、そして次のジェネレーションのカメラマン、やがて、NHK撮影班の大御所になり、残念なことに世をさってしまった木原君も、若手として、日本潜水会の指導員になってくれている。
彼らのような、水中撮影については、僕に倍する能力があるベテランのカメラマンがいるのだが、NHKは大組織である。大きな組織には職制というものがあり仕事の分担が決められている。フィルムのカメラマンはビデオカメラで撮影することが職制上できない決まりになっていた。ビデオカメラを扱うのは、野球中継などをする中継の部署である。だから、ビデオカメラで水中撮影をするカメラマンがNHKには居ないことになった。
その幸運な隙間の数年間で、竜泉洞と、東京の洋上に広がる無人島群のNHK特集を撮影し、そのどちらも高視聴率であった。 使ったカメラ バッテリーライト
竜泉洞は、洞窟の中を川のように水が流れ出て、岩泉川に注いでいる。洞窟の中の川に沿うように観光用の道があって歩いて洞窟の行き止まりまで行ける。鍾乳洞は、巨大な石灰岩地形を地下水が溶かし、穿って、まるでスポンジの断面のように立体的な迷路となった洞窟がである。鍾乳洞は地球の歴史的時間の中で出来上がって行く。動物は穴があれば隠れ家とする。原始時代の人間も洞窟を家にした。穴居である。岩泉にも穴居のあとがあり、穴居人の博物館的な展示が行われている。
水が穿った洞窟だから、人が鍾乳洞に入り進んで行くと、その進路は水に阻まれる。泳いで、あるいは潜りぬけて行かなければその向こうには行かれない。洞窟探検の一つは潜水であり、もう一つは岩登り、ロッククライミングである。障害物が水であれば潜りぬけて行き、壁であればよじ登り、人間が入れるような穴であれば身を縮めて通り抜けて先に進む。苦労して進んだ先が大きく広がる大洞窟であれば大発見である。人は、海にはどこまでも深く潜り、山があれば頂上まで上り、空には高く飛び、宇宙に飛び出し、洞窟に入れば行き止まりまで行きたい。そして、それが人の命を奪うことになる。
この洞窟、竜泉洞に魅せられて行き止まりまで行きたいと探検を志した男が居る。古い友達であり、現在はダイビング用品メーカーとして成功している日本ダイビングスポーツ社長の松野庄治さんだ。
松野さんが洞窟潜水探検に熱中していたのは昭和40年代である。昭和42年(1967)に行われた竜泉洞潜水調査の報告が、昭和43年(1968)に雑誌「海の世界・2月号」に掲載されている。書いたのは松野さんのパートナーであった越知研一郎氏だ。
「くぐり抜けて水深計を見ると、なんと52メートル。海でも経験したことのない深さだ。空中の6倍の水圧でウエットスーツが煎餅のように薄くなり、冷たさが身にしみる。身体の下にはぐんと深い淵。100メートルを越えそうな奈落が真っ黒く落ち込んでいる。奥へ奥へとロープを引っ張って懸命に泳いだ。松野君がピタリとすぐ横を進む。キャップランプの光がたよりない。
――中略―― 奥へ進もう。X洞の地点へ出て驚いた。水中にスパン!と断層が抜けている。ビルの谷間といおうか、いや大きな都市の駅前通りにいっぱい水をためたようだ。せめて15階建て以上のビルの群でないとその大きさは想像できない。
広間だ。大地底湖だ。
ぐんぐん浮上する松野君、かすかに水面の広がりを見た瞬間、私は急に気分が悪くなった。吐き気とともに頭も胸も苦しい。
引き返そう。思いきりロープを引っ張って合図した。すぐUターンしたところまでは意識がはっきりしている。ロープだ。生きるためにはロープを引くのだ。目の前が真っ暗になり、ロープがクモの糸のように一筋に伸びているのだけが印象に残っている。」
この時、越智研一郎さんと松野君は生還した。そして、彼らの見つけた幻の大洞窟をX洞と名付けた。
鍾乳洞は立体的な迷路だ。同じ位置に行くことはとてもむずかしい。越智と松野(敬称略)のグループは、さらに調査を繰り返した。昭和43年、彼等のグループのダイバーであった高橋さんは、もう一名のメンバーを伴い調査を行った。新たな洞窟が見つかれば、観光の宣伝になる。隔てている壁を掘りぬけば、巨大な地底湖が壁の向こうに広がる。
高橋さんは戻ってこなかった。
鍾乳洞の潜水では、ダイバーが吐き出す気泡が鍾乳洞の壁にあたって、何万年もの間に壁に貼りついた水垢、泥のような堆積物が巻き落とされる。それまで水晶のように澄み切った水が、一瞬にして視界ゼロになってしまう。光の届かない暗黒の中での視界ゼロだ。ライトの光も全く通らなくなってしまえば本当の暗黒だ。視界を失い、出口を見出せなくなったのだろう。
海の世界の記事を書いた越智研一郎さんも、タンカーの船底作業で生命を落としてしまった。
巨大な高速タンカーの船底に牡蛎殻が付くと速度が落ちる。速度が落ちることは何億円もの損害になる。付着生物を落としてやらなければいけない。これが船底作業である。巨大タンカーの船底は平坦で、陸上競技場ほどの面積がある。グラウンドの大きさの屋根、しかも何の目印も無い、鉄の船底だから磁石も効かない。生命綱を曳くか、目印のために船底の「大まわし」をとる。(ロープで船底をぐるっと廻して横断させて目印にする。)入ったら出られなくなるという意味で、船底も洞窟も共通点があるが、洞窟で生き延びた越智さんは船底作業で生命を無くした。
NHKの夏休み特集番組で、竜泉洞のX洞を目指すことになった僕は、松野さんに挨拶をしておかなければならない。様子も聞いて置きたい。友人だったから、知っていることは何でも話してくれると思ったのだが、竜泉洞については口を閉ざして何も語らない。語りたくないと言う。それでも、友達だからと、X洞入り口の部分の簡単な青焼きの図面をくれて、X洞は上の方向にあることと、上に向かう穴には全てと言って良いほど、ガイドロープが垂れ下がっているけれど、そのどれも目印にはならないと教えてくれた。つまり、ガイドロープがたれている穴は調査済みということらしい。
それにしても、竜泉洞の奥に、大地底湖、X洞は本当にあるのだろうか。
竜泉洞の奥、観光舗道の行き止まりは、差し渡しで15m程度、湖というよりも泉である。覗き込むと青い透き通った水が深みから湧き上がっている。湧き上がると言っても、強い流れではない。潜るのに何の支障もないような湧き上がりだ。ここから潜り込んで壁をくぐり抜ければ、本当の大地底湖がある。はずである。
潜水メンバーは、河合、井上、田島、米田、鶴町、そして須賀だ。スガ・マリンメカニックのベストメンバーだ。それに、見習いの堀部を連れて行った。堀部は歩行者天国で踊っていたロックンローラーで、食べさせればいくらでも食べる力持ちだ。洞窟の中での荷物運び要員であるが、ダイビングでも使えないことは無かった。殺しても死にそうに無いずうずうしい奴だ。こういう性格がダイバーには向いている。やがて、数々の武勇伝を残してスガ・マリンメカニックを去り、父親の後を継いで成功し、青年会議所のメンバーにもなったが、お中元一つ、お歳暮一つ、送られてこない。
まず水面からホースで空気を送るフーカー式潜水で潜ろうと計画した。洞窟での事故は、迷路に迷い、空気が尽きるために起こる。ホースで空気を送る潜水ならば空気が無くなることは無い。ホースは水面から空気を送っているのだから迷うことも無い。僕たちは釜石湾口防波堤の深い潜水では、ホースを使うバンドマスクのフーカーを使っていた。その機材と技術でX洞を目指せば行けるにちがいない。
水に入り竪穴を降りて行く。水深35mで竪穴の底に着く。斜め下方に向かって急角度に降りている洞窟の奥にカメラを向けて、500ワットの有線ライトで照らした時、人生観が変わったと思うほどの衝撃を受けた。潜ってすぐのこの場所でも、地底の湖だと感じ取れる。陸上の空気と同じほどの透明度で光が通っている。そして透明な青、河合が別の有線ライトを持って先に進む。太鼓橋のようなブリッジが20mほど先にある。その地点までライトを進めて、ブリッジにライトをくくりつける。
ダイバーはシルエットになり、気泡がライトに照らされて、光り輝きながら上に向かう。、ブリッジの下をくぐりぬけると、先には青黒い暗黒が下に向かっている。ブリッジの部分を第二ゲートと名付けた。
衝撃を受けた光景を映像にしたい。美しい映像を作るためには三次元的なカメラの動きが必要だ。ホースでは自由な動きが出来ない。自由に洞窟の空間で動くためには、ホースがどうにもならないほど邪魔だ。フーカーのホースはあきらめて、全てスクーバで行くことに決めた。ホースはX洞への通路に入るときから使えば良い。
自分で撮る映像に、自分で魅せられてしまい、いくらでもテープをまわしてしまう。映像も大事だが、ほどほどにして、X洞への通路も探さなくてはならない。天井と呼んでよいのかどうかわからないが、天井にも下にもいくつもの、人間がようやく身体を突っ込めるような隙間がある。まるでスポンジのようだ。スポンジの隙間全部に入り込んでみる時間は無い。テレビ番組のロケだから、時間には限りがある。
松野さんがくれた図面は、水深50mあたりから上へ向かう通路になっている。黙して語らない彼を拝み倒すようにして教えてもらったことは、穴の中を上に向かって行くと5mか6mで行き止まりのようになる。行き止まりの壁を左の方に、ダイバーがタンクを背負ってようやく入って行かれるほどの隙間のような通路がある。少し苦しいけれど何とか入り込んで2mほど進むと突然のように大きく開けて、そこがX洞だ。「大丈夫だよ、何とか行かれるよ」と教えてくれた。
その言葉を念頭において、探す。
鶴町は通算9回目の潜水で、第三ゲートを少し越えたあたりに人間がようやく入って行かれるような穴が上に向かっているのを発見した。
次の日、6月24日、河合がカメラを持って行く。鶴町が見つけたと言う上に向かう穴を探すのだが、同じ場所に行かれない。行っているのかもしれないが、同じ穴なのかどうか区別がつかない。皆同じような穴に見える。松野さんたちは、多分、ある程度のところまで身体を入れ、先が開けないので、ロープをそのままにして戻ってきているのだろう。こうしておけば、同じ穴に二度入ることはない。そんなロープが上の方からいたるところに垂れ下がっている。僕たちは、見たという目印のロープを用意していなかった。ロープの先に浮きをつけて、上向きの穴に入れて浮かせれば良いのに、それをやらなかった。後の祭りだ。
通算11回目の潜水は、須賀がカメラを持って撮影した。第二ゲートと第三ゲートの間あたりに、上に向かって、ダイバーが入って行けるか行けないかぐらいの大きさの穴を二箇所発見した。一箇所には、一度入ったという印のロープが吊り下がっている。もう一箇所がちょうど55mだ。上に向かっている。これに違いないと思った。しかし、入り込むには空気が不足している。スチル写真を撮り、思いを残して立ち去った。
第三ゲートにくくりつけておいたライトを外して、下に降ろして見た。有線ライドだからあとで引き上げることができる。ケーブルを全部延ばすと、はるか下の方まで輝きが見える。ぽっかりと下に向かって開いている洞窟で、ライトが点のようなった。本当に透明なのだ。第三ゲート、鶴町の探した竪穴は水が濁ってしまっている。昨日の今日だから24時間以上経過しているのに濁りがとれていない。これがX洞ならば、中から水が流れ出てくるはずだから、ここではないだろう。
6月25日
通算第12回目の潜水。河合、田島が撮影に入ったが、水面の基地においてあるVTRのトラブルで撮影出来なかった。
とにかく潜降を続けた彼等は、洞窟は水深68mで行き止まりに見える。 この通路は、水深70mで底になっていると報告した。
続いて通算13回目の潜水を鶴町、井上、米田で行い。水深55mで上に向かうたて穴を見つけた。二人は、この穴がX洞への通路だと言い張る。多分私の見た穴とおなじだろう。
6月26日
6月19日から潜水撮影を開始したのだから、8日目だ。これで予定していた日数が尽きてしまう。とにかくこれで撮影終了である。。
テレビ番組だから、何か山場を作って盛り上げて終わらせなければならない。あと一回だけの潜水だ。水深50mを越えるから、あれもこれもは出来ない。55mで上に向かう穴がX洞への入り口であったとしても、あと一回の潜水では、入って行くのは無謀だろう。それに、垂下がっているロープは当てにするなと言っても、これがX洞だという印をなにも付けないとはおかしい。X洞ではない可能性も大きい。
一日前の潜水で、河合と田島は、水深68mで行き止まりになっていることを発見したという。底があるのならば底を極めよう。と相談がまとまった。最後の一回の潜水で、狭い穴に入り込んでゆくのが怖かったこともある。僕たちにも恐怖心はある。
68mは深いけれど、釜石湾口防波堤の潜水で、深く潜ることはなんともないという心境になっていたから、深さについては、怖くない。行けるところまで行こうと皆が思った。
最後の潜水だから、水面の基地で指揮をする米田を残して全員が潜水した。須賀がカメラを持ち、先行してルートを調査するのが河合と鶴町、彼等が確信している68mの底まで行こう.
。後方でビデオ信号のケーブルをさばくのが井上、田島、堀部だ。
地底湖での潜水では、なぜか窒素酔いは軽い症状だった。少しおかしい感じぐらいで終わって居る。何故だろう。淡水で、しかも水が冷たくて8度だからか?
