スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」:グラフィティ
2024-02-03T18:09:38+09:00
j-suga1
89歳になります。スクーバダイビングによる水中活動の支援を展開しています。、
Excite Blog
0203 サイエンス・ダイビングからの想いで
http://jsuga.exblog.jp/33669208/
2024-02-03T17:57:00+09:00
2024-02-03T18:09:38+09:00
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j-suga1
グラフィティ
今書いている「サイエンス・ダイビング」から派生するような思いでをぼつぼつとblogにも書いて行こう
写真は、1970年か1971年、福島県相馬沖のの人工魚礁です。1.5m角のコンクリートブロックが一段でひろがっている。大きな有線ライトで照らしています。今、サイエンス・ダイビングという本を執筆していて、人工魚礁のことも書いていますが、1970年代、撮影のライトは、船上に発電機を置いて、有線の1キロワットをつかっていました。このライトケーブルが命綱にもなっていたのです。これですくわれたことも幾たびか。
写っているダイバーは福島県水産試験場の鉄人ダイバー、大和田さんです。首からニコノスⅠ 型をぶら下げています、
なぜ、鉄人と呼ぶかというと、人工魚礁調査は秋口から冬、水が澄んでからやるのですが、天気のいい日は、遠くに蔵王連山が見えて、蔵王降ろしが吹いてくる。潜水を終えて船に上がると、蔵王降ろしの中、大和田さんは、ウエットスーツに真水をかぶって、ガバッと脱ぐ。裸の身体から湯気が立つのです。
男として本当にかっこいいので、僕も真似しました。若かったのです。半身ウエットをぬいで、水をかぶったら、身体が凍り付くようで動かなくなり、あわてて船室に飛び込んで、みんなにこすってもらいました。
2011年の東北大震災の後。これらの人工魚礁がどうなっているか、撮影することになり、小名浜にある福島県水産試験場を訪ねたおり、もう遠の昔に退官されているのですが、大和田さんの消息も聞きました。「残念なことに、まだ消息がわかりません」
洋上から視た蔵王連山、澄み切ったような遠くから吹き降ろしてくる蔵王おろし。一瞬で凍りつく身体の感覚。
そして、大津波。結びつける言葉が見つかりません。
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2024 01 21 魚の泪
http://jsuga.exblog.jp/33648736/
2024-01-21T18:42:00+09:00
2024-01-21T19:01:21+09:00
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j-suga1
グラフィティ
blogが全然書けないでいる。書く意思がないわけではない。昔のブログを読み返して、今書いているサイエンス・ダイビングの参考にしているし、昔の自分の文章、嫌いではないので,書かなくては、という気持ちも強い。でも書けない。
今書いているサイエンス・ダイビングが上手く書けていないこともあって、書けないのだろうと思う。今書いている本は、余分なことを一切カットするつもりで、blogはどちらかと言えば、余分なことなので、二つの事を同時進行させる頭の働きが出来なくなっている。
で、2007年の6月に書いたブログを再録する。
Jun 2, 2007
魚の泪
(4)
カテゴリ:本の紹介
作家の大庭みな子(おおば・みなこ)さんが、24日、(2007年の)亡くなった。76歳だった。愛読書がある。「魚の泪」「オレゴン夢十夜」「虹のはしづめ」だ。主な著作は、「三匹の蟹」「津田梅子」などで、それも読んでいるけれど、重くて読み返す気持ちになれない。僕の愛読書基準は、読み返そうとして、取っておくか否かだ。
1967年の益田さん
「魚の泪」は、伊豆海洋公園の創立者、益田一さんにもらった。文庫の奥付は、昭和45年(1970)になっているから、そのころのことだ。益田さんは、この本がいたくきにいっていたらしく、ぼくにくれて、「ぼく(益田さん)や、須賀さんは、最後はのたれ死にだからね。」といった。もらった「魚の泪」を読んだけれど、どこにものたれ死ぬようなことは書いていない。魚の泪→芭蕉の奥の細道の出立→旅→旅に死ぬ人生→のたれ死に、となるのだろうか。
益田さんは、「のたれ死に」にかなりこだわっていて、娘の潮美がパーティで益田さんと話したとき、「君のお父さんとか、僕はのたれ死にだから」と言っていた。なんのことかわからないと僕に聞く。僕もわからない。僕はともかくとして、益田さんはのたれ死ぬ方向には進んでいない。立派な仕事をして、立派な家に住んでいる。きっと、覚悟として旅に死ぬつもりだったのだろう。でも、そんな単純なことではない?
そして、益田さんは、みんなに見送られて、きっちり死んだ。(2005年没)形の上ではのたれ死にではない。一方の僕は、益田さんの言うとおりの道を歩んでいる。
益田さんのことを何も書いていない。書けば一冊の本ができるほどの思い出がある。そして、その思い出が一つも不愉快なことがない。きっと、袖スリ合った人、だれにも、いい思いを残しているにちがいない。益田さんはすごい人だと今更のように思う。
魚の泪は、「Xへ、」という書き出しで、Xへの手紙の形をとっている。
テーマはアラスカのことで、アラスカでの生活の日常をとても美しい文章で書いている。
読んでいて快い。もう一度、引き出して、読み始めている。眠る前に読むのにちょうど良い。
大庭みな子は、96年に脳梗塞(こうそく)で倒れ、左半身不随で車いす生活になった。02年には夫との二人三脚の日々や若い日の追憶を詠んだ短歌を集めた「浦安うた日記」(紫式部文学賞)を刊行して話題を呼んだ。
と訃報にはあった。浦安に住んでいたのかな、そのことも、この「浦安うた日記」のことも知らなかった。けれど読む気持ちにはなれない。
2024年1月21日 今日です。
上のブログを書いたのが2007年、そして、2013年の10月、伊豆海洋公園で、1960年代の益田さんと海洋公園の思い出ばなしをする企画を森田稔君(ダイブドリームの)がアレンジしてくれた。森田は、1960年代、海洋公園がオープンしたころ、小学生で(中学生だったかな?),鼻たれ小僧で海洋公園のプールで泳いでいた。(森田のお父さんが、立川の基地から、PADIを伊豆にもってきていた)そして、1974年の沖縄海洋博記念の長距離、森田は、フリッパーレースでぶっちぎりで速かったのだが、オープンシーだったので、ゴールへのコースをまちがえて、優勝できなかった。
ところが、僕の講演、お話し会の日、台風の接近で、海洋公園が潜水クローズになった。潜水できなければ、僕の話を聞いてくれてもいいのに、それもクローズになった。
益田さんが亡くなってから、富戸と赤沢には何度も通ったが、伊豆海洋公園に行っていない。もう行くこともないだろう。
魚の泪、もう一度読もうかな。文庫は持っているけど、字が細かい。キンドルで探してみようか。
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1013 NHK カメラマン(南方さん)
http://jsuga.exblog.jp/33488060/
2023-10-13T20:22:00+09:00
2023-10-13T20:49:14+09:00
2023-10-13T20:22:38+09:00
j-suga1
グラフィティ
ここに、「NHK潜水撮影の半世紀」という手作りの冊子がある。NHK水中カメラマンの小口順吾氏が平成13年(2001)にまとめたものだ。
大事に本棚のいつでも取り出せる位置におさまっている。取り出すことなど無く、今、これを書こうと取り出したところだが。ありがたいことに、僕の名前も後書きに「NHK潜水撮影班誕生に一方ならぬご支援をいただいた須賀次郎氏」と書いていただいている。1967年、日本潜水会の誕生に、河野祐一さん、竹内庸さん、に加わってもらい、こちらの方こそ一方ならぬ力になり、NHK水中撮影班はその中心になるメンバーは、日本潜水会の会員、指導員にならなければならない、ときめてもらった。
今、河野さん、竹内さんとかいたが、「河野、竹内」と呼び捨てにするほど親しく、生涯の友達だ。最近会っていないけど。
だから、1970年代のNHKのカメラマンのほとんどとは、いっしょの釜の飯を食った仲間になった。
その日本潜水会を設立した頃、僕はプロのテレビカメラマンではなかったが、その後、僕も撮影を生活の糧にするカメラマンになり、なんとかがんばって彼らに対抗してきた。 たった一人の自分、相手は大組織、最後は力尽きてしまったが、水中にVTRを沈めたのは僕の方が先だったし、水中からの生中継も競り合った。
友人としての彼らとの交流は、NHK水中撮影班外伝になるほどのものだ。中で仕事の上での雁行していたのは南方盈進さんだ。
ここでは、南方さんのことを書くことにする、
僕がをNHK仙台の制作の龍泉洞を撮影し、高視聴率をとった後、南方さんは、それに負けじと山口県の秋芳洞で新洞発見にくわわり撮影、放送した。龍泉洞が新洞を発見できなかったのにたいして新洞を発見している。
日本初のトライアスロンの撮影をしていた時、宮古島のホテルでばったり会った。二人で鍾乳洞の話をした。彼は僕の撮影を見て研究してくれたそうだ。
浦賀の沖で、大型釣り船の第一富士丸が潜水艦と衝突して沈んだ。南方さんは現場に駆けつけて、水深56mに沈んでいる第一富士丸を撮影した。流れも無く穏やかな天候で上手く撮れていた。このNHK放送の直後、電話がかかってきた。テレビ朝日の報道からだ。
すぐに現場に出動しろとの依頼、いや命令だった。ニュースステーションの水中レポートシリーズで世話になっているから仕方が無い。気が進まなかったがとるものもとりあえず、出かけた。
南方さんが特ダネぬけがけ水中撮影をしたおかげで、民放各社、新聞社のカメラマン、及び、僕のように、縁のある局や新聞社から狩り出されたダイバーカメラマンが出張っている。もともと、海上保安庁は潜水を許可するつもりは無かった。そこに、まさかと言う形で南方さんは無許可で、撮影してしまった。
南方さんは、バリバリの報道のエースカメラマンだった。おだやかな人だったが、鋭い。命を張るときにはためらわない。これは、本当の特ダネで、各社は抜かれた。保安部も、そうなると各社にも許可しないわけには行かない。
僕たちに許可された時間は午後になってからである。午前中に現場に入り、テレビ朝日がチャーターしている船を見に行った。
「嘘だろう」と言うような船がそこにあった。中型のタグボートだ。タグボート、すなわち曳き舟でエンジンの塊のような船だ。一般には、タグボートのいる水面にダイバーが接近するのは厳禁だ。そのタグボートから潜れという。
ダイバーの心配は、潮に流されることだ。富士丸の沈んだ浦賀水道は潮が速い。小回りの効くボートで拾ってもらいたい。なんとかしてもっと小さい漁船をやとってくれるように頼んだ。急には間に合わないという。すぐに会社のゴムボートを持ってくるように連絡したが、これも届くのは夕方であり、午後には間に合わない。
とにかく午後になり潜る時間が来た。第一富士丸が沈んでいる位置を示すブイが浮いている。
各社の船が集まっているので、ブイの上に船を着けることはできない。ずいぶん離れたところから発進して泳いで行かなければならない。
このタグボートはシュナイダーの推進器だと言う。後ろにスクリューは無く、船の中心部に垂直に船底似付いているタービンのような回転軸が縦に回転する方式で、前後左右に自由に動くことができる最新式の推進器だ。ダイバーが水に入る時には、推進器を停止するのが絶対のルールだ。一つ間違えば、ダイバーはひき肉になってしまう。が、船長は推進器を止めるわけには行かないという。沢山の船が集まっているところでアンカーも入れずに推進器をとめれば、流れもあるし、たちまち衝突してしまう。それはそうだ。
シュナイダーのペラに吸い込まれて、ミンチになる自分の身体を想像した。船長は大丈夫だという。普通のスクリューだったら危ないが、このシュナイダーならば大丈夫だ。人を吸い込んだりしない、撥ねだしてくれるという。嘘だろうとおもったが、信じるしかない。
一緒に潜るアシスタントの田島雅彦は、スガマリンのスタッフの中で最も筋肉の強いダイバーだ。一緒に船から飛び込んだ。飛び込んだとたんに流された。2ノットはある。若いころだけど、全力で泳いで、止まっていられる状況だ。ちょっとでも泳ぐ力を弱めれば、流されて行ってしまう。とても目標のブイまでは泳げない。すぐに助けを求めた。救命浮環にロープをつけて投げてくれた。潜水するどころか、ブイに接近することすらむずかしかった。シュナイダーを廻して、船が近づいてきて揚げてもらった。なるほど、吸い込まれなかった。
他の局はどうだろう。港で顔を合わせて雑談した中村征夫は漁船で出てきていた。船の小回りがきくからブイの傍まで行けるはずだ。潜れただろうか。見ていると全員バラバラに流されて拾うのに難儀をしている状況で、征夫も流されている。だれもブイにたどり着いていない。
南方さんが潜ったときは潮止まりだった。海上保安庁は取材ダイバーを殺すつもりらしい。アンカーを入れないで何艘もの船が行き来している只中に、2ノットの流れの中にダイバーをばら撒くなんて。
しかし、危ないから取材を禁じようとしているのに、強引に頼み込んでいる。文句は言えない。
危ないからこれで終わり、と言うのは遊びの世界だ。プロは逃げ帰るわけには行かない。
ゴムボートが夕方に届いた。夜陰に乗じてゴムボートで接近して潜ろう。どうせ、浦賀水道の透明度で、50mの海底は昼でも闇だろう。ライト無しでは潜れない。闇ならば昼間も夜も変わらない。9時に潜れば、10時から放送のニュースステーションには間に合う。
潜る仕度をした。テレビ朝日の西村カメラマンが来ている。彼は潜水もする。田島は西村さんのアシスタントでサイパンの洞窟に潜ったこともある。こんなことに命を賭けるなんて馬鹿馬鹿しいと西村さんに引き止められた。
第一富士丸は既に引き上げのワイヤロープが取り付けられている。明日は引き上げられてしまう。水中撮影はできない。明日、水面に姿を現すのだから、水中撮影する意味は全く無い。しかし、とにかく水中に船がある時に撮影しなければ、水中カメラマンの仕事としては失敗だ。
テレビ朝日の報道と電話連絡をとった。「映像は欲しいが、無理をしないでくれ」という常識的な答えが返って来た。
港には、スガ・マリンメカニックの元チーフダイバーであり、チーフカメラマンであった新井拓が居た。彼はオートバイライダーであり、片岡義男の小説に出てくるような、よく言えば自由な、悪く言えばでたらめな男だ。彼との付き合いで、小説が書ける。でたらめだったから、会社を辞めさせた後でも、ずっと仲良くしていた。
彼は日本テレビのカメラマンとして来ていた。「骨は拾ってやるから、とにかく映像を撮って来い。と言われたから行くよ。」彼は夜陰に乗じて出て行った。
さて、自分の方だが、早朝に勝負をかけることにした。ゴムボートを降ろし、田島とアシスタントを乗せて、ブイに向かわせる。自分は、タグボートに乗っていてゴムボートを降ろした後、タグボートは別の方向に向かう。フェイントをかけたつもりだ。鳥が自分の卵を守るために別の方向に逃げるようなものだ。こんな簡単な作戦に海上保安庁が引っかかるとは思えないが、無許可だから、とにかくやってみた。
海保は、大目に見たのか無視してくれたが、吊り上げ準備をしたクレーン船の上には何人もの人がいる。ゴムボートが接近したら、注意されて追い払われる。
最後まであきらめない。引き上げのクレーン船は深田サルベージの船だ。深田には後輩のダイバーが何人か居る。現場監督で来ているかもしれない。双眼鏡で覗いてみた。
船上で指揮をとっているのは、大学の後輩の横尾君だ。横尾君は東京水産大学最強の男で、新制大学空手選手権の優勝者で、町で喧嘩を売られると、嬉しくて笑みがこぼれると言う奴だ。
船舶電話で横尾さんを呼び出し、事情を説明し、10分間だけ目をつぶって潜らせてくれと頼んだ。
ようやく富士丸の水中撮影ができた。直ちに映像信号を飛ばし、朝6時のニュースからこの映像が流れた。富士丸が水面上に姿を現したのは、次の日で、僕たちの撮影した水中映像はその日一日テレビ朝日のニュースで使われた。
南方さんが富士丸のスクープをやらなければ、危険な目にあわなくても済んだのだが、負けなかった。夜陰に乗じて出港した4チャンネルでは、ついに水中の映像は流れなかった。自己防衛反応の強いプロダイバーである新井拓のことだから、骨を拾ってもらうようなことはしなかったのだろう。そのくせ、ギャラは僕たち以上に取ったにちがいない。
撮影の日の夕方、空腹状態になり、その夜にも海に出るつもりだったので、水中撮影チームで、ラーメンと餃子を食べた。その請求書をテレビ朝日に廻したところ、ロケの弁当が出ているのに、それを食べないで外のラーメンを食べたのだから認められないと言われた。文句を言って認めてもらったけど。
さらに年月が過ぎ、僕は大型の展示映像の撮影が主な仕事になっていた。葛西水族園の3D立体映像の企画コンペでは伊豆の海、サンゴ礁の海、そして知床の海を提案して3連勝した。網走流氷館のクリオネもとった。コンペでは、ほとんど連戦連勝していた。
次に福島県小名浜の大型水族館の映像コンペがあった。テーマが決められていて、「親潮と黒潮」だった。僕はビクターからカメラマンとして立てられたのだが、同時に、イマジカの企画も僕をカメラマンとして立てていて、二つのところから、カメラマンの申請がでていると、苦情っぽいことを言われたが、無理に通してもらった。が、NHK関係のプロダクションに負けてしまった。これ以後は大型映像の仕事はなくなっている。
南極の南方さんと河野、南方さんに写真はこれしかない
ケラマに内輪のお客様をつれてツアーに行った。ケラマに行くダイバーだったら誰でも知っている、港の出入り口の建物、円形階段を登った二階にある座間味食堂で昼食にヤキソバを食べていた。ここのヤキソバがとても好きだ。
そこに南方さんが入ってきた。やあ久しぶり、椅子を移して、二人で向かい合って雑談した。彼は、僕がコンペで負けた親潮と黒潮の撮影に来ていたのだ。南方さんはNHKを停年退職し、NHK系列の子会社のプロダクションに移って、そこからカメラマンとして立っていたのだ。
最後まで、私たちの企画とNHK関係の企画が残り、最終的に南方さんたちの企画に決まったのだが、こちらが勝っていたら、トカラ列島で黒潮を撮り、次第に北上して三陸沖を撮るつもりだった。南方さんのチームも同じような撮影だったのだろう。
夏のケラマで南方さんと会い、そして秋、南方さんが亡くなったと知らせが入った。下田の先の神子元島で撮影中にダウンカレントに引き込まれたと言う。ダウンカレントとは、ダイバーが海に引きずりこまれる潮だ。要するに渦巻だ。鳴門の渦潮もダウンカレントといえるかも知れない。
僕もテレビ朝日のネイチャリングスペシャルをトカラ列島で撮影していた時、引き込まれそうになった。自分の吐き出した気泡が下に向かい、そのままずっと深い下の岩の間に引き込まれて行くのを自分の眼で見た。
ニュースステーションでは、与那国で潮美と一緒にハマーヘッドを追っていたダウンカレントに引き込まれたが、ケーブルで船と繋がっていたので、船を基点として、コンパスで円を描くように水面に押し上げられた。急浮上だから、減圧症化、空気塞栓になる危険はあったが、とにかくケーブルに救われた。
南方さんは、潮に引き込まれ、潮から脱出して急浮上した。BCDも一杯に膨らませて、おそらくは肺の圧外傷で、即死状態だったと聞いた。それでも彼はカメラを手放してはいなかったそうだ。一緒に潜っていたガイドは行方不明になり遺体も上がらなかったと聞いた。
通夜があり、NHKと僕らをつなぐ絆であり、NHKのカメラハウジングを作っている後藤道夫もそして、NHKのカメラマンも皆集まった。これからは、お通夜が日本潜水会の同窓会になるね、と話し合った。とても悲しいことなのだが、だれも悲しそうな顔をしてはいなかった。皆心のどこかでうらやましいと思っていたのだろうか、宿命だと思っていたのだろうか。浦賀の第一富士丸でさきを 越されたように、これも彼に先を越されてしまった。かっこよく死んだ、
NHKの古いカメラマンの一人一人について、南方さんと同じくらいの交流と、思い出がある。みんな生命をかけて映像を追ってきた。口先だけでなく本当に命を張ってきた。競争相手なのだが、彼らと競っても、不愉快な思いをしたことがない。ダイバーとしては私が先輩だが、カメラマンとしては彼らのほうが先輩だし、残念ながら向こうの方が撮影は平均して上手だ。彼等は基本の撮影術を身につけているし、こちらは、適当に自分の感覚だけで撮って来た。それでもときどき、僕の映像を見て褒めてくれる電話をもらうことがあって、それは、とても嬉しかった。
南方が亡くなったのは、福島の小名浜のアクアマリンの撮影、アクアマリンの開館が2000年だから、死んだのは、1999年か
後藤道夫が亡くなった同窓会は2014年だった。
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0821 ワークショップ トラック大空襲
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2023-08-21T11:00:00+09:00
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j-suga1
グラフィティ
8月15日にチュークの沈没戦跡についてワークショップをやり、聞いてくださった方には好評だった。自分としては、大過なくしゃべることもできた。
チュークのことを考え続けてきたわけではない。ただ、自分のダイビング人生の終わりを感じているので、やったことのまとめをしておきたい。1983年から2009年まで毎年のように通った南の島についてまとめておきたいと思った。
しかし、最近、ひどい難聴で、会話ができにくい。会話ができなくなると、ナレーションでしゃべることもままならなくなってしまったような気がした。
司会をしてくれている潮美にナレーションも引き受けてもらおうか、とも思った。しかし、録音スタジオもないし、費用も時間もない。自分は常にチャレンジャーのつもりだ。チャレンジしよう。
下手でも良いけど、わかってもらえないのは困る。やる意味がない。パワーポイントをつくり、左側にナレーション原稿を書き、右側に写真をいれて、それをナレーション的に読み上げることにした。字入りの紙芝居だ。今、映画をキンドルで見るけれど字幕編だけをみている。視覚、聴覚併用はわかりやすい。