一回一回の潜水ごとに重いカメラを水面まで引き上げるのは面倒だから、チムニーを降りた水深35mのところに、カメラを置き放しにしておいた。そのころの放送規格のカメラは、カメラとVTRとは別になっていて、水面の基地にVTRを置き、ケーブルで電源を送り、信号を受けて、基地で録画しているから、電池の交換、テープの交換は必要ない。カメラは水中に置いたままでも良い。
潜っていって、水深35mで有線通話機のレシーバーとマイクを耳に付けて、カメラをかまえ、さあ行くぞ、と気持を引き締めたとき、意識の中で水深のカウンターはゼロにもどっているのではないだろうか。水深35mでカメラを持ち、それから20m下がれば55mだが、本人は20mしか潜っていないような錯覚を起しているのではないかと考えた。
とにかくこの時の潜水まで、窒素酔いは少しばかりいい気持になるだけで、不快感もなければ、意識が途切れることも無かった。
どんどん潜って行って60mを越えた。すぐに70mだ。おかしい。70mあたりに底があるはずではなかったか。下を見ると、直径で10mほどの竪穴が真っ直ぐに下にむかっている。青黒い透明で、下の深さはどのくらいあるかわからない。70m地点で底なしの穴の中空に浮いている。深くてウエイトがオーバーになっているのでどんどん沈んで行く。サーチに出ていた河合と鶴町が戻ってきて、僕の腕をつかんで引き上げにかかった。到達地点で水深計の指針をカメラに収めようと思った。なにか水深の証拠が撮れなければこの潜水は終わらない。私は腕を振り解いて、その水深で停止しようとする。彼等は上に引き上げようとする。しばらく格闘が続いた。ようやく水深計をファインダーに入れたが、まだ彼等は一番深いところで水深計を撮影するという意図を理解してくれない。ようやく鶴町の水深計をつかんでカメラの前に持ってきて、意図を理解させた。その時は少し浮上してしまっていたので、再び下に戻った。水深計の指示は73mを示していた。なかなかピントが合わない。そのうちに面倒になった。カメラを静止することなど、この水深ではできない。撮影したテープの方で静止させれば、良いのではないか。それなりに、なんとかピントを合わせて浮上のサインを送った。それからが早いこと。あっという間に水面に向かって駆け上がった。用心のために減圧停止を長めにしてから浮上する。
あとで計時を調べてみると、潜降を開始してから73mまで潜り、浮上して減圧点に戻るまで、3分弱しか経っていなかった。一分間に10mの率どころではない、一分間に50m以上も浮上している。そのころは未だ、停止点までは、早く上がっても良いと考えられていて、急浮上していた。その後、浮上の途中で減圧症になるダイバーが多くなり、深く潜った場合には、カタツムリが這うようにゆっくりと浮上しなければならないことになった。まだ、ダイビングコンピューターも無い時代だ。
撮影が終わっていないのに、何故引き上げたのだと、彼らを問い詰めると、その時の僕の顔は、目が点になっていて、つまり視野狭窄の状態で、潜水を続けたら危ないと思ったのだそうだ。お互いに、水深50mを越えたあたりからは、きっと同じような顔、窒素酔いの顔をしていたのだろうが、これまでは、顔と顔を合わせたことが無かったのでわからなかったのだろう。彼らがターンして引き返して来たので、降りてゆく僕と顔を合せることになった。
地底湖は、50mから60mの途中で、左右に二股に分かれていたのだ。鶴町と河合は前回の潜水で、わき道にそれてしまって底についた。今回は本筋を行ったので底がなかった。それにしても本筋に行ってよかった。枝洞に入って底を発見したなどと番組で放送したら大恥をかくところだった。本筋の竪穴の底の深さはどのくらいあるのだろう。200mなのか、それとも数千メートルなのだろうか。さしわたしが10mを越えていて、深さ数千メートルの竪穴、それはそれで巨大地底湖と言えるだろう。
僕たちは、国内の鍾乳洞で水深73m潜水の記録を樹立した。というと聞こえは良いが、73mまで墜落したのだ。
NHK夏休み特集「地底湖の謎―謎の大洞窟」は昭和56年8月20日に放送され、巨人対広島の野球放送の裏で、28%の驚異的視聴率を上げた。後に出世コースを驀進した大橋プロデューサーは、いつもこの視聴率を後輩に成功例として例にあげたそうだ。 龍泉洞を潜った、僕らのチームこの中で、もう、鶴町、米田、田島は、世を去っている。
この穴も向こうに巨大な地底湖がある。と思った。
鍾乳洞というのは、人を引き込む魔力があるらしい。その洞窟が自分の洞窟だと思いこんでしまうのだ。これは、もしかしたら遠い祖先、人類が穴居生活を送っていた原始のころの記憶がどこかに残っているのかもしれない。人は洞窟の中に身を隠すとほっとする。
この撮影に参加したみんなが竜泉洞は自分の洞窟だと思いこんだ。もう、あと一息でX洞が見つかるところまできている。あと一歩だ。この撮影をあと一週間続けられたならば、そして一度東京に帰って器材の整備と点検をして仕切りなおしができるならば、行けていたと思った。
沼沢沼揚水発電所取水トンネル、
この底に見えるのが水面で、そこから潜って水深30m
横に400mのトンネル 取水口だ。
次の年、昭和57年3月、東北電力の依頼で、福島県沼沢沼水力発電所の取排水トンネルの調査を行った。天然の鍾乳洞に引き続いて人工の洞窟である取排水トンネルだ。
沼沢沼は会津若松から只見川を遡ったところにある。雪深いところで、3月には未だ2m近い積雪が残っていた。この発電所は揚水発電所である。水力発電は、山の上に溜めた水を落として、タービンを廻して発電する。揚水発電所とは夜間に電力消費が少ない時に、タービンを逆に廻して、発電で落とした水を逆流させてもう一度山の上の沼に引き上げる。昼間の電力消費の多い時間帯にまた落として発電する。水を揚げたり落としたりするトンネルには巨大な力がかかる。トンネルに亀裂などが無いか、詳細にビデオカメラを使用して撮影調査をするのが仕事だ。トンネルの全長はおよそ400m、出入り口は片側だけ、水深はおよそ30m、水位が低くなっている3月でおよそ25mだ。水温は3度だ。竜泉洞のような湧水ではなく、沼に溜めている水だから温度が低い。
ホースもない、ラインも引いていない状態でトンネルに入ると、どちらが出口か完全にわからなくなってしまう。
暗くて、視界の良くない水中では、直径3m以上のトンネルは、ただの壁に見える。壁に手を触れながら泳いで行くと、自分の身体も回転してしまうので、どちらが出口かわからなくなる。先端に向かって太いホースに沿って泳いでいても、はてな、と思うことがある。これで先端に向かっているのだろうか、それとも後戻りしているのだろうか。チョークで矢印を付けながら進む。自分で書いたその矢印も、この矢印は、入り口に戻る矢印だろうか、先に進む矢印だろうか疑いだしてわからなくなる。
鶴町と井上が入社したばかりの時だった。長野の山の中にあるダムのトンネル調査に、ある潜水会社の手伝いに出した。まだ、プロになりきっていない大学を出たばかりの彼らであった。二人に年配のダイバーを加えて3人でトンネルに入った。年配のダイバーは、フリーランサーであった。監督をする社長は水面にいて、ダイバー三人との間は、命綱ロープで繋いでいた。無事に作業を終えて一旦出てきたが、トンネルの中に工具を忘れた、ちょっと取って来ると言って、年配のダイバーがトンネルに戻っていった。これがトンネルや洞窟死亡事故の古典的パターンなのだが、若い二人にはその知識がない。奥に戻ったダイバーはそのまま帰らなかった。何分待っても帰えらないので、ロープを身体に結び付けて、捜索に向かった。入り口から30mほどのところで沈んでいて、息を吹き返すことは無かった。多分、どちらの方向が出口なのか分からなくなったのだ。
同行していた潜水会社の社長は、遺体と鶴町、井上を車に乗せ、ダムから下った。途中、車を止めると、社長は狂ったようにお題目を唱え、死んだダイバーの道具を谷底に投げ捨てた。しばらく狂うと、けろりと直って再び車を走らせた。その後もなんとも無く、仕事を続けたし、遺族が訴えるようなことも無かったらしい。
何の目印も無いトンネルは恐い。
沼沢沼では、太いホースをトンネルの奥まで引き込み、先端で細いフーカーホース四本に枝分かれさせるシステムを考えた。スクーバタンクを背負って、スクーバで呼吸しながら先端に向かう。枝分かれしたホースの先端は、水中で取り付け取り外しができるカプラー(接合金具)でフルフェースマスクに繋ぐ。そのままホースからの空気の供給で作業を行い、帰るときはホースを切り離して、スクーバで呼吸して戻る。太いホースを次第に先に進めながら撮影作業を進めて行く。太いホースには、20m間隔でマイクが付けられていて、水中で音を拾う。もちろん、フルフェースマスクには通話機のマイクとレシーバーがつけられていて通話することができるが、ホースを切り離す時にマイク、レシーバーの通話線も手放してしまうから、音信不通になる。そこで、ダイバーが着けるマスクの通話装置とは別に、太いメインホースにレシーバーを付けてトンネルの中の音を拾うことができるようにした。このレシーバーで30m以上先の音を聞くことができた。レシーバーに次第に接近してくるダイバーの呼吸音、やがて前を通り過ぎて、次第に音が遠くなってゆくと、次のレシーバーにダイバーが接近してくる音が聞こえる。ダイバーの動きを音で確認することが出来た。レシーバーはスピーカーでもあるから、水面からの指示を送ることもできる。
沼沢沼で全ての作業が終了して、ホースの引き出し作業をした。何人かがトンネルに入った。引っかかったら担いで出すためだ。何の障害も無く、するすると引き出せた。
ホースを完全に引き出した後に確認すると、未だ一人トンネルの中に残っていると言う。ベテランの太田さんが工具の忘れ物が無いか確認に戻ったと言う。あの時と同じではないか。血の気が引いた。そんなことが無いようにと生命線のホースを引いたのに、すべてが終わった後で、命綱無しでトンネルにもどる。古典的な事故のパターンだ。
幸いにも、やがて太田さんは戻ってきた。
沼沢沼に潜水した方法で竜泉洞を探ろうと思った。入口から水深60mまで潜って、X洞を見つけて、X洞の竪穴を水面まで60m浮上しても合計で120mだ。沼沢沼のシステムはホースの長さが、400mある。ホースの先端部で呼吸している限りは迷うことも無いし、空気が切れることもない。もちろん電話も通じさせておく。山登りで言えば極地式のようなシステムで潜れる。沼沢沼の工事に参加したフリーのプロダイバーにも話したら、皆、やりたいと竜泉洞を楽しみにした。
何通も企画書を書いた。NHKは続編はやらない。その代わりではないが、大橋プロデューサーは、次の企画、東京無人島紀行の撮影をさせてくれた。
昭和60年、某局の開局記念番組に採用がほぼ決まった。本当にX洞があるのかどうかを聞かれた。「あります。」と言い切れば良かったのだろう。テレビとはそうゆうものだ。NHKだって、X洞はあると信じて僕たちを潜らせたのだから。
「あります」と言い切れなかった。あるかどうかわからないと言う理由で最終的には没になった。
私はその後、ニュースステーションの成功などで乗っていて、忙しさにまぎれて竜泉洞はそのままになった。
その後、アメリカでは洞窟潜水がテクニカルダイビングの名前で盛んになり、親しい友人の佐藤矩朗氏から、2000年、フロリダでケーブダイビングに実績のある、ラマール・ハイレスというテクニカルダイバーが潜水調査を行うという趣意書をもらった。佐藤さんから、X洞発見の知らせはもらっていない。
この趣意書でも、ラマール氏のスケジュールでは、潜水日数は7日になっている。7日では無理だ。X洞があるのか無いのか、はっきり結論が出せるまで徹底的に潜らなければならない。
2001年、書きまくって諸処に提出していた企画書に電通が興味を持ち、企画書の再度提出が求められ電通からNHKに企画を通すことができそうだった。しかし、NHK撮影班がフロリダで洞窟探検をやる。同じようなことを同じ年内にやることはできない。僕の企画は溶けて消え,僕の龍泉洞も終わった。
※ その後、佐藤さんの龍泉洞も終わりになり、PADI時代に親しくなり、アメリカに行っていた久保君がテクニカルダイビングの線で、龍泉洞にかかわることになり、僕に仁義を切りにきた。それが縁で、久保君とは日本水中科学協会を一緒にやるようになり、久保君の龍泉洞調査の結果を日本水中科学協会のシンポジウムで何度か発表してもらった。現在進行中の「リサーチ・ダイビング」でも龍泉洞について書いてもらう予定でいる。
大きなビルがすっぽり入るようなX洞は、存在しなかった。ただ、僕のダイビングでの行き止まりにちかいあたりから、上に昇って水面に出て、錯綜した洞窟の繋がりに出て、観光洞の行き止まりに出ることができる。 僕らが想像していた地底湖
結局、ビルが入るような巨大な水中洞窟とそれを浮上して、上陸することができる巨大な洞窟は、越智さんの窒素酔いから来た幻想だったのだろうか。
昭和43年(1968)に雑誌「海の世界・2月号」に越智さんが書いた巨大な水中洞窟は、窒素酔いからの幻想だったのだろう。しかし、それとは別に、僕らが73mまで潜った垂直の洞に横穴があり、その向こうに巨大な洞窟があるかもしれない。今、地下水の調査でかかわっている産総研の丸井さんんが地磁気で山の上から調べた結果、山の中の地下には大きな空洞があるらしいという。
いま、メキシコのセノーテが、親しくさせていただいていた、三保先生らの活動もあり、その美しさから観光ダイビングとしても、脚光を浴びている。これら、セノーテは、横に長く伸びている行き止まり化、抜け出るところの探査は1000m単位だが浅い。龍泉洞は100m単位だが、垂直方向である。200mであっても、水平に200mと垂直に200mでは、それが水中であれば、様相、状況は全く異なる。200mは短い距離だが、垂直ならば、水深ということになる。垂直に1000mの洞窟に降りて行く、というのも、それはそれで、一つのロマンではあるけれど。
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0425 リサーチ・ダイビング 釜石湾港防潮堤