まず、そのパワーポイントを見て説明、次に6分程度の動画、そして、次の動画説明のパワーポイント。そして動画と交互に入れて、さいごにまとめのパワーポイントで終える。構成にした。
PPその一
① ミクロネシア
日本から南下していくと、小笠原、マリアナ、ミクロネシア、横並びにパラオ。トラック環礁は、ミクロネシアにある、太平洋最大の環礁、です。
第二次大戦中、日本の太平洋の激戦地ソロモンに近く、連合艦隊全部を泊めることができる湖のような環礁。トラックは太平洋最大の前進基地、軍港でした。
旧、日本委任統治の南洋の島々は、どこも魅力的で、ダイバーは、とりつかれますが、僕はトラックにとりつかれ、1983年から、最後は2009年、数え切れないほど通いました。
これら、島々は歴史的には自給して生きてきたのでしょうが、外貨獲得の最大の資源は観光です。そして、その観光の目玉はダイビングです。
②トラック大空襲
トラックは1944年2月17日、18日、アメリカ機動部隊の空襲を受け環礁に停泊していた日本の船全部が沈められます。
日本の連合艦隊はマリアナに避退しており、残されていたのは戦闘能力のない輸送船団でした。連合艦隊が残っていたら、もっと激戦になったでしょうが、結局は沈められたでしょう。航空機の空襲に対抗できるのは、基地の航空兵力。
そのトラックの航空兵力は竹島という航空母艦のような小島に飛行場、基地を置いていたのですが、トラックは鉄壁だと油断して、パイロットたちは、そのころのトラック市街地中心である夏島に遊びに行っていて、飛び立たずに地上で撃滅された。
③吉村朝之
1983年,トラックに残された遺骨の取材で 吉村朝之とトラックに行き、その後彼が亡くなるまで、僕はアアク5テレビ、吉村はアアク8テレビという姉妹会社を作る親交が続きますが、遺骨が取り持った縁です。
岐阜在住のダイビングインストラクターであった吉村はトラックに遊びのダイビングに来て、遺骨が水中でそのままに山になっていることに、心を痛め、それを撮って、朝日グラフなどに写真を発表し、沈んだ船の全部に潜り、それらの船の来歴と沈められた状況を「トラック大空襲1985 光文社」にまとめます。
④1987 沈船ライブラリー撮影
そして、1987、吉村と僕は、沈められた船の主要なものすべてを撮って、ライブラリーを作り、遺骨を祖国日本に帰す運動を拡大しようとします。
そのころのテレビカメラは、カメラと録画するVTR別々で、その間をケーブルで結んでいます。ケーブルの長さは100メートル、テレビに売り込もうとするので、当時として最高の画質の池上の79Eです。 また、発電機も必要、ちょっとした引っ越し荷物です。それを二人だけで、グアム経由、恐怖のコンチネンタル航空、恐怖というのは、荷物を下ろさずに隣の島に飛んでいってしまう飛行機であること。その飛行機で、トラックに運ぶのです。
⑤沈船に潜る。
撮影を行ったのは、1987年 9月2日 松丹丸 水深55m、に始まり、9月12日の駆逐艦追風 水深65mまで、当時としては、売り出されて間もない、ダイビングコンピュータ、アラジンとスントのテストの比較テストを行いつつ、潜水した。
沈められた輸送船は60隻、軍艦は22隻、うちダイビングポイントになっているのは、35隻である。 今回は、愛国丸、富士川丸 第六雲海丸、そして、駆逐艦追風を、紹介する。
★★★
ここから、動画の映写に入る。
フリートークの感じで、動画の説明をする。
動画:
愛国丸は特設巡洋艦、優秀、高速の商船に巡洋艦なみの大砲を載せている。
ケーブルさばき、アシスタントの労力が増えますが、これで、船内で迷うことがない。入れればどこまでも入れる。
水深44mにあるホールここになぜか遺骨が折り重なっていて、吉村は、これを見て、遺体を日本に帰す活動を始める。
吉村の写真に触発されたのだろうか、日本のマスコミの報道の働きもあり、1981年3月 トラック島の遺骨問題を国会が取り上げ、7月5日から27日まで379体の遺骨が収集され現地で荼毘に付された。収拾を行ったのは、深田サルベージなどの潜水工事会社で、フリーのダイバー、インストラクターなども加わった。自分はスガ・マリン・メカニックという調査会社を経営していたが、これには加わらなかった。
そして、愛国丸の遺体の多くは回収されたのですが、トラックのダイビングサービス、ブルーラグーンは、遺骨をキープしていて、1987年の僕らの撮影の頃、愛国丸船内に水中展示、飾っていた。
富士川丸
この動画だけは、1987年ではなく後に行ったツアーで撮ったものです。比較的浅くて、ナイトダイビングでみるソフトコーラルがきれい。ツアーの名所です1987年には、まだマストの先端が水面にでていました。
昼間は獰猛で、ダイバーにかみついてくるキヘリモンガラ
第六雲海丸
旧式の運送船ですが、、船内にいろいろな日常雑貨が遺されています。戦跡水中博物館ですから、鉛筆の一本でも、持ち出すことは許されませんが。
PP その二 追風について、
① 輸送船団は錨を入れた状態でその場で沈められた。軍艦は数は少ない追風と文月、駆逐艦2隻だけだが、走って戦闘中に沈んだ。離れていて、沈んだ位置が特定できない。吉村はこの2隻の捜索、発見に、努力を傾ける。小型の魚探を持ち込んで、大きなブロックが写ったら、小型の錨を引いてひっかける。何かがひっっかかったら、潜ってみる。これをブルーラグーンのダイバーと一緒にやる。オーナーのキムオさん、後にマネージャになるチェニー、苦労の末水深65mに沈んでいる追風を発見する。位置が離れているのは、このためである。水深も深い。
② 一等駆逐艦追風は、
ソロモンの海戦で大破して、トラックで応急修理をした、新鋭の巡洋艦「阿賀野」を護送して2月15日トラック出港、マリアナ経由、日本に戻ろうとしていたが、トラックをでて、まもなく、2月16日、潜水艦の雷撃をうけ、損傷している阿賀野は避けきれず沈没、追風はその乗員480名を救助し、狭い駆逐艦船内は寿司づめ状態になって。マリアナに向かっていた。
そこに17日のトラック空襲、追風は急遽トラックにもどって、戦闘せよと指令がはいる。
常識的には戦闘不能だが全速で引き返し、北水道から、環礁に入り撃沈される。
そして,ここから追風の映像、
先に述べたように、当時は、カメラとVTRは別で、その間をケーブルでつないでいる。
カセットテープ一個の撮影時間は20分。最初に吉村がもぐり、10分撮影する。僕は船上で、テープを交換して、エントリーしてケーブルを伝わっていきカメラを引き継ぎ、吉村は浮上、このリレーで合計30分は撮れる,
トラックブルーラグーンガイドのケーブルさばきはパーフェクトで、僕らは、何のストレスもなく65mに潜って撮影できた。
また、ブルーラグーンのオーナー(先代、創始者)のキミオさんは、米軍がこれら沈船の調査をしたときに助手として潜っていたダイバーで、減圧症で身体が陸上では不自由だ。「多分、これが最後だから、ガイドしてあげるよ」と一緒に潜ってくれた。
ここにも遺骨は見えやすいところに置かれていて遺骨の下のハッチには、多分、阿賀野の救助された兵士の遺骨なのであろうか、山になっているのが見えた。阿賀野から救助された兵士の467名がここで亡くなっている。タンクを脱がなければ入っていかれない。水深60mだから、入れなかった。
そのころ1980年代の終わりから、1990年代にかけて、僕は衛星チャンネルという、衛星経由で電波を発信する、今で言うBSの走りの局のフリーゾーン2000という番組の映像記者というのをやっていて、東京の海、川などの環境を追ったりする番組を小遣い銭稼ぎ程度のギャラで、本業の水中調査のかたわらやっていた。カメラマンが自分が撮った映像を映写しながら、アンカーという名称の女性キャスターとトークする番組でなかなか楽しかった。
その一本で、1957年撮影のライブラリーを使って、「南海に眠る駆逐艦追風」をやった。
駆逐艦追風の艦長であった魚野(うおの)艦長の遺族、奥様と妹さんをスタジオに呼び、追風の水中映像などを見ながら、お話を聞く。フリーゾーンとしては、大作だった。
まず、艦長の奥さん、妹さんと靖国神社にお参りするシーンを撮った。靖国神社のシステムなど、僕は知らなかった。日本国民、多くの人は知らないだろう。戦争で亡くなった兵士は靖国神社に奉られ、霊は靖国にもどってきている。遺骨があれば、そしてそれが遺族に戻されるならば、菩提寺に埋葬されるが、公的には、靖国に、名前が奉納され、奉られる。遺族はそれを参拝する。追風のような軍艦の場合、遺族は「追風会」という遺族会を作り、艦長の奥さんが、その代表をつとめ、艦が沈んだ日、命日には、靖国にお参りする。カメラは、奉られている、奥の院には入ることはできないが、応接の間までは入ることができ、そこで、僕は、魚野艦長の奥さんとお目にかかり、初対面の挨拶を交わした。
追風会は、靖国だけでなく、沈んだトラックにも花束を捧げに行く。
スタジオでは、遺骨の写っているよ水中映像を見てもらい、お気持ちは?など、馬鹿なことは聞けない。何を質問してよいやら、見当もつかず、ただだまって、みてもらうだけでしかないが、魚野艦長の奥様は、冷静に魚野艦長との過ぎた日々のことを語ってくれた。戦時中、帰らぬ出撃をする駆逐艦の艦長、魚野艦長は、もうこの戦争は負ける。今度の出撃では帰らない覚悟だと言っていたそうで、女の子を一人、お父さんの遺影だけをみて育てられた。1944年の戦死だから、番組を作った1991年には、お子さんは45歳だ。どのような月日が、ご家族に流れたのだろう。
聞けば、魚野艦長は兵学校を恩賜の短剣をいただいて、卒業していて、それも見せていただいた。兵学校を主席か次席で卒業ということは、将来の提督である。実戦で戦果を残さなければ、提督にはなれない。魚野は、今度の出撃が最後で、もう前線には出さないと言われていたとか。
阿賀野の救助した乗組員も480人乗っている。弾薬も少ない。トラックに戻らないという、指令違反をしてでも、船と救助した命を救う道が合ったのではないか。とも考えた。これは、後からの調査でわかったことなのだが、トラックに戻らず、マリアナに直行せよという指令もでていた。その電文の順序が通信兵のミスで、前後してしまった可能性もあったとされている。
もう一つ、吉村が高知に在住していた生き残りの竹本さんを訪ねてのインタビュー。今は亡い吉村だが、竹本さんは撃沈とともに海に飛び込んだ。かなりの人数が浮いて、泳いでいたのだが、艦載機が戻ってきて、機銃掃射で次々とこらされた。パイロットは手を振っていたのがわかったという。手を振りながら殺していった。竹本さんは、何とか逃れて、島に泳ぎ着く。
映像の説明はこれで終了、次はまとめのPPである。
PP その3
愛国のホールが遺骨の山であることをみた吉村は、遺骨を日本に帰すことを訴え続けた。
朝日グラフに何度か写真を載せ単行本として「トラック大空襲」を書くまでに12年、16回通った。
駆逐艦も探し、追風と文月、2隻とも吉村が発見した。
昭和58年(1981)3月 国会が取り上げ
7月5日から27日まで379体の遺骨が収集され現地で荼毘に付された。セレモニーをやった。
しかし、その後もブルーラグーンの水中遺骨展示は続行される。
追風も1994年に遺骨収集が行われ。
厚生省は追風などは、以後中に入れないように入るハッチを溶接で塞いだという。
②
チュークが、枕船のすべてを戦跡博物館として遺し、遺骨を含め何ものも持ち出すことは許されない。それを見ようと世界のダイバーが集まり、遺骨の水中展示も行われている。
厚労省が、遺骨収集の交渉をすれば、受け入れてくれた。しかし、ダイビングサービスは、自分たちの財産である展示している遺骨を基出すことは、しない
③
そして今はチュークへの中国の進出が大きくなっている。中国が作った海洋研究所がある。戦績保存と並行して日本が海洋研究所を作るべきだった。その経過の中で、遺骨展示の議論もする。展示はやめさせられないが、その形態は議論できる。そのようなこと、やったのかもしれないが、展示は続いている。
アメリカ人の経営するダイビングサービスもホテルシップであり、設備もよく、大繁盛で、予約は2年先まで満員とか。彼らがどう考えるか聞いたこともないが、遺跡はアメリカ軍の戦果だから、詳しく研究されている。そのレポートを見ることはでできていないけれど、一環であろう、立派な本も出版され販売されている。それを、ここでも資料として図を使っている。
④
霊は自分の心の中に存在するとおもっている。遺骨については、それを視てどう思うかである。
こうも考えた。
彼らがそこに居て、その船が日本の船であることを、自分たちの船であることを主張し、護っている。そして、過ぎた戦のことを思い出させる。
トラックの海は、他に魅力がたくさんある。美しい無人島もいくつもあるし、ジープ島、オーロラ島と宿泊できる島もある。僕もシャークの3Dをとったり そのサメに浪曲を聞かせるという番組をつくつくったりもした しかし、日本人としてこの問題を忘れて良いのだろうか。
⑤
遺族は靖国へお参りし、トラックにも花束を捧げにくる。
魚野艦長の遺族は、そうしてきた。僕らの作ったフリーゾーン2000の追風、遺族に残酷な問いかけをしたかもしれない。しかし、丁寧に答えてくれた。そして、自分の思いのたけを話すことができ、本当に良かった。家代々大事にします。といってくれた。
すべてが、事実であり、けっして忘れたり、無視してはいけない。それぞれが受け止めて考えることしかできない。
⑥
空襲のあった1944年から数えて、79年になる。明治維新から終戦までよりも長い。もう少しで100年だ。
3世代がトラックの海、戦跡を通り過ぎて行く。水中遺骨展示も視る。
そして、それぞれの感慨を持つ
日本人が、当時の姿そのままに見ることができる、おそらく唯一の戦跡。
ココまでで、僕のワークショップ、「トラック大空襲は終了した。
しかし、考え続けている。このブログを書くことで、一応のピリオドにしたい。
★★★
デンマーク在住、確か、日本のミノルタの電子機器のお仕事をされていて、ライフワークにダイビングの歴史の研究をされている竹川さんという方がいる。僕もダイビングの歴史の研究をしている関係で、日本の大串式マスクの研究のお手伝いをしたことで親しくなった。日本水中科学協会のシンポジウムでの講演をお願いし、快諾をいただいていたが、交通事故に遭われて、今年度はむずかしくなった。
今回はオンラインでのワークショップだったので、デンマークから参加されていた。なお、チュークからも、僕のすべてのトラックでのダイビングのお世話をお願いしている末永さんも参加されていた。その竹川さんから、メールをいただいた。
須賀次郎様
とても素晴らしいワークショップ『トラック島』でした。ありがとうございました。
終戦記念日に『トラック島』の記録に接したことは、辛い戦争という事実を、今回の『トラック島』を鑑賞して、痛く重く感じました。
多くの場合、映像記録が容易に真実を伝えることが出来ますが、その記録はもちろんほとんどの場合過去になっています。しかし『トラック島』の記録は現在も同じ位置に実在しています。海面から深くても70メートル海底に向かうと、約70年前の真実がそこに現存しています。
犠牲者がまだ横たわっている場所が、見せ物観光ビジネスのアトラクションでは、なんともさみしい感じもいたしました。
1)
ナチス(ヒトラーも含めて)がアルゼンチンに逃げるのを助けたと噂されていた、ドイツを最後に出港したUボート U3523 XXI(海底100m)が発見されました…この件は前にお知らせしましたが、、、下記のようなものです。
『2018年 4月 Newsweek英語版にセンセーショナルな記事が載りました。
かつて、ヒットラーは終戦直前に最も優秀な潜水艦で南アメリカに逃亡した、と云われる仮説がないでもなかったのですが。冗談話で、そのような仮説を信じないでもなかった人達も存在していました。いや、堂々とその説を書く人間もいたことはいたのです。しかし2018年 JD-Contractor A/S の海底 スキャナ船 が ノルウェーとデンマーク間の海域(Skagerrak)で、この話題の潜水艦を発見しました。U-3523 Type XXI.
私のこの博物館の訪問は、このトピックに関する潜水艦の扱いがその後どのように進化したかを尋ねることでした。
答えは、ドイツ政府とデンマーク政府の間で、潜水艦は永久に手付かずの状態にしておく、神聖な埋葬地としてランク付けされました。
JD-Contractor A/S社の持ち主は Gert Normann Andersen氏で、SEA WAR 博物館の館長でもあります。またデンマーク潜水歴史協会の創立メンバーでもあります。
約5年が過ぎましたが、公式なドキュメント撮影目的の潜水でさえ、全面禁止。
2)
1940年 4月9日、大戦初日、ノルウェー首都オスロに入る、20キロ手前の狭い海峡(幅約500m)で、ドイツ戦艦 Blucher が島の秘密に構築されていた魚雷発射管(2013年、ノルウエー潜水歴史協会の招待で見学しました)からの魚雷攻撃で撃沈され、岸から僅か数百メートルのフィーヨルド内に沈んでいます(水深60-80m). 距離からすると、ダイバーの日常的アクセス地点であります。
しかし敵の戦艦であれども、2016 年 6 月 16 日に戦争記念碑として保護されました。フィヨルドの底に沈んでいる人々のために、ノルウェー文化遺産総局によって法律でも保護されました。 その目的は略奪者から船と魂を守ることでした。犠牲者600ー1000人。
3)
MS Estonia (スエーデンーエストニア間 フェリーボート 16000トン)、スエーデンーエストニアーフィンランド海域で1994年事故沈没(海底80m)、犠牲者852名。
3国間で、敬意を表す海中墓地として調査潜水以外の潜水禁止に合意。
少なくとも、なんとかこの3つの例の如き、トラック島にも対策が講じられたらと願うばかりです。
ZOOMで二人の再会の場面を眺めました。人間の繋がりとはなんと素晴らしいのだろうと、思わずにはいられませんでした。胸が熱くなりました。
最後に、須賀様の説明、ハッキリと、理解しやすく、とても素晴らしいナレーションでした。ありがとうございました。
お身体に気をつけて、お元気でお過ごしください。
再会を祈りつつ、
竹川一彦
竹川さんのご意見、僕も同じようなことを考えたものでした。戦跡として、そのまま手つかずに保存しておくという文化がトラックにも、そして日本にも無かった。
実は僕も、おなじような結論を思っていたものでした。もういい。静かに眠らせてあげたい。
しかし、僕も吉村も、そこに遺骨があったから、遺骨に呼ばれてトラックに行ったのではなかったのか。トラックは、美しい環礁で、世界中のダイバーは、それだけでも集まる。でも、遺骨に呼ばれても行く。
「トラック大空襲」で吉村が書いている。遺骨を日本に帰してあげたい、協力してくれとキミオさんにいうと、いや、彼らの最後の場所、海底に静に眠らせてあげた方が良いのではないかと、さらに、吉村がたのみこむと、そうだね、やはり日本の兵隊さん、日本に帰してあげようと協力してくれる。もちろん有料、30%OFFで、彼らには生活があるのです。
そして、そのキミオさんが、自分の創立したブルーラグーンでは、遺骨の展示をします。
なんだこれは。静かに眠らせていない。言っていることと違うではないか。そして、僕が追風に潜るとき、ダイバーは水深60mで、命がけで、狭いハッチをくぐり抜けて。遺骨を取り出して並べてくれます。大腿骨も集めてくれます。
そして、この遺骨の映像がなければ、35年後にこのワークショップを僕はやることはなかったでしょう。
海軍兵学校を恩賜の短剣で卒業した魚野艦長は祖国に愛しい妻と子、そして出世コースが帰りを待っています。船には救助した人員が満員で乗っているのに、全速で、トラックに戻ります。ゆっくり走って空襲をやり過ごすこともできた。そして、北水道を抜けて、環礁に入ってすぐに敵弾に倒れ、後は阿賀野の救助されていた副長が指揮をとり、撃沈されます。
魚野艦長はすばらしい指揮官であり、日本の武人の姿をみます。魚野艦長と追風の悲劇については、まつやま書房 宮崎三代治「ああ紅顔、未来の光」という本もあります。
僕が映画監督ならば、映画を作り、ヒットさせたでしょう。
今回、2023年8月には、ちょうど時を同じくして、NHKがマリアナとトラックをテーマにしたスペシャル番組を放映します。時を合わせたわけではなく、困ったものですが、NHKは、フォトグラメトリーを使用して巨大な沈船を再現したり、苦労していましたが、何を言いたいのか、わかりませんでした。でも、この番組企画が通ったのは遺骨がそこにあったからだと思います。そして、NHKだから遺骨の映像は使えない。しかし、遺骨の思いは伝えたかったのでしょう。
トラック島の戦跡は、遺骨がそこにあるから、人々に語りかける。何を?、それは、受け止める人様々で、結論などないのでしょう。
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0416 ダイビンググラフィティ30 シーラカンス 書き直し
http://jsuga.exblog.jp/33208378/
2023-04-16T15:59:00+09:00
2023-04-16T15:59:29+09:00
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j-suga1
グラフィティ
ゴンペッサとは、シーラカンスの現地アフリカ語である。
「ゴンべッサよ永遠に」末広陽子 198812月刊行 スガ・マリン・メカニックが参加していたシーラカンス調査隊のことを書いた本なのに、なぜか持っていなかった。アマゾンで500円で購入、目を通して見た。自分の記憶と時系列も内容も違う部分が多い。自分の記憶は、もはや、不確かだから公刊されている末広陽子さんの記述に合わせることにして書き直した。
末広陽子さんは、末広恭雄先生の娘でピアニスト、門前の小僧的に、魚類学者のタイトルも使っている。なぜ、記憶の外に押し出されていたのか?、それは、シーラカンスが、自分のプロジェクトではなく、田沼健二(後にスガ・マリン・メカニック社長)のプロジェクトであり、そして、自分がコモロに行かなかったからなのだからだろう。
田沼は、日大水産を出て、福井水族館に一年ほどいた。そのかかわりから来た計画だったかもしれない。
「ゴンペッサよ永遠に」を追って見ていこう。
第一章 この奇妙な魚はいったい何?
シーラカンスは、1938年アフリカのイーストロンドンという港町の沖、カルムナ河の河口近くで、トロールで捕られた。まだ生きていて甲板をよちよち歩きしたという。イーストロンドンには小さい博物館があり、その博物館の館長として、赴任していたラティマー女史のところに、この魚が届けられ、彼女が第一発見者になる。魚として巨大であり、そして魚なのか?