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2020-04-25T19:01:00+09:00
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j-suga1
リサーチ・ダイビング
船上減圧のタンク
5-2 釜石湾口防潮堤
日常は、人工魚礁の調査、藻場の調査などをやりながら、大きな仕事が来るのを待っている。じっと海底に横たわっていて餌が頭上に来るのを待っている。来たら飛びつく。
昭和55年(1980)岩手県釜石湾口の防潮堤の基礎調査工事をやることになった。サウジアラビアでのマネージャー就任を断った、日本シビルダイビングとのジョイントでの作業だった。シビルダイビングからは、田中君という監督が来て、ダイバーは,スガ・マリンメカニックと、それに、シートピア(海底居住実験)を実施していた海洋科学技術センター(今のジャムステック)から 田淵君、米倉君 が加わり、ベテランのフリーダイバー上村君、それに、清水の望月さんのところから、横田君が参加した。大きなプロジェクトだから、参加して、名前を出して置くことに意味があると、誘ったものだった。
ちょうどその時、田島雅彦が、茨城県立那珂湊水産高校の専攻科を卒業して入社した。船乗りになるため、船長免状をとるための専攻科だが、僕が茨城の調査をする時の定宿である万年屋に下宿していた縁で知り合った。
田島雅彦、このあとジャムステックの深海潜水コースに入学した。
その時の写真。残念なことに癌で逝ってしまった。
湾口防潮堤は、春から秋へ、長い期間の仕事だったから、休日を作り、体育館で運動したり、近くの観光をしたりした。
体育館では、バスケットをやった。僕は中学から高校まで、バスケットのプレィヤーだった。大学一年でバスケットをやめて以来始めてボールに触った。フリースローがリングにとどかなかった。体育館で、田島は、腹這いになって後ろに手をまわして両足首を掴み、腹筋で跳ねた。ボクシングのチャンピオン、具志堅がこれを出来た。それと同等の身体能力ということになる。
湾口防潮堤とは、津波が起こったときに被害をくいとめるための堤防である。釜石湾は、リアス式の三陸海岸であるから深い。深い湾の湾口、水深64mの海底から堤防を築き上げる大工事である。石を積み上げるために、船底が開く石積み船から石を落とす。その石が、どのように積み上がったか、設計通りに積み上がっているかを確認して行く調査である。水深64mの海底で、ポールを立て、線を張りめぐらせて、測量をする。水深64mだから、普通の空気では窒素酔いになってしまう。ヘリウムと酸素の混合気体を使う。
ヘリウム・酸素混合ガスによる潜水は、よく知られていたが、1980年の日本ではまだ実際の作業例は少なく、各方面の注目を集めた。技術指導と機材の貸与(もちろん有料)をしたジャムステックとしても、数少ない工事実施例になった。しかし、実際の現場では、連日、高価なヘリウムは使えない。かなり慣れてきた途中からは普通の空気で潜った。減圧は、船上に副室のある小型再圧タンクを置いて、船上減圧で潜水した。船上減圧とは、完全な減圧停止はせず、第一段目の減圧だけをして浮上し、3分以内に、減圧症罹患してはいるのだが、まだ発症しない状態のうちに再圧タンクに入って、治療を開始してしまう。発病しないうちに治療してしまえば何事も無いという理屈だ。 この潜水で使っていた潜水器は、ホースでカービーモーガンタイプのバンドマスクに送気するフーカー(潜水士のテキスト・最新版では、デマンドバルブをつけたフルフェースマスクと呼んでいる)であった。バンドマスクは、重いフルフェースマスクであるが、水面からの送気と背中に背負っているタンクからの空気供給を切り替えることが出来、米国のコマーシャルダイビングでは一番多く使われている。
※今のダイブウエイズのフルフェイスマスクは、それに対応している。カービーほど重くないし、顔当たりも良い。
深い潜水ではガスの消費量が大きいので、ホースで送気する。エア切れの心配は無い。そして、もしも、送気装置が壊れたり、ホースが挟まったりして送気が停止した場合には、背中に背負っているスクーバタンクに送気を切り替えて浮上できる。減圧停止ができなくても、船上のタンクに入って減圧を加えることができる。国際的なルールでは、このように、送気が2系統の潜水器でなければ、水深55m以上の潜水作業はしてはいけないことになっている。また、水中で失神したとき、マウスピースを口から放して溺水することが無いように顔の全面を覆う、フルフェースマスクを使わなくてはならない。いわゆるシステム潜水だ。
このシステムこそが、東亜潜水機でやらせてもらった水深100mの実験潜水の完成形であったが、残念ながら、完成させたのは、外国のメーカーだった。
ガスバンク
ガス分配器 オペレーターをやった田渕君
よくも、こんな梯子から潜水出来たものだ。
この釜石の潜水からさらに25年後、2005年、道路拡張工事で移転した東亜潜水機を久しぶりで訪ねた。機械工場は、佐野専務の息子さん、東亜潜水機を退社したときにまだ小学校高学年だった弘幸さんがやはり専務になり、大きくなった工場を取り仕切っていた。僕が好きだった佐野専務、三沢社長はすでに逝ってしまっている。
「僕がここに残っていれば、東亜潜水機は、フルフェースマスクの世界的なメーカーになったかもしれませんね。」
息子の佐野さんも優しい人で、きっとそうなりましたねと言ってくれた。
退社した当時、ヘルメット式潜水器のメーカーは二社あった。東亜潜水機と横浜潜水衣具だった。横浜は後年、海上自衛隊関連の仕事で、釜石でも使っているカービーモーガンのバンドマスクのライセンス生産をした。日本の製品の常で、原型よりも質が良く、世界的にヨコハママスクとして人気があった。その横浜潜水衣具も、2007年の今は会社を閉めてしまって無い。主力製品であったヘルメット潜水が、作業潜水の主力の座をフーカー式に譲って、今や伝統技術として保護しなければ残らないような状態になってしまったから、持ちこたえられなかったのだろう。
東亜潜水機は、ヘルメット式潜水器のメーカーとして唯一になったが、それでも今やコンプレッサー関連の売り上げが8割だという。
今はもう、コンプレッサーのメーカーですよ、と佐野さんは言う。コンプレッサーも、僕の100m潜水実験のあと、次の120mを目指すために、ヘリウムを回収して再使用するヘリウムコンプレッサーが売り物になっているとか。
スガ・マリンメカニックとしての釜石湾口防潮堤のメンバーは、須賀、河合、鶴町、米田、井上、田島、以上スガ・マリンメカニックの社員で、フリーの助っ人は、田渕(ジャムステックから紹介されエンジニアリングをお願いしたチーフダイバー)、ジャムステックからの米倉、フリーの上村、横田で、現場監督はシビルダイビングの田中君だった。
※、後に、2010年、日本水中科学協会を作って、プライマリーコースをやるときに米倉君は、ジャムステックの担当になってくれて、多大なお世話になった。
日本シビルダイビングは、名古屋の会社で、お金に渋い。サウジではほぼ、使い放題だったけど。
監督の田中君が契約してきた宿舎に入って見て、「ワン!」と吠えた。八畳間が二つ、襖を取り払って一つにして、全員が一つの部屋で寝る。布団は厚さ2cm、本当の煎餅、窓から光は射さない。夕食のカレーライスには、蝿が入っていた。風呂は無いので、向かいの銭湯に行く。近所のお爺さんが入ってきて、毎日、千昌男の「北国の春」を歌う。僕たちも声を合わせて合唱する。今でもこの歌をカラオケで歌うと、涙がにじんでくる。
ある日、シビルダイビングの社長が視察に来た。サウジアラビアに一緒に行った大畠社長だ。良い旅館をとり、マットレスを敷いた上に厚い布団を敷いて寝ている。こっちは厚さ2cmの煎餅だ。同じ社長でなぜちがう。愚痴を言ったら、田島に言い返された。では、明日から良い布団で寝て隠居してください。もう、ダイビングはしなくていいです。「ごめん、僕はここで寝て、潜る。」
45歳、まだまだダイビングでは、人に負けないつもりであったが、やはりホースさばきが下手くそだった。径が8mm、ホースとしては細いが、水深60mを越すから、120mぐらいのホースを曳いて潜らなければならない。それでも、次第に上達して、終了ごろには、みんなと対等に潜れるようになった。
石を落として、山を作る。その山が設計の通りかどうか確認のための測量である。ソナーでも大体の形はわかる。しかし、10cmぐらいの精度で測るとなると、実測する他ない。恒久的なポールを立てて、ポールの間に水糸を張る。水糸からスタッフを立てて、山の高さを測定する。本格的な測量をやった。透明度が良いので、こんな測量ができた。
40m以上に潜水する場合、ヘリウムとの混合気体を使う理由は、窒素酔いを防ぐためだ。僕らは経費節減、名古屋の会社だから、と陰口をきいたが、ヘリウムはなくなったら補充せずに空気で潜っている。
ある日、本来の仕事である測量ではなくて、錨引き揚げの仕事が来た。大きな錨を、工事の船が落としてしまった。潜水して太いワイヤーロープを錨にはめこんで、ボルトを締めて来る仕事だ。錨を落とした、地点に目印のボンテン(浮き)は入れてあるが、それを目印にロープを降ろしても海上のことだ、5mや10mは離れてしまう。海底でそれを引きずって、錨に取り付けなければならない。僕がやるような仕事ではない。だけど、やることにした。良くない性格だ。なんでもやりたがる。鶴町と一緒にやることにした。水深は少し浅くて、55mだったと思う。作業に10分はかかるだろう、余裕を見て潜水時間15分として潜降した。
アンカーとワイヤーロープは10mほど離れている。引きずらなくてはならない。ワイヤーロープは重いから重労働になる。フルフェースの空気をフラッシングにした。フラッシングとは、前面のガラスが曇った時に、空気を吹き付けて曇りを落とすために、送気を、フリーフロー状態にすることだ。こうすれば、ヘルメット潜水同様になり、デマンドバルブ(レギュレーター)を経由する呼吸抵抗がゼロになる。ヘリウムを使っていたらこんなことはできないが、空気だから、幾ら吹かしても良い。二人でロープを担ぐようにして引っ張り歩いた。10mは遠い、ようやく錨にロープをボルト止めにして、そこで、力尽きて、二人とも打ち伏した。所要時間は5-6分しか経過していない。呼吸はもとに戻ったが、二人とも動く気持ちにならない。上から、電話で、時間経過を告げてくる。「8分経過、」しごとは終わったのだから、浮上しても良いのに、そのまま横たわっている。潜水時間15分というのが焼き付けられているのだ。窒素酔いで、仕事が終わればすぐに浮上したほうが減圧時間が少なくて済む、と頭がまわらないのだ。「15分経過、浮上してください」「了解」で浮上した。
何も考えられない、考えさせないほうが良いのかもしれない。
プロの潜水で深く潜るのは、このようなホース送気のシステム潜水でなければ、いけない。日本の高圧則でもそうなっているし、国際的にももちろんどうなっている。スクーバを使うテクニカルダイビングは、危険度が高い。
仕事も完成が近づき、先が見えてきたある日、休日を作って付近の観光にでかけ、岩手県の竜泉洞にやって来た。洞窟の一番奥、引き込まれるように青い水を覗き込み、「潜ってみたいね」と話し合った。
ここ釜石でも、ダイバーが死んだ。僕たちの工事ではなく、地質探査のために、海底に爆薬を仕掛けるダイビングで亡くなった。親友と言うより、弟のように思っている石巻の福田君が受けていた仕事だった。僕らの仕事は終了して東京に戻っていたのだが、ピンチヒッターを買って出た。大阪のフリーのダイバー、上村君とバディを組んだ。彼も名人だ。水深65m、普通の空気で潜った。事故は、窒素酔いが原因だろう。僕は、窒素酔いにもなれ、重いカービーのバンドマスクにも慣れて、視界の狭さも苦にならない。秋も深まった釜石湾は澄み切っていた。見上げると、ホースも水面まで一直線に見える。海底に穴を開けて、ダイナマイトを差し込む。このまま、ここに居たい。窒素酔いになっているから気分が良いのだ。水面を見上げると、気泡が輝きながら、浮いていく、陶然とそれを眺める。水面から浮上を指示してくる。仕方がない。ふんわりと上がって、楽しく減圧停止をする。
空気の質が良くて、空気量があまりあるほどあれば、窒素酔いは気分が良いのだ。それに、意識を失ったとしても、、ホースを手繰って引き揚げてもらえるから安心だ。窒素酔いは、酒酔いとおなじように、ジャンキーになる。酒のように二日酔いにもならない。
湾口防潮堤の、測量工事が終わっても防潮堤の工事には、細かい潜水仕事が発生するかもしれない。日本シビルダイビングでは、釜石に駐在するダイバーがほしい。スガ・マリンメカニックから誰か一人出向してくれと依頼があった。かわいそうに、鶴町が島流しになることになった。人事の序列としてそうなるのだ。河合君と、鶴町が同列だが、河合は、コックの修行もしてことがあり、要領が良いのだ。軍隊の戦争で、下士官の要領の良さが、重要であるように、潜水仕事も要領なのだ。要領、つまりずる賢く立ち回ることが事故を防ぐ、事故の起こる臭いを嗅ぎ分けて逃げることに巧みなのだ。鶴町はまっすぐないい男で、悪賢くない。貧乏くじを引く。鍛えられてやがては賢くなって独立するのだが、まだ、この時代は、島流しになった。これという仕事もなく、半年ほど駐在した。
これは、釜石ではないが、寒さに震える
左から、鶴町、河合、新井拓
※僕らが1980年に基礎工事の測量をした釜石の大湾口防潮堤は、30年近くかかって、ようやく完成した後に、東北大震災の津波が来た。津波は防潮堤を乗り越えて、釜石の街を襲った。防潮堤があったために、何分か潮が上がるのが遅くなり、そのために何人かの人が助かったのだという意見と、いや、防潮堤があるからと安心して逃げ遅れた人も居るのではないかという意見もあった。