いわゆる脊椎骨がなく、硬い鱗で保持され、進化の途上で進化を停止し、爬虫類の恐竜よりもはるか昔、魚類が陸に揚がって来ようという段階で、その進化を停止している。三億年前でストップしている。生物学者ならば、いや生物学者でなくても熱くなるだろう魚である。
日本にシーラカンスのホルマリン漬けだか、剥製だかが来たのは1967年でよみうりランドの水族館に展示された。僕はこれを見てはいないが、新聞記事の記憶はある。
第二章 魚博士と映画制作者の出会い。
末広先生と篠ノ井公平氏の出会いが書かれている。
末広恭雄先生は文章家で、子供向けの魚の話、童話と言ってよいのだろうか、も書いている。僕は、鯉の子供が河の中で次第に成長していく物語を、子供の頃愛読した。成長していく課程で、他の、アユとかナマズとかに出会い、会話もする。その魚の会話がおもしろかった。今、2023年、魚が鳴き交わす声の調査をしているが、とにかく、本当に、魚は、互いに音で会話というか、意思を伝え合っている。これはどうわではない、
とにかく、多作な先生で、物書きと言ってもいい。 シーラカンスは、おめにかかるチャンスだったのだが、残念ながら、おめにかかれなかった。
篠ノ井氏は、映像制作者で、ネス湖の恐竜とか、水中の怪物のドキュメンタリーが撮りたかった。そこで、油壺マリンパークに館長をしていた末広先生を訪ねてシーラカンスの話を聞く。そして、巨大魚であるのに、まだ水中で泳ぐ姿が撮影されていない。この撮影されていないと言うところに、映像制作者の篠ノ井さんは飛びつく。
そういえば、油壺マリンパークは閉鎖だ。ここのイルカランドに何度か撮影に行った。
最後は、イルカが隅田川に上ってくる話で、このときは自分でカメラを振らないで、中川のところに下請けにだし、上で指示をしていた。
篠ノ井氏は末広先生とで出会い、生きているシーラカンスを日本に持ち帰る計画を話し合う。このアイデアは末広先生のアイデアだ。
しかし、誰が考えても不可能に思えるアイデアを水族館長の末広先生がよくも考えたものだ。学者というよりもロマンチストなのだ。いや、学者は、元来ロマンチストなのかもしれない。
篠ノ井氏は、ヤクザ映画、それも安藤登のことを描いた映画で名を売っている。ヤクザの安藤とシーラカンス、水中の怪物、どこか通じるところがあるようなないような、
篠ノ井公平の映画作品|MOVIE WALKER PRESS
篠ノ井公平は映像制作者である。まだ、だれも生きて泳いでいるシーラカンスの姿を撮った者がいないということが、シーラカンスに踏み切って、よみうりランドのシーラカンスがとれたコモロ島にいくことを決意したが、コモロはなかなか、調査隊をコモロは受け入れてくれない。その交渉の苦労話が、第三章シーラカンスの戸籍と素性、第四章日本の学術調査隊コモロへ、に書かれている。交渉には9年も要しているがようやく、1981年の12月に、出発できることになる。
シーラカンスの釣れるのは、12月から冬の間であるという。
なお、この探検隊のスポンサーは、釣り道具のリョービが主で、その作る、自動釣り機でシーラカンスを釣ろうということだった。他に日本テレビなども、名を連ねている。
第五章 幻の化石魚の捜索活動を開始
ここで田沼の名前が出てくる。
現地リーダー 鈴木直樹 東京慈恵医大ME研究室
工学博士、鈴木さんは医学博士だとおもっていたのだが工学博士だ。
ダイバー 田沼健二 スガ・マリン・メカニック
映像監督 小林一平
カメラマン 堀田泰寛
顧問兼通訳 永岡謙一郎 60代で大手建設会社の人
篠ノ井公平 代表
コモロには、漁村がいくつもあり、漁師が、それぞれの部落に20人ぐらい居る。四つぐらいの部落とシーラカンス釣りの契約をして、カヌーを出してもらっている。
毎朝、契約している漁師が戻ってくるのを見に行ってから、朝食で、結構良いものを食べていて、果物が素晴らしくおいしい。
田沼が水深40mあたりまで、フランス人のダイバーと潜った記述がある。田沼はスガ・マリン・メカニックの作った曳航式のビデオカメラも持って行っているようでそれを壊してしまったことも書いてある。
地元の有力者、フランス人のオラガレィという人が出てくる。日本に、駐留軍としてきていたこともある人で、田沼からこの人のことをコモロのフィクサーだと聞いたが、まともな人で自動車工場を経営している。その人がシーラカンスのホルマリン漬けを持っていて、中国に送ったりしている。 その人から、シーラカンスをプレゼントとしてもらうことができた。親日家で、売らないけれど、プレゼントならするということだった。
第七章 日本隊の帰国寸前で釣れた大物。
本当に帰り支度をしているとき、1m70センチのこれまでで、2番目に大きいと言うシーラカンスが釣れた。これは、美しい魚で、これを持って日本に帰る。 解剖して、その所見を発表している。
※自分の記憶では、この部分が二次隊のようになっている。
この1981~982年が一次隊。二次隊が1984年で、これが、僕の日記に書いた時だ。
僕も自分が参加したプロジェクトではないので、時系列がよくわかっていない。末広陽子さんの著書も、時系列が明確でないし、そして、1984年の二次隊のことはほとんどふれていない。
※ここで、この前のブログに書いた1984年の日記の部分を再出する。
「 以下日記
1984年1月11日(日記)
※(日記の文とおりなので、その後の事実と合っていない部分もある。)
シーラカンス学術調査隊の最終ミーティング(AM1130~、三井アーバンホテルにて)
1月18日より、2月25日まで田沼君が行く。私は、2月22日に成田を出発して、2月25日にコモロの空港で、田沼君と交代する。
2月25日までに、シーラカンスが撮影されてしまえば、僕が行くことはないが、まず、そんなことはないだろう。
まず、この探検隊の隊員、構成について、
代表と呼ばれている。主催者は篠ノ井公平氏、映画プロデューサーで、本当にすごい人だ。
篠ノ井さんの映画代表作は、愛奴、愛欲映画だ。確か日活から配給されている。その他、「ヤクザ非情史」は、三部作、かなり当たった映画らしいけど、一本も見ていない。今思えば、見ておきたかった。面白そうだ。
カメラマンの掘田さんは、16mmシネカメラでドキュメンタリーを撮って来たベテランカメラマンで、太ってゆったり構えていて、人なつっこそうな人柄だ。 隊長の鈴木直樹さん、慈恵医大の電子医療機器を専門にするドクターであるが、シーラカンスの解剖学的な分野の謎を解き明かそうとしている。ダイビングは、出来る、と言う程度。現地では、全員、鈴木隊長の指揮下に入る。
中日新聞、中日スポーツの長谷記者も同行する。もちろん、新聞で報告するためだが、学術調査隊という性格から、一者独占にはならないと、篠ノ井さんか念を押されている。
対馬さん、この人が一番若い、英語が堪能で、通訳兼篠ノ井さんのアシスタント、撮影の手伝いもするというが、撮影のことはほとんどわかっていないみたいだ。
私がコモロに行く1月25日時点で、田沼、鈴木隊長、掘田カメラマン、長谷記者は還ってきて、入れ替わりで、篠ノ井さん、対馬さん、と私の三人だけとなり、なんとかして私が水中でシーラカンスの自然に泳いでいる姿を撮る。
今回は生きているシーラカンスを日本に持ち帰るという計画で、大きな運搬槽を持って行く。水を入れないで、200キロある。水を入れてシーラカンスをいれれば、1トンを越える。こんなもので、生きたシーラカンスを飛行機で運べるとは思えないのだが、水槽設計者の田口さんの説明を聞いていると、もしかしたら、と言う気持ちになってきた。
さて、今回のコモロ行きの目標だが
①シーラカンスの水中運動、生態の研究、すなわち、シーラカンスの生きて泳いでいる姿を水中で撮影する。 ②釣り上げられ生きているシーラカンスを保護して、日本に持ち帰る。
③冷凍されたシーラカンスでは、生理的な研究が出来ない部分があるので、現地で高鮮度なシーラカンスの細胞の研究をする。
この方向で撮影プランを作って田沼君に渡した、以下、その下書きである。
①釣り上げられたシーラカンスが、生きている状態で岸に到着した場合。
この場合が一番難しい状況になるでしょう。生きているシーラカンスの生け簀への収容、運搬に水産出身で、水族館勤務の経験もある田沼君がたよりにされている部分も大きいのですが、基本的にカメラによる記録も重要で、カメラマンであるという立場を重く考えてください。これは、篠ノ井さん、鈴木さんにも確認をとってください。
シーラカンスが死んでも、田沼君の責任にはなりませんが、シーラカンスの世話に追われて、水中でのシーラカンスの姿の撮影が出来ていないと、こちらの責任になります。生きたシーラカンスが日本に到着する可能性は低いけれど、まだ、生きて泳いでいるシーラカンスが水中で撮れていないと、責任になります。生きて岸に着いたシーラカンスの水中での泳ぐ姿の映像は絶対に必要です。と言って、逃げられてもいけないし。
②夜間に釣りかけられている現場にカメラを持って到着した場合の判断も大変でしょう。
生かして日本に持ち替えるためには、傷を付けたくないし、水中で釣リ揚げられるシーンもとりたい。
逃がしてしまったら、元も子もない。
代表と、鈴木隊長の指示に従うのでしょうが、この場合、生かして日本に持ち替えるということ、どだい無理な話だけど、とにかく、生かして岸に持ち帰ることでしょうが、最低限度の水中映像は抑えてください。シーラカンスの釣れるのは夜中、それも深夜らしい。
夜の潜水です。危険でもあるし、忙しくもあり、じっくりと腰を落ち着けて撮ることは出来ないと思います。なるべく、寄り気味に、できるだけ長く、カットを切らずに廻してください。5分ぐらいのカットが一つ撮れれば良いところでしょう。そして、とにかくライトが当たっているように、水中からは、250Wのバッテリーライトで、また、舟の上からは、懐中電灯タイプを5本束ねたものを水中に手を突っ込んで、シーラカンスに向ける。二つのライトを使ってください
③シーラカンスが死んでしまっている場合の釣り上げシーンの再現撮影。実はこの可能性が一番高いと同時に、これが一番安全、かつ成功の可能性が高いです
。
安全な海面で、夕方薄暮時に水中ライトの光束が水の中で目立つようになる頃に撮影をはじめると良いと思います。
カヌーからシーラカンスを吊して、波の動きにまかせて揺れていると、まるで生きているように見えるはずです。~この後、ライティングについて注意を書いているが省略
④水深40mぐらいまで潜ってのシーラカンス生態の撮影。これは後から行く私のやりたい、やるテーマですが、チャンスがあれば、どんどんやってみてください。ロケハンという意味もあって、少なくとも2-3回はやってください。
シーラカンスが釣り上げられている位置の近くで、
田沼君の場合は40m-50mぐらいまで、RNPLの減圧表で潜水してください。現地でのアシスタントの技能が頼りにならない場合には、40mどまりで、降下索を降ろして、命綱代わりにして潜水してください。
シーラカンスのいる海底の本当の地形の撮影だけでも意味のあることです。
なお、一回は鈴木隊長と一緒に潜水して彼の姿をとっておいてください。
※この後、機材とライト、ライティングの注意を細々と書いているが省略。
以上 日記から」
※ここから先は当時の日記では無いが、当時、自分が潜水して撮影プランについて、篠ノ井さんに要請されて、考え、説明していたこと。
まず、シーラカンスが釣られている水深は、正確にはわからないが、80-100mあたりらしいときいている。
80m-100mに機材も十分ではなく、頼りになるアシスタントもナシで、潜ることは、危険でありできない。60mが限界で、それも、なれない、潮流とか海況のわからないところで一人で潜るのは無謀に近い。それでも、あえてやってみようとおもった。釣りの餌に惹かれて、60mぐらいまでは上がってくるだろう。沖縄のソデイカ(烏賊)の撮影では、夜、100m以上の深さから、30mぐらいまであがってくる例がある。これに賭けるしかない。
結局のところ、僕はコモロには行かれなかった。アフリカ近辺の政治状況が悪化して、フランス海軍の海兵隊が、休暇の名目で続々と島に乗り込んできた。危険になってきたということと、シーラカンスが釣り上げられ、生きてはいなかったが、撮影プランのような再現撮影がかなりうまく行き、篠ノ井プロデューサーの眼鏡に叶い、獲れたシーラカンスを日本に持ち帰れば、一応の目標は達成されたということで、全員が戻ってきた。
海兵隊が乗り込んできたということで、僕は命拾いしたのかもしれない。行っていたら、状況によっては60mを越えて潜っただろう。
シーラカンスの生態、生き様はわかっていない。釣り上げられたのは、80mくらいからしい。それとても、丸木舟的カヌーに魚探があるわけでもなく、正確な水深は、わかっていない。漁師の舟に、調査隊の誰かが乗っていったわかではなく、釣れたという知らせを受けて、海岸に出向いて、釣りの再現シーンを撮ったものだ。
シーラカンスの形態、釣られ方から類推して、マハタ、クエのような生態だろうと推測した。おなじみのモロコである。モロコは、水深で100mぐらいまでいるし、釣り上げられる深さは深い。シーラカンスの釣れ方とにかよっている。水中銃で追い回していたが、水中銃で追われていない状況では、ダイバーが近づくと興味深げにこちらを見て、逃げようとしない。しかし、突き損じて、ダイバーが敵とわかると、岩の下に逃げ込む。
イシダイなどは、行き止まりの穴に入り、穴に追い込んで突かれてしまう。これを、「穴うち」と言って馬鹿にしたが、モロコ、ハタは一旦学習すると、決して行き止まりの穴には逃げ込まない。向こう側にするりと逃げ、行方をくらます。シーラカンスもそんな生活、生態をしているのだろう。
夜中に釣られるということは、夜中に自分の住処、岩の下からでてパトロールして摂餌するのだろう。そこで釣られるのだが、その大きさから考えても、相当広い範囲で餌を追うのだろう。だから、餌でつれば、40mあたりまで繰るはずだ。来なくては、撮影できない。
ただし、時間がかかる難しい撮影になることはまちがいない。篠ノ井さん、通訳と三人で、一ヶ月以上、コモロに滞在しなくては、できるかできないかの判断さえ付けられないだろう。
1984年、1935年生まれの僕は49歳、ダイバーとして、水中カメラマンとしても経験とフィジカル、ピークにあった。
1984年の僕のスケジュール、僕の行動記録をみると。
3月ー4月 水曜スペシャル 川口浩探検隊、セブ島で、猛毒ウミヘビが群れで、水中に潜っている川口さんめがけて降ってくる撮影。これは、今2023年でも、DVDが売り出されている。
グアム PICにスケートチャンピオンの佐野稔さんとのロケ
5月 沖縄で、ジェットスキーチャンピオンの曲芸的撮影、水面でカメラを構える、僕の上を飛び越していく。大学三年生で、法政アクアで仕込まれた潮美を助手にしていた。と
そのまま石垣島で、追い込み網、アギャーの撮影、これも親方の伊計さんに潮美は、ウミンチューに慣れると褒められた。
続いて、石垣島で北村皆雄監督のロケテングハギ突きと海歩き(うみアッチー)撮影。
石垣島で博物館を開いていた、探検の師匠である白井祥平さんを訪ねる。
6月 7月 アラスカ行き、日本テレビ 山中さんがプロデューサーで、グリズリーが泳いで、レッドサーモンを獲るシーン、米田茂を助手にして。
8月 再び北村皆雄さんと沖縄、糸満で、タイガーシャーク(イッチョウさめ)を追う。この時に、慶良間と渡名喜の間の慶良間曽根で、水深70mにカメラに餌をつけて降ろして、特大のはマハタをとった。シーラカンスもこの方法で行けるのではと思った。
9月 79Eのハウジングができる。
カメラ本体は800万で買えなかったが、電通の環境ビデオを撮る。
10月 知床の神の子池で撮る。
11月 フィリピン サンボアンガ 水曜スペシャル女探検隊を撮る。
CMASの日本支部ともいえるフェジャス発足、三笠宮殿下を総裁にする。関 邦博さんとともに発起人になる。
12月 新生日本潜水会45人集まる。六本木ドルフィン、学習院OB。兼高かおるの野田君のお店で
尾崎豊のプール撮影
ダイブウエイ フルフェース完成
1985年もこんな具合で,1986年にはニュース・ステーションの水中レポートシリーズが始まる。
こんなスケジュールで、シーラカンスの長期ロケなどできない。そして、自分の撮影仕事が繁盛するのに反比例して、1984年、スガ・マリン・メカニックは赤字になり、借金が1000万をこした。それはそうだろう。社長がほとんどロケに行っていないのだ。
さて、この時の現地コモロの状況だが、田沼君の報告からの伝聞である。
篠ノ井さんは、難しい人なので、人間関係を心配していたが、まずまずだったらしい。中日新聞の記者が浮いてしまったらしいが、これは仕方がない。鈴木隊長とは、うまく行っていたようだ。
現地は、ちょうどフィリピン、インドネシアの田舎の町のようで、のんびりして良いところらしい。観光ずれもしていない。
島は、フランス人の顔役が取り仕切っていて、自動小銃なども持った、私兵(子分)がいて、篠ノ井さんは、その人と良い人間関係を築いていて、それですべてができている。
※これが田沼から聞いたはなしだが、ちょっとちがっていたようだ。しかし、顔役であることはまちがいなく、この人、オラガレイ氏に信用され親しくなったことが、一応の成功の原因だろう。
カヌーでのシーラカンス漁も、当然、ボスの取り仕切りであり、なるべく多数の漁師を出してもらった。そして、運良く、滞在中にシーラカンスが釣れた。
そして、事前の読みのように、生きて岸に連れ帰ることは出来なかった。釣れたのは深夜らしいが、とにかく手漕ぎでもどってくるのだから、田沼君達が見たのは、朝になってからで、それから準備をして、その夜に撮影を、僕の書いたような装備と考え方で水中撮影をした。
撮影は上手に出来ていて、素人眼には、やらせに見えないで、本当のように思える出来映えだった。
この映像、確かに見たのに、そして苦労話も聞いたのに、末広陽子さんは、これに全く触れていない。この部分が僕の記憶とまったくちがう。
ゴンペッサよ永遠に、では「第二次隊の滞在40日の間には、シーラカンスは釣れなかったし、もちろん幼魚も手に入らなかった。しかし、コモロ政府からは、この二年の間に捕獲されて冷凍保存された、一尾をクリスチャン・オラガレイの世話で寄贈してもらい、それを日本に持ち帰った。」となっている。多分これが、公式発表なのだろう。二次隊は2尾のシーラカンスを持ち帰り、そのうちの1尾はどんな事情か、スガ・マリン・メカニックの作業所に大きい冷凍庫をおいて,一時あずかっていた。そして、社員は鱗をそれぞれ引き抜いて,記念にもっていた。僕も一枚もっていたが、机の引き出しで行方不明になってしまった。探してみたけれどない。今ならば、もっと大事にするのに、僕の欠陥の一つである。
そして、1986年5月第三次シーラカンス学術調査隊が8名がコモロに出発した。今度はシーラカンスの遊泳撮影を第一目標として、日本からは田沼隊員以下2名がダイバー兼カメラマンとして参加。
スガ・マリン・メカニックからは、田沼の他、井上孝一が参加したはずであるが、現地で参加したフランス人のジャン・ルイ・ジローの名前はあるが、井上の名前が無い。だから井上だったという確信がもてない。そんなことからか、この「ゴンペッサよ永遠に」はスガ・マリン・メカニック内では、評判が悪く、僕の書棚に残っていなかった、のかもしれない。
現地では、高さと幅は1m、横2.5mの金網のケージを作り、これを水深50mに沈めた。
そして、今度は延縄式で釣ってみようということになり、一度はかかったらしいが切られてしまい。滞在日数がきれて、機材だけはそのまま、釣りも続けるようにして、永岡さん(一番高齢の)を残して、日本隊
は、帰国してしまう。
そして、その後、永岡さんも日本に戻る前日に水深200mでシーラカンスがかかる。そして、水深5mのところで泳がせて、泳いでいるシーラカンスを撮る。しかし、これはフィルムだったのだが、失敗、写っていなかったしかし、幸運にもその直後にもう一尾、シーラカンスがつれ、これはケージに入れることに成功して、ビデオを撮ることができた。
マンボウの泳ぎ方に似ているらしい。このシーラカンスは人に慣れそうだったが死んでしまう。
田沼と井上は泳ぐシーラカンスを初めて水中で撮ったダイバーにはなれなかった。
この映像は見た記憶がある。素人が撮ったものだから、映像的にはどうしようもないものだった。
各国からこの映像購入の引き合いが来た、とゴンペッサには書かれている。がちょうどその1986年の夏、西ドイツ隊が小型潜水艇を持ち込んで、シーラカンスが岩だなの下に棲み着き泳いでいる姿を撮っている。これは良い映像で、日本でもテレビ番組で放送され、僕もこれを見た。映像制作者の篠ノ井さんとしては悔しかっただろう。
しかし、
日本では、持ってきたシーラカンスの冷凍と、二次隊で田沼の撮った映像を篠ノ井さんが編集したものなどを集めて、全国で、東京では池袋の東武デバートで、シーラカンス特別展示会が開かれた。もちろん、篠ノ井さんのプロデュースだったはずだ。図版のいくつかはその時のプログラムから切り取ったものだ。展示会は大入りで、シーラカンスに触るという趣向には長蛇の列ができた。そして、シーラカンスに触れた人には、シーラカンスに触ったことを証明するカードが発行された。僕はこの展示会には行かなかったが、行って写真を撮り、シーラカンスに触って、カードをもらっておけば、ここに貼り付けられたのに、残念なことをしたと後悔している。
これが何時の、何年のことなのか記憶にない。パンフレットに日時が入っていないのだ。多分、全国を巡回したためだろう。
篠ノ井さんも元はとっただろう?
田沼も計3回もコモロにいくことができ、一生の思い出になったと思う。
この展示会が1987年のこととして、それから30余年の月日がながれた。
篠ノ井さん、生きておいでだろうか。僕よりかなり年上のはずだから、90歳はオーバーしているだろう。お元気だと良い。そして、この文の間違っているところを直してくれると良い。篠ノ井さんはチャレンジャーだった。そして、奇妙な魅力のあるひとだった。
自分の記憶とは違った部分があったが、「ゴンペッサよ永遠に」は面白い本で、シーラカンスのことを」書いた本の中で、といって他の本を読んだわけではないが、この一冊で十分、そんな本だった。
自分の視点からかなりいい加減に書いた。そして長くなった。ブログだから、良いだろう。
そして、シーラカンスの夢は、まだまだ続く。
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0403 ダイビンググラフィティ29 シーラカンス ①
http://jsuga.exblog.jp/33173526/
2023-04-03T15:03:00+09:00
2023-04-03T15:19:14+09:00
2023-04-03T15:03:34+09:00
j-suga1
グラフィティ
グラフィティのタイトルで 60歳100mから、CCRの購入から講習、そして大瀬崎先端のハナダイを追って、窒素酔いジャンキーの話、そして、CCRを諦めたところまで書いた。
その続きで、シーラカンスのことを書こう。
シーラカンスは、世界で一番人気のある魚だろう。その仲間は、3億年前に地球上に多種棲息していて、両生類への進化の過程、その中間とも言われていている。そして、1.7mと巨大魚である。ちょうど、ダイバーにも釣り人にも人気があるモロコ、マハタと同じくらいのサイズだ。
そして、さらに、水深80m以上の深みに棲んでいる。1938年に最初の1尾が釣り上げられた。その場所は、アフリカとマダカスカルの間のモザンビーク海峡の北部に点在するコモロ諸島近海であった。その後、インドネシアのメナドでも、インド洋でも発見されたとも聞いたが、コモロが最初であり、また、自分がかかわったのもコモロである。。
アマゾンで、シーラカンスと検索すると、ぬいぐるみが多数でてくる。
水深80m以深に棲むことも、ダイバーが行けば行かれると思う限界の深度であり、命がけの深度である。とにかく、ダイバーであれば、死ぬまでに、シーラカンスの生きて泳いでいる姿を、目にしたい。水族館は、なんとか飼って見せたい。
スガ・マリン・メカニックがシーラカンスに関わったのは1980年代で、釜石湾口防波堤工事、龍泉洞のNHK番組の水中撮影、そして沼沢沼水中トンネルの調査など、深い潜水、冒険的な潜水で、少しばかり、名前が売れたことによって話が来たのだとおもう。自分が考えた企画ではない。
その1980年代は、原稿用紙ノートに記録とか企画とかを書き綴っていた時代だった。原稿用紙ノートなのでコピペで持ってくることができない。考えてみると、今これを書いているテキストライターは便利が良い。今の文体とはかなりちがうし考え方も全くちがうし、シーラカンスについての考え方もその頃と今ではちがう。だから自分としては面白くて、日記をできるだけ原型を残すことにする。
以下日記から
1984年1月11日(日記)
シーラカンス学術調査隊の最終ミーティング(AM1130~、三井アーバンホテルにて)
1月18日より、2月25日まで田沼君が行く。私は、2月22日に成田を出発して、2月25日にコモロの空港で、田沼君と交代する。
※田沼君は当時スガ・マリン・メカニックのNO2で、僕がいつも、良いところどりをして、面白そうな仕事は、全部僕がやり、ルーティンの調査仕事を彼にまかせていたので、今度は彼にまず行かせてあげようと思った。田沼君は日大農獣医学部、水産の出身で綿密な調査作業の長けていて、しかも絶対に船酔いはしない。やがて、僕が70歳で引退の後に、かれが社長になる。
大学卒業直後、たしか福井県の水族館に勤務してことがあり、魚の飼育方面の知識、実績もある。そのことも、このプロジェクトに出て行かせた理由の一つでもある。
2月25日までに、シーラカンスが撮影されてしまえば、僕が行くことはないが、まず、そんなことはないだろう。
まず、この調査探検隊の隊員、構成について、
代表と呼ばれている。主催者は篠ノ井公平氏、映画プロデューサーで、本当にすごい人だ。
しかし、私とはほぼ正反対の生き方をしている。まず秘密主義、絶対に一匹狼で仕事をしようとしている。
https://eiga.com/person/162637/
篠ノ井公平 プロフィール
https://www.allcinema.net/cinema/142944
篠ノ井公平制作 やくざ非情史
※この最終打ち合わせまでに、数ヶ月、何回か会って、ここまでこぎ着けているのだが、その間の感想を書いている。
私は、誰にでもフランクに、オープンにしているし、ある程度妥協しても人と仲良く仕事をしたい方だ。自分のそんなところを弱みと感じる時がないでも無いが、大自然を相手にするには、私の生き方のほうが良いとも思う。しかし、学術探検隊をここまで持ってきたのは、篠ノ井プロデューサーだ。
篠ノ井さんの映画代表作は、愛奴、確か日活から配給されている。その他、ヤクザ非情史は、三部作、かなり当たった映画らしいけど、一本も見ていない。その頃1980年代は映画館に行かないと映画は見られなかった。残念、今からでも見たいが。
カメラマンの掘田さんは、16mmシネカメラでドキュメンタリーを撮って来たベテランカメラマンで、太ってゆったり構えていて、人なつっこそうな人柄だ。
隊長の鈴木直樹さん、慈恵医大の電子医療機器を専門にするドクターであるが、シーラカンスの解剖学的な分野とか、細胞、血液の謎を解き明かそうとしている。これは現地で新鮮な魚を手に入れないとできない。ダイビングは、出来る、と言う程度。現地では、全員、鈴木隊長の指揮下に入る。
中日新聞、中日スポーツの長谷記者も同行する。もちろん、新聞で報告するためだが、学術調査隊という性格から、一者独占にはならないと、篠ノ井さんから念を押されているとか。
学術代表は魚類学者として高名な末広恭雄 先生で、確か末広先生の娘さんの末広陽子さんも魚類学者で「ゴンベッサよ永遠に」というシーラカンスの本を書いている。末広先生の信用で、この調査隊の費用を集めたとか。
対馬さん、この人が一番若い、英語が堪能で、通訳兼篠ノ井さんのアシスタント、撮影の手伝いもするというが、撮影のことはほとんどわかっていないみたいだ。
★★★★★
私がコモロに行く2月25日時点で、田沼、鈴木隊長、掘田カメラマン、長谷記者は帰ってきて、篠ノ井さん、対馬さん、と私の三人だけとなり、なんとかして私が水中でシーラカンスの自然に泳いでいる姿を撮る。
今回は生きているシーラカンスを日本に持ち帰るという計画で、大きな運搬槽を持って行く。水を入れないで、200キロある。水を入れてシーラカンスをいれれば、1トンを越える。こんなもので、生きたシーラカンスを飛行機で運べるとは思えないのだが、水槽設計者の田口さんの説明を聞いていると、もしかしたら、と言う気持ちになってきた。
さて、今回のコモロ行きの目標だが
①シーラカンスの水中運動、生態の研究、すなわち、シーラカンスの生きて泳いでいる姿を水中で撮影する。 ②釣り上げられ生きているシーラカンスを保護して、日本に持ち帰る。
③冷凍されたシーラカンスでは、生理的な研究が出来ない部分があるので、現地で高鮮度なシーラカンスの細胞の研究をする。
この方向で撮影プランを作って田沼君に渡した、以下、その下書きである。
①釣り上げられたシーラカンスが、生きている状態で岸に到着した場合。
この場合が一番難しい状況になるでしょう。生きているシーラカンスの生け簀への収容、運搬に水産出身で、水族館勤務の経験もある田沼君がたよりにされている部分も大きいのですが、基本的にカメラによる記録も重要で、カメラマンであるという立場を重く考えてください。これは、篠ノ井さん、鈴木さんにも確認をとってください。
シーラカンスが死んでも、田沼君の責任にはなりませんが、シーラカンスの世話に追われて、水中でのシーラカンスの姿の撮影が出来ていないと、こちらの責任になります。生きたシーラカンスが日本に到着する可能性は低いけれど、まだ、生きて泳いでいるシーラカンスが水中で撮れていないと、責任になります。生きて岸に着いたシーラカンスの水中での泳ぐ姿の映像は絶対に必要です。と言って、逃げられてもいけないし。
②夜間に釣りかけられている現場にカメラを持って到着した場合の判断も大変でしょう。
生かして日本に持ち替えるためには、傷を付けたくないし、水中で釣リ揚げられるシーンもとりたい。
逃がしてしまったら、元も子もない。
代表と、鈴木隊長の指示に従うのでしょうが、この場合、生かして日本に持ち替えるということ、どだい無理な話だけど、とにかく、生かして岸に持ち帰ることでしょうが、最低限度の水中映像は抑えてください。シーラカンスの釣れるのは夜中、それも深夜らしい。
夜の潜水です。危険でもあるし、忙しくもあり、じっくりと腰を落ち着けて撮ることは出来ないと思います。なるべく、寄り気味に、できるだけ長く、カットを切らずに廻してください。5分ぐらいのカットが一つ撮れれば良いところでしょう。そして、とにかくライトが当たっているように、水中からは、250Wのバッテリーライトで、また、舟の上からは、懐中電灯タイプを5本束ねたものを水中に手を突っ込んで、シーラカンスに向ける。二つのライトを使ってください。
※この学術調査隊は、第一次隊があって、書いた1984年が二次隊になるのだが、一次隊の時も田沼君が行っているのだが、自分では無いのでその記録が全くなく、二次隊は、日記が残っていたのでそれを書いているが、現地事情など、ここから先、書く内容は、田沼君の口頭の報告だけでなので一次と二次がミックスされている。
※印は、日記には書かれていないことを、2023年現在で、補足説明したもの。
※一次隊が撮った写真を見せてもらっているのだが、シーラカンスは、釣りで獲られる。現地コモロ島の釣り舟は、縄文時代もかくや、と思わせるような手作りカヌーが使われている。立派な漁船がない。つまり、島嶼国家であるにもかかわらず、漁業が栄えていないことが、深みに棲むシーラカンスが長い間発見されなかった理由かもしれない。しかも、シーラカンスが釣れるのは深夜である。深夜に丸木舟で漁に出るのは危険である。もちろん、無線もなく、水深80mを超せば、アンカリングもできない。だから、シーラカンスはまれにしか釣られることもなく、天敵もいなかったのだろう。3億年、生き延びた。
③シーラカンスが死んでしまっている場合の釣り上げシーンの再現撮影。実はこの可能性が一番高いと同時に、これが一番安全、かつ成功の可能性が高いです
。
安全な海面で、夕方薄暮時に水中ライトの光束が水の中で目立つようになる頃に撮影をはじめると良いと思います。
カヌーからシーラカンスを吊して、波の動きにまかせて揺れていると、まるで生きているように見えるはずです。
~この後、ライティングについて注意を書いているが省略
④水深40mぐらいまで潜ってのシーラカンス生態の撮影。
これは後から行く私のやりたい、やるテーマですが、チャンスがあれば、どんどんやってみてください。ロケハンという意味もあって、少なくとも2-3回はやってください。
シーラカンスが釣り上げられている位置の近くで、
田沼君の場合は40m-50mぐらいまで、RNPLの減圧表で潜水してください。現地でのアシスタントの技能が頼りにならない場合には、40mどまりで、降下索を降ろして、命綱代わりにして潜水してください。
※まだ減圧計はない。
シーラカンスのいる海底の本当の地形の撮影だけでも意味のあることです。
なお、一回は鈴木隊長と一緒に潜水して彼の姿をとっておいてください。
※この後、機材とライト、ライティングの注意を細々と書いているが省略。
※ここから先は当時の日記では無いが、当時、自分が潜水して撮影プランについて、篠ノ井さんに要請されて、考え、説明していたこと。
まず、シーラカンスが釣られている水深は、正確にはわからないが、80-100mあたりらしいときいている。
80m-100mに機材も十分ではなく、頼りになるアシスタントもナシで、潜ることは、危険であり、常識的にはできない。
60mが限界で、それも、なれない、潮流とか海況のわからないところで一人で潜るのは無謀に近い。それでも、あえてやってみようとおもった。釣りの餌に惹かれて、60mぐらいまでは上がってくるかもしれない。沖縄のソデイカ(烏賊)の撮影では、夜、100m以上の深さから、30mぐらいまであがってくる。これに賭けるしかない。
なお、そのころすでに調査の道具として使っていた吊り降ろし式のテレビカメラを使いたいが、当時のカメラ、ライトはまだ大きく、水面、船上から電源を供給しなくてはならず、そのための発電機などを入れると、かなり大きくなり、現地のカヌーには乗らないと思われた。現地にも、日本の援助などで贈られた小型漁船があったが、すぐに壊れてしまって使える状態にないという。
1970年~1980年代の南の島嶼では、漁業の盛んなモルジブあたりは別として、漁業のステイタスが低く、現地人の釣り漁業などの生活レベル、社会的なステイタスも低かった。先に述べたような、縄文時代的手彫り丸木舟のようなカヌーである。また、それだからこそ、シーラカンスが生き延びたともいえよう。
それに、現地の漁師のレベルでは、エンジン付きの、例えば、日本の3トン未満の漁船のような舟をつかったとして、沖合、洋上でエンジンが止まったら、海洋保安部も無く、無線もない状態では生きて戻れない。手こぎのカヌーならば、壊れる心配がない。帰ってこられる。そのころ、ロケに行ったポナペでもおなじような状況で、ポナペ本島の人は漁業には従事せず、カピンガマランギ環礁の人が、ポナペに来て部落を作って、丸木舟で漁業をしていた。その代わりに丸木舟での航海技術は、たいしたもので、どこまでも行かれた。
結局のところ、僕はコモロには行かれなかった。アフリカ近辺の政治状況が悪化して、フランス海軍の海兵隊が、休暇の名目で続々と島に乗り込んできた。危険になってきたということと、シーラカンスが釣り上げられ、生きてはいなかったが、撮影プランのような再現撮影がかなりうまく行き、篠ノ井プロデューサーの眼鏡に叶い、獲れたシーラカンスを日本に持ち帰れば、一応の目標は達成されたということで、全員が戻ってきた。その後もシーラカンスの水中撮影の話はあったが、ニュース・ステーションの撮影がレギュラー化したこともあり、出来なくなった。
海兵隊が乗り込んできたということで、僕は命拾いしたとも言える。行っていたら、状況によっては60mを越えて潜っただろう。
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0330 グラフィティ 28 CCR ② ハナダイ深度
http://jsuga.exblog.jp/33154417/
2023-03-30T10:18:00+09:00
2023-03-30T10:24:24+09:00
2023-03-30T10:18:31+09:00
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グラフィティ
大瀬崎 先端 サクラダイ
リブリーザの練習、独習をしていた2003~2004年に、波左間、西川名がホームだったら、ずいぶん楽だったと思う。その独習をしていた大瀬崎のゴロタ石の上で滑って転んだりして、けがをしたら、また、潜水後、御殿場越えをして減圧症になっていたら、千葉の館山だったら事故にならなかったのに、と悔やんだろう。
その時期、外房の乙浜で藻場の調査をしていた。タンクは館山の西川名で調達していたし、内房では、坂田の海洋大学のセンター、そして、西崎でも、塩見でも魚礁の調査をしていた。それなのに波左間には、年に一度ぐらいしか行っていない。なぜだろう。波左間に通うようになったのは、仕事としての調査を全部終了してからだった。巡り合わせと言うほかないだろう。
その頃は、仕事としての調査は、外房か、内房、遊びのダイビング、半ば遊び、楽しみのダイビングは、大瀬崎だった。
なぜ、大瀬崎だったのか、それも足場の悪い、大きなゴロタ石を重いタンクを背負い、ころんだら骨折の可能性のある大瀬崎先端 なのか、それはハナダイのためだ。ハナダイの類は、ダイバーのためにこの世界、それも伊豆半島に存在している。ハナダイは、アクアリストにも人気があるが。
この大瀬崎・先端のポイントは、ハナダイのために、深く潜るダイバーのメッカだったのだろう。自分にとっては、そうだった。
潜降していく斜面、浅い減圧停止深度には、ソラスズメやキンギョハナダイの大群が広がっている。ダイバーにとってキンギョハナダイがどんな魚か?は説明の必要がない。ダイバーではない、それでも海が好きな人は、図鑑の一冊ぐらいは持っているだろうから、それを繰れば良い。金魚が群れて、眼前、全体に広がっている。潜降して、キンギョハナダイを通り過ぎて、水深20mを越えると、サクラダイが出てくる。これも群れていて、大瀬崎先端では、ムチヤギの林の林間に居る。ぼつぼつとナガハナダイが出てくる。そして50mに近づくとスミレナガハナダイが出てくる。「ハナダイ深度」という言葉があるが、深度をとっていくと、次々とハナダイが現れる。もちろん、生き物のことだから、この深度は厳密名ものでは無く、水深20mでもスミレナガハナダイが見られることもある。ハナダイには、これも30mを超すあたりででてくるアカオビハナダイ、シロオビハナダイも見られる。は、水面は濁っていても、30mを越えれば、大体の時に透明度は良い。 マダイも多い
ナガハナダイ
スミレナガハナダイ
釜石のところで、窒素酔いジャンキーのことを書いたが、大瀬崎先端と伊豆大島、秋の浜は窒素酔いジャンキーのたまり場だった。そして、伊豆海洋公園もそうだが、海洋公園は、深度をとるためには、二番の根付近まで行かなくてはならないが、海洋公園は益田さん、友竹らが1960年代後半から、窒素酔いジャンキーになっていた。まだ、テクニカルダイビングなどという言葉もなく、勿論、僕らは何もしらなかった。テクニカルダイビングは、僕の60歳100m潜水のときに、日本ではじめて、ハミルトン博士の講演会をひらいたが、その葛藤は、60歳100mの項で書いた。
リブリーザ独習以前、1990年代後半、12リッターシングルで、大瀬崎先端、水深50-60mで、窒素酔いを楽しんでいた。
あるとき、潜っていくと、それらしいダイバーが一人で、ゆっくり潜降していく僕を矢のように追い抜いて行った。名のあるジャンキーなのだろう。
僕は、次第に窒素酔いになるのを楽しみながら、ゆっくり、それでも、減圧表の指定など無視した速さで60mまで達して、スミレナガハナダイを見る。窒素酔いの状態で、ハナダイを見るのは、夢のようだ。この酔いの愛好、大酒飲み状態になった奴を、窒素酔いジャンキーと僕は呼んでいる。
60mに達したら、タッチアンドゴー。直ちに引き返す。スミレナガハナダイをglimpse、ちらっと見たら、浮上をはじめる。よく、学生などに、魚は。observe、しっかり見て、写真を撮れ、と言ったりするが、オブザーブしていたら、減圧症になる。だから、グリンプス(チョロスナ、ちょろっとスナップ)の写真になる。ろくな写真は無い。12リットルシングルでは、減圧停止を長くする余裕は無い。潜降速度を早くしてターンプレッシャーは、120以上だ。引き返しながらも写真を撮る。ニコノス・ファイブに20mmを付けて、フィルムでの撮影だ。遊び、楽しみだから、社員ダイバーを連れて行くわけにはいかない」」。バディには、東大、理論天文学(現教授)の小久保君に何回かつきあってもらった。小久保君は、東大海洋調査探検部のコーチだったが、僕のバディをやらせたので、窒素酔いジャンキーになりかかった。反省したが、大酒飲みが酒をやめられないように、ダイバーが窒素酔いジャンキーになると、容易にはやめられない。窒素酔いの恐ろしさは、酔いだけではない。その酔いの魅力につかまってしまうことだ。
そんな状態のところにインスピレーションを買ってしまった。浅いところで、機材に慣れる練習をすれば良いのに、大瀬崎先端に行ってしまう。リブリーザにサイドマウントのベイルアウトタンクを持つと、重量は30キロを越える。それで、大きなゴロタ石を越えて行くのは、苦行で、転んだら大変だが、潜りたい一心で頑張る。
インスピレーションは、潜る寸前には、純酸素に近い酸素濃度に高めた気体を呼吸する。エントリーは労働だから、酸素濃度が高いと楽になる、そして、潜水直前にデュリエント、薄める空気を入れて、酸素センサーが設定する酸素濃度にする。この薄め操作を忘れると、酸素中毒になるので、アラームが鳴る仕掛けになっている。ある日、小久保君が、水中で変な音がすると、ハンドサインで知らせてくれた。僕の耳が、その頃から少し悪く、アラームの高い音が聞こえなかったのだ。今のリブリーザは、進化しているから、こんなことは無いだろうが、これが命拾いの第一回だ。もしも、バディがいなかったら、酸素中毒で死んでいただろう。
リブリーザのカウンターラング、呼吸袋は、一旦、深く潜り、少し浮上すると膨らんで、安全弁から気体が放出される。潜ると再び、空気が補給される。数回これを繰り返すと、浮上潜降の巾が1mくらいでも、どんどん希釈ガスが消費される。希釈ガスの容量は小さい。3リッターだったと思う。だから、水平姿勢で静止しないと危ない。僕は、水平姿勢での静止に自信がないから、海底に膝を着くようにして、先端の斜面を這い上がるようにして潜水していた。これなら身体は上下しない。ある日、それでも、希釈ガスを消費したらしく、タンクのガスが無くなった。水深60mだから、撮影のための少しの上下動でのガスの消費は大きい。浮上の途中、水深20mぐらいのところだった。
希釈ガスが無くなっても、カウンターランクは袋だから、呼吸は継続出来るはずと思っていた。だんだん浮上していくのだから、呼吸は続けられるはずなのだが、ガス分圧の変化のほうが恐ろしいので、希釈ガスがゼロになると、酸素も停まるようになっているらしく、
給気がとまった。ちょっと焦ったが、ベイルアウトタンクに切り替えた。しかし、60m潜っている。ベイルアウトタンクの容量、6リットルでは、減圧停止が充分にできない。空気が無くなるまで、3mに居て、後は運を天に任せて浮上した。1時間、ビクビクしていたが、減圧症の症状はでなかった。
なお、最近、辰巳でリブリーザの練習をしている中川が抱えているベイルアウトタンクは12リッターだ。
さて、東京にもどるには、大瀬崎の場合、御殿場をこえなくてはならない。一泊すれば良いのだが、予定が詰まっていた。これも運を天に任せて、御殿場を越えてもどることにした。東京から潜りに行く場合、西伊豆は、御殿場が癌だ。館山ならば御殿場越えはない。この時減圧症になっていれば、館山だったら、と悔やんだだろう。
御殿場を越えながら、祈るように心にに誓った。神様、減圧症にならないで越えられたら、リブリーザは終わりにします。幸運は3度と続かない。それに、バディを窒素酔いジャンキーにさせてしまう。 幸いにも減圧症の症状は出なかった。
田中光嘉の20世紀商事の社長に、インスピレーションを30万で引き取ってもらった。持っていれば、いろいろと考える。実は、この間、リブリーザを使った撮影の仕事もしている。「東京タワー」という映画で、主人公の岡田准一が、プールの飛び込み台10mから突き落とされるシーンを水中で受ける撮影、気泡を出せないので、リブリーザを使って成功した。
そして、この時にやめなければ、リブリーザで、その後、波左間で、深い、70m級の魚礁にもぐっていたことだろう。リブリーザを僕が使う場合、魚礁の中に座り込んで、1時間でも、石になっているつもりだった。上がったり下がったりしなければ良いのだ。海底の石になって、気泡を出さないで、魚の観察ができると思っていたが、田中光嘉を使って、そのような調査をする見積もりを、水産工学研究所などに出したが、決まらなかった。
※ダイビング・ワールドを出していたマリン企画では、マリン・アクアリストという雑誌を出しており、その別冊特集で1998年に「ハナダイ深度」という特集を出して、そのスタッフの中心だた橋本直之君は、慶良間の座間味でダイビングスタッフをやっていて、何度か一緒に潜った。確か日大の水産出身で、たまたま、座間味のガイドをやめて東京に帰る時、僕と一緒になった。座間味で飼っていたという肺魚をしっかり抱えていた。肺魚だから、水に入れないで東京まで抱えていかれるらしい。カメラマンとしても雑誌の編集も優秀だったけど、その後どうしているだろう。座間味で肺魚を飼っているなんて、粋だとおもったものだけど。
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0322 ダイビンググラフィティ 27 CCR ①
http://jsuga.exblog.jp/33105670/
2023-03-23T09:13:00+09:00
2023-03-23T09:17:18+09:00
2023-03-23T09:13:15+09:00
j-suga1
グラフィティ
インスピレーションを着けて魚礁調査中の須賀、実は浅い、水深20m
そして、予備のベイルアウトタンクを右側に着けているのはまちがいで
左側に着けるべきだという。
60歳の100m、テクニカルダイビングをやるつもりで、大がかりなシステム潜水を、これこそ、日本で、遊びでシステム潜水をやった唯一の記録で、今後こんなことをするダイバーは、出てこないだろうと思われる潜水をやり、テレビ朝日で全国にオンエアーした。
実はこの番組、もっと大きな企画で、この100m潜水にからめて、世界のスクーバダイビングのすべて、その歴史から、紐解こう。そして、コルシカ島で、水深100mから宝石珊瑚を採っている、アラン・ボゴシャンの話から、モナコの海洋博物館までまわり、ニースにあるスピロテクニークの工場に行き、ジャック・イブ・クストーとガニアンが作った世界初のレギュレーターの話も取材した。ディレクターは、ニュース・ステーションの立松和平さんと潮美の水中レポートシリーズで育ち、同じく水中レポートシリーズで一人前になった中川隆カメラマンと、組んで、「海の博物館」というシリーズで一本立ちした乾君が監督だった。そして、10月に館山湾、あの1963年の90mと同じ場所に潜水しようと万全の準備をすすめていた。ところが、僕が健康診断を受けたところ、高血圧症と、冠状動脈に欠陥がありということでドクターストップがかかってしまった。そのドクターストップを河合祥雄先生に助けられて、解除してもらったのだが、準備していた10月が出来なかったために、2時間枠の放送時間がとれなくなってしまい。ヨーロッパをまわった部分の多くがカットされてしまった。
乾君には申し訳ないことになってしまったが、ヨーロッパを廻ったことは、僕の大きな財産になった。
その60歳90mを終えても、まだ、僕は龍泉洞をあきらめられなかった。洞窟というのは、一度入ると、捉えられてしまう。自分の家、自分の洞窟のように感じてしまうのだ。
潜水部の後輩に、テレビの撮影カメラマンをやっている古島茂君(第24代)がいる。同じ仕事だから、いろいろ袖すり合う因縁があった。が、自分が終わるまでに、一度くらい、古島君といっしょに仕事、撮影をしたいねと語り合った。その時に、龍泉洞はどうだろうと話を持ち出した。古島君はリブリーザを駆使して撮影している。リブリーザで、気泡を出さないと、魚に接近しやすいという。
魚に接近はとにかくとして、。気泡がでなければ、気泡に当たって落ちてくる龍泉洞の濁りもできないだろう。そして僕は、リブリーザ、CCRこそが21世紀の潜水機だと思っていた。しかし、一方で、リブリーザをやらなかったことが、自分が今生きている理由の一つだと思っても居た。リブリーザの開発も試行錯誤の部分がずいぶんとあり、試行錯誤の錯誤の部分で、ずいぶんと犠牲者がでている。呼吸気体の酸素分あるの低下は、ダイバーにそのことを知覚させることなく、その命を奪ってしまう。
銀色の死、エレクトロラング、あこがれの潜水機だったのだが。
1975年、日本にもエレクトロラングという名称で輸入されたベックマンのリブリーザは、米国で事故が相次ぎ、タンクが銀色のメッキで光っていることから、「シルバー・デス」 銀色の死 とよばれたということだ。1970年代、まだバックアップするサイドマウントタンクが普及していなかったのだろうか。
アメリカの海底居住計画、シーラブ計画も、リブリーザの呼吸ガストラブルで死亡事故が起こり、これが引き金となって、この巨大な計画が停止してしまった。
しかし、僕もどこかの時点で、リブリーザをやりたいとは思っていた。古島君に相談した。リブリーザについては、古島君が先輩だ。
古島君は、リブリーザを使うときに同行してもらっているという豊田君を紹介してくれた。2003年の秋のことだ。
豊田君の会社は、テクニカルダイビングセンタージャパン、新橋の駅の間近だが、エレベーターのないビルの5階に事務所がある。機材を持っての上り下りで、確かに体力は鍛えられるが。そして豊田君は、アメリカのテクニカルダイビングの指導団体IANTD(アイエーエヌディーティーディー)の日本代表でもあった。
購入したリブリーザは、インスピレーション、価格は121万8千円だった。そして、このインスピレーションはIANTDの資格をもっていなければ、購入できないという。その資格、まずマスターダイバーの講習を受けることになった。2003年、僕は1935年生まれだから、68歳、自慢では無いけれど、ダイビングの講習は、講師をすることは、1967年の日本潜水会設立以来数しれないが、受講するのは1957年の水産大学の講習受講以来の経験だ。1996年にテクニカル・システムダイビングで100m潜っている、そんなことは、INATDのキャリアにはならないのだ。
湯河原プールで、インスピレーションを使って見る。
湯河原にあるプールで講習を受けた。このプールは、先日、潰れた、営業を停止したプールだ。このプールが潰れたことに際しては、その復活を願う募金があり、いろいろなスキンダイビング、フリーダイビングの知人たちが応援しているということで、その募金に付き合った。どんな募金かというと、プールの復活を願うようマスコミに騒がせる。その騒ぎを煽る資金だという。しかも、どの程度騒ぐかは、保証していない。少し考えれば、完全な詐欺だ。しかし、1500円とか2000円は付き合いだ。と思って応募し、電話番号とメールアドレスを抜き取られた。が、これも浮世の義理だから、仕方がない。マスコミの騒ぎも起こらずプール復活の兆しもない。学んだことが一つ、以後決してこのようなアドレスを抜き取られるような募金にはつきあわない。現金を現金書留で送る募金になら、応募しよう。この抜き取られた情報で、もしかしたら少額のお金がカードから外国に吸い取られているかもしれないが、調べようがない。ネット犯罪のおそろしさだ。
湯河原プールでは、25m潜って泳ぐ途中でのマスククリヤーとか、いろいろあったが、とにかく、IANTDのマスターダイバーには合格し、次は、フィリピンのセブ島、マクタンにあるコンチキ・ダイビングセンターでの海での実習になった。三日間だったか、四日間だったかの講習、一人では実施できないというので、名古屋の浅井さんにも、インスピレーションを買わせて、参加させた。セブ、マクタンのコンチキは良いところだった。
IANTD公認?の看板を付けていて、混合ガスの製造ができる。ヘリウムも日本よりも安価、容易に入手できるらしい。日本でもこのくらいの設備があってもいいだろうが、無い。日本はテクニカルダイビングの後進国になっている。ホテルも日本よりも安価に泊まれる。
ただ、エントリーが岸からだが、危なっかしい手すりのない階段を30キロのリブリーザを背負って上り下りしなくてはならない。豊田君は新橋の5階で鍛えているから問題ない。海は、入り江で波も無く、深度もとれる。ぼくらは、10m前後の平らな海底で練習したが、ちょっと泳げば崖になっていて90mぐらいまで降りられるらしい。
見事に不合格になった。30キロ以上あるくそ重いインスピレーションの水中でのとりまわしが中性浮力ではできなかった。マウスピースのシャット、開閉でミスがあった。
豊田君は、別の講習グループも見ていて、こちらの方は、やや進んでいて、30前の若い人だが、終了試験、体験で、90mまで潜ったそうだ。僕が90m潜るのは大変だった。60歳の100mはシステム潜水で、100名近くのサポートがあったお祭り騒ぎだった。こちらは、数週間の練習で、豊田君がバディでもぐったっが、それだけで90mだ。
別の組の講習生、これから90m 潜るらしい。
テクニカルダイビングとは、そういうことなのだ。その代わりに、システム潜水では、パーフェクトに近く死なないが、テクニカルでは容易に死ぬ。豊田君の教えたテクニカルダイバーがフリーダイビングの監視役で潜っていて、死んだ。直接的な原因は、常に不明だが、サイドマウントのエマージェンシータンクを持っていなかったらしい。持っていれば助かったかもしれない。豊田君には、講習でサイドマウントタンクとの切り替え練習を何度もやらせられた。なんとなく、おかしくなったら、すぐにマウスピースを閉じて、サイドマウントに切り替えろ、という。なんとなく異常ってどういうのか?それは説明できない。個人差もあるし、その時の環境、シチュエーションにもよる。
このドキュメントの終わりのところで、自分の死生観を述べよう、説明しようと思っているが、短く言えば、海で死んで何が悪い、陸でだって人は普通に死ぬ。自動車事故でも死ぬ。海に生きたのだから、海で死んで責められることはおかしい。教える方にミスがあれば、賠償責任保険で対応する。たいていの場合、ミスがある。自分のミスで死んでも、インストラクターがいっしょにいれば、そのインストラクターの賠償責任保険で対応される。自分一人ならば、自分の生命保険しか降りない。ただ、その原因だけは、もしも安全を謳うならば、公表しなければならない。CCRを200万出して買うレベルになれば、死ぬのは自由だが、その原因、経過の報告は義務だとおもう。
フィリピンでの講習で、合格しなかったが、やることの大概はわかった。
インスピレーション機材もも合格しなかったら、返品、返金というわけではない。そうだったら、全員合格になってしまうだろう。
大瀬崎先端は、深度がとれるので、そこで独習して、機材になれることにした。
このあたりで、田中光嘉とと縁ができた。彼はテクニカルダイビングのロイ・ハミルトン博士の弟子筋だった。