釜石は懐かしい街だ。グーグルアースで街並みをみる。昔とは、全く変わった。甲子川には、いまでも鮭は上ってくるだろうか。たしか、橋の上に市場があったはずと探しても見当たらない。湾口防潮堤は立派にのこっているけど。
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0423 リサーチ・ダイビング 番外の2
http://jsuga.exblog.jp/30018328/
2020-04-23T09:37:00+09:00
2020-04-23T09:37:03+09:00
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リサーチ・ダイビング
上の写真は、その当時ビデオカメラで人工魚礁を調査撮影している。カメラとVTRは別々で、船上にVTRを置き、ケーブルで繋いでいる。ライトも有線ライトで、発電機を船上に置いていて、ケーブルを曳いている。
このケーブルのために、救われたことが幾たびか。ライトマンとカメラマンの組み合わせは絶対的なバディシステムであり、このために救われたことも幾たび。この場合、ライトマンが先導するのか、カメラが優先するかだが、僕の場合、このころは、ライト優先で、ライトを当てた部分をカメラが撮影するようにしていた。
なお、本文はビデオ撮影ではなくて、スチル撮影である。
つくづく、当時の写真が全部残っていれば良いのにとおもうことしきり、なのだが、流転のうちにほとんど紛失してしまっている。
なお、このスチルは、ペンタックス17mmで撮影したもので、当時の超広角、ちょっと四隅が蹴られている。
僕は、一応、ものを書くのがすきだ。今書こうとしている本で10冊目になる。 山中プロデューサーのように、ノンフィクション大賞は取れないだろうと思って、応募もしないが、なんとなくまとまった良い文章、そんなものを書いてみたいと常々思っていた。
この文は、そんな気持ちで、2008年に書いたものに、今、付け加えながらの復刻である。
ナンマタールは、ちょっと付け加えが多くなりすぎて、ほぼ、支離滅裂になった。そこで、今度は、2008年のほぼ、原型のままで行ってみたい。
テーマは人工魚礁調査である。先日、オープニングのところだけ、フェイスブックに出したら、全部読んでみたいという人も居たので、調子に乗って、ということもある。
ダイビングワールドに1970年代に掲載したものの、復刻を2008年に書き、そのまた復刻である。
5-2 人工魚礁調査 船酔いの大海原
2008年、、ダイビング雑誌は、ダイビング・ワールド、ダイバー、マリンダイビング、三誌が本屋に並んでいる。と書いたら、ダイビングワールドが休刊してしまった。そのダイビングワールドに、1976年5月から1977年3月まで、「青い大きな海へのちっぽけな挑戦」と題して、11回の連載を書いた。
その最終回に、人工魚礁調査を書いた。少し書き直してここに入れる。
※ なんだ、書いたのは1977ねんだったか。
薄緑色のコロナ・ハードトップクーペのシートに納まる。シートは僕の身体をぴったりと包み込む。15万キロもこのシートに座って走ったのだから、身体とシートは一つになっている。秋の大気を車内にいれようと窓を開ける。ギリギリときしんで片手でハンドルを廻しても開けるのに、苦労する。細かいところはガタが来ていて、外回りは凹んでいるけれど気持ちよく走る。房総の低い山なみは、そろそろ冬枯れに近い。春から夏になる季節の移り変わりはゆっくりゆっくりだが、夏から冬へは早い。
このあたりでは、最も大きな漁港である勝浦で、千葉県水産試験場の調査船「ふさみ」が待っている。出港は明朝だが、港に着くとその足で船に挨拶に行く。魚市場の前の岸壁に船尾を着けている船の周りには、魚の腐った臭い、ディーゼルエンジンの油の臭い、船のペンキの臭い、全部を混ぜ合わせて、網の臭いと潮の臭いを加えた漁船の臭いがする。この臭いをかぐと、なんとなく食道にこみ上げてくる。
少年の日、青い海原にあこがれた時、誰もこの臭いのことを教えてくれなかった。高校生のころ、12フィートのディンギー(小さいヨット)を乗り回したが、船酔いはしなかった。さわやかな潮風の香だけを感じた。
大学に入ってから、海洋観測実習で船酔いとの付き合いが始まった。海原に船を停止させ、定点観測をする。生徒に船酔いの洗礼を与えるためだけの実習にしか思えない。船での食事のあと、交代で食器洗いをするのだが、洗うために前こごみになると胃が圧迫される。それに食べ残しの臭い。たちまちのうちに今食べたものが、洗っている食器の上にぶちまけられる。「お前は洗っているのか汚しているのかわからないなあ」OBのサードオフィサーが笑っている。
定点観測は、24時間船を定点に止めて観測する。止まっている船に揺られるのが一番辛い。観測だから、海に降ろした水温計を引き揚げて細かい目盛りを読む。海はまあまあの凪で、うねりでゆるやかに船が揺られているだけだが、走っている船よりも停まっている船の方が酔う。吐くものがなくなって苦しいくらい吐いた。
海、海原という言葉からの連想が「船酔い」になった。
海辺育ちの同級生はみんな船酔いする。船酔いのことを知っているからだ。山の中育ちは意外に酔わない。船酔いを知らないからだ。
都会育ち、江戸っ子の真骨頂は「負け惜しみ」だ。船酔いに苦しみながら海からはなれられない者こそが海を愛する男なのだ。と負け惜しみで自分を納得させる。
大好きな海洋冒険小説家、アリステア・マックリーンの描く北海は、厚いデッキコートの上にさらにダッフルコートを着ても、骨の芯までしみとおる寒さを描いている。鉛色の大波を感じさせるが、船酔いを描いていない。アリステア・マックリーンは、船酔いしない体質だったのだろう。スコット・フォレスターのフォンブロアーシリーズも全部読んだ。主人公のフォンブロアーは、生涯を帆船の上で過ごし、英国がフランスと戦っていた帆船時代のアドミラルに登りつめるヒーローなのに船酔いをする。親しみを感じた。
朝早くの出港だから、民宿に泊まる。
6時のテレビ予報を見ながら民宿の朝食を食べる。コアジの干物、味付け海苔、生卵、ワカメのミソ汁、どれも胃から逆戻りする時の味が思い浮かぶ。干物のわきに付け合わされている昆布の佃煮をご飯の上に乗せて、お茶をかけて流し込む。
不連続線のちょっとした動きが出港できるかどうかを左右する。船酔い状況にも影響する。
洋上では寒冷前線が温暖前線を追いかけている。調査船が75トンの「ふさみ」でなく、28トンの「第二ふさみ」だったら、今日は沖には出ないはずだ。「ふさみ」は船幅が広く、船底が丸い。波に強い船だが、ころころと横揺れする。船酔いしやすい船型だ。波に強くて、船酔いしやすい船、最悪だ。
目的地の九十九里沖までは、3時間かかる。九十九里は遠浅で、岸の建物が見えなくなるくらいまで沖に出ても、まだ水深は25mぐらいだ。ヒラメを漁獲対象にした大型の魚礁が設置されている。それが潜水の目標だ。
やはり、少し時化ているけれど出ることになった。この「ふさみ」には収入予算というのがある。試験船だが、調査操業で獲った魚を売った収入を毎年の予算に入れ込んで、運航費、人件費の足しにしている。たくさん獲れると船員にボーナスが出る。船員たちは、漁をしない調査よりも、漁をする調査操業を好む。当然の話だ。
魚礁の調査をやっている間は魚を獲ることができない。魚礁調査は、早く終わらせて、魚を獲りたい。だからとにかく出港だ。
船にあるだけの漫画週刊誌をかき集めて、二段ベッドの上段に潜り込む。船員の誰かが寝ているベッドだ。左側を下にして、身体を少し曲げて、一番楽なショック体位で横になって、身体に出来るだけ負担をかけないようにする。しめった毛布にくるまって漫画週刊誌を眺めながら揺れに身をあずける。おそらくは、風速10~15m、風の波と北に上がっていった低気圧の残して行ったうねりが混ざっている。
重ねた漫画週刊誌の山が半分ほどになった時、やっと浅く眠ることができた。眠りながらも、船の上下動で波の高さを瞼の裏に描き出している。
エンジンの音が急に低くなって、船のゆれのピッチが変わる。時計を見ると11時に近い。目的地到着だ。ベッドから這い降りてブリッジに登る。魚探(魚群探知機)と電波測距機で調査目標である人工魚礁を確認しなければならない。
九十九里は、陸地から遠いので、陸地の目標、山を見通すことが出来ない。電波測距機だけしか手段が無い。
電波測距機は、陸地にA局、B局、二箇所に電波を発射する器材を据えて、A局と船、B局と船の距離を電波で測定し、二つの線の交点で船の位置を特定する。今ならば、GPSで簡単に位置をだせるが、その当時(1973年ごろ)は山立てか、電波的な山立てともいえるこの測距で決めるしかなかった。洋上での船の位置の測定には、ロランとデッカがある。地域によって、ロランが使えるところと、デッカが使えるところがある。これも、原理として電波測距であり、恒久的な電波ステーションであるロラン局が発信している電波をとらえて位置をだす。ロランは、精度が低い。100m以上の誤差がある。広い洋上での100mは、海図の上では鉛筆の点だが、100m以上の誤差では、人工魚礁を探すことができない。より精度の高い、電波測距機を使う。この電波測距機ならば、誤差が20m程度、ダイバーが捜索できる範囲にブイを入れられる。
いつか悲しいことがあった。その日は天気が良く、波も無く、絶好の潜水日和だった。A局、B局は、水産試験場の職員が器材を所定の位置に据えて電波を出すのだが、「A局の電波が出ません。故障らしいです。」無線通話が入ってくる。これでその日はもう終了だ。また別の日となる。もしかしたら、次のシーズンになってしまうこともある。
魚探は魚の群れを見つけようとするソナーだが、海底の深さを測ることによって、海底の起伏も見ることができる。測深した深さを湿式記録紙の上に連続的に描くと魚礁の形が現れる。(これも現在はカラーモニターで見ることができる。)
高さ7mの大型のジャンボ魚礁の上を船が通過すると、高さ7mm程度のピラミッド型のパターンが記録紙の上に描かれる。
ゆれるブリッジで記録紙の上を上下する針を見ていると、少しづつ気分が悪くなってくる。しかし、長い船酔いとの付き合いで、船酔いをしながらしかも仕事を確実にやり遂げるノウハウを身につけている。それは、如何に吐くかである。たくさん食べ過ぎると、吐くときに胃の中から大量に吹き上げるので、人前に汚物を広げてしまうことになる。食べないと吐くものがないので、おさまらない。吐くという動作で気分を一転させ船酔いを軽減させるためには食べる量が適切でないといけない。吐いてしまえばたいていの場合気分爽快になるが、吐いた後に後味の悪いものを食べると効果は半減する。僕の場合は麺類が良いが、宿の朝食に麺類は望めない。次善のものとしてお茶漬けにしている。
酔い止めの薬はかなり効果があるが、連用すると胃腸や肝臓を痛めるというので、控えている。潜水のために船酔いの薬は良くないと、医者は言うが、その医者は船に強いにちがいない。
船酔いはなれることができる。一つの船に一週間以上乗り続ければ、船の食事をおいしいと思って食べられるようになる。船が変わってしまったり、船から下りて一ヶ月ほどすれば元に戻ってしまう。人工魚礁調査で乗る船は変化に富んでいて、しかも、乗る期間はだいたいの場合は一日だけだ。船に慣れるほど乗っていないから何時でも船酔いする。
むかつく胃をなだめながらウエットスーツを着る。一度吐いたぐらいでは今日の波では吐き気はおさまらない。波高は2m以上あって、船は左右に揺れる。70トンもあるのに本当によく揺れる船だ。
魚礁の位置に投げ込まれた浮標のロープの長さ、魚礁と浮標の方位関係を再度確認する。舷側に立って船が浮標に接近するのを待つ。漁をたくさんやる船だから、こういう操船は上手だ。浮標との距離5m、片手を上げて船長に合図を送ると飛び込んだ。浮標につかまってバディが来るのを待つ。他の調査に出払ってしまっていて、うちのダイバーは誰も居ないので、後藤道夫の弟子で、真鶴でダイビングサービスを営んでいる志村嘉則君をたのんで、一緒に車に乗ってきた。減圧停止をしなくても、減圧症になりにくいダイバーで、本当に良い男だったが、後年、ただひたすら酒を飲んで死んでしまった。あれだけ飲んだら死んでも当然と誰もが思うから、悲しんだりする仲間はいなかった。誰にでも好かれる本当に良い男だったから、参列者が多い。真鶴の小さな集会場でお通夜をやったから、多人数がお経を聞くために座るスペースなどない。そのまま通過するご焼香で流れて、お清めになり、直ちに食べたり飲んだりだ。ご焼香の通過に5分、1時間以上盛り上がった。男の葬式はこうありたい。
彼の役割はサポートだ。2人がそろうと、急降下に移る。
目指すのは、周囲8m、高さが7mの大型の魚礁だ。このあたりの海底は、粘土質で平坦だ。波で砂が舞い上がることがないので、10m以上の見通しがある。
魚礁の中には、15cmくらいのイシダイの群れ、ウマヅラハギの群れが入っている。魚礁の目的は、ヒラメだ。
ヒラメは魚礁の周辺部の海底に張り付いている。前回の調査の時には、魚礁の中の底に80センチほどの大型のヒラメがいたが、原則として、魚礁の周囲にいる。
魚礁が壊れていないことを確認しながら、魚の撮影をする。魚礁は4基入っている。次々と見て行く。時間が足りなくて、4基全部は見られなかったが、浮上する。魚礁を設置すると、設計どおりに設置されているか、海底で転倒などしていないか、確認のために必ず潜水調査をする。もちろん、目的としている魚が見つかれば、めでたい。その写真を撮る。が、めでたいと言うくらいの確率である。魚が来ているかどうかの確認は、釣りをした方が直接的である。
日本は、沿岸の海底に魚を集める万里の長城(人工魚礁)を築いているのだが、海底にあり、人の目に触れないから、この長城は、わからない。1970年代から1990年代が、長城を築く最盛期であった。
水面に浮上して、浮標につかまり、船に合図をする。船が接近してくるが、潜り始めたときよりもさらに波が高くなっているように見える。