「なぜ、僕のところに相談に来なかったの? 自分なら最後まで面倒を見るのに。」豊田君も僕を見放したわけではない。不十分だから、セブ島の講習に通えといっているだけなのだ、しかし、そんな時間もお金も無い。リブリーザでする仕事などないのだ。水深60mまでなら12リットルダブルで楽に行ける。スガ・マリンメカニックは、深潜りを得意にしていたこともあるけれど、やがて、メンバーの加齢とともに、そして、1990年の事故以来、そんな危ないことは仕事ではできないということになり、40m以上の仕事はしないようにしていた。。
そしてさらに、ちょうどその時、スガ・マリン・メカニックを閉める時期が来ていた。10人のダイバーを抱えて行くのはつらかった。僕が50歳、みんなが30歳ならば無敵だった。無敵だったが故に前途のある若者を殺してしまった。そして自分は60歳を越えて、社員メンバーも自立するべき年齢だ。全員を部長、課長にしてそれぞれに部下を従えさせる経営の才は自分にはなかった。僕は、自分が先頭に立って潜りたいのだ。撮影の会社、アアク・ファイブ・テレビも中川が独立の時が来ている。テ・ルというレジャーダイビングの販売店も、担当していた大西が独立の時期がきていた。
リブリーザは、すでに200万を超えるお金をかけてしまっている。もう、無駄金は使えない。だいたいのことはわかった。独習することにした。田中光はサイドマウントの予備タンクを持たなければ危ない。そこに置いてあった6リットルの細身のアルミタンクを6万円で買った。後に、これが、僕の命を救うことになる。
続く
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0219 ダイビンググラフィティ24龍泉洞
http://jsuga.exblog.jp/32936759/
2023-02-18T19:08:00+09:00
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j-suga1
グラフィティ
2月5日に日本水中科学協会最大の年間行事である水中活動シンポジウムがあり、その後処理というか、皆さんにこのシンポジウムのことを知らせる作業に集中していて、ブログが滞っていた。
停滞すると連続性が切れてしまって、部分的には繰り返しになってしまうのだが、とにかく、接続しよう。
1970年代に話をもどす。
1970年代は、テレビの撮影、テレビのドキュメンタリーや、ニュース取材がフイルムからビデオに代わる時代だった。
テレビはテレビカメラが作られたために成立したのだが、そのカメラは巨大であり、太いケーブルを引きずっていて、スタジオで台車付きである。スポーツ中継は大型バスのような中継車が行って撮る。
これでは、ニュースやドキュメンタリーの撮影現場、例えばベトナム戦線には持って行かれない。16mmフィルムで撮り、フィルム映像をテレビ映像に変換する。
ハウジングを作った70DRは、ニュース取材用のカメラで、戦場では、報道カメラマンが、砲弾に当たって飛び散っても、手にしていたDRは、直撃されない限り、生き残っていて、そのカメラマンの最後に撮った映像が残っているというカメラだ。
摩周湖は、このフィルム撮影で取材したが、放送局のテレビ映像に本格的に関わったのは、このフィルム時代ではなく、録画するテープの巾が1インチのリールから、四分の三インチのカセットになり、録画レコーダーが、ようやく肩からベルト掛けて抱えて走れる大きさになり、カメラも担いで走ることが出来る程度の大きさになり、このレコーダーとカメラをケーブルで繋いで、二人一組で走る、録画するシステムでニュース撮影ができるようになったころだ。このシステムを、ENGシステム、エレクトロニック・ニュース・ギャザリングと呼んだ。
それは海について言えば、小笠原が変換された1968年頃で、テレビ局各社は、このカメラの水中ハウジングを作り、レコーダーは、ボートの上に置き、ケーブルで水中テレビハウジングとむすんで水中撮影ができるシステムを作った。ところが、この水中テレビシステムで水中撮影をするカメラマンが各社にはいない。そこで、カメラマンにダイビングを教えるか、ダイバーにカメラ撮影手法をおしえるかの議論があった。ダイビングは命にかかわるから、ダイバー、すでにダイビングが出来る者にカメラを持たせた方が、安心だ。とはいえ、使い物にならない映像を撮られても困る。
東亜潜水機を退社するとき、引き留められるとともに、マスク式の潜水機の製造はできないような、これは信義的な約束をした。
そこで、ハウジングを作る島野徳明と、高校時代の友人の友人であり、摩周湖に一緒に行った鈴木博と三人で、スガ・マリン・メカニックを設立したのだが、テレビカメラのハウジングもつくり、そのテレビカメラを使って、主に水産関係の調査、人工魚礁の調査もするようになっていた。
自分のところで作った、最新鋭の撮影機材で調査をするというのがスガ・マリン・メカニックの売り、セールスポイントだった。
それが糸口になって、日本テレビ(NTV)山中プロデューサーの水中撮影を受けるようになり、ポンペイのナン・マタールの遺跡、ガラパゴス、アラスカ、日本一周、知床で撮影をやるようになる。世界を股に掛けるというと格好が良いが、社長業を放り出して留守にするわけだから、社長業としては失格になったが、自分では満足、幸せだった。
★★★★★
振り返って見ると、自分のダイビング人生はいくつものルートがあって、それが絡み合っている。知床ルートがその一つだが、そのルートではなくて、釜石から、龍泉洞に行き、龍泉洞から沼沢沼に行くルートに話をもどそう。ディープダイビングと、トンネルのように、頭上に水面の無い、閉鎖空間への潜水のルートだ。
龍泉洞は、NHK仙台の大橋プロデューサーの仕事だった。NHKには、親友の河野、竹内、親友でライバルの南方などそうそうたるカメラマンが居るのに、なぜ、僕にカメラが来たのかという理由をちょっと話した。それは、撮影が、フィルムから、ビデオに移行する隙間での、NHKの職制の隙間の出来事、フィルムのカメラマンは、ビデオカメラを振れない、使えないという隙間でのできごとであった。
そこで、龍泉洞なのだが、
龍泉洞は鍾乳洞である。最近は、メキシコのセノーテとか、沖縄や、徳之島の海の中の洞窟探検を仲の良い友人たちが励んでいるが、龍泉洞は、鍾乳洞と呼ぶにふさわしい鍾乳洞である。
鍾乳洞は、石灰岩地形を湧き出す地下水が溶かし、穿って、まるでスポンジの断面のように立体的な迷路となる洞窟である。竜泉洞も、地中深く~」湧き出してきた水が、洞窟の中を川のように流れ出て、岩泉川に注いでいる。
洞窟の中の川に沿うように観光用のコンクリの道があって洞窟の行き止まりまで行ける。観光銅である。
動物は穴があれば隠れ家とする。原始時代の人間も洞窟を家にした。穴居である。岩泉龍泉洞にも穴居のあとがあり、穴居人の博物館的な展示が洞窟の入り口近くにある。
水が穿った洞窟だから、進んで行くと水に阻まれる。水面があれば泳いで、水面が無ければ潜りぬけて行かなければその向こうには行かれない。洞窟探検は、水は潜りぬけ、壁があればよじ登り、人間が入れるような穴であれば身を縮めて通り抜けて先に進む。苦労して進んだ先が大きく広がる大洞窟であれば大発見である。
人は、海にはどこまでも深く潜り、山があれば頂上まで上り、洞窟に入れば行き止まりまで行きたい。そして、それが人の命を奪うことになるのだが、ある種の人間、ダイバーもその種の一つだが、行き止まりまで行くこと、もしかしたら、向こう側の出口からでるまで、進むことを止められない。
竜泉洞に魅せられた男が居る。ダイビング用品メーカーとして成功し、その後は、消防用の呼吸器に乗り換えてさらに成功した日本ダイビングスポーツ社の松野庄治さんだ。
昭和42年(1967)に行われた竜泉洞潜水調査の報告が、雑誌「海の世界・1968年2月号」に掲載されている。書いたのは松野さんと一緒に潜った越知研一郎氏だ。
「くぐり抜けて水深計を見ると、なんと52メートル。海でも経験したことのない深さだ。空中の6倍の水圧でウエットスーツが煎餅のように薄くなり、冷たさが身にしみる。身体の下にはぐんと深い淵。100メートルを越えそうな奈落が真っ黒く落ち込んでいる。奥へ奥へとロープを引っ張って懸命に泳いだ。松野君がピタリとすぐ横を進む。キャップランプの光がたよりない。 ――中略―― 奥へ進もう。X洞の地点へ出て驚いた。水中にスパン!と断層が抜けている。ビルの谷間と言おうか、いや大きな都市の駅前通りにいっぱい水をためたようだ。せめて15階建て以上のビルの群でないとその大きさは想像できない。大地底湖だ。
ぐんぐん浮上する松野君、かすかに水面の広がりを見た瞬間、僕は急に気分が悪くなった。吐き気とともに頭も胸も苦しい。
引き返そう。思いきりロープを引っ張って合図した。すぐUターンしたところまでは意識がはっきりしている。ロープだ。生きるためにはロープを引くのだ。目の前が真っ暗になり、ロープがクモの糸のように一筋に伸びているのだけが印象に残っている。」
越智研一郎さんと松野さんは、見つけた大洞窟をX洞と名付けた。鍾乳洞は立体的な迷路だ。同じ地点に行くことはとてもむずかしい。記憶だけでは行かれない。見たと思った? X洞に行こうと調査を継続する。昭和43年(1968)、彼等のグループのダイバー2人が調査を行った。新たな洞窟が見つかれば、観光の宣伝になる。隔てている壁を掘りぬけば、巨大な地底湖が壁の向こうに広がる。
1人は戻ってこなかった。
鍾乳洞の潜水では、ダイバーが吐き出す気泡が鍾乳洞の壁にあたって、壁に貼りついた水垢、泥のような堆積物が巻き落とされる。それまで水晶のように澄み切った水が、一瞬にして視界ゼロになってしまう。光の届かない暗黒の中での視界ゼロだ。濁りの中では、ライトの光は全く通らなくなってしまうから本当の暗黒だ。出口を見出せなくなったのだ。
洞窟、トンネルの潜水の事故は、出口に戻れなくなって亡くなる。今でこそ、そのラインの引き方、使い方が一つのシステムになっているが、その時代はそんな方策はない。
この事故の時、岩泉町では、新しい巨大な洞窟の発見を祝おうと、シャンペンを用意して、待っていたのだと言うが、一人が戻って来なかった。そして、松野さん達の龍泉洞探検は終止符を打つ。
松野さんたちのグループの中心で、先ほどの海の世界の記事を書いた越智さんも、その龍泉洞ではなく、生計のための仕事にしていた船底の清掃作業で命を落とす。
船には海藻だとか、牡蠣の類だとかの付着物が水線下に付く。これが水の抵抗になり速度が落ち、燃費がかさむ。ドックに入れてこれを落とすのだが、ドックに入れないで、ダイバーが落とす作業も行われる。勿論、ダイバー作業の方が、コストも時間も少なくて済む。巨大な油槽船などでは、船底は、運動場のように広い。出口、浮上できる縁が何処なのかわからなくなる。コンパスは効かない。大廻しロープを設置して作業するのだが、それでも、危険な作業である。越智さんは、これで命を落とした。
僕らの時代、スクーバ潜水は、普通に、不注意で、あるいは不可抗力で、たやすく命を落とした。僕の場合は、幸運の星が頭上に輝いていて、ここまで生き延びた。注意深かったわけでもない。技術的に優れていたわけでもない。ただ、幸運だった。
僕らが作った龍泉洞の図
その僕が、巡り合わせで、竜泉洞のX洞を目指す。松野さんに挨拶をしておかなければならない。仁義を切って置かなくてはならない。様子も聞いて置きたい。古い友人だったから、知っていることは何でも話してくれると思ったのだが、竜泉洞については口を閉ざして何も語らない。それでも、友達だからと、X洞入り口の部分の簡単な青焼きの図面をくれた。そして、上に向かう穴には全てと言って良いほど、ガイドロープが垂れ下がっているけれど、そのどれも目印にはならないと教えてくれた。つまり、ガイドロープがたれている穴は調査済みということらしい。そういう目印にはなっている。
竜泉洞の奥、観光舗道の行き止まりは、差し渡しで15m程度の泉である。少し高く作りつけたテラスから見下ろすと青い透き通った水が深みから湧き上がっている。湧き上がると言っても、強い流れではない。潜るのに何の支障もないような湧き上がりだ。ここから潜り込んで壁をくぐり抜ければ、本当の大地底湖がある。はずである。いや、地底湖と呼ぶのだから、水面がなくても、空間が無くても地底に拡がる水間があれば、それが地底湖だ。地底湖は存在している。その向こうに空間が有るか無いか、空間の地底湖を探すのだ。その空間の水面にでれば、ビルが一つ建つほどのドームがある、のだという。
★★★★★
潜水メンバーは、河合、井上、田島、米田、鶴町、そして、自分、須賀だ。その当時のスガ・マリン・メカニックのベストメンバー、スガ・マリン・サーカスだと自負していて、そのことが、その思い上がりがやがて事故を起こすのだが、とにかく、チームで動けば恐ろしいものはなかった。それに、見習いの堀部を連れて行った。堀部は歩行者天国で踊っていたロックンローラーで、暴走族、食べさせればいくらでも食べる力持ちだ。洞窟の中での荷物運び要員であるが、ダイビングでも使えないことは無かった。
堀部は言った。「一目見て、暴走族とわかるようなシャコタンの車を買いましょう。須賀さんはそれに乗ってください。似合います。」そう言われて、二人で検討したことがある。スカGの良い車を見つけたのだが、馬鹿にはなりきれず、買わなかった。少し、後悔している。一生に一回ぐらいは、そういう方向の馬鹿をしてもよかった。堀部は、やがて、数々の武勇伝を残してスガ・マリンメカニックを去り、父親の後を継いで事業に成功し、青年会議所のメンバーになった。が、挨拶に来ない。お歳暮一つ来ない。しかし、そういう、殺しても死なないような奴が、ダイバーには向いている。とも言える。
まず釜石で経験し、慣れた、水面からホースで空気を送るフーカー式潜水で潜ろうと計画した。洞窟での事故は、迷路に迷い、空気が尽きるために起こる。ホースで空気を送る潜水ならば空気が無くなることは無い。ホースで水面から空気を送っているのだから迷うことも無い。
第二ゲート
水に入り竪穴を降りて行く。水深35mで竪穴の底に着く。さらに、斜め下方に向かって急角度に降りている洞窟の奥にカメラを向けて、500ワットの有線ライトで照らした時、人生観が変わったと思うほどの衝撃を受けた。大きな広がりに、陸上の空気と同じほどの透明度で光が通っている。そして透明な青、河合が別の有線ライトを持って先に進む。太鼓橋のようなブリッジが20mほど先にある。その地点までライトを進めて、ブリッジにライトをくくりつける。
ダイバーはシルエットになり、気泡がライトに照らされて、光り輝きながら上に向かう。、ブリッジの下をくぐりぬけると、先には青黒い暗黒が下に向かっている。ブリッジの部分を第二ゲートと名付けた。
衝撃を受けた光景を映像にしたい。美しい映像を作るためには三次元的なカメラの動きが必要だ。ホースでは自由な動きが出来ない。自由に洞窟の空間で動くためには、ホースがどうにもならないほど邪魔だ。フーカーのホースはあきらめて、全てスクーバで行くことに決めた。ホースはX洞への通路に入るときから使えば良い。この通路で、おそらく一人がでられなくなり、亡くなったのだから、僕らは穴に入るときは、ホースで行こう。
自分で撮る映像に、自分で魅せられてしまい、いくらでもテープをまわしてしまう。映像も大事だが、X洞への通路も探さなくてはならない。上にも下にもいくつもの、人間がようやく身体を突っ込めるような隙間がある。まるでスポンジのような鍾乳洞の、スポンジの隙間全部に入り込んでみる時間は無い。テレビ番組のロケだから、時間には限りがある。
黙して語らない松野さんを拝み倒すようにして教えてもらったことは、「水深50mあたりから上へ向かう穴があり、穴を上に向かって行くと5mか6mで行き止まりのようになる。行き止まりの壁を左の方に、ダイバーがタンクを背負ってようやく入って行かれるほどの隙間のような通路がある。少し苦しいけれど何とか入り込んで2mほど進むと突然のように大きく開けて、そこがX洞だ。大丈夫だよ、何とか行かれるよ」と教えてくれた。
当時の日記、1981年の6月の日記から抜粋、リライトする。
鶴町は通算9回目の潜水で、第三ゲートを少し越えたあたりに人間がようやく入って行かれるような穴が上に向かっているのを発見した。次の日、
6月24日、河合がカメラを持って行く。鶴町が見つけたと言う上に向かう穴を探すのだが、同じ場所に行かれない。同じ穴なのかどうか区別がつかない。皆同じような穴に見えるという。
通算11回目の潜水は、須賀がカメラを持って撮影した。第二ゲートと第三ゲートの間あたりに、上に向かってダイバーが入って行けるか行けないかぐらいの大きさの穴を二箇所発見した。一箇所には、一度入ったという印のロープが吊り下がっている。もう一箇所がちょうど55mだ。上に向かっている。これに違いないと思った。しかし、入り込むには空気が不足している。スチル写真を撮り、思いを残して立ち去った。ホースだったら入ってゆけたのだが。
6月25日
通算第12回目の潜水。河合、田島が撮影に入った。洞窟は水深68mで行き止まりに見えるという。地底湖は、水深68mで底になっているのだろうか。
続いて通算13回目の潜水を鶴町、井上、米田で行い。水深55mで上に向かうたて穴を見つけた。二人は、この穴がX洞への通路だと言い張る。多分僕の見た穴とおなじだろう
コレガX洞に向かう入口だと思った
6月26日
6月19日から潜水撮影を開始したのだから、8日目だ。これで予定していた日数が尽きる。
テレビ番組だから、何か山場を作って盛り上げて終わらせなければならない。あと一回だけの潜水だ。55mで上に向かう穴がX洞への入り口であったとしても、あと一回の潜水では、入って行くのは無謀だろう。 幸運だけでは生き残れない。無謀だと思うことは、やらないことにしていた。第三者がみれば、それでも充分に無謀に見えただろうが。
一日前の潜水で、河合と田島は、水深68mで行き止まりになっていることを発見したという。底があるのならば底を極めよう、と相談がまとまった。
最後の潜水だから、水面の基地で指揮をする米田を残して全員が潜水した。須賀がカメラを持ち、河合と鶴町が先行した。彼等がいう68mの底まで行こう。後方でビデオ信号のケーブルをさばくのが井上、田島、堀部だ。その頃のテレビ・ビデオカメラは、水面に録画のVTRを置き、カメラとの間をケーブルで結んでいた。命綱付きの潜水だ。僕らは、このケーブルのおかげで、何度も命を救われている。つまり、その時代に生きた(潜った)ことは、幸運の一つでもあった。
地底湖での潜水では、なぜか窒素酔いは軽い症状だった。少しおかしい感じ、ぐらいで終わって居る。何故だろう。淡水で、しかも水が冷たくて8度だからか?
とにかく、この時の潜水まで、窒素酔いは少しばかりいい気持になるだけで、不快感もなければ、意識が途切れることも無かった。どんどん潜って行って60mを越えた。すぐに70mだ。おかしい。70mあたりに底があるはずではなかったのか。下を見ると、竪穴が真っ直ぐに下にむかっている。青黒い透明で、下の深さはどのくらいあるかわからない。70m地点で底なしの穴の中に浮いている。浮いているというが、深くてウエイトがオーバーになっているのでどんどん沈んで行く。サーチに出ていた河合と鶴町が戻ってきて、僕の腕をつかんで引き上げにかかった。僕は、到達地点で水深計の指針をカメラに収めようと思っている。なにか水深の証拠が撮れなければこの潜水は終わらない。腕を振り解いて、その水深で停止しようとする。彼等は上に引き上げようとする。水深70mでの格闘だ。上で見おろしていた井上と田島は、窒素酔いで、狂った三人が格闘しているのかと思ったそうだ。ようやく鶴町の水深計をつかんでカメラの前に持ってきて、意図を理解させた。水深計の指示は73mを示していた。彼らに引き上げられていたから、本当は80m近くまで落ちていたかもしれない。浮上と決めてからは、あっという間に水面に向かって駆け上がった。用心のために減圧停止を長めにしてから浮上する。
あとで計時を調べてみると、潜降を開始してから73mまで潜り、浮上して減圧点に戻るまで、3分弱しか経っていなかった。規則で決められている一分間に10mの率どころではない、一分間に50m以上も潜降し、浮上している。そのころは未だ、停止点までは、早く上がっても良いと考えられていた。その後、浮上途中の水中で減圧症になるダイバーが多くなり、深く潜った場合には、停止点まで、カタツムリが這うようにゆっくりと浮上しなければならないことになった。カタツムリが這っている間に死んでしまう奴もいるだろう。速攻で上がって潜水病になっても生きていた方が良い。
撮影が終わっていないのに、何故引き上げたのだと、彼らを問い詰めると、その時の僕の顔は、目が点になっていて、つまり視野狭窄の状態で、潜水を続けたら危ないと思ったのだそうだ。
地底湖は、50mから60mの途中で、左右に二股に分かれていた。鶴町と河合は前回の潜水で、わき道にそれてしまって底についた。今回は本筋を行ったので底がなかった。本筋に行ってよかった。枝洞に入って底を発見したなどと番組で放送したら大恥をかくところだった。
僕たちは、国内の鍾乳洞で水深73m潜水の記録を樹立した。というと聞こえは良いが、73mまで墜落したのだ。水深計を映しているから記録になる。
NHK夏休み特集「地底湖の謎―謎の大洞窟」は昭和56年(1981年)8月20日に放送され、巨人対広島の野球放送の裏で、野球放送を抜いて驚異的視聴率を上げた。出世コースを驀進した大橋プロデューサーは、いつもこの視聴率を後輩に成功例として話したそうだ
鍾乳洞というのは、人を引き込む魔力があるらしい。その洞窟が自分の洞窟だと思いこんでしまう。もしかしたら遠い祖先、人類が穴居生活を送っていた原始のころの記憶がどこかに残っているのかもしれない。
この撮影に参加したみんなが竜泉洞は自分の洞窟だと思いこんだ。あと一息でX洞が見つかるところまできている。あと一歩だ。この撮影をあと一週間続けられたならば、ホースを使って、あの穴のところまで行けば、入って行かれた。一度東京に帰って器材の整備と点検をして仕切りなおしができるならば、行けていたと思った。
この項続く
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0824 スガ・マリンメカニック
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2022-08-24T20:18:00+09:00
2022-08-24T20:21:54+09:00
2022-08-24T20:18:47+09:00
j-suga1
グラフィティ
ブログを書き始めたのは、2005年で、その頃は楽天ブログを使っていた。楽天ブログだったのは、2008年までで、掲載できる写真が小さいのとか、いろいろあって今のブログに代わった。
しかし、自分として、この楽天時代の文章が好きだ。
今、文章を書いたり、調べものをするとき、自分のブログをチェックすることが多い、楽天ブログにインデックスがないので、不便なので、もう一度、読み返してインデックスを作っている。
そのうちの2007年の7月-10月のセクション。
リサーチ・ダイビング入門というシリーズを始めていて、このタイトルでは何を書いたのかわからないので、そのためにインデックスを作り始めたともいえる。いま読み返してみると、1980年代のスガ・マリン・メカニックへの挽歌である。1980年代のはじめ、スガ・マリン・メカニックは、サンダーバードのつもりだった。そして、1990年、一番若い社員脇水輝之が死んで暗転する。
その様子が、このセクションのブログであった。
危機一髪の連続である。その危ない場面は全部切り抜け、減圧停止中、海はべた凪という状態で、死が訪れる。
ブログ index 2007年 6月から10月
リサーチ・ダイビング入門 リサーチ・ダイビング入門 2 スガ・マリンメカニックメンバー紹介 サンダーバードのようなチーム リサーチ・ダイビング入門 3 スガ・マリンメカニック 田島、釜石湾口 沼沢沼 リサーチ・ダイビング入門 4 沼沢沼 海綿 リサーチ・ダイビング入門 5 沼沢沼 危機一髪 リサーチ・ダイビング入門 6 水中レポート 東京港水中生物研究会 遠泳 塩見 リサーチ・ダイビング入門 7 脇水入社 潮美フィリピンで呼吸困難 西川名でカメラを落とした。 リサーチ・ダイビング入門 8 沖ノ鳥島 読んで面白かった本 リサーチ・ダイビング入門 9 中田誠さんの本 リサーチ・ダイビング入門 10 長時間観測システム 脇水の死 リサーチ・ダイビング入門 11 脇水の死 フリッパークラブ 館山遠足 リサーチ・ダイビング入門 12 脇水の死 リサーチ・ダイビング入門 13 脇水の死 佐渡ツアー 1-6 ネコサメ アナゴ リサーチ・ダイビングにもどる リサーチ・ダイビング入門14 脇水の死 調査の続きをやる リサーチ・ダイビング入門15 バディシステム リサーチ・ダイビング入門16 脇水の事故 真野先生の意見 田島君と出会った 映画「守護神:」 赤沢の藻場 三陸海岸 リサーチ・ダイビング入門17 脇水の事故 スクーバダイビング講習 スクーバの特色 お台場観察会 リサーチ・ダイビング入門18 卒業論文 リサーチ・ダイビング入門19 サザエの棘 リサーチ・ダイビング入門20 ドライスーツ 恵理さん リサーチ・ダイビング入門21 人工魚礁調査 浦賀 造礁珊瑚の白化 リサーチ・ダイビング入門21 リサーチ・ダイビング入門22 人工魚礁調査 危機一髪 リサーチ・ダイビング入門22ー2 危機一髪 続 9月29日 リサーチ・ダイビング入門23 安全確保 リサーチ・ダイビング入門24 無敵だと思いつつ死んでいったかもしれない僕 9歳の女の子にスクーバを教えた。 10月4日 金谷 リサーチ・ダイビング入門25 スクーバダイビングの危険検証 危険の三つの条件 1.義務感・使命感、:目的に対する執着、モチベーションと呼んでも良い。 2.運用方法の誤り: 知識・経験の不足 3.フィジカルな条件:身体的な技術の未熟、体調、健康状態 三宅島眼鏡岩 10月6日 三宅島冨賀浜 10月7日 三宅島 伊賀谷 リサーチ・ダイビング入門26 潜降索 10月12日 舘山 10月13日 荒川 の芦原
Jul 7, 2007 リサーチダイビング入門ー2 1987年、脇水輝之は、東海大学海洋学部を卒業して、スガ・マリンメカニックに入社した。
東海大学には、海洋探検部、通称「海探」という伝説的なダイビングクラブがあった。「海探」は、伊豆海洋公園で、ドラム缶を伏せたようなものを水中に沈めて、海中居住をやろうとして、2名が死亡しその幕を閉じた。※このことの記録がないか、探しているがない。当時のことをしっている伊豆海洋公園の益田さんも、友竹もこの世にいない。NHKのカメラマン河野さんだけが、このことを知っているはずだ。脇水輝之は、その後で東海大学に入ったから、「海探」ではない。サークル的なスキンダイビングクラブを作り、彼はそのクラブのキャプテンだった。
スガ・マリンメカニックには、海探の経験者がいる。中川隆は、僕の撮影助手をやり、その後、娘の須賀潮美がやっていたニュースステーションのカメラをやり、現在はフリーで、おそらくビデオ撮影では日本最強のカメラマンである。中川も、東海大学「海探」的、伝説の人である。カイタンはしごかれる2年次まで、しごく方にまわってからやめている。沖縄空手をやっていて、時々屋上でヌンチャクをふりまわしている。
彼の卒業論文は、西表島の東海大学の研究所でオニヒトデの産卵をテーマにしたものだった。他のダイバーたちは、卒業論文を見せてくれなかった。中川は見せてくれたから、立派だった。読ませてもらったが、オニヒトデの卵巣を食べたところだけが印象に残った。食用にはならないそうだ。
新婚旅行では、その西表島に行き、山越えのキャンプをやり、道に迷って帰ってこられなくなり、花嫁は白髪ができた。ニュースステーションのロケで、トカラ列島の悪石島にトビウオの産卵撮影に行った時のこと、宿のおばさんが、朝作って出したポテトサラダを夕食にも出した。暑いところだから少し匂いがした。中川は、マヨネーズをかければわからないと言って全部食べた。ロケの宴会で酔っぱらって、社長の僕にバックドロップを炸裂させた。受け身が取れなければ、大けがをするところだった。別に怒ってやったのではない。親愛の表現だったらしい。 スガ・マリンメカニックのメンバーは、どこかの大学の潜水部出身が多いが、そうでない人も居る。河合君は、プリンスホテルでコックの修行をして、オーブン前まで行ったがやめて、スガ・マリンメカニックに来た。どうして、ここにたどり着いたのかわからない。
おどろいたことに河合君は泳げない。せめて、25mは泳げるようにしようとプールに連れて行ったが、プールの端をつかんだまま離れない。それでも、いつの間にかチーフダイバー(まとめ役)になり、最も信頼できるダイバーになった。彼の実家は、鎌倉の市役所の近くでやっているラーメン屋で、それもなかなか評判が良いという。僕は社員の家を訪問したことなど無いのだが、ラーメンが食べたくて行った。彼のお母さんとおばさんが二人でやっているお店だったが、本当においしかった。そのおばさんが、僕のことをジーット見ている。
次の日、河合君が来て、おばさんは霊感の強い人で、僕の後ろに悪い霊が付いている、お払いをしないといけないとも言っている。僕は、お払いに行くのは嫌だから、代参が可能かどうか、どこに行けばよいのか教えてもらうように頼んだ。代参は可能で、それは、河合君ともう一人同期の人で河合君と火と水の関係の人が居るので、二人で行くようにと指示があった。同期のダイバーは、鶴町君と言い、中央大学のダイビングクラブ出身で、NAUIのインストラクターである。人柄としては誠実で絶対に信頼がおける。二人はおばさんに紹介され、三浦岬の方のお寺に行った。
二人は本堂に座らせられ、その周囲を坊さんが奇声を上げてインデアンのように飛び回り、二人は笑いをこらえるのに死ぬような思いをして、お札を頂いてきた。お札は大事にしていたのだが、そのうちにどこかに飛んで行ってしまったが、僕の背中にいた悪い霊は、払われたらしく、今まで生きている。
その頃、後に、この会社を引き継ぐ、田沼健二が入社してきた。彼については後で触れるが、絶対に船酔いしない調査のエキスパートである。船酔いをする学者は船上では役に立たない。船上の指揮官であり、潜水は一番下手で、海底に足を着けて、皆の顰蹙を買っていた、当時はBC.は無かったが、それでも、フィンで海底を掃くと馬鹿にされた。
新井拓というダイバーがいる。河合、鶴町、田沼が入る前、僕一人では仕事にならないので、専属フリー、客分のような形で一緒に潜っていた。仕事のあるときだけ来る。そのころ後輩の奥さんを事務員アルバイトに頼んでいたので、仕事の無い時にも、人妻の顔を見に来る。 新井拓が、はじめて鶴町の顔を見たとき、「あれー、おめーは、常井村(とこいむら)の鶴町村長らちの息子でねーけー?」と、茨城・福島弁で声をかけた。
鶴町の実家は水戸の在の常井村で、おじいさんが村長をやっていた。新井拓は、この村に疎開していて、鶴町村長にずいぶんお世話になったのだそうだ。その時に、茨城・福島弁を覚え、だから自然に口から出るのだ。
片岡義男という人の小説がある。主人公の男は、サーフィンをやり、オートバイのライダーで、自由気ままに生きている。女性はみんな自立していて、男を自由に選んでいる、というけっこうな世界を描いている。本当にそんな男がいたら、どうなる?というのが新井拓だった。大きな単車を乗り回し、コルトレーンのサックスについて語り、サルトルとカミュウについて、語りながら女の子を口説く、本人が何を言っているのかわからないから、女性は混乱する。奥さんは美人で、館山の資産家の娘、拓ちゃんを放し飼いにしていた。幸いにして、アルバイト事務員の人妻は、彼のことを相手にしなかった。
僕は彼と一緒に潜って、一度も不愉快な思いをしたことが無かった。いつでも楽しかった。ダイバーとしては、超が付く一流で、僕のところに来る前は、海洋技術センター(今のJAMSTEC)で海底居住計画の器材係をしていた。僕とは撮影のスタイルが違うが、カメラマンとしても一流で、その後は、主に日本テレビの水中撮影をやるようになった。今は、(2007年当時)館山の海岸通りにジャズとコーヒーそしてライダーの店を開いていて、時にはスガ・マリンメカニックのダイバーをやっている。
米田茂は、日大のスキン・スクーバダイビングクラブの出身で、職人ダイバーであり、職人カメラマンでもある。職人の常として絶対的に誠実だが、偏屈であり、お母さんの煮る正月の黒豆が世界で一番美味しいと思っている。渋みのある良い男だけれど、当然、嫁に来る女はいない。
井上孝一も東海大学海洋学部の卒業で、バイオテレメトリー(魚に発信機をつけて追跡調査する)を卒論のテーマにしていた。電子機器のエキスパートである。彼の特色は、全てにネガティブな判断をすることだった。だいたい、ダイバーはネガティブな判断をする人が多い。でなければ生き残れない世界ではある。何でもポジティブでは、命がいくつあっても足りない。が、それにしても、井上君に、何かを相談して、すぐに賛成してくれたという記憶が無い。
僕の理想とする仕事のスタイルはサンダーバードだった。
※2007年のブログであり、現在2022に書いたものではない。
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海へ ⑦ This is philosophy
http://jsuga.exblog.jp/32035551/
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グラフィティ
ジミー・イグレシアス 右 と僕の当時の撮影助手 鶴町通世(左)
ジミーは本当に童顔だった。
これまで、フィロソフィーという言葉を気楽に使ってきた。フィロソフィーとは、哲学のことだが、ここでは難しい哲学のことではない。
1980年、日本テレビ、山中康夫プロデューサーとガラパゴスに行った時のことだった。撮影隊にはエクアドル国立公園のスーパバイザーが一緒に行動する。ガイド兼、監視員だ。僕たちに付いたのは、ジミー・イグレシアスという若者、小柄だったから、ただのガキ、少年のような奴だった。それでも難しい試験を通り過ぎてきたということだから、エクアドルでは秀才だったのだろう。ダイビングができるガイドということで、彼が来た。最初は威張っていたのだが、一緒に潜って溺れかけて、僕たちに助けてもらってから、態度が変わり、仲良くなった。Cカードレベルのダイバーだった。日本から、スクーバで潜りに来るロケ隊が来るというので、急遽ダイビングを習ったのだろう。
左から二人目、ジミー、その右、助手で同行してもらった西沢邦昭さん、VEの野呂さん、山中プロデューサー、そして鶴町君
ガラパゴス周航、10日間、に使ったボート、右側が僕らの乗った、「パトフェオ」みにくいアヒルの子 の意味だとか、居住性の良い、使いやすい船だった。左側が、「エンカンターダ」魅惑の宵、とかいう意味、帆船タイプで、格好がいい。動物カメラマンの内山さんをレポーターにした班がつかった。2班で、2本の番組を作った。
僕は、朝早くおきて、シーイグアナ(海イグアナ)が水に入って、海藻を食べるシーンを撮ることになった。イグアナはたくさん居て、溶岩のような岩の上でじっとしている。海に飛び込んでくれなければ水中撮影はできない。仲良しになっていたジミーに、「ちょっと、二三匹海に落としてくれないか。」とたのんだ。首を横に振る。だめだ。という。イグアナは、気温が上がり、厚くならないと水に入ろうとしない。海藻は,陽が高くなり、暖かくなっても逃げることはないのだから、当然と言えば当然なのだが、とにかく、待って、11時頃にならなければ水に入らない。そのうちにアシカがやってきて、おもしろがって、手鰭をパタパタやって、イグアナを落としはじめら。「ほら、アシカがやって良いならば、僕らもやっていいだろう。」
「だめだ。あれはアシカ、野生動物だからイグアナを落としても良い。人間はやってはだめだ。」「結果は同じではないか。」「いやちがう。ジスイズ・フィロソフィー」と言われて、僕は納得した。
ルールだとか、義務だとか言われると、縛られるようで嫌だ。フィロソフィーといわれると、うん、そうかと納得できる。それから、僕はフィロソフィーという言葉を愛用するようになった。スクーバダイビングでも、一人にならない、フィロソフィーなのだ、とか。
海イグアナ ピンぼけ、時間があるのだから、イグアナのスチルを撮っていれば良いのに、その頃の僕は、テレビの撮影に来ているのに、スチルを一生懸命に撮っていたらいけない、という変な倫理感を持っていた。振り返って見れば、意味のないことだけど。
ジミーだが、僕たちに心服して、僕の持っていた全日本潜水連盟のインストラクターライセンスがほしいと言う。OKして、会費をもらってきた。全日本潜水連盟に言うと、理事会に掛けられて、だめと言う答えが来た。ガラパゴスで潜れるスーパバイザーは、ジミーぐらいのものだ。その後、世界の水中撮影隊が行くたびに、全日本潜水連盟のインストラクターであることを誇りに思って、見せて廻るに違いないのに。
僕は、めんどうなので、お金を返さずに猫ばばした。いいのだ。ジミーには、僕のダイブウエイズのフィンとマスクをあげてきたのだから。
それから、十年ぐらい時間がたち、ガラパゴス撮影の計画が持ち上がった。僕は、ジミーをガイドにリクエストした。元気でやっているということで、承諾が来た。今度こそ、全日本潜水連盟のインストラクターのカードを持っていってやろう。インストラクターではなくても良い、特別のカードを作れば良い。日本語で書いてあれば、どれも同じだ。それともまた理事会でわけのわからないことを言われたら、お金を返そう。やはり、気がとがめていたのだ。
しかし、出発直前にこの企画は流れてしまい。ジミーからはかなりの金額の違約金をとられた。まあ、これでお金を返したことになる。それでも、十年後、ずいぶん成長し、きっと偉くなっていたジミーに会いたかった。
よく遊んでくれたアシカ
エンカンターダ
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海へ⑥ 地中海のアカサンゴ採り。(60歳の100m潜水より)
http://jsuga.exblog.jp/31869137/
2022-06-22T20:19:00+09:00
2022-06-22T20:27:34+09:00
2022-06-22T20:19:12+09:00
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グラフィティ
地中海の赤サンゴ
関教授は、ある時期、サンゴの研究に集中していた。現在ではサンゴというとサンゴ礁を造る造礁サンゴのことを思ってしまうが、その昔はサンゴと言って庶民の思い浮かべるのは、「金銀珊瑚綾錦」と言われる宝石サンゴである。その宝石珊瑚の養殖の研究だ。 今頃の若い女性ダイバーは、造礁珊瑚に熱心だが、日焼けした肌にワンポイントの深紅の宝石珊瑚は、とても似合う。「コーラル・ルネッサンス」珊瑚を今再びというプロジェクトを珊瑚取扱業者が企て、関さんの研究のスポンサーになり、係わるようになった。関さんが仕掛け人なのかもしれない。多分そうだ。
この人、どうやって、こういうところに潜り込むのだろう?やはり神奈川大学教授という看板、そしてフランス語がペラペラなのが良いのか。さらに、表現に独特の説得力がある。
巨大な宝石サンゴを持つ、関博士
※今、2022年、
1980年代の「ダイバー」の書写をしているが、その中に関教授(当時)の連載がある。抜群に面白い。「生きた海中の秘宝(Ⅳ)宝石珊瑚」1986年4月号ダイバー 関 邦博 によれば、宝石珊瑚には、日本産は、シロサンゴ アカサンゴ モモイロサンゴがあり、地中海産はベニサンゴで、最大でも親指大である。
1980年代だったが、新宿の京王ホテルのロビーとワンフロアーを貸し切りにした大イベント「コーラル・ルネッサンス」宝石珊瑚の展示、即売、関さんの講演もある。招待チケットが来たので、僕も行ってみた。宝石珊瑚の特売は、賑わい、売れていた。講演の内容は、日本の珊瑚の品位を落としたのは、沖縄国際大通りだとか、そして、宝石珊瑚の養殖を計画しているとか。
珊瑚は動物である。やがて、希少生物を採集したり移動したりすることを禁じるワシントン条約の対象になるのではないかと珊瑚商社は気遣う。サンゴの人工的な養殖が成功すれば、養殖した珊瑚はワシントン条約の対象にはならない。しかし、関さんは、その同じ舌の先で、イタリアの珊瑚商人は、もう充分なストックを持っているから、ワシントン条約ができても、そのために値上がりするから良いのだといったりする。ともあれ、年間100億円の外貨を日本の宝石珊瑚は稼いでいるという。その養殖を試みることは、急務であるとともに、お金になる、と関教授は書いている。
とにかく、日本も珊瑚の生産地である。小笠原、四国の高知、九州の男女群島、奄美大島、沖縄などで水深100m以上の岩礁に珊瑚が生きている。ここぞと言うところに鉄のドレッジのような珊瑚網・採集器を降ろして曳き廻す。この方法では折れ砕かれて採集される。希に、折れていないのが上がると、大変な値段になる。珊瑚採りは、博打なのだ。そして、人を惹きつける。
小形潜水艇、あるいはダイバーによる方法ならば、砕けないで採集できる可能性が高い。300mまで潜れる日本の小型潜水艇「はくよう」は、漁船登録をしている珊瑚採り漁船でもあった。数千万の珊瑚を採ったという話を聞いたことがある。
宝石サンゴのもう一つの本場中の本場は地中海である。地中海のサルディニア、コルシカでは、ダイバーによる採集が日常的に行われている。
養殖のために珊瑚の棲息場所の状況を調査しつつ採集しようとするならば、ダイバーが潜水して行うのがベストである。関さんは二人のダイバーをコルシカ島から呼んで、四国・高知の足摺で潜水させた。お金はコーラル・ルネッサンスから引き出したのだろう。きっと。
アランとエリの二人がコルシカから来た。僕が係わったのは、水深80m以上で壊れないスチルカメラを持っていたので、それを貸すことであった。なぜか、浜松町のホテルで、二人のダイバーに会い、カメラを手渡して、使い方を教えた。関さんは二人の珊瑚ダイバーを連れて、高知行きのフェリーで、四国は、宿毛の森田君のところに行き、森田も参加して、珊瑚採りダイビングをやった。
森田は、親しいダイバーで、中尾先生の海綿採集で、何度も、毎年のように通っているのだが、その前に、四国足摺で、浮き魚礁の撮影で、潮流3ノットの黒潮の直中で、二人で無謀なダイビングをやったりしている。65歳の時だ。その直後に僕は癌になり・・・その話は、また何時か。
アランとエリの生きた宝石珊瑚採りダイビングは成功して、採集できた。
同行した森田君によれば、珊瑚のある沖ノ島は、潮が速く、しかも複雑。小さい玉浮きを連結したブイを入れる。中層に流れがあれば、表面で流れていなくても、ブイが沈む。何個ブイが沈むかで流れを判断して、行くか止めるか決める。80mから100mに潜っている。宿毛にヘリウムを送ったのか?、送ったとしても、そんなに多くは送れないだろうし、混合するステーションもない。どうやったのか、森田に今度会ったら聞いてみよう。
森田も一度だけ一緒に潜って、宝石珊瑚を見たという。言葉で表現できない特別だという。ヘリウムを入れたとしても、後に聞くことになるアランの流儀ならば、水深60m相当の窒素分圧で潜っているはずだから、窒素酔いで朦朧となった頭で宝石珊瑚を見れば、この世のものとは見えないだろう。
とにかくこのダイビングは、森田にとっても生涯最大の冒険だったにちがいない。
※そうだ、「窒素酔いジャンキー」の話も書いておかなくては。
窒素酔いの恐ろしいのは、アル中と同じように、窒素酔い中毒になることだ。これは、ダイバー以外はかかる心配がないが、透明度の良い水深60-70mで窒素酔いになると、ほぼ天国二いるのと同様になる。
窒素酔いそのものは、何の害も無い。二日酔いにもならない。浮上してくれば爽快である。ただ、浮上タイムテーブルをを忘れて長く水中にとどまって減圧症にかかる恐れがある。1980年代の終わりから1990年代のはじめ、僕が窒素酔いジャンキーに近お状態になっていたころ、大瀬崎の先端に行くと、水深30mあたりで、浮上して行く自分とすれ違うようにして、まっしぐらに、深みへ降りていくダイバーとよくすれちがった。たいてい一人だけだ、すばらしく上手に見える。多分、窒素酔いジャンキーだ。
僕の貸した耐圧100mの分厚いハウジングは凹んで戻ってきた。だから、彼らはまちがいなく、100mに潜っている。円筒形だから、凹んでも水は漏らなかったが、写真は撮れなかっただろう。写真は見せてもらっていない。
決死で採った、生きた宝石珊瑚はどうなった?真鶴、琴ヶ浜のダイビングセンターの福島君のところに預けて飼育してもらったというのだが、すぐに死んでしまったらしい。関さんは別に落胆している様子はなかった。とにかく、生きた個体を手にして撮影できれば、良かった?
今、沖縄の美ら海水族館では、生きている宝石珊瑚が、飼育、展示されている。水槽で見ると地味な珊瑚だ。
1996年、僕の60歳記念で100m潜水をすることになり、そのテレビ番組撮影の一環として、関さんに紹介を頼んで、コルシカ島にアランを訪ねて、彼の潜水方法を詳細に見て、要点を教えてもらうことになった。
ニースからコルシカ島のアジャクシオに飛び、さらに車で2時間、サルテーヌという町へ、ここに泊まった。ここからは、通訳としてパリ大学に留学中の三浦さんが加わった。朝、アランの奥さんが迎えに来てくれる。ベトナム人で個性的な美人だ。先導する奥さんの車はルノーで、ホンダのオデッセイに似ている。どうもホンダが真似したらしい。フランスでは、ルノーとプジョーに同じような車があり、どちらも人気があるそうだ。舗装していない道のしかも下り坂の曲がりくねった道を奥さんは平均80キロで飛ばして行く。ほとんど暴走族だ。30分で港に着いた。チザノという小さい港だ。小さな漁船が15隻ほどで満員になってしまっている。
アランの船は30フィートほどの高速艇で一人用の再圧チャンバーが積んである。
アランが床が錆で抜け落ちたような、車検がある日本ではお目にかかれないようなジープでやってきた。
お互いの顔は覚えていないが、四国行きのフェリーの乗り場でカメラの受け渡しをしたことは覚えていた。顔は忘れていても、会ったことがあると言うことは、一瞬にして古くからの親友のような気分になれる。二人とも互いに親友の様な顔をして、再会を喜ぶ風にテレビ番組のカメラに収まった。
私はバイキングのドライスーツだけを持って来た。それにデジタルの小さなビデオカメラだ。タンクとウエイトを貸してくれるようにアランに頼んであるのだが、これがスクーバは無いという。愕然とした。
アランが用意していたのは、タンクは30リットルくらいの大きなタンクに、空気は100キロぐらい入っている。20mのホースがついたフーカーのレギュレーターがあった。船底などの掃除につかっているらしい。これで何とかなる。鉛は周囲の漁船から、魚網の鉛をかき集めてロープに通した。これを腰に巻く。日本だと、ダイビングをやると言えば、例えば僕のところには、予備のレギュレーターもBC.もウエイトもいくつもあるし、タンクも数本はあるのだが、ここコルシカ、地中海では、余分なものは、置いていない。
アランにはジャックという助手が居て、彼が殆ど全ての仕度、雑用、船の操船をする。アランはただ潜るだけに集中できる。
出港して10分ぐらい走ると、今日の潜水予定点に到着した。目印に、ペットボトルが浮かべてある。タコ糸よりも、もう少し太い、水切りの良い丈夫な糸が海底に伸びている。この糸に沿って潜るのだ。
アランが背負うタンクは、二本組のタンク、これは10リットル程度のタンクを二本連結してある。二本のタンクの間に少し細長い12リットルぐらいのタンクを乗せて束ねてある。三本セットになっている、二本組には空気が詰められている。それに乗せられた一本がボトムガスで、今日は70%の空気に30%のヘリウムを加えてある。空気は酸素と窒素だから、このガスはトライミックスである。計算すると、14%の酸素、30%のヘリウム、56%の窒素になる。これで100mまで潜ると、空気で70mに潜ったのと同様な窒素酔いになる。アランは、この程度ならば窒素酔いに耐えられるのだ。ヘリウムを多くして、減圧停止時間を長くするよりは、窒素酔いに耐えた方が良いという選択だ。毎日潜っているので、窒素酔いに対する耐性も強くなっている。自分の経験だが、普通の空気で60mに潜ると窒素酔いになり、気分が良くなって浮上したくなくなる。また、窒素酔いは、酒酔いと同様、強くなる、若干ジャンキーにもなる。それが、怖いのだが。窒素酔いの眼で見るハナダイの群れなどは、格別なのだ。
ボートの上には親ビン(街の鉄工場でよく見かける、大きな酸素ボンベ。)が二本ころがしてあり、一本は酸素、もう一本は50%の酸素と50%の窒素の混合ガスが詰められている。これは減圧用のガスで、フーカーホース式で供給する。
私は先に入って、潜ってくるアランを迎えて、下に送りだす撮影をする。私の使うフーカーのホースには電話線を付けて、水面と話が出来るようにした。
アランは、潜水前に瞑想して、これから水中に入ってからの手順、どんな風に推移するか頭の中でシミュレーションする。これをやらないと、危ないし、成功することもできないという。アランはこの瞑想集中の時間を大切にしている。深く潜るダイバーはいくつかのパターンがあるが、みんな潜水前の心の集中をやる。私はやらない。 テレビの撮影は水に入る直前まで色々な指示を受けなければならないし、水に入ったらすぐにでもインターカムで潮美の声とか、カメラワークの指示が入ってくる。落ち着いて集中することなどできない。
7mのところまで潜ってアランを待つ。鉛のロープが緩んだらしく、下にずりおちそうになる。片手にカメラをかまえ、片手でずり落ちる鉛を抑えると言う悲惨な形になった。浮上して鉛を締め直してくる時間は無い。片手で鉛を抑え、片手でカメラをかまえて、水面の輝きを見上げるポジションでアランの飛び込みを待つ。
アランは凧糸のような潜降索に沿って、矢が突き刺さるように潜って行く。手には、平べったい篭を持っている。篭には鉛が入っている。海底に到達したら、鉛は捨てて、この篭に珊瑚を摘み取って入れる。宝石サンゴと言っても地中海のこの場所の珊瑚は、人間の手の指より細いくらいの太さで、長さも短い。磨けば真紅の色になる。奄美大島や小笠原にあり、潜水艇で採集している珊瑚は太い樹木のようなものもあり、一本が数千万円もするものもあるが、ここの珊瑚はそれほど大きなものは無い。種類がちがうのだ。
一旦、船上に上がり、アランが戻ってくるのを待つ。
潜降と、海底では、トライミックスを呼吸している。これはタンク一本だけだから潜水時間は短い。水面から海底に降下する時間と、海底での時間、そして、50mまで浮上してくる時間、全部を加えたもので、だいたい15分ぐらいだ。50mまで浮上してくると、呼吸を空気に切り替える。方針としては、できるだけヘリウムを吸わないことが、減圧停止時間を短くする結果になる。50mまで浮上すると、アランは、空気を入れてふくらました黄色いブイを水面に上げる。黄色いブイにはもちろん細いロープが付いていて、そのロープにアランはつかまって、少しずつ浮上してくる。
ボートはこの膨らませたブイをつかんでボートに上げる。ブイに付けられたロープはそのままだ。これでアランはボートと直接にロープで繋がったことになる。ブイのロープに這わすような形で、12mmぐらいのロープに10キロ以上のウエイトをつけが減圧索をおろす。減圧索には大きな白いブイが付けられている。白いブイは、水面に浮かすが、ブイと船とは、別の細いロープと取って結んであるので、船の縁から5mほどのところにブイがある。さらに、この減圧索に沿わせるようにして送気ホースを降ろす。送気ホースには、有線通話機の線、温水のホースが束ねられている。アランが50mの地点で待っているのだから、ホースの長さは、50mと決めていて問題ない。
アランが背負ったタンクから降ろされたホースからの送気に乗り換えると、電話線からアランの呼吸音が聞こえてくる。ホースから送っているのは、50%の酸素と50%窒素の混合気体だ。浮上・減圧の課程では、酸素中毒にならない範囲内で出来るだけ酸素の分圧の高い気体を呼吸することが、減圧の時間を少なくする。言い換えれば減圧症(潜水病)になる可能性を少なくする。
テンダー(水面で世話をする人)のジャックは忙しい。最初に浮き上がった黄色いブイは、船に取り入れてあるのだが、そのロープを引き揚げる。ロープの先には、採取した珊瑚の篭が結び付けられている。無駄が無い。
珊瑚を処理しながら通話機を通じて送られてくるアランの指示に従って、アランの浮上に従って送気ホースを少しずつ手繰り込んで行く。
浮上の速度をその時に計測していなかったのだが、毎分1mから2mの速度である。
水深12mまで上がってくると、送気を純酸素に切り替える。通常、純酸素の呼吸は、酸素中毒を防ぐために水深4・6mまでとされている。しかし、減圧時間を短くするためには純酸素の呼吸が最高度に有効であり、ヘリウム-酸素混合気体潜水では、18mで純酸素を呼吸する減圧表もある。酸素に対する抵抗は個人差があり、耐性試験を行ってからでなければ水深4.6mを越しては純酸素は呼吸できない。
私は潜水の仕度をして、今度は腰からずり落ちないようにしっかりと鉛ロープを腰につけて、減圧中のアランを撮影するために水に入る。
アランは温水のホースを手首からウエットスーツに差し込んで、身体をゆすって温水を身体全体に行き渡らせている。ホースから温水を手に受けて見ると、ほんのり暖かい程度だ。船上に置いてあるのはプロパンガスを使う家庭用の湯沸かし器で、小さなものである。コンプレッサーの冷却水ポンプのような小さいポンプでお湯を送り出している。温かい地中海の海では、これで充分なのだ。
ドライスーツは首を締め付け、手首を締め付け、服の中の空気の浮力を相殺するために10キロ以上のウエイトを着ける。水中での敏捷性と快適性はウエットスーツに遠く及ばない。日本での私の潜水は、12月の中旬まではなんとかウエットスーツで潜る。1月から4月まではドライスーツである。ウエットスーツで寒さを感じない水温は18度であるが、寒い年は、6月になっても18度に達しない。寒さを我慢しても、5月にはウエットスーツに戻る。地中海のこの辺りは、秋の10月、普通のダイビングならば、ウエットスーツでも問題ない。しかし、長時間の減圧をする深い潜水では、温水装置が必須である。ドライスーツは敏捷に動けないし、体力が消耗させられるので、大深度潜水には向いていない。
私は、薄いゴム引きファブリックのドライスーツを着ている。ドライスーツは空気を服の中に入れて服内外の圧力をバランスさせないと、身体が絞られる。旅行用に持参する衣服がコンパクトになるように、服を入れて、空気を搾り出して縮小する、密閉できるビニール袋が売られているが、あれと同じである。正規のスクーバレギュレーターならば、服内に空気を注入する装置が使えるが、アランのフーカーホースでは空気が注入できない。足が締め付けられて爪先が痛くなった。時間の経過とともに痛みが耐えられなくなったので、アランに浮上するとサインを送った時、アランが手招きする。近づくと有線通話機のレシーバーを手渡す。耳に当てると、水面からの指示で、「これから全部の装備を外すから撮影するように」と言って来た。
減圧コンピューター、ナイフなど小物をはずして、タンクのハーネスベルトにくくりつける。タンクを脱いで、ロープを下ろさせて、水面に引き揚げさせる。ホースの呼吸に切り替えているので、とうにタンクは不要になっている。アランは薄い3mmのウエットスーツを重ね着している。そのウエットスーツを水中で脱ぎ始めた。装備を外すといってもウエットスーツまで脱ぐとは予想できなかった。かぶりのウエットスーツだから上着を脱ぐためにはマスクを外さなければならない。ズボンを脱ぐためにはフィンを外さなければならない。日常のことなので、慣れであるが、大変な技術である。脱いだウエットスーツやマスクフィンを次々とロープにくくりつけて水面に上げさせ、最後にフーカーのマウスピースを口から放して、水深9mから水面にベイルアウト(緊急脱出)の姿勢で浮上する。