僕たちを収容するために舷側のゲートが外してある。波がデッキを洗っている。この船の良いところは、甲板の位置が低いことだ。それでも、水面すれすれからダイバーの眼で見上げると、二階から船が落ちてくるように見える。落ちて来た時にデッキに流れ込む波と一緒に跳ね上がり、タンクを背負ったまま、甲板にすっくと立った。ダイビングで一番怪我をしやすいのは、船に上がる時、岸に戻る時だ。今ならばこんな危ないことはやらないし、できもしない。まだ若かったから、こんなことが出来た。
タンクを外し、ウエットスーツを脱いだら、どっと船酔いがやって来た。ゆれる水平線と盛り上がる波を見おろして吐いた。鼻がつまって眼から涙がポロポロとこぼれる。小雨交じりの風が、波のしぶきと一緒になって顔と裸の上半身に吹き付ける。良い気持だ。船酔いはするけれど、寒さには強い。海から上がって10分ぐらいは体が火照っていて、寒くない。船の人は、房州の船乗りだから口は悪いけれどみんな親切にしてくれる。私の船酔いを馬鹿にする人もいない。笑って見ていてくれる。あの大波と一緒にデッキに跳ね上がるところを見せるのは、馬鹿にされないためだ。バケツにきれいな水と、大鍋に沸かしたお湯を持ってきてくれる。バケツから水を飲んでうがいする。お湯と水を混ぜて頭からかぶる。潜水した体の火照りが消えないうちに身体を拭いて厚いセーターとデッキコートに身を包む。
潜水する前には、気難しく私を拒んでいるように見えた海が、潜り終えた今は、こちらを向いて笑いかけているようだ。潜った後は、いつでも気分がいい。
ハードルの選手にとってハードルがあたりまえのものであるように、僕にとって船酔いはあたりまえのものだった。
スガ・マリン・メカニックの人工魚礁調査の中心は、千葉県、茨城県、福島県で、千葉では「ふさみ」、茨城県では「ときわ」福島県で「拓水」に乗る。
書いてきた千葉県の「ふさみ」の時から何年かあとだった。
ある日、茨城県の「ときわ」に乗っている時のことだ。二つ玉低気圧が走りぬけ、大陸の高気圧が張りだして、今年で始めての強力な冬型の気圧配置になり、北北西の風が海上では風速12m、船は船酔いに充分なピッチングとローリングを繰り返している。ところがどうしたことだろう。船に乗って、潜水を終了するまで船酔いをしなかったのだ。
潜水を終えて、うすいインスタントコーヒーに砂糖とクリームをたくさん入れて、舷側に寄りかかっていると、船の上下動が気持ち良いものに感じられる。
すっかりうれしくなって、船長と食べ物のはなしをはじめる始末だ。「ときわ」の戸羽船長は、豪快な酒飲みで、50トンの船を信じられないほど岸近くまで寄せて潜水させてくれる。次の調査の時にはもう「あんこう鍋」がおいしくなっている。今度は北茨城の大津港に入港して「あんこう鍋」を作ろうなどとうれしい話をした。
しかし、つかの間の幸せで、次にこの船に乗るときは、海はもっとひどく酔わせるのかもしれない。それでも良い。人生だって幸せを感じる時はほんの一瞬だ。船に弱いからこそ、海がほんのちょっと、とけこむ表情を見せる時に、きわだって嬉しさを感じるのだろう。
ある日、「ときわ」に乗る予定で、朝、出発しようとしていると電話が鳴り、戸羽船長が死んだと言う。昨夜、少したくさん飲んで寝たら、朝起きなかったそうだ。豪快な酒飲みは長生きしない。豪快に死ぬ。幸せだと思う。僕は酒を飲まないで長生きしている。しかし、何も考えずに酒を飲み、死んだ方が良かったかな、と、このごろしばしば思う。
苦労を重ねても、ダイバーが魚礁を観察している時間はほんの数分だけだ。磯に定着している魚、魚礁に住み着いている魚も、どこかに出かけていれば、魚を見ることが出来ない。広い海を泳ぎ回っている回遊性の魚では、タイミングが良く、ラッキーな時だけ、通り過ぎ、寄り道をして、魚礁に立ち寄った魚を見ることができる。
魚礁の調査は、潜って魚を見ること、そのふるまいを観察すること、そして、その証拠として撮影してくることだ。証拠がなければ、どんな嘘でもつける。釣り師のほら話と同じだ。
スチルカメラが今も昔も撮影調査の中心だ。最初の人工魚礁調査で、死にかけて以来、水中ではスチルカメラは手放したことがない。侍の刀のようなもので、カメラを持っていないと潜水できない。
8ミリ映画カメラも使った。やがて小型で誰でも使えるテレビカメラが世に現れ、さっそく水中ハウジングを作って、水中に持ち込んだ。
魚を観察するために、テレビカメラを魚礁の中に据えつけて長時間の観察撮影をしようとした。
今ではVTRとカメラは一つになっているが、1970年代にはカメラとVTRは別々であった。VTRもハウジングを作り、カメラのハウジングと一緒に水中に持ち込むことにした。
これとは別に、テレビカメラを吊り下ろして曳航する方法もやり、次には、スクリューで走らせる自走式のカメラも試作した。
日本海海戦で沈んだロシアの巡洋戦艦ナヒモフ号の金塊引き上げのための飽和潜水作業に協力していた縁で、自走式カメラを作るお金を出してもらった。1年間の苦労の末出来上がったカメラを、ナヒモフ号の現場で水深90mの海底に沈めて、テストをした。走ることは走った。しかし、走らせるモーターの力が弱く、少しの流れでも押し流されてしまって前に進まない。僕の作った自走式カメラは、「役立たずのポチ」号と呼ばれて短い生涯を終えた。
とにかく、海のことがわかるためには、船に乗り組み、海に出なければだめだ。現場第一主義、調査の虫にならなければいけない。机に座っている人には海のことは、半分しかわからないだろう。
2008年現在、73歳の今でも人工魚礁の調査で潜っている。もう、タンクを背負ってすっくと立つことはできない。タンクを背負わせてもらって、海に落ちる。重力の無い水中では、自由自在に動ける。水面でタンクを外し、ウエイトを外して、引き上げてもらう。それでも自分の身体は、フィンで蹴って船によじ登ることができる。
※これを書いた時が73歳、書かれた時点は30歳代のころだ、今は85歳、水中でもよぼよぼしているけど、館山で人工魚礁に潜っている。今では、タンクを脱いで、引き揚げてもらって、空身にならなければ、船に上がれない。
※ ポチのことを書いたので少し付け加える。
ポチの話も機会があれば、別にしたいのだが、
ナヒモフ豪の金塊引き上げに活躍しなかったポチ
ポチから数年後、購入した日立造船のROV、日本の本格的ROVとしては、草分けである。そして、今もなお、富戸の大西君のところにあり、彼がメンテナンスと改造をして、沼津の内浦湾の海底居住の遺跡?の撮影などで、動いているおそらく、世界最長寿のROVである。今度は、伊東沖の海底噴火の跡をさつえいするとか、この話では、その海底噴火口に潜水した潮美が講演とかしている。
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0422 リサーチ・ダイビング 番外の1
http://jsuga.exblog.jp/30017183/
2020-04-22T12:25:00+09:00
2020-04-22T12:43:34+09:00
2020-04-22T12:25:34+09:00
j-suga1
リサーチ・ダイビング
4-4 ナン・マタールの呪い
日本に帰ってきて、まじめに社長さんをやりはじめた。営業努力をするということだ。日本テレビの山中康男プロデューサーのチームでテレビ番組の水中撮影をすることになり、まず、第一作は、日本一周の海底紀行だった。カメラマンをやりたかったが、社長さんをやることにして、カメラは新井拓と河合君にやらせることにした。第二作は、バハ・カリフォルニアでの鯨の撮影だった。これも我慢して、新井と河合にやらせた。
※印は今書き足して、わき道にそれいる部分、書き足しの方が長くなったしまうこともあると思うけど、それはそれでおもしろい構成かもしれない。
日本に帰ってきてというのは、短い時間だったが、サウジアラビアに行ってきた。名古屋に日本シビルダイビングという新興拡大を続けている潜水会社があり、日本アクアラングの名古屋支店長だった石黒さんの紹介で、知り合い、ジョイントするようになる。シビルが、本四架橋工事の延引で倒産するまで、波瀾万丈の冒険だった。そう、社長は大畠さんだった。潜水を全くやらない人で、完璧に事業としてとらえて、業績を伸ばしていた。
零細企業としての潜水業は、本当に冒険そのものなのだ。そんな会社の興亡を書いたら、冒険小説になる。自分のスガ・マリン・メカニックもそうだけど。
その大畠さんから、サウジアラビアで、オイルのパイプライン敷設の潜水工事会社をやっているので、そのマネージャをやらないかという誘いがあった。
僕は、一応社長なので、海外にいったままになるのは、困るというと、日本の会社はナンバー2にまかせて、須賀さんはサウジで稼いで会社に日送りすれば、会社の業績もあがる。現時点でのスガ・マリン・メカニックの利益部分くらいの給与は払うという。当時のスガ・マリン・メカニックの売り上げは、月別で300万くらいが、採算分岐点で、日本の税制の下で、利益はほぼゼロに近い。給料を払って生き延びているだけの形だ。利益を上げればその40%は税金で持って行かれる。税金を払う金は手元にない。借金して税金を払い、ボーナスをはらう状態だ。サウジに逃げて、毎月100万も日送りして、帳簿だけ見て文句を言っていれば良いならば悪くない。そのころ、1970年代、世界のダイビング業界はオイルで潤っていた。日本でも金回りの良いのはオイルダイバーだった。
現地視察に大畠社長といっしょに行った。
驚き、以上だった。相手先の会社は、社長はベドウィンの王族の連枝、それでなければオイルに関連する事業の経営者にはなれないのだ。経理担当は、同じくアラビア人、営業はパキスタン人、アメリカ人はロイヤーで、アラムコとの連絡担当、日本人は現場監督とダイバーで、下働きの労務者は韓国人、国別、民族別に得手を担当して、ペルシャ湾海底の送油管の敷設、メンテナンス仕事が進行している。
新しい作業展開のミーテイング、といっても、仕事はすでに走っていて社長の表敬訪問だけだった。
一応の会議が行われ、アラビア人社長の邸に招待された。大広間にテーブルがあり、豪華で、とても食べきれない料理が、どっとでている。料理はタイ人が仕切っているとか。全部食べるものではないと隣に座る社長に言われる。行儀よく欲しいだけ食べる。
食事が終わると、大広間には分厚い絨毯が敷かれていて、円座のようなものに座る。それぞれが定められた座につくと、大きなステレオがバックミュージックを流しはじめる。と、食事をしたテーブルとこちら側、コの字型に壁を背に座っているのだが、テーブルとの間にするするとカーテンが降りてくる。女人たちの食事が始まるのだ。奥さんが4人までいるわけだから、その子供たちと騒がしい声が聞こえてくる。
こちら側、サウジは禁酒の国だと言うが、酒はどんどん出てくる。ここは治外法権なのだ。しかし、酔って表にでたら、たちまち宗教警察に捕まると注意された。僕は基本的に酒飲みではないので問題ないが。
これは、1970年代の後半、今から40年前、そしてその後に湾岸戦争があり、その取材には女性である潮美がレポーターで行ったりしているから、状況がどんな風に変わっているのかわからないが、対女性については、本当に驚かされた。顔を見せないのだ。絶対に。空港でフルメイクした女性にすれ違う。濃いアイシャドウ、目だけ出している薄いベールを透かして深紅の唇が見える。美人に見える。アラは見えない。そうなんだ。美の演出。
カルチャーショックをあげていると際限もないが、ここで自分は何をするのだ。日本側の総括責任者になってもらいたいということだった。ダイバーであって、経営者でもある。そこそこの実績があり、誠実度で信頼できる。僕が大畠さんを裏切って、商売を転回させることなどない。よく言えば誠実、悪く言えば度胸がない。日本での仕事で失敗していれば、スカウトしない。低空飛行だが維持している。これから上昇しそうだ。
大変魅力的な提案だったが、踏み切れなかった。サウジで成功できるなら、日本で自分の会社で成功させることの方が容易に見えた。経営者として再出発する気持ちで日本に帰ってきた。
ぼくがお断りしたので、このポジションは、商社マン、トーメンの課長クラスをスカウトしてきた。僕よりもはるかにやり手の人で、英語はペラペラだった。ダイビングは全く知らない。僕と、どちらがよかったのだろう。やがて、国際情勢でサウジは撤退し、その時ダイバー作業の責任者だった荒川さんという方が後に日本シビル倒産の後、ダイバーセクションを整理引き継いで、神戸で成功されている。
サウジでは、その間、通訳として日本から連れて行った若者夫妻、奥さんは現地宿舎のハウスキーパーをされていたのだが、その奥さんが、喉を掻き切られて殺されるという悲劇が起こる。これも、サウジ撤退の一因になったのかもしれない。
※印、長々と脱線してしまったが、スガ・マリン・メカニックのことを書いて行くにあたって、日本シビルダイビングは、ポイントであり、これまでその視点から書いたことはなかったので。
そして、振り返ってみると、僕は、ある時代、ある期間、誰かと密着して事をしていて、その誰か、がとても大事な自分の人生の区切りになっている。
日本テレビ スペシャル番組での水中第三作は、ポナペ(現在の呼称はポンペイ)のナンマタール遺跡(ナンマドールとも言う)の撮影をやることになった。
ところが、カメラマンの新井拓はなぜかプロデューサーの山中康男さんとの打ち合わせをすっぽかした。
新井拓
スガ・マリン・メカニック創立以来、7年間苦楽をともにしていた高橋実が去り、一人になってしまったところに専属フリーで手伝いにきてくれたのが新井拓だった。大崎映晋の弟子で、東洋ビデオという撮影会社に一応の席を置いて、海底居住シートピア計画の機材係りに出向していたが、忙しくはなく、遊んでいるみたいだった。奥さんのK子ちゃんは館山の大きな葬儀屋の娘で美人、拓ちゃんを放し飼いにしていた。
拓は、片岡義男の小説のようなふるまいで、単車を乗り回し、波乗りの代わりにダイビングをして、東京水産大学、僕の母校だが、その女子学生をくどいて、死ぬの生きるのともめていた。ちょっと撮影をてつだってもらって、意気投合して、高橋がぬけた穴を埋めてくれた。その拓が撮影の打ち合わせをシカトした。