アランの減圧は、日本では船上減圧と呼ばれている方法である。減圧は12m、9m、6m、3mの4段階で停止するが、6mとそして3mの段階が最も長時間が要求される。、最大では、3時間必要である。それを水中ですごすことは、辛いだけでなく効率が悪いし、海が時化てきたときなどは港に逃げ戻れないので危険である。6mと3mの段階を、船の上のタンクに入って加圧すれば、安楽に効率良く、安全に過ごすことができる。船上減圧を行うためには、9mから浮上して、再圧タンクに入り、6mの水圧に加圧する間の時間を出来るだけ短縮する必要がある。船上減圧は、9mから減圧途中で浮上したダイバーは、減圧症に罹患した状態にあるのだが、症状が発現しないうちに、再圧治療を開始してしまおうとするものだ。
通常は3分以内にタンクに入り、加圧が開始されれば良いとされているが、時間が短ければ短いほど良い。
水中でウエットスーツまでも脱いだアランは、浮上すると同時にバスロープを着てそのまま再圧タンクに跳び込む。おそらくは、1分もかかっていない。アランのボートのタンクは一人用であり、タンクの中でウエットスーツを脱ぐスペースは無い。タンクの中での長い時間をウエットスーツを着たまますごすのは、不快であり、毎日のことだから、不健康でもある。ボートの上でウエットスーツを脱いでいたのでは、3分の制限時間を越えてしまう可能性がある。それにあわてて、激しく身体を動かせば、減圧症が発症してしまう可能性もある。
水中でウエットスーツを脱いでしまったアランは、酸素を吸入しながら、本を読んだり音楽を聴いたり、リラックスして時間を過ごすことができる。その日、アランがタンクの中で減圧していた時間は2時間強だった。
「減圧テーブルは、どんなものを使っているのか」とアランに訊ねた。減圧表は何種類もあり、企業秘密になっている表もある。毎日のように100m前後を潜っていて、事故を起こしていないアランの表は、世界に通用するものであり、関心も深いものだろうと思ったのだ。
返って来た答えは、「表など使っていない。」であった。これには少しばかり驚いた。サンゴの採取は、その日その日で深さも違う。身体の疲れ方も違う。自分の身体と相談して、無理をしたなと思う時は、タンクの中の減圧を長くする。およそのことを言えば2時間から3時間で、自分の身体で感覚的にわかるから、自分で良しと納得すればタンクから出てくる。もちろん一連の流れは決まっている。最後の船上の再圧タンクで減圧する時間で適宜調整している。
アランの家に昼食を招待された。このために今日は深さと潜水時間をコントロールして短時間で減圧を切り上げたのだろう。
塩気で錆が出て、底が抜けているようなジープに同乗して、アランの家に向かった。海岸近くに家があるのかと思ったが、山の上にある。車で20分ぐらい走る。羊飼いの家を作り変えたという家だ。プールが一段下がった目の下にあり、その先は低い山の連なりの先に青い海が見える。海の近くなのに、山の上にプールまで、作っている。
奥さんの作った料理はベトナム料理だという。箸で食べる。まずまずおいしく食べられた。昨夜、コルシカの猪料理を食べたが、高くておいしくなかった。日本人の口にはベトナム料理が合う。だから、フランスに来て、ベトナム料理ばかり食べていたことになった。フランスはベトナム料理店が多い。
アランとの話を撮影した。複雑な話になると、二人の英語では無理なので、通訳として来てくれた三浦さんにお願いした。
アランに聞かれた。「なぜ、仕事でもないのに100m潜るのか。そして、深く潜るのは、毎日のように潜っていて、次第に深く潜るのが普通で、一発勝負で100m潜るのはプロのやることではない。」答えるのが難しい。
「若い頃、27歳の時に空気で100mを目指して、死にそうになって90mまでしか潜れなかった。今度は60歳になった記念に念願だった100mに潜りたい。日本では60歳の節目で自分のやりたいイベントをやる習慣がある。還暦のお祝いだ。」
「それに、100m潜るのに方法は様々だ。僕はダイビングを自分の身体で極めたい。そこからダイビングの最善の方法を探りたい。とにかくダイビングによって海で行う様々な仕事を見たり聞いたり、自分でやってみたりして、最善の方法を探りたい。」
「それで納得したが、それならばここで潜ることにしたらどうだ。毎日のことでなければ、再圧タンクも二人は入れる。パリのテレビの記者が来て、一緒に潜ったことがある。後でテープを見せるが100mまで潜った。同じようにやれば良い。」
「日本でのスケジュールを決めてしまっているので、残念だけれどそれは出来ない。」
「それならば、僕が日本に行ってやろう。旅費と宿泊費を出してくれれば、ギャラはいらないよ。この前に関と一緒に足摺の珊瑚を潜水した時もそうだった。あの時は本当に冒険だった。自分の船も無いし、道具も不満足なものだった。でも僕は、この仕事を半分はスポーツのつもりでやっている。だから、日本で潜って見たかった。日本の珊瑚を見たかったんだ。」
これは大変に魅力的な提案で、後になって本気で検討することにもなった。
アランの潜水方法は100mに最小のコストで、コストの範囲で最大限の安全が期待できる、これまでに見た大深度の潜水方法のうちで最もスマートな方法だった。
同じような潜水方法はサルジニアでもイタリーのダイバーが行っていて、何人もの事故を乗り越えて、作り上げられた方法だという。
部屋の中に自転車が2台置いてある。奥さんと二人で自転車競技をやっている。
「このまま、一生ダイバーをやっているつもりは無いんだ。ある程度やったら商売を変えるつもりだ。」
ダイビングだけにしがみついている自分が、なんとなく馬鹿に思えた。
アランの採集した宝石サンゴの3cmほどの一片をもらった。ぼやけた色をしているが、磨けば真紅になるはずだ。
次の日、アランに別れを告げに港に行った。早朝に沖に出て10時ごろに入港すると聞いていた。ボートは港に入ってきたが、アランは未だ再圧タンクの中だ。インターフォンで話ができる。「また会いたいね。」「今度は一緒に深く潜ろう。」
※ もらってきた記念の赤サンゴ、机の引き出しに入れておいたのだが、磨きをかけないうちに紛失してしまった。今、あれば、と思う。
※ 写真を使わないで、文章だけと思っていたのだが、やはり、写真があれば写真をつかってしまう。
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06131.「海へ!⑤』 マイヨールは何故死んだ再び。2.水中結婚式。3.水中カラオケシステム
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「海へ!」⑤
入院中でも、ブログを途切れないように、2005~6年のブログのリライト+α で始めたのだが、これはこれでしばらく続けたい。
2005年 7月22日
1.マイヨールは何故死んだ再び。2.水中結婚式。3.水中カラオケシステム
茨城県立海洋高校で、水産高校と海洋高校の先生たちをスクーバダイビングの指導者にする講習の指導をしていた。2002年の8月中旬のことだ。
ひたちなか市、少し前までは那珂湊市にある茨城県立海洋高校には、「えーつ」と驚くほど立派なダイビング訓練用のプールがある。
長い辺が25m、短水路の25mの競泳プールで、1.5m、3m、5m、10mの深さがある。このプールで、送気式でもスクーバ方式でもどんな潜水の訓練でもできる。
午前中が学科の講義、午後が実技の講習で、一週間のプログラムである。
講義講師の一人に、関邦博先生(理学博士)をお願いしている。関さんは、一晩泊まってくれたので、久しぶりで割合長い時間歓談することができた。
関さんは神奈川大学を卒業して、フランスへと無銭的留学をした。マルセイユ大学で生理学だかなんだかの学位を取った。マルセイユは、地中海きってのフランスの港でスクーバダイビングの発祥の地だ。となりはニース、そしてモナコとコートダジュールだ。ここで、フランスのダイビング資格も取ったというけれど、関さんが潜ったのを見たことがない。
関さんと私は、大崎映晋さんと言う先輩がやっていた日本水中連盟からCMASを引き離した。関さんが会長になり、私も何かに成って、フェジャスと言う組織を作ったが、それからは裏切りと欠席裁判の繰り返しになり、私はドロップアウトしてしまった。その時のことも、そのうちに書こう。
なお、CMASのカードを持っている人、日本に多いとおもう。僕もインストラクターのカードを持っている。フランスで発行したフランス語のカードだ。読めないけど、インストラクターのはずだ。フランス語だから国際免許で、終身資格だ。外国にロケに行ったとき、カードの提示を求められた時、これを出せば、世界各国で通用した。
日本は日体協の発行した上級スポーツ指導者のカードを見せる。もうとっくに期限切れで、そして。この上級指導者と言う資格も無くなっているはずだが、であった、と言う証明にはなる。
関さんは、「イルカと海に還る日」と言う本を作って、フランス人のマイヨールを日本でメジャーにした人でもある。この本、マイヨールが書き、関さんが訳したことになっているが、関さんの聞き書きだろう。
私は「マイヨールは何故死んだ」という小文をホームページに載せていて、マイヨールの死に方は、とても寂しい死だととらえていたが、関さんは、「最後は一人切りで自殺して、隣のおばさんが発見し、誰も葬式に来ないなんて最高の死に方だ」と言う。そういう見方もあるのか。
マイヨールの日本での親友であった成田君は、マイヨールの葬儀に日本から駆けつけた。友だちは日本にしかいなかった。ならば、日本語を習えば良いのに、最後まで、日本語をしゃべろうともしなかった。フランス人って、そういう奴なのだ。
マイヨールの死の原因は、チャレンジャーではなくなったからだ、と関さんは言う。70歳で最後のチャレンジをするように進言して、アレンジもしてやろうとしたのだが、乗ってこなかったという。
マイヨールのようなチャレンジャーは、チャレンジする気持ちを失ったら生きていられない。まだまだ、別のチャレンジがたくさんあったのにと言っても、マイヨールにはあのどうしようもない孤独な自殺が男の美学だったのかもしれない。
チャレンジする気持ちを失ったら、私も自殺するかもしれない。チャレンジの種を探して、気持ちだけでも、死ぬまでチャレンジャーで居よう。
ここに一人のチャレンジャーがいる。上谷成樹、横浜国大を卒業して、紆余曲折の後、ラーメンの屋台を作る会社をやっていた。上谷さんとの出会いは、とあるダイビング用品展示会場で、彼の手作りの水中スピーカーを見た時であった。私のダイビングの大きなテーマの一つが水中で話をすることであり、それで、娘のニュースステーションが始まった。僕の、その水中レポートの通話装置は、有線で船の上と繋がっているのだが、上谷さんのスピーカーは、アンプもろとも水中に入って行く。フルフェースマスクでしゃべると、一緒に潜っている仲間たちに声が届く。水中でおしゃべりするから「シャベリーナ」と名づけられている。
このシャベリーナを使って、日本テレビの水中探検シリーズの中で水中結婚式を撮った。この水中探検シリーズは、故人になってしまった「いかりや長介」が司会していたまじめな番組だ。
長さんはダイビングが好きで、とある番組で、モルジブでシャークショーの取材をした。本来シャークショーは安全な鮫を相手にしているのだが、長さんの顔を見た鮫は突然狂いだした。その番組のビデオもみた。確かに、サメは捕食動作に入っている。長さんは以来ダイビングをやらなくなった。水中探検シリーズで水中に誘い出そうとしても乗ってこなかった。
★☆☆
伊豆大島の秋の浜に行くと、色白、顎鬚の柔和な男が一人で潜っているのに出会うことが多いはずだ。(2005年当時)大沼久尚君だ。日大の水産卒、良いリサーチ・ダイバーで、スガ・マリン・メカニックに入れようと、口説いたが、勤めるというのが嫌いだ、と入社しなかった。まあ、どっちでもいい。こっちも、めんどうがない。スガ・マリンメカニックでリサーチダイバーをやってお金を稼ぎ、仕事がなくなると必ず毎日大島の秋の浜で潜っている。秋の浜のことなら何でも知っていて、秋の浜の仙人と呼ばれているが、ガイドはやらない。人の生命に責任を持たなくてはいけないなど、絶対に嫌だというのがその理由である。人は勝手に死ぬ、その責任を負うなんてできない。と彼はいう。責任にこだわる仙人なのだ。
彼の風貌がまるで牧師なので、牧師に仕立てて水中探検シリーズで水中結婚式をやった。同じ伊豆大島の波浮の港に近く、トウシキの浜という波静かで水もきれいな澪がある。ここを水中教会に設定した。
上谷成樹さんのシャベリーナを使わせてもらって、牧師の大沼君に司祭をやってもらった。結婚行進曲が流れ、突然司会者ががなりだした。上谷さんが司会者の役を買って出たのだ。頼んだ覚えは全くない。
新郎新婦が結婚衣装を付けて、スクーバで潜ってくる。参列者も列を組んで泳いでくる。
新郎新婦は、神父の前で、無事、水中キッスを済ませて浮上した。新郎新婦の両親は、岸辺でモニターを見て、私の撮影する結婚式を見ていたのだが、感動のあまり、涙が滂沱と流れている。私としては、洒落のつもりだったから、この感動の涙を喜んで良いのか、申し訳ないと思うべきか、とまどった。しかし、素直に喜ぶべきだろう。結婚式は水中でも感動ものなのだ。特にご両親にとっては大沼君の神父が感動の源らしい。本物の神父が潜水してくれたと信じ込んでいる。まじめな大沼君は、実は私は神父ではないと言いかけた。あわてて口を塞いだ。
※トウシキの澪は、今では流れが速くなり、結婚式などできない。昔は、ホンダワラが茂り、流れも無い、良いロケプールで、いくつかの番組をここで撮った。丹波哲郎をここで潜らせて、全然潜れない。顔を水に漬けただけで上がってきて「やーあ、水中ってすごい。ダイビングにやみつきになる。」といわれて、呆然とした。役者の想像力ってすごい。加山雄三の「海の若大将」も舘石さんが、ここで撮ったと記憶している。
その後、大沼君は、秋の浜の水深60mで新種のハゼを発見し、それを採集しようとして、激烈な減圧症になり、半身不随になった。神を偽ったためのたたりかと、ちょっとだけ胸が痛んだが、彼はアメーバのような体質らしく、完全に治って、また60mを越えるダイビングをやっている。また大沼君には、沖ノ鳥島の造礁珊瑚の調査をたのんでいたが、当時、おそらく珊瑚のリサーチダイバーとしては、世界でも屈指だっただろう。
2005年 7月25日
上谷成樹のことを書いているうちに七月ももう少し、必殺のスケジュールで日々を送っている。もうあとわずかで、70歳の夏が行ってしまう。若い頃、18歳の夏が行く、などと感慨に浸ったことがあるが、18歳の夏なんて、何でもない。70歳の夏は、特にダイバーである僕にとって貴重な一瞬一瞬である。
今日の朝日新聞に「高齢者って何歳から」という記事が載っていた。
「内閣府が60歳以上の男女を調査したところ、70歳以上と答えた人が46.7% 75歳以上と答えた人も二割に達した」とある。
断然、現状のままのダイバーで75歳までやり、なんとか80歳まで潜り続け、「高齢は80歳から」と言おう。
※2022/05/25 87歳までダイバーをやり、心筋梗塞でたおれた。水中で倒れたのではない。念のため。耐圧水深30mのペースメーカーを入れた。今後は25mまでしか潜れないが、92歳までなんとか潜る予定。明日死ぬかもしれないが、予定では95歳で死ぬ。
Jul 26, 2005
上谷成樹の水中カラオケシステム
上谷成樹さんから1本のビデオテープがとどいた。
まず、ダビングの繰り返しで色がおかしくなった水中が現れた。
この水中を背景にテロップが流れる。
「須賀次郎様、および須賀家の皆様、ご健勝のことお慶び申し上げます。
私、上谷成樹、齢を重ねてまいりましたが、青雲の志未だ消えず、この度、水中カラオケシステムを考え出し、世界各国に広めようと立ち上がりました。」
水中カラオケシステムとは何だ?
背景の画像では、上谷さんがシャベリーナを抱えて、水中で唄をうたっている。音質が悪いので、何をうたっているのかわからない。雑音に近い。
上谷氏の経験では、水中で大声で唄うことは身体に良い。
水中でシャベリーナを抱えて、ある日大声で唄をうたった。上がってきたらすごく体調がよくなっていることに驚いた。風呂の中で唄うと気分が良い、ここまでは経験のある人も多いだろう。水中で、風呂で唄うことは、さらに大きな癒しになることは間違いない。
次に底に大きな水中スピーカーがはめ込んであるバスタブが写った。マイクを取って唄うと、大きなスピーカーが振動し、水面に波紋ができる。
次は、裸の男性がベッドに横たわり、若いフィリピン女性が背中をマッサージしている。坊主頭だから、上谷氏であることがわかる。壁には、フィリピンの景色だか、日本の景色なのかよくわからない、銭湯の絵のような垂れ幕がかかっていて、異様な雰囲気である。
ここまで、見た人は、腹を抱えて笑いこける。このビデオを貸してくれと言う人が多く、貸し出しているうちに紛失してしまった。今は、ただ、残念である。
場面は変わって、フィリピンの田舎の街角である。ラーメンの屋台のような車に、(上谷さんは、屋台の製造を商売にしていた)テレビモニターを積んだ車をフィリピンの17歳ぐらいの女の子数人が囲んでいる。上谷さんのマッサージパーラーの街頭宣伝車である
上谷さんは、フィリピンの空軍基地の街に水中スピーカーの付いたマッサージパーラーを開店したのだった。
果たして世界的な、チェーン展開が実現するだろうか。
次の年、年賀状が来 た。結婚して女の子が生まれ、遅い子持ちでかわいくてしょうがない、サクラと名前を付けて、連れて旅をしていると書いてあった。
彼は結婚していなかったのだろうか。そんなはずはないのだが、まあいいや。
「鮫に浪曲を聴かせる」番組企画が持ち上がり、実現することになった。これはもうシャベリーナしかない。シャベリーナを鮫の前に押しだし、有線で船の上と結び、船の上で浪曲を詠ってもらい、鮫に無理矢理浪曲を聴かせるのだ。
水面から吊しただけの水中スピーカーでは、鮫に聞かせているというイメージにはならない。ダイバーが、スピーカーを持って鮫に接近しなくてはならない。
上谷さんは快く貸してくれることになりシャベリーナを借りに行った。彼の仕事場に行くと、作りかけの水中カラオケシステムのスピーカーが数台並んでいる。なんとか商売になっているみたいな雰囲気だ。日本は温泉ブーム、ジャグジー、ヘルスセンターブームだ。
レジャー施設として最高なのは温泉だ。これはもしかしたらビンゴ!かもしれない。
そこに置いてあった論文をみせてくれた。関邦博教授の論文だった。他にどの科学者が水中カラオケシステムなんていう怪しげなものを真摯に研究するだろうか
研究の成果は、アルファー波が出て、水中カラオケ、バスタブの中の大音響スピーカーは、効果のある人には効果があり、効果の無い人には効果がない。至極当たり前の結論だった。しかし、効果がある人には、効果があるのだ。もしかしたら、世界のあらゆる国のヘルスセンターに、片隅かもしれないけれど、水中スピーカー付きのバスタブが置かれるかも知れない。大江戸温泉に置いてあったら、きっと水中カラオケバスにはいるに違いない
それから少し、時間が流れ、ある日ファックスが入った。上谷成樹の死亡通知だった。
Jul 30, 2005
北国の春
お世話になった上谷さんだから、とにかく顔を出さなければいけない。
横浜の公団住宅を住居兼工場にしていたから、斎場も横浜だ。
50人ばかりの参列者が集まっていて、読経が始まっていた。席の最後列に関邦博教授の顔が見えたから、隣に座る。
関さんは、読経に合わせるようにして、ささやくように様々な情報を提供してくれる。
昨夜の夕方から0時頃までは元気で、食事をした後で就寝したが、2時頃から苦しみだして、病院に搬送したが、明け方に息を引き取った。奥さんはフィリピン女性の23歳、腹上死のようなものだと関さんは言う。「ならばうらやましいね」と僕は言う。「彼は、肝臓が悪くて、あと一年の命と言われていたのが、7年持ちこたえたのだからもう良いだろう。」とも関さんは言う。
「フィリピンでは、若い女の子を17人使っていて、毎朝、その子たちのお乳を、突いてやると、喜ぶんだと彼は言ってたよ。」
「一度、ひどく血を吐いて苦しんだことがあり、その時に女の子たちの一人が献身的に看病してくれた、それが今の奥さんで、その時17歳だった。」
「ずいぶん、関さんはくわしいですね。」
「うん、フィリピンまで行ったからね。」
でも、肝臓が悪くて、一年の命が持ちこたえての死だったら、腹上死とは少し違うのではないかと思う。それでもまあ、若い奥さんに抱かれて死んだのだから、うらやましい死ではある。
読経が終わり、お清めの席になる。
僕の価値判断では、お清めが楽しい席であれば、そのお通夜は大成功である。
とてもとても、若い人や、子供の葬儀では、悲しすぎて楽しいなどいうことはあり得ないが、歳をとり、なすべきことを成した人のお通夜は楽しくあったほうが良い。(宗教上の理由、あるいは土地の習慣で、お清めをしないところもあるが。つまらない葬式だ。)
楽しいと言うと、不謹慎だと言う人も居るだろうが、そんな人が集まるお通夜や葬儀には、出来れば行きたくない。
楽しいと言う表現が良くないかも知れない。良いお通夜、良いお清めの条件とは、まず参列する人が、故人に対して温かい気持ちを持っていることである。次が家族の人たちのホスピタリティというかお客を歓待する心である。悲しみは悲しみとして、せっかく来てくれた人は、故人の客であるから歓待しなければいけない。
23歳になっている上谷さんの奥さんは、ちょっと言葉が引っかかるが、それでも明瞭な日本語で、お客の一人一人に挨拶をしてまわってくれた。私のところにも来て、床につくまでは元気だったのですが、夜半過ぎてから急に具合が悪くなったことなどをしっかり話してくれた。すてきな奥さんだった。
関教授によれば、マッサージパーラーは、フィリピンの奥さんのファミリーが経営を見ているから、奥さんも家族も生計に支障がないように手配されているとのことだ。娘のさくらちゃんは、日本でもフィリピンでも可愛がられて成長するだろう。
集まったダイバー数名と、もちろん関先生も交えて、上谷さんとともに経験したいくつかの潜水、いくつかの抱腹絶倒の出来事を語り合った。
上谷さんが生きていた時に、フィリピンの水中カラオケパーラーに行かなかったことを、後悔した。上谷さんが居なくなってしまえば、日本で水中カラオケシステムが伸びるとは思えない。
ところで、僕は水中カラオケで何を歌うだろう。
千昌夫の「北国の春」が良いな。この曲は、20年以上昔、スガ・マリンメカニックの僕のダイビングチームを率いて、岩手県釜石で連日、水深70mの潜水をしていたとき、宿の前の銭湯に行くと、土地の年寄りが気持ちよさそうに唄っていて、私たちも一緒に唄ったものだった。
帰りの車を運転しながら、「あの故郷にかえろかな、帰ろうかな。」小声で口ずさんだ。
少し目の奥が熱くなった。
とても良いお通夜だった。
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0606 海へ! ④ 小笠原と牟田先生
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2022-06-06T13:05:00+09:00
2022-06-06T13:18:31+09:00
2022-06-06T13:05:10+09:00
j-suga1
グラフィティ
写真は小笠原ではありません。ミクロネシアのどこかです。ここ、入院先には、写真ファイルが来ていないので、適当です。
Oct 11, 2006
小笠原と牟田先生
中島敦の南洋通信を読むとも無く、読んでいた。好きなのだ。
中島敦というと牟田清先生のことを思い出す。日本に返還直後の小笠原で体操の先生をやっていた。これで体操の先生なのか、というやせた身体だけど、アメリカ国籍が生徒の半分を占めていた小笠原高校で体操を教えていた。そのころの小笠原は、誰か宿泊の引き受け手が居ないと、乗ってきた船に乗って帰らなければならない。島に乗っかれる人数が決まっている。それは水が無いためだ。昔はたくさんの人が住んでいたのになぜだ。それはアメリカが占領して、全部が下水道完備、水洗トイレになったためだ。そんな事情だから、復帰直後の小笠原では民宿もペンションもなかった。通ってくる船もすごかった。東海汽船の一番小さい船、黒潮丸が通っていた。竹芝桟橋を出るとき、この船は明後日の昼頃に着く予定だとアナウンスがあった。後は波に翻弄されて、乗客は三日三晩打ち伏して過ごす。弁当を注文すると、伏している枕元に,おにぎりとか、いなり寿司がとどく。
小笠原は、インフラ的には絶海の孤島だった。島で仲良くなった英語の先生の若い奥さんは、島の生活をはかなんで、その後、自殺してしまったと聞いた。東京の人と話せる、と言うことで、僕が潜っている浜辺にわざわざ出ておいでになり、楽しくお話できたのだが。
小笠原ダイビングセンターの古賀さんは、復帰直後の小笠原にお巡りさんとして赴任し、島にほれこんで、お巡りさんを退職して、島でダイビングサービスをやろうという。僕のところにも相談に見えた。心から、「止めなさい。お巡りさんの方が良い。」と忠告したが、聞かず、現在の成功をおさめている。僕の忠告など聞かない方が良いのだ。
そんなことで、小笠原にダイビングサービスを開いた、古賀さんを訪ねたのだ。
しかし、泊まるところが無い。三日三晩ゆられて、その船で帰るのはあんまりだ。
小笠原水産センター所長の倉田洋二先生が、僕の身元引受人になり、単身赴任の先生の官舎に泊めてくれた。倉田先生は、パラオの水産講習所で学び(今の海洋大学の前身のまた前身の水産講習所は、韓国にも、南洋のパラオにも分校があった)そのまま島で応召されて、アンガウルで玉砕、戦い生き残った人で、ワニの研究と養殖がライフワークだった。パラオにはワニがいたが、小笠原にはワニがいないので、ウミガメの養殖を研究テーマにしている。その後、東京都を退職された後、パラオにもどりワニの研究をしていると聞いた。その後、ご無沙汰をしてしまっている。どうされているだろうか。僕の学生時代から、倉田先生にはひとかたならないお世話をいただいているのに。
※倉田先生は亡くなられて、新聞で大きく報道された。ぼくは、倉田先生のことも書いたグラフィテイを送ろうと、たしか、娘さんが居られたと連絡したが、返事をいただけなかった。そのままうち過ぎている。
その官舎に牟田先生も居た。ダイバーだということで、親しくなり、夕食に招待された。何もないところだから、奥さんの手料理である。天ぷらと刺身だが、刺身は芥子醤油で食べた。サンゴ礁の魚の臭みが抜ける。小笠原の島寿司もわさびではなく、イスズミを醤油づけにして、芥子で握る。僕は大好きだけど。
天ぷらが驚いた。その辺に生えている木の芽、草の芽を揚げている。ハイビスカスの花びらの天ぷらには驚いた。美味しくはないけれど、まあ、まずくはない。食べられる。天ぷらにすればどんな植物でも、毒でない限り食べられるということを知った。
その後、沖縄の東急ホテルで、天ぷら専門の店に入ったとき、ハイビスカスの花がカウンターに飾ってあったので、これを揚げて下さいと注文した。うまくやれば、店の呼び物になると思ったのだが、その後そんなうわさを聞かない。
その牟田先生は、定年退職後、退職金を注ぎ込んで、春風というヨットで、南洋の島々を巡る。中島敦が大好きで、触発されてのことだ。その航海記をまとめて、「太平洋諸島ガイド・南の島の昔と今」という本を出された。中島敦の書簡や日記には及ばないが、資料としては役に立つしおもしろい。とても良い。愛読書の一冊になっている。この本に出てくる、パルミラ環礁と言うところに行きたくて、何度もテレビの企画書を書いた。残念ながら全て没、世の中は、没と失望で成り立っている。
その後、誰かの企画で番組になり、見たけれど、全然つまらなかった。パルミラ、現地のことばでは、パーマヤというそうだが、無人島で、人に飼われていた犬が一頭住んでいる。映像にならない。文字の世界だ。
牟田先生の本にはトラック(チューク)のことも紹介されていて、この22日から出掛けるツアーのお世話を頼んでいる末永さんも出てくる。
牟田先生は、東京に戻っては、私の住所の近く、江東区大島に住んで、一度お訪ねした。近くだからまたおじゃましようと思っているうちに、成田のほうに引き込まれてしまった。その後は、中国の昆論山脈の方を旅行された年賀葉書を頂いた。これも、中島敦の「李綾」に影響された旅だったのだろうか。その後、一度、日本潜水会の忘年会においでいただいた。
※ お元気でおられるだろうか?
Oct 12, 2006
光と風と夢
牟田先生のことを書いたので、
中島敦の南洋通信(何度目か?)を読み、同じ中島敦の「光と風と夢」を読み始めている。これが面白い。
「宝島」を書いた英国のロバート・l・スティーブンスが、病気になり、喀血したというから、多分結核だろうが、南の島に逃れてくる。この点では中島敦の喘息と共通項がある。スティブンスンは、サモワに移り住み、大きな農場兼住居を造る。土人(差別用語だが、仕方がない。そのように書いている)に慕われて、ツチタラ、物語を書く人 という称号をもらう。当時、1880年のサモワは、一応、王様というか大酋長がいて、自治のかたちをとっている。しかし、実際はドイツが巾を聞かせていて、王様の内乱で、英国、米国も乗り込んで混乱状態になっている。植民地時代だから、白人が土人を搾取している。ツチタラであるスティブンスンは、土人の味方で小さな革命が起こる。
これで、この「光と風と夢」も、読むのは二度目なのだが、それでも面白い。
※ サモアにも行きたいと思っていたが、行かずに終わりそうだ。 明日6月7日退院の予定です。
※ 中島敦は、Kindleで無料。
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0604 海へ!②
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2022-06-04T14:41:00+09:00
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グラフィティ
海へ! 2
ナン・マタールの呪い。 1979年
日本に帰ってきて、まじめに社長さんをやりはじめた。つまり、自分でなんでもやろうとせず、社員を活かす、働かす、営業努力をするということだ。
ちょうど、日本テレビの山中康男プロデューサーのチームでテレビ番組の水中撮影をすることになり、まず、第一作は、日本一周の海底紀行だった。カメラマンをやりたかったが、社長さんをやることにして、カメラは新井拓と河合君にやらせることにした。第二作は、バハ・カリフォルニアでの鯨の撮影だった。これも我慢して、新井と河合にやらせた。
※今も思えば、バハ・カリフォルニアだけは、絶対に行きたかった。行くべきだった。ザトウクジラの交尾を撮りに行き、成功しているのだ。
日本に帰ってきてというのは、短い時間だったが、サウジアラビアに行ってきた。名古屋に日本シビルダイビングという新興拡大を続けている潜水会社があり、日本アクアラングの名古屋支店長だった石黒さんの紹介で、知り合い、ジョイントするようになる。
このシビルが、本四架橋工事の延引で倒産するまで、波瀾万丈の冒険だった。そう、社長は大畠さんだった。潜水を全くやらない人で、潜水を完璧に事業としてとらえて、業績を伸ばしていた。
零細企業としての潜水業は、本当に冒険そのものなのだ。そんな会社の興亡を書いたら、冒険小説になる。自分のスガ・マリン・メカニックもそうなので、こうして書いているのだけど。
その大畠さんから、サウジアラビアで、オイルのパイプライン敷設の潜水工事会社をやっているので、そのマネージャをやらないかという誘いがあった。
僕は、一応社長なので、海外にいったままになるのは、困るというと、日本の会社はナンバー2にまかせて、須賀さんはサウジで稼いで会社に日送りすれば、会社の業績もあがる。現時点でのスガ・マリン・メカニックの利益部分くらいの給与は払うという。当時のスガ・マリン・メカニックの売り上げは、月別で300万くらいが、採算分岐点で、日本の税制の下で、利益はほぼゼロに近い。給料を払って生き延びているだけの形だ。利益を上げればその40%は税金で持って行かれる。税金を払う金は手元にない。借金して税金を払い、ボーナスをはらう状態だ。サウジに逃げて、毎月100万も日送りして、帳簿だけ見て文句を言っていれば良いならば悪くない。そのころ、1970年代、世界のダイビング業界はオイルで潤っていた。日本でも海外に出て金回りの良いダイバーはオイルダイバーだった。
リバプールだったかで、タクシーに乗り「おつりはいらねえよ、」と言った日本人オイルダイバーの伝説がある。
現地視察に大畠社長といっしょに行った。
驚き、以上だった。相手先の会社は、社長はベドウィンの王族の連枝、それでなければオイルに関連する事業の経営者にはなれないのだ。経理担当は、同じくアラビア人、金庫番は、同族なのだ。営業はパキスタン人、アメリカ人はロイヤーで、アラムコ(米国の石油会社)との連絡担当、日本人は現場監督とダイバーで、下働きの労務者は韓国人、料理人はタイだ。国別、民族別に得手を担当している。ペルシャ湾海底の送油管の敷設、メンテナンスダイバー仕事が進行している。
新しい作業展開のミーテイング、といっても、仕事はすでに走っていて社長の表敬訪問だけだった。
一応の会議が行われ、その後、アラビア人社長の邸に招待された。大広間にテーブルがあり、豪華で、とても食べきれない料理が、どっとでている。料理はタイ人が仕切っているとか。全部食べるものではないと隣に座る大畠社長に言われる。行儀よく欲しいだけ食べる。
食事が終わると、分厚い絨毯が敷かれている大広間の円座のようなものに座る。それぞれが定められた座につくと、大きなステレオがバックミュージックを流しはじめる。と、食事をしたテーブルとこちら側との間にするするとカーテンが降りてくる。女人たちの食事が始まるのだ。奥さんが4人までいるわけだから、その子供たちと騒がしい声が聞こえてくる。
こちら側、サウジは禁酒の国だと言うが、酒はどんどん出てくる。ここは治外法権なのだ。しかし、酔って表にでたら、たちまち宗教警察に捕まると注意された。僕は基本的に酒飲みではないので問題ないが。
これは、1970年代の後半、そしてその後に湾岸戦争があり、その取材には女性である潮美がレポーターで行ったりしているから、状況がどんな風に変わっているのかわからないが、対女性については、本当に驚かされた。顔を見せないのだ。絶対に。空港でフルメイクした女性にすれ違う。濃いアイシャドウ、目だけ出している薄いベールを透かして深紅の唇が見える。美人に見える。アラは見えない。そうなんだ。美の演出。
カルチャーショックをあげていると際限もないが、ここで自分は何をするのだ。日本側の総括責任者になってもらいたいということだった。ダイバーであって、経営者でもある。そこそこの実績があり、誠実度で信頼できる。僕が大畠さんを裏切って、商売を転回させることなどない。日本での仕事で失敗していれば、スカウトしない。低空飛行だが維持している。これから上昇しそうだ。だから、
大変魅力的な提案だったが、踏み切れなかった。サウジで成功できるなら、日本で自分の会社で成功させることの方が今後につながる。経営者として再出発する気持ちで日本に帰ってきた。
ぼくがお断りしたので、このポジションは、商社マン、トーメンの課長クラスをスカウトしてきた。僕よりもはるかにやり手の人で、英語はペラペラだった。ダイビングは全く知らない。僕と、どちらがよかったのだろう。やがて、国際情勢でサウジは撤退し、その時ダイバー作業の責任者だった荒川さんという方が後に日本シビル倒産の後、ダイバーセクションを整理して引き継ぎ、神戸で成功されている。
サウジでは、その間、通訳として日本から連れて行った若者夫妻、奥さんは現地宿舎のハウスキーパーをされていたのだが、その奥さんが、喉を掻き切られて殺されるという悲劇が起こる。これも、サウジ撤退の一因になったのかもしれない。
そんなことで、帰国した僕は、社長業に専念するつもりだった。
そして、
日本テレビ スペシャル番組での水中第三作は、ポナペ(現在の呼称はポンペイ)のナンマタール遺跡(ナンマドールとも言う)の撮影をやることになった。
ところが、カメラマンの新井拓はなぜかプロデューサーの山中康男氏との打ち合わせをすっぽかした。
新井拓
スガ・マリン・メカニック創立以来、7年間苦楽をともにしていた高橋実が独立して去り、一人になってしまったところに専属フリーで手伝いにきてくれたのが新井拓だった。大崎映晋の弟子で、東洋ビデオという撮影会社に一応の席を置いて、海底居住シートピア計画の機材係りに出向していたが、忙しくはなく、遊んでいるみたいだった。奥さんのK子ちゃんは館山の大きな葬儀屋の娘で美人、拓ちゃんを放し飼いにしていた。
拓は、片岡義男の小説のようなふるまいで、単車を乗り回し、波乗りの代わりにダイビングをして、東京水産大学、僕の母校だが、その女子学生をくどいて、死ぬの生きるのともめていた。ちょっと撮影をてつだってもらって、意気投合して、高橋がぬけた穴を埋めてくれた。その拓が撮影の打ち合わせをシカトした。
カメラマンはプロデューサーを絶対に立てるというのが、営業努力をする社長としての考え方だったから、彼をこの仕事から降ろした。代わりに河合をメインの水中カメラマンとした。ところが、出発の前、河合君の母親が亡くなってしまった。病が重くても、まだ生きていれば、この仕事は親の死に目には逢えないのが普通とか言って送り出してしまうが、亡くなってしまったら、そんなことは言えない。急死だった。
ナンマタールの石造の神殿遺跡の前の海には、なにかわからないが不思議なものがあり、それを見ようとした者には呪いがかかる。そこで泳いで、水中を見たドイツ人(ポナペはドイツ信託統治のの時代がある)瘧(おこり)のような状態になり、死んだともいう。新井のすっぽかしも、河合君の母の死も異常なことだ。ナンマタールの呪いだろうか?
急遽、自分がピンチヒッターとして出かけることになった。鶴町をサブカメラマンとしてつれて行く。
もともと、僕は学生時代から映画撮影の助手の仕事はしていたし、シネのフィルムもまわしている。カメラマンとしては新井拓よりは上のつもりではあった。ただ、まじめに社長さんをやろうと決めて、我慢していただけなのだ。
現地には、北海道知床・斜里の定置網漁業の潜水士たち(佐藤雅弘、相内栄巧、木村耕一郎、染谷久雄 )が、潜水の助手として同行した。山中康男プロデューサーが日本一周水中撮影のロケをした際、知床の水中撮影で懇意になった若い漁師たちである。
その頃のテレビのロケ、とりわけ山中組のロケは極楽だった。単なる友人である斜里の若い漁師を四人も、水中撮影のケーブルさばきの名目でポナペ島まで引き連れて行かれる。
しかし、容赦なくナンマタールの呪いは私たちに降りかかってきた。グアムを出発したコンチネンタル・ミクロネシア航空は、トラック(チューク)、ポナペ(ポンペイ)、マジュロ、コスラエを回ってホノルルに行く。その後も何度となくひどい目にあう「恐怖のコンチネンタル・ミクロネシア」だが、この時は水中撮影器材を降ろすことなく、ホノルルに向かって飛び立ってしまった。この飛行機がホノルルから戻ってくるまで、三日間遊ぶことになる。
ポンペイ観光、名物の裸ダンスなどを見て過ごした。
機材が来て、撮影を開始した。からだならしに、海底のドロップオフ(崖)で、鮫の撮影をしている時、サブのカメラとして持ってきていたベルハウエルのフィルムカメラを水没させてしまった。ナン・マタールの水中神殿は鮫に守られているという言い伝えもあるので、サメの映像が欲しかったのだが、事実、サメにカメラを水没させられてしまうことになった。これも、呪いの一環で、カメラを手にしていた鶴町は悪くない、ということにした。
※鶴町とは、今、波左間海中公園支援クラウドファンデイングを推進したり、僕のダイビングの助手、日本水中科学協会の実行委員もしてくれている、鶴町雅子の亡き旦那様である。
水中神殿に潜らせてもらう交渉が行われる。交渉はプロデューサーの役目であり、カメラマンは静観している他ないのだが、ナンマタールを司る酋長は、日本にも来たことがある日本通である。そして、ここポナペも日本の委任統治領であったから、日本語教育を受けている。日本語は話せる。「あなたたち日本人は、僕たちがポナペ人が日本に行き、伊勢神宮の神殿の中を見たいといったら見せてくれますか。」などと正論じみたことを言う一方、川崎堀の内のトルコは良かったなどと下世話な話もできる。
言うまでもなく、山中さんは、ロケハンにポナペに行って調べ上げており、ロケの台本は分厚く、ムー大陸のガイドブックのようになっている。
潜ることも交渉済みなのだが、もったいをつけ、金額をつり上げる儀式のようなものだ。その間、酋長主催のシャカオのパーティなどもあってぼくらは遊んでいる。シャカオとは、なんか、草のようなもので、それを叩いてつぶし、出た汁を飲むとトリップできる麻薬のようなものだ。それを廻しのみする。勧められたが、遠慮した。
なんだかんだ、結局札束の効果で、ついに許可が出て、大型カタマランのボートに船外機を2基着けてナンマタールに向かった。往路は潮が満ちていたのでリーフの内側を走った。そして鮫が守っていると伝えられるナンマタールの水中神殿に潜り、帰途についた。潮が引いてしまったので、リーフの内側は通れない。潮が満ちてくるのを待ったら暗くなってしまうと、リーフの中も外も通れなくなる。キャンプをする用意はしていない。リーフの外側に出て、島を半周して再びリーフの中に入ってくるコースを予定していた。
途中、大型のエイが次々とジャンプする光景に出会った。これまで見たことがないようなシーンだったが、しぶきをかぶるといけないのでカメラは防水して格納してしまっていた。そのころのENGカメラは、カメラとVTR部分は別々だから、とっさに出すわけにはいかない。そのために、サブのフィルムカメラを持って行ったのだが、水没させてしまっているので、これを撮影することは出来ない。
そしてその時、ナン・マタールの呪いで、エンジン1基が止まってしまい、片肺で走ることになった。島を周って行くにつれて、うねりが大きくなってくる。もしも残ったもう一基が停まってしまったら遭難する。ボートには無線など積んでいない。無線があったとしても、連絡を受けてすぐに救助に出てくる船はない。今の話ではない。1979年のことだ。ポナペには、ダイビングサービスなどまだできていない。(タンクは公立の研究所で借りている)
ポナペはムウ大陸の沈下で山の頂上が海面に残ったところである。(信じるか信じないかは別として)だから神殿の遺跡があるのだという。石造りの神殿のつくられた年代はムウ大陸とはまるで合致しないが、とにかく、住民はムウ大陸の生き残りの子孫で(これも信じるか信じないかは別として)侍階級である。専制政治が行われないところには遺跡は残らない。侍階級、士族は魚を獲るなどという下賎な労働はしない。ポナペは海洋島なのに、住民は海洋民族ではない。侍なのだ。やはりムウ大陸は本当にあり、次第に沈降してこの島だけが残ったのか。
漁業は遠く離れたカピンガマランギ環礁から来た人たちがやっているだけだ。カピンガマランギという部落があり、漁業者は、そこに暮らしている。だから漁業は盛んではなく、カヌーのような手こぎの舟で沖にでている。無線を積んだ漁船が沖に出ていることも無い。もしも残ったエンジンが止まって漂流したら、捜索してもらえる希望はない。要するに簡単に助かる方法は無い。北国オホーツクの凍るような荒波で鍛えられた半端ではない漁師たちも「あの時は覚悟した。」と語っていた。
なんとかリーフの入り口までは来た。水路は、前が見えないほどのうねりだ。とにかく突っ込む他は無い。波に乗ってしまったらエンジン一基では舵が利かない。思わずネンブツを唱える一瞬があり、リーフの中に入ることができた。
ところで、ナンマタールの水中には何があったのか。光り輝く黄金の柱があった。神殿の柱か、海に面した桟橋の杭か、人工物としか思えない石の柱があり、黄色の海綿が一面に着いている。水面から差し込む光の加減で、黄金に光って見える。撮りようによっては、黄金の神殿の柱に見えなくも無い。何なのか謎である。
ナンマタールの呪いはまだ続く。テレビの良き時代に巨費をかけて製作したこの番組は、スペシャル番組枠では放送されなくなってしまった。山中プロデューサーは人間関係の争いに巻き込まれたのだと言うが、とにかく、一年以上お倉に入った後に、ランクの下がった日曜の午後にひっそりと放送された。誰も見た人は無いくらいの視聴率だった。当時、僕が撮った水中は、好視聴率を誇っていたから、呪いだろう。
そしてまだ呪いは続く。僕は黄金の柱のスチル写真を撮影した。そのころまだ世界でだれも見たことの無いナンマタールの海底だ。大事なものだからと山中プロデューサーに念をおして預けた。1年後、超自然現象などを扱った雑誌、「オムニ」が僕のところに取材に来た。写真があれば高く買うという。かなりの値段だったから、さっそく山中プロデューサーに電話をした。数日後に山中プロデューサーから返事が返って来た。大事にしまいすぎて紛失したという。ポナペの守護神は、黄金の柱の映像が世に出るのをくいとめようとしている。
その後、ずいぶんたってから、全日本潜水連盟の副理事長をやってもらっていた親しい友人の鉄さん(清水で鉄組という潜水会社をやっている実力者)が、息子と一緒にナンマタールの撮影をするという。呪いがあるからやめなさいと忠告した。もちろんそんな忠告でやめるような人ではない。撮影して、世界で初の映像ということで放送された。私たちの番組があまりにも視聴率が悪い時間帯だったので、後からの撮影が世界初になった。
きっと何かの呪いがふりかかっているに違いない。この撮影のADが行方不明になったと言ううわさもある。
※鉄さん親子にはナン・マタールの呪いはプラスに働き、鉄さんは、日本潜水協会(港湾土木作業の元締め的協会)の理事長になり、国から勲章をもらった。息子の鉄君は、卒業した母校、東海大学の準教授になっていて、ダイビング業界で次代を背負うスターになりつつある。
しかし、鉄さん親子が、その後ナン・マタールの水中のことを口に出されたことはない。何か、秘密にしなければならない呪いがかかっているのだろう。
ナン・マタールから帰った後、僕はすっかりカメラマンに変身し、社長業は放り出した。その後の山中組のすべてのロケには、カメラマンとして参加し、以後、およそ20年、ビデオのカメラマンとして水中撮影を続けることになる。社長業を放り出したおかげで、普通、会社というものは、30年続けばビルが建つか倒産するかどちらかだと言うが、創業40年のスガ・マリンメカニックはビルも立たず、僕は、65歳で胃ガンになり、これでもう終わりかと引退して、一人で水中調査の仕事を楽しく続けながら野垂れ死にへの道を歩んでいる。これもナン・マタールの呪いだろうか。
※これを書いていた2008年頃には、引退した後の水中調査は鶴町と組んでやっていたが、鶴町はスキルス性のガンで倒れ、一度は復帰して、こいつは、不死身かと思われ、一緒に潜っていたが、2010年日本水中科学協会を一緒に立ち上げようとしているときに再度倒れ、逝ってしまった。
本当のことを言うと、ナンマタールの呪いとは、タブーを冒した者は、ポナペの侍に拉致されたり、殺されたりしたのだとかんがえられる。
しかし、それとは別に、人が生きているということは、蜘蛛の巣のような運、不運の絡められていて、それを呪いと呼ぶのかもしれない。
それから数十年が経過し、兄貴分の白井祥平先輩を訪ねたとき、先輩がナンマタールに深い縁があり、ナンマタールを司っている第22代酋長サムエル・ハドレイと親交があったことがわかった。白井先輩はナンマタールの呪いの虜になっていて、ずいぶんたくさんの雑誌や新聞にナンマタールのことを書いているのに、弟分の僕がそのことを知らなかった。見ていても見えなかったのだろうか、これも呪いかもしれない。 先輩の書いた420pの大部の本、「呪いの遺跡、ナン=マタールを探る」8500円を買った。すばらしくおもしろい本だけど8500円だ。
ポナペの撮影をやらせてもらった山中プロデューサーとは、その後、知床で、流氷、キタキツネ、摩周湖、原生林の神の子池の発見をやり、海外では、アラスカ、ガラパゴスの撮影、石西礁湖では、三浦洋一さんとともに、大学生だった潮美も参加して、黒島をロケして、このときから河童隊の中川が参加する。そして、これが一番重要なのだが、慶良間の座間味から、民放初の水中レポートにより水中とスタジオを結ぶ同時中継を、須賀潮美も参加しておこなった。
山中さんは僕と潮美がニュース・ステーションに行った後、ヨーロッパの文化を紹介する番組を何本か作られてから、引退した。
そして、その後、奥様と中国を旅していた途中で亡くなられた。糖尿病だったが、幸せな死に方だったと思う。
そして、僕が「ニッポン潜水グラフィティ」を潮美の編集で月刊ダイバーに連載して、このナン・マタールのことも書き、山中さんの奥さんに送らせていただいた。それが到着した日が、山中さんの命日だったという。奥様が感動して仏前に置いてくださった。
そして、山中さんがロケで撮ったいたというスチル写真を全部、僕に送ってくださった。
その写真の中に、あったのだ。僕が撮ったナン・マタールの水中が。
山中さんは僕がオムニにこの写真を出すこと、断りたかったのだ。でも、心優しいから、ダメとは言えず、ナン・マタールの祟りで紛失されたことにしたのだろう。
山中さんは文筆家でもあり、「しるえとく:地の果てるところ」「アラスカ夏物語り」は、朝日ジャーナルのノンフィクション大賞になり、それぞれ、単行本になっている。
「しるえとく」は、知床の話で、ポナペに同行した若者たちが活躍している。50年がたち、若者たちは、それぞれ、実力者になったり、行方不明になったりしている。そして、知床は娘の潮美が流氷の下からの水中レポートでブレイクした。
「アラスカ夏物語」は、アラスカのカトマイ国立公園の羆と自然の話で、僕も出てきて活躍?している。
※アラスカも、しるえとくも、アマゾンで手に入る。極楽時代のテレビ製作ノンフィクションとして、絶対に面白い。
そうだったのだ!山中さんは、ナン・マタールでぼことをノンフィクションを書くつもりだったので、僕がオムニに写真を出すのを止めたかったのだ。そのように、言ってくれれば、よかったのに。申し訳ないことをしてしまった。
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