カメラマンはプロデューサーを絶対に立てるというのが、営業努力をする社長としての考え方だったから、彼をこの仕事から降ろした。代わりに河合をメインの水中カメラマンとした。ところが、出発の前、河合君の母親が亡くなってしまった。病が重くても、まだ生きていれば、この仕事は親の死に目には逢えないのが普通とか言って送り出してしまうが、亡くなってしまったら、そんなことは言えない。急死だった。
ナンマタールの石造の神殿遺跡の前の海には、なにかわからないが不思議なものがあり、それを見ようとしたものには呪いがかかる。そこで泳いで、水中を見たドイツ人(ポナペはドイツ信託統治のの時代がある)瘧(おこり)のような状態になり、死んだともいう。新井のすっぽかしも、河合君の母の死も異常なことだ。ナンマタールの呪いだろうか。
急遽、自分がピンチヒッターとして出かけることになった。鶴町をサブカメラマンとしてつれて行く。
もともと、僕は学生時代から映画撮影の助手の仕事はしていたし、シネのフィルムもまわしている。カメラマンとしては新井拓よりは上のつもりではあった。ただ、まじめに社長さんをやろうと決めて、我慢していただけなのだ。
現地には、北海道知床・斜里の定置網漁業の潜水士たち(佐藤雅弘、相内栄巧、木村耕一郎、染谷久雄 )が、潜水の助手として同行した。山中康男プロデューサーが日本一周水中撮影のロケをした際、知床の水中撮影で懇意になった若い漁師たちである。
その頃のテレビのロケ、とりわけ山中組のロケは極楽だった。単なる友人である斜里の若い漁師を四人も、水中撮影のケーブルさばきの名目でポナペ島まで引き連れてゆかれる。
しかし、容赦なくナンマタールの呪いは私たちに降りかかってきた。グアムを出発したコンチネンタル・ミクロネシア航空は、トラック(チューク)、ポナペ(ポンペイ)、マジュロ、コスラエを回ってホノルルに行く。その後も何度となくひどい目にあう恐怖のコンチネンタル・ミクロネシアだが、この時は水中撮影器材を降ろすことなく、ホノルルに向かって飛び立ってしまった。この飛行機がホノルルから戻ってくるまで、三日間遊ぶことになる。
水没したベルハウエル、今も水没した時のままの状態で、富戸の大西のところ(スガマリン博物館か?)にある。
機材が来て、撮影を開始した。からだならしに、海底のドロップオフ(崖)で、鮫の撮影をしている時、サブのカメラとして持ってきていたベルハウエルのフィルムカメラを水没させてしまった。ナン・マタールの水中神殿は鮫に守られているという言い伝えもあるので、サメの映像が欲しかったのだが、事実上、サメにカメラを水没させられてしまうことになった。これも、呪いのせいで、カメラを使っていた鶴町は悪くない、ということにした。
※鶴町とは、今、波左間海中公園支援クラウドファンデイングを推進している turumati の亡きパートナーである。この写真、出して良いかどうか迷ったけれど、どこにでも、顔を出す人がけど、自分からはこの写真だせないだろう。美人だから、いいだろう。
水中神殿に潜らせてもらう交渉はとても大変だった。交渉はプロデューサーの役目であり、カメラマンは静観している他ないのだが、ナンマタールを司る酋長は、日本にも来たことがある日本通である。そして、ここポナペも日本の委任統治領であったから、日本語教育を受けている。日本語は話せる。あなたたち日本人は、僕たちがポナペ人が日本に行き、伊勢神宮の神殿の中を見たいといったら見せてくれますか。」などと正論じみたことを言う一方、川崎堀の内のトルコは良かったなどと下世話な話もできる。
言うまでもなく、山中さんは、ロケハンにポナペに行って調べ上げており、ロケの台本は分厚く、ムー大陸のガイドブックのようになっている。
潜ることも交渉済みなのだが、もったいをつける儀式のようなものだ。その間ぼくらは遊んでいる。
なんだかんだ、結局札束の効果で、ついに許可が出て、大型カタマランのボートに船外機を2基着けてナンマタールに向かった。往路は潮が満ちていたのでリーフの内側を走った。そして鮫が守っていると伝えられるナンマタールの水中神殿に潜り、帰途についた。潮が引いてしまったので、リーフの内側は通れない。潮が満ちてくるのを待ったら暗くなってしまって、リーフの中も外も通れなくなる。キャンプをする用意はしていない。リーフの外側に出て、島を半周して再びリーフの中に入ってくるコースを予定していた。
途中、大型のエイが次々とジャンプする光景に出会った。これまで見たことがないようなシーンだったが、しぶきをかぶるといけないのでカメラは防水して格納してしまっていた。そのころのENGカメラは、カメラとVTR部分は別々だから、とっさに出すわけにはいかない。そのために、サブのフィルムカメラを持って行ったのだが、水没させてしまっているので、これを撮影することは出来ない。
そしてその時、ナン・マタールの呪いで、エンジン1基が止まってしまい、片肺で走ることになった。島を周って行くにつれて、うねりが大きくなってくる。もしも残ったもう一基が停まってしまったら遭難する。ボートには無線など積んでいない。無線があったとしても、連絡を受けてすぐに救助に出てくる船はない。今の話ではない。ポナペには、ダイビングサービスなどまだできていない1979年のことだ。(タンクは公立の研究所で借りている)
ポナペはムウ大陸の沈下で山の頂上が海面に残ったところである。(信じるか信じないかは別として)だから神殿の遺跡があるのだという。石造りの神殿のつくられた年代はムウ大陸とはまるで合致しないが、とにかく、住民はムウ大陸の生き残りの子孫で(これも信じるか信じないかは別として)侍階級である。専制政治が行われないところには遺跡は残らない。侍階級、士族は魚を獲るなどという下賎な労働はしない。ポナペは海洋島なのに、住民は海洋民族ではないのだ。やはりムウ大陸は本当にあり、次第に沈降してこの島だけが残ったのか。漁業は遠く離れたカピンガマランギ環礁から来た人たちがやっているだけだ。カピンガマランギという部落があり、漁業者は、そこに暮らしている。だから漁業は盛んではなく、カヌーのような舟で沖にでている。無線を積んだ漁船が沖に出ていることも無い。もしも残ったエンジンが止まって漂流したら、捜索してもらえる希望はない。要するに簡単に助かる方法は無い。北国オホーツクの凍るような荒波で鍛えられた半端ではない漁師たちも「あの時はやばかった。覚悟した。」と語っていた。
なんとかリーフの入り口までは来た。水路は、前が見えないほどのうねりだ。とにかく突っ込む他は無い。波に乗ってしまったらエンジン一基では舵が利かない。思わずネンブツを唱える一瞬があり、リーフの中に入ることができた。
ところで、ナンマタールの水中には何があったのか。光り輝く黄金の柱があった。神殿の柱か、海に面した桟橋の杭か、人工物としか思えない石の柱があり、黄色の海綿が一面に着いている。水面から差し込む光の加減で、黄金に光って見える。撮りようによっては、黄金の神殿の柱に見えなくも無い。何なのか謎である。
奇妙はキノコのような、岩、これが育って柱になる。まさか
ナンマタールの呪いはまだ続く。テレビの良き時代に巨費をかけて製作したこの番組は、スペシャル番組枠では放送されなくなってしまった。山中プロデューサーは人間関係の争いに巻き込まれたのだと言うが、とにかく、一年以上お倉に入った後に、ランクの下がった日曜の午後にひっそりと放送された。誰も見た人は無いくらいの視聴率だった。当時、僕が撮った水中は、好視聴率を誇っていたから、呪いだろう。
そしてまだ呪いは続く。僕は黄金の柱のスチル写真を撮影した。そのころまだ世界でだれも見たことの無いナンマタールの海底だ。大事なものだからと山中プロデューサーに念をおして預けた。1年後、超自然現象などを扱った雑誌、「オムニ」が僕のところに取材に来た。写真があれば高く買うという。かなりの値段だったから、さっそく山中プロデューサーに電話をした。数日後に山中プロデューサーから返事が返って来た。大事にしまいすぎて紛失したという。ポナペの守護神は、黄金の柱の映像が世に出るのをくいとめようとしている。
その後、ずいぶんたってから、全日本潜水連盟の副理事長をやってもらっていた親しい友人の鉄さん(清水で鉄組という潜水会社をやっている実力者)が、息子と一緒にナンマタールの撮影をするという。呪いがあるからやめなさいと忠告した。もちろんそんな忠告でやめるような人ではない。撮影して、世界で初の映像ということで放送された。私たちの番組があまりにも視聴率が悪い時間帯だったので、後からの撮影が世界初になった。
きっと何かの呪いがふりかかっているに違いない。この撮影のADが行方不明になったと言ううわさもある。
※鉄さん親子にはナン・マタールの呪いはプラスに働き、鉄さんは、日本潜水協会(港湾土木作業の元締め的協会)の理事長になり、国から勲章をもらった。息子の鉄君は、卒業した母校、東海大学の準教授になっていて、ダイビング業界で次代を背負うスターになりつつある。
しかし、鉄さん親子が、その後ナン・マタールの水中のことを口に出されたことはない。
ナン・マタールから帰った後、僕はすっかりカメラマンに変身し、社長業は放り出した。その後の山中組のすべてのロケには、カメラマンとして参加し、以後、およそ20年、ビデオのカメラマンとして水中撮影を続けることになる。社長業を放り出したおかげで、普通、会社というものは、30年続けばビルが建つか倒産するかどちらかだと言うが、創業40年のスガ・マリンメカニックはビルも立たず、僕は、65歳で胃ガンになり、これでもう終わりかと引退して、一人で水中調査の仕事を楽しく続けながら野垂れ死にへの道を歩んでいる。これもナン・マタールの呪いだろうか。
※これを書いていた2008年頃には、引退した後の水中調査は鶴町と組んでやっていたが、鶴町はスキルス性のガンで倒れ、一度は復帰して、こいつは、不死身かと思われ、一緒に潜っていたが、2010年日本水中科学協会を一緒に立ち上げようとしているときに再度倒れ、逝ってしまった。
本当のことを言うと、ナンマタールの呪いとは、人間だと思う。タブーを冒した者は、ポナペの侍に拉致されたり、殺されたりしたのだろう。
しかし、それとは別に、人が生きているということは、蜘蛛の巣のような運、不運の絡められていて、それを呪いと呼ぶのかもしれない。
それから数十年が経過し、兄貴分の白井祥平先輩を訪ねたとき、先輩がナンマタールに深い縁があり、ナンマタールを司っている第22代酋長サムエル・ハドレイと親交があったことがわかった。白井先輩はナンマタールの呪いの虜になっていて、ずいぶんたくさんの雑誌や新聞にナンマタールのことを書いているのに、弟分の僕がそのことを知らなかった。見ていても見えなかったのだろうか、これも呪いかもしれない。 先輩の書いた420pの大部の本、「呪いの遺跡、ナン=マタールを探る」8500円を買った。すばらしくおもしろい本だけど8500円だ。
ポナペの撮影をやらせてもらった山中プロデューサーとは、その後、知床で、流氷、キタキツネ、摩周湖、原生林の神の子池の発見をやり、海外では、アラスカ、ガラパゴスの撮影、石西礁湖では、三浦洋一さんとともに、大学生だった潮美も参加して、黒島をロケして、このときから河童隊の中川が参加する。そして、これが一番重要なのだが、慶良間の座間味から、民放初の水中レポートにより水中とスタジオを結ぶ同時中継を、須賀潮美も参加しておこなった。すべては、ナンマタールから始まった。呪いではなくて、なにか「縁起」のようなものかもしれない。鉄さん親子のれいもある。呪い、なんかにしないで、縁起にして祀ったら人気がでるのではないだろうか。 右端が潮美、中央はポナペにも行った、知床の佐藤雅弘定置網の経営陣だ。北海道と座間味とスタジオを結んだ三元同時中継
山中さんは僕と潮美がニュース・ステーションに行った後、ヨーロッパの文化を紹介する番組を何本か作られてから、引退した。
そして、その後、奥様と中国を旅していた途中で亡くなられた。糖尿病だったが、幸せな死に方だったと思う。
そして、僕が「ニッポン潜水グラフィティ」を潮美の編集で月刊ダイバーに連載して、このナン・マタールのことを書き、山中さんの奥さんに送らせていただいた。それが到着した日が、山中さんの命日だったという。奥様が感動して仏前に置いてくださった。
そして、山中さんがロケで撮ったいたというスチル写真を全部、僕に送ってくださった。
その写真の中に、あったのだ。僕が撮ったナン・マタールの水中が。
山中さんは僕がオムニにこの写真を出すこと、断りたかったのだ。でも、心優しいから、ダメとは言えず、ナン・マタールの祟りで紛失されたことにしたのだろう。
山中さんは文筆家でもあり、「しるえとく:地の果てるところ」「アラスカ夏物語り」は、朝日ジャーナルのノンフィクション大賞になり、それぞれ、単行本になっている。
「しるえとく」は、知床の話で、ポナペに同行した若者たちが活躍している。50年がたち、若者たちは、それぞれ、実力者になったり、行方不明になったりしている。そして、知床は娘の潮美が流氷の下からの水中レポートでブレイクした。
「アラスカ夏物語」は、アラスカのカトマイ国立公園の羆と自然の話で、僕も出てきて活躍?している。
※アラスカも、しるえとくも、アマゾンで¥1 だった。良き時代、極楽時代のテレビ製作ノンフィクションとして、絶対に面白い。
そうだったのだ!今気づいた。山中さんは、ナン・マタールでノンフィクションを書くつもりだったので、僕がオムニに写真を出すのを止めたかったのだ。そのように、言ってくれれば、よかったのに。申し訳ないことをしてしまった。
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0418 リサーチ・ダイビング (12)
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2020-04-18T13:33:00+09:00
2020-04-20T23:09:02+09:00
2020-04-18T13:33:26+09:00
j-suga1
リサーチ・ダイビング
ブロニカ マリン
スガ・マリンメカニック 3
作ったハウジングの種類は数えていない。記録もしていない。もちろん制作台数の記録も、残っていない。
今から考えると本当にルーズであり、もったいないとも思う。しかし、その時、その時期は生きることに、生き残ることに全力投球で、とうてい記録などできなかった。
それを言えば、今だって生き残りに全力投球だから、ただただ、ルーズだっただけだが、それでも、残っている写真とか、書いたもの、記録を掘り出してこれを書いている。
これも、出版予定のリサーチ・ダイビング では、二行か三行に縮めてしまうけれど、ブログは記録である。1970年代に今と同じくらいに書いていれば苦労はないのだけれど。だから、今、とりあえず役に立たなくても書いておく。
「水中写真の撮影」という単行本を、当時、水産大学の研究生だった小池康之さんと共著でかいた。小池さんは、その後、フランス、ブルターニュでアワビ(ヨーロッパトコブシ)の養殖の研究、指導をされて、成功し、その功績で、フランスの国家功労勲章を最近授与された。
その「水中写真の撮影」の出版が1972年で、これを見ると、島野さんと一緒に作ったハウジングのほとんどすべてが紹介されている。
振り返って、1969年がスガ・マリンメカニックの事実上のはじまりだから、両三年のうちに、よくもこれだけのことを仕上げたものだと、自分で自分に感心してしまう。
最初のブロニカマリン
とにかく、ブロニカが、ハウジングつくりの始めであり、また一区切りの終わりでもあった。う。
そのブロニカだ。創業者がゼンザブロウという人で、趣味でハウジングをつくってビジネスに伸ばしていったとかで、ゼンザ・ブロニカが正式名称だ。ブローニーフィルムで6×6版、一コマの大きさが6cm×6センチ、12枚撮り、レンズは標準で70ミリ、広角で50ミリになる。一眼レフであるが、二眼レフのように、レフファインダーを上からのぞき込む。ボディが立方体なので、ハウジングが作りやすい。水密にするオーリングは、原則として、円筒形の内径シールだから、立方体であれば、円筒の経を小さくすることができる。
ハウジングを作るメーカー、メーカーと言えるほどのものではなかったが、ハウジングを作る人は、競ってブロニカのハウジングを作った。スガ・マリン・メカニック、sea & sea、タテイシブロニカマリン、そして恒木マリン、菅原さんの潜水研究所もブロニカのハウジングを作った。そのころ、まだ、フィッシュアイは、まだ、出てこない。現社長の大村さんは、まだ青山学院の大学生だったはずだ。
中で先進、一番進歩したのは、僕のスガ・マリン・メカニックだったと思う。ブロニカの6X6サイズのレンズの画角は、現在の広角レンズにくらべて、ずいぶんと狭くて、広角の50mm でも、70度だった。それでも、そのままだと、平面のポートで、水中からの入射が屈折するので四隅、周辺部はぼけてしまう。これを補正するために、球面のポートを採用した。今ではこれも当然のことになっているが、計算ではなく(計算ができないから)実験と試行錯誤の繰り返して、独自のドームポートを作り上げた。R!!6型、16回のモデルチェンジで、最終完成に到達した。
そして、スチルのカメラハウジング作り、販売に意欲を失ったのは、カメラ本体、ブロニカがS2型からETR型へのモデルチェンジだった。中に入れるカメラの型が変わってしまえば、ストックしているハウジングは、すべて、新品としては売れなくなってしまうし、モデルチェンジを繰り返されては、やっていられない。それでも、ブロニカは、モデルチェンジがほとんどなく、16型まで、やることができた。
もう一つ、忘れられないカメラ・ハウジングは、アサヒペンタックス の17mm対角線 画角180度レンズを使ったハウジングだ。いまでこそ、画角、170度なんていうのがスタンダードになっているが、1970年ごろには、画角90度が水中でも最も広角で、それでも補正が必要だった。
カメラマンが下手、才能がない(自分のこと)場合、カメラ(機材)の優劣が作品、撮ったものの優劣を決める。機械(メカニズム)をインターフェイスにした場合、出来栄えの90%は、機械が決める。すなわち、水中では、撮影の画角は基本的に広ければ広いほどいい。
この画角180度カメラの注文をしてきたのは、朝日新聞社のカメラマン、工藤五六さんだった。ただでさえ、画角90度でさえ周辺部がボケる、歪むのだから、180度なんて到底無理、と断ったが、なぜか工藤氏は大丈夫やってみよう。ダメでもお金がもらえるのならば、とチャレンジすることにした。工藤さんの分と、自分の分、これはテスト用だが、それともう一台、合計3台の試作をした。島野さんがひとつの天才だと思ったのはこの時だ。これまで、ハウジングの基本は円筒形だったのだが、あえて四角、角型を採用し、角型では内径シールができないので、圧着型として、エキセントリック(異径)の回転で締め付ける留め金を使った。 これで、水は一滴もはいらなかった。そして、驚くことに、四隅の歪みも、新聞社の基準で考えて、合格(使える)水準だった。おそらくは、レンズとポート(窓ガラス)を密着させたために、歪みが少なくなったのだろう。これを持つことによって、工藤さんの朝日新聞カメラマンは、他社では撮れない写真を撮ることができる。報道写真は、マクロではない。被写体に肉迫する。水中では望遠が使えないのだから、広角勝負になる。僕自身も水中の建設現場撮影で、ずいぶんと役に立った。真鶴の岩海岸で、小松の水中ブルトーザの撮影をして、ブルトーザが走り回り、濁った水中で、よく、こんな写真が撮れると感心された。機材が撮ったのだ。
工藤五六さんの写真を見て 旭光学でも、これを売りたいということになり、20台ほど売れた。
、 カメラハウジングとして一番売れたのは、8mmシネカメラ、エルモのハウジングだった。これは、シンプルでコンパクト、8万円で売っていた。量産といっても100台ほどを、20台を5回に分けて作った。僕らの場合、20台がワンロット(一回の生産量)だった。
しかしながら、結局、島野さんが作る数、利益を上げられるだけの台数をスガ・マリン・メカニックは売ることができなかった。ハウジングを作って売るよりも、潜って、ダイビングで調査仕事をしたりして稼いだ方が、資本が寝ない。スガ・マリン・メカニックは、島野さんも資本を出しているのだから、別れはしなかったが、島野さんも自分の販路で、ブロニカなどを売るようになり、一つの製造会社としての態勢は崩壊して行った。
その後、というか、それまでもだが、スガ・マリンメカニックは、人工魚礁など、水産関係の調査とカメラハウジングの販売、そしてレジャーダイビングのクラブを平行して行っていて、自分のやる調査の撮影機器を自作、工夫してやれることを売り物にしていた。たとえば、間歇撮影、今では付属した機構となって、どんなカメラにもついているが、その頃は、自分でタイマーを作らないとできなかった。今では、ぼくはタイマーなどとてもできないが、そのころは、作れた。
そして、時代は16ミリ、8ミリフイルムから、ビデオカメラの時代に移る。ビデオに移る時代から、僕のカメラの作り手は、ダイブウエイズに移行した。島野さんとも別れたわけではなく、作ってもらっていたので、製造の下請けは、2社になった。島野さんも僕、スガ・マリン・メカニック以外のもの作りもやっていた。無理をしない自然な流れで、それぞれが、若干の利益をあげる。
sea & seaの山口さんは、イエローサブという黄色いストロボを出して、これがヒットした。ストロボについては、後藤道夫の後藤アクアディックも「トスマリーン」という小さなストロボを東芝から出した。島野さんと僕は、「シーレヴィン:海の稲妻」という大型ストロボをだしたが、高価だったためかあまりうれなかった。
1980年からは、僕の仕事は水中撮影、ビデオカメラによる撮影が本業のようになり、それ用の大型ビデオカメラハウジングをダイブウエイズで次々と作った。しかし、そのビデオ撮影の始まりも、島野さんから出たものだった。日本テレビが大型の水中テレビカメラを作ったのだが、それを整備するところがない。それを島野さんが引き受けた。そのカメラで水中撮影をする人、ということで、僕のスガ・マリン・メカニックが引き受けた。
日本テレビのロケで、南洋のポナペに行くことになり、社員の河合君がカメラマンをやる予定になっていたのだが、出発の間際になって、彼のお母さんが亡くなってしまい、ピンチヒッターで僕が行くことになり、それがおもしろくて、社長業を放棄して、カメラマンがメインになってしまった。 僕が社長業を事実上やめて、水中撮影にのめりこんだのは、ポナペのナンマタール(遺跡)の呪いのためだ。ナンマタールに潜って水中の聖跡を見たものは呪われるという伝説がある。
以来、スガ・マリンメカニックは社長が潜水をやめさえすれば、伸びるのに、と何度も言われた。自分としては、何とも言えない。結果として、スガ・マリンメカニックは、伸びず、僕も潜水をやめないでいる。
ローリングストーンとは、よく言ったもので、人の一生、仕事なんて、転がる石のようなものだ。
コロナの結果もどうなるかわからない。人類全体で、なにかのタブーに触れたのかもしれない。
ダイブウエイズがつくるようになってからのビデオハウジング
本来は機材メーカーなのだから
僕が使うカメラを作るだけでも手一杯だった。と思う。
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0416 リサーチ・ダイビング(11)
http://jsuga.exblog.jp/30008954/
2020-04-16T18:01:00+09:00
2020-04-17T21:04:21+09:00
2020-04-16T18:01:04+09:00
j-suga1
リサーチ・ダイビング
1965年、海の若大将を撮影した35mmアリフレックス
スガ・マリン・メカニック2
作ったハウジングは、ゼンザ・ブロニカを入れた。
人工魚礁のことを書こうとしたのだが、ハウジングと書いただけで、作ったハウジングに脱線してしまう。コロナの自粛中にリサーチ・ダイビングの原稿仕上げてしまいたいのだが、脱線してしまうと、行くところまで行かないと止まらない。
以下は全部「リサーチ・ダイビング}ではカットのつもり。
前回に触れたのだが、東亜時代、最初に作った1965年、海の若大将の35mmフィルムのアリフレックス。よくもこんなものを作ったと思う。僕は作らせた側で、作ったのは島野徳明さんだ。、
島野さん、僕よりも年上だから、さん付けで呼んでいた。最初に島野さんとであったのは、潜水科学協会の集まりの時だったが、向こうから話しかけてきた。次は、東亜潜水機に訪ねてきた。そのころ、日野自動車でライセンス製作していた、小さなルノーに乗ってきた。当時、川崎の東芝に勤務していたのだが、それはアルバイトのようなもので、機械加工の小さな工場もやっている。レギュレーターの部品、切削加工をしたいという。
さらに横道にそれて、そのころの日本国産レギュレーターについて、触れておこう。クストーの作ったアクアラングは、フランスのスピロテクニクが作っている。クストーは、スピロの技術者であるエミールガニアンに頼んで、試作のレギュレーターを作った。クストーが作ったわけではない。こう言うのがほしいと要求しただけなのだ。もの作りの技術者は、世の中で何が必要なのか、何がほしがられているのか、中には、一人ですべてができる天才もいるが、だいたいが、チームプレーでものはできる。その流れで、アクアラングの製作はスピロ。そのスピロを訪ねていった時の話まで脱線するともとに戻れなくなる。島野さんの話をしているのだ。
スピロは日本の帝国酸素、現在はテイサンと同系列だ。いや、帝国酸素はフランスの会社なのだ。しかし、スピロのレギュレーターを輸入していたのは、日本の貿易商社バルコム交易で、そのルートで日本にスピロのレギュレーターが入ってきていた。まだ、USダイバーは、日本に入ってきていない。
さらにもう一つ、スピロがだしている一段減圧、ダブルホースの「ミストラル」があり、日本の自衛隊はこのミストラルを採用していた。シンプルで故障が無く、故障しても空気が止まることはない。一番好きなレギュレーターだったが、日本の高圧則は、レギュレーターは二段減圧であることと、定めてしまっているので、民間では使えなかった。軍艦の上は治外法権だから、使えたのだが。
日本では、川崎航空がタンクとレギュレーターを作って売っていた。タンクは本格的なアルミタンクで、オレンジ色にきれいに塗装されていた。レギュレータの内部は見ていないが、このころのレギュレーターは、すべてスピロの真似だったから、同じようなものだっただろう。伊東精機という会社もレギュレーターを作っていた。この実物を見たことがない。潜水科学協会の機関誌「どるふぃん」に広告が載っていた。
もうひとつ、菅原久一さんの潜水科学研究所が出していた、無印がある。学生時代、僕はスピロの純正とこの無印を使っていた。使ってみての差は、ほとんど感じられなかった。
左側、スピロテクニックの純正アルミタンクと無印レギュレーター
右側 スピロテクニックの純正レギュレーターと消火器タンク
互い違いになっている
右端のタンクが川崎航空のアルミタンク(船の科学館の展示)
さて、僕は東亜に入社して、僕の前に東亜でスクーバをやっていたのは、菅原久一さんだと知った。いろいろな事情はあったのだろうが、菅原さんと東亜潜水機の間は、断絶状態だった。断絶状態だったが、東亜潜水機が売っているレギュレーターは、菅原さんと同じ無印で、田無の中のさんという方がつくっていた。
,どうも、伊藤精機のレギュレーターもこの人が作っていたらしい。中野さんは、そのころまだ世にでたばかりのスバル360に乗って、東亜潜水機に3台とか4台のできあがったレギュレーターを持ってくる。ほぼ注文生産なのだ。
注文しても、いそがしいらしく、持ってこられないことがあった。田無に催促にいった。工場と言えるようなものはない。才能のある人で、他にも何か、アイデア商品のようなものをつくっている。それでも工作機械など何もないのだ。机とバイス(万力)だけ、あとはスパナーの類と、ドライバーだけだ。
東亜潜水機に入社する前、大学はでたが職のない僕は古石場(なんといま、直ぐ近くで、図書館のとなりあたり)の日本建設機械という大げさな名前の町工場で工員さんを3ヶ月くらいやった。この会社は駐留軍が飛行場とかの建設のために使って、用済みでで捨ててあった建設機械、ブルとーザやクレーンを掘り出してきて、バラバラに分解して、ガソリンで洗い、損耗している部品は、別に作って、組立上げると新品同様につかえるようになる。すなわちスクラップ再生をやっていた。
組み立てる時にマニュアルというものを見る。その機種のマニュアルをコピーして青焼きにしたもので、これで、部品を組み立てる順番をみる。ボルト一本、ナット一個でも、欠落していれば、事故になる。
これで、機械というものは壊れても、バラバラに分解して、壊れている部分を作り直し、新品と交換すれば、元通りに動くようになる。という極意?を得た。
ダイビングのレギュレーターなんて、本当に簡単、一個の弁にしかすぎない。自分で作ろう。
弁構造とは、ノズルとそれを抑える弁、と弁を押しつけるスプリングだ。それにボディ、筐体、ゴムのダイヤフラム、あとは蛇腹管,マウスピース、東亜潜水機は、ゴムの加工もしているし、後は、下請け工場で旋盤切削で部品を作れば良い。簡単な製作図面ぐらいは、描ける。
で、TOA・SCUBAができあがった。参考にしたのは、basic scuba という本で、これが、建設機械工場でいうマニュアルになった。
BASIC SUUBA 1960年
数日前に紹介したハイドロパックの組み立て図
僕の作ったTOA SCUBA マウスピース部分の不環弁が金属製
で、アクアマスターのように浮き上がることが無かった。そして
分解しての清掃が便利
僕が手掛けた、タンク、9リットルダブル
リザーブ圧力を可変することができた。
左、TOA SCUBA 右 アクアマスター 日本アクアラング
弁の部分のテフロンとか、いろいろ苦労もしたし、テスト中に空気が停止して危機一髪もあったけれど、とにかく1年弱で、レギュレーターを作り上げた。
その当時、ものをつくるためには、部品を作ってくれる下請け工場が近くになければできない。東亜潜水機の近くには、いくつかの工場があり、向島あたりが、多かった。優秀な下請けを持っていれば、いいものができる。大田区とか川崎も、もの作りの場であり、小さな下請け工場がたくさんあった。
島野さんは、僕の下請けとして立候補、売り込みに来たのだ。向島の切削工場をやめて、島野さんに切り替えた。島野さんは、川崎という地域でもの作りをする一つの天才であり、その上に、電気のことがよくわかっていた。本当になんでもできた。
その一つが「海の若大将」の大型ハウジングである。
次回はハウジングの話をしよう。
作ったハウジングは、ゼンザ・ブロニカを入れた。
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0411 リサーチ・ダイビング(10)
http://jsuga.exblog.jp/30001336/
2020-04-11T11:52:00+09:00
2020-04-11T14:09:25+09:00
2020-04-11T11:52:47+09:00
j-suga1
リサーチ・ダイビング
摩周湖 1968年 日本で初め摩周湖で水中撮影した。かまえているのは16mmシネ、ベルハウエルDR70 歴史的なカメラだから知っている人は知っている。この時は、日本スキューバ潜水の鈴木博と一緒に潜った。
この時に後に親しくなった知床、網元の佐々木さん斜里モーターの佐野さんら斜里の人たちと知り合った。
摩周湖、アイヌの舞を撮る、このとき、アイヌが、キャデラックに乗って現れたのに仰天した。踊りの前に、この衣装に着替えた。プロなのだ。
この翌年 東亜潜水機を退職してスガ・マリンメカニックを設立、カメラハウジングの製作販売をはじめる。
スガ・マリン・メカニック発足
東亜潜水機の時代もカメラのハウジングを作った。学生時代、撮影が自分の得手だった。アルバイトで、新東宝の撮影、水中撮影の助手をやった。リサーチ・ダイビングもカメラが自分の武器だ。
加山雄三の海の若大将(1965年) 撮影の35mmシネカメラの巨大ハウジングも作った。そのころの16mmシネカメラのスタンダードだったベルハウエル70DRのハウジングも作って、東亜潜水機製造、大沢商会販売で売った。
そのDR70で、日本テレビの番組で、日本初、摩周湖の撮影をした。この撮影で北海道斜里の人たちとの人脈ができた。
東亜潜水機を辞めてもまだダイビングで生計は立てられない。日本潜水会から全日本潜水連盟というダイビング指導団体を作り、これに時間をとられてしまうことが東亜潜水機退職の引き金になったのだが、これが純粋ボランティアだった。純粋ボランティアだったことが日本国産ダイビング指導団体、痛恨の敗走になるのだが、これは置いておき、1970年の時点では全国統一団体になり、僕はそのプロデューサーであったが、収入にはならない。振り返って、本当に愚かだったが、とにかく、これは収入ではなく支出のほうだ。
東亜潜水機を辞めても大恩ある東亜潜水機と同じ商品、手がけていたマスク式フーカーとスクーバのハイブリッドを作ることはできない。これも後から考えれば子会社を作ってもらう途があったのではないかと反省するが、後の祭り。
カメラハウジング作りは、東亜潜水機で、僕が始めたビジネスであり、持って出ても良いだろうと考えた。海の若大将の35mmも、ベルハウエルの16mmも自分が製作図面を描き、旋盤を回し、ヤスリでこすって仕上げたものではない。こういうものを作ってくれと概略の絵を描き、改良点を指示監督して作ったものだ。その作り手が川崎に居た島野徳明で、新しいスガ・マリン・メカニックの発起人にもなってもらって、ハウジング作りを開始した。もう一人、中学時代の友達の友達で、ダイビングショップ(日本スキューバ)を始めた鈴木博も発起人になった。
カバーになる写真がなくて、これはトラック島の沈船だ。話題にしている空光丸は、大波で岸壁に打ち付けられてバラバラになってしまい、機関部だけが海底に鎮座していた。波の力の恐ろしさを思い知った。
空光丸 遺体捜索
ハウジング作りを始めたが売れるわけのものではない。そんなとき、1970年1月30日、太平洋岸に発生した爆弾低気圧が、日本海に発達した低気圧と連携して二つ玉低気圧となり記録的な被害になった。
福島県いわき市小名浜港に嵐を避けて入港していた
1万1千トンの貨物船(木材運搬船)空光丸.は、錨が抜けて岸壁に打ちつけられ、人々が見ている前で沈没し、14名が死亡した。その遺体捜索の仕事が舞い込んだ。
遭難して直ちに捜索も開始されたが、14名が行方不明、何人かが遺体で見つかったが、何人かが見つからない。船は堤防に叩きつけられたのだが、恐ろしいことに11000トンの船がバラバラに粉砕されて、積んでいた原木が流出して、港を埋めて荒れ狂った。これに挟まれて死んだ人もいて、1週間の捜索でまだ見つけられない遺体は堤防のテトラに挟まって居るのではないか。上からは見下ろして捜索したが水中はまだ見ていない。地元の潜水業者はテトラの中には入らない。そこで、僕らのところに来た。僕らといっても潜水するのは鈴木博と僕だけだ。フリーのダイバーをかき集め、日本スキューバのお客でも、セミプロを集めた。島野は、自分は潜らないが人集めと河搬コンプレッサーでの空気充填を担当した。
遺体捜索も、リサーチ・ダイビングである。
腰に命綱を巻き付け結んでテトラの隙間に一つ一つ潜り込んで行く。透明度は1m以下、まるで見えない手探りのところもある。波があれば引き込まれ押し出される。そして2月の福島、小名浜である。水温は6ー8度 まだそのころは5ミリのかぶりウエットスーツだった。死ぬほど寒い。日本スキューバ潜水の鈴木博は、この寒さで、降参して、ドライスーツの開発、販売を決意した。その頃、すでに、シーハントの尾崎君、波左間の荒川さんらが、水密チャックを輸入して、東亜潜水機が製作するGスーツと呼ぶドライスーツを作っていたのだが、それとは別に独自のものを作ろうとした。日本スキューバには、小川君というアイデアマンがいて、水密チャックを使用しないで、水返し(コンスタントボリューム型のところで説明)を薄いスポンジ生地で作り、最小限度に短くして、それを胸の部分でチャックで閉じる格納する。これならば、一人でも着られる。小川式、小川君は退社したので、O式ドライスーツができた。これが成功して、日本スキューバの柱の一つになり、やがて、そのドライスーツ部門が、今の「ゼロ」になる。「ゼロ」の会長は鈴木博の奥さんである。博は残念ながら亡くなった。
結局、テトラの中で遺体は(今はご遺体というが、1970年代は、遺体である)見つけらなかった。その後、港を埋めている材木の下などをロープを横に4人で引っ張るようにのばしながら、見ていくジャックスティと呼ぶ捜索方法をやった。これは、下手が入ると両端が水中で鉢合わせしたりしてめちゃくちゃになる。
ここでの、遺体捜索の中心は、スバルという引っかけ針を鉄の棒に付けて、海底を引き回す方法であり、地元の漁船が総出でこれをやっていた。そのスバルに引っかかって船縁まで上げたが落としてしまった。その場所に舟を止めているから直ぐに上げに来てくれ、と要請が入った。誰と行こうか、大方洋二君がそばにいたので行こうと声をかけた。大方君は、今やカメラマンとして有名人だが、当時は日本スキューバのクラブの中心的一員で駆り出されていたのだ。アルバイトで、良いギャラにもなったが。僕のそばにいたのが不運で、「行こう」というと、顔面蒼白になったが、断れない。
潜ってみたが、舟の直下には居ない。サークルサーチをする事になり、洋ちゃんに芯になってもらって、僕がサークルを描いたけれど居ない。スバルが枯れ枝をかき集め枯れ枝にシャツが巻き込まれて居たものと判明した。
結局ご遺体と出会うことがなく、調査は終わったが、ギャラはしっかりもらうことができて、半年ぐらい、息を継いだ。
※この部分は,出版予定の「リサーチ・ダイビング」では、大幅にカットしなければいけないだろう。おそらくは、全部カット? リサーチ・ダイビングに直接関わる比重が小さい。しかし、書いて、後から、カットする方向で書いていく。せっかく書いたのだから、情報にはなっているので、ブログには順に出していく。
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0404 リサーチ・ダイビング(8)卒業
http://jsuga.exblog.jp/29991722/
2020-04-04T18:37:00+09:00
2020-04-04T19:09:40+09:00
2020-04-04T18:37:58+09:00
j-suga1
リサーチ・ダイビング
大学の4年間でその後の自分のリサーチ・ダイビングで重要になる事のほとんどすべてを体験した。そしてその時期は、日本のスクーバダイビングの黎明でもあったので、詳しく述べた。
そのすべてを恩師 故宇野寛東京水産大学名誉教授の指導をいただいた。
1954年の二名事故死の責任を問われて裁判中にもかかわらず、1956年には講習を復活させ、さらに、ぼくのような「冒険児になりたい」などと唱えて高校時代を送り、その気質のぬけない弟子を教室に入れ指導した。最後は見放して、潜水をさせなくなったが、ともあれ、先生は、日本のダイビングのパイオニアだった。 左側、その頃の宇野先生、右側は一級上、橋本先輩
一連の出来事の中で、僕の一生のダイビングにつきまとうテーマとなったのは、二つ。一つは、1954年、日本最初のスクーバダイビング事故の事で、もしも頭上の海面に櫓漕ぎの小舟、サジッタが居れば死ななかった。
このことは、後の裁判でも問題にされ、最終的には「うたがわしきは罰せず」になったのだが、もしもこのときにこれが有罪になっていたら、日本のスクーバダイビングは、ビーチエントリー禁止になってしまう。そのことは、ずっと、今でも頭に引っかかっている。
僕なりの解決は、リサーチ・ダイビングを仕事として行う場合には、ボートダイビングで行う。レクリェーションダイビングでは状況に応じて使い分けるが、経費の点で、ボートは使いにくい。
なお、東京水産大学の潜水実習は、小湊に実習場があった時代は、1957年の講習と同じように、サジッタを頭上に浮かべて行っていたが、館山に移ってからは、サジッタがエンジン付きの大きなボートになったこと、地形が小湊のような波静かな入り江ではなくなったこともあり、実習のほとんどの科目がビーチエントリーになった。
ともあれ、僕は舟、もしくはゴムボートがが使える状況であれば、使うことにしていて、不思議と、上に舟がある時に、事件がおこり、助かっている。
もう一つは、命綱で、1954年の事故を受けて、1956年の実習再開の時は、講習を受ける学生に命綱をつけた。僕はそれには大反対で、何とか綱をなくして自由になりたい。なぜならば、スクーバとは、拘束されない自由に泳ぐ、セルフコンテインドこそが他の潜水機とは区別される特色だと思っていたたからであった。
幸い?僕らの代からは、命綱はなくなり、その代わりに、海底に引くラインが使われ、卒業論文もラインサーチ(ライントランセクト)での調査でおこなった。
しかし、切羽詰まると船上の監督者は助けを命綱にもとめる。人工魚礁調査で、上島さんが命綱をつけ、流れが出て来たので、それを自分で解いてしまったことを述べた。流れがあっても、後年の水中レポートシリーズでは、有線通話ケーブルを離さず、そのために事故から逃れたこともある。命綱を使う場合も打ち合わせと練習が必要である。
スクーバダイビングとは、自由=危険、安全=拘束の相克の谷間にある活動であり、それが以後の自分のダイビングライフの芯になるのだが、卒業の時点ではまだ気づいてはいない。
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