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2023年 04月 16日
「ゴンべッサよ永遠に」末広陽子 198812月刊行 スガ・マリン・メカニックが参加していたシーラカンス調査隊のことを書いた本なのに、なぜか持っていなかった。アマゾンで500円で購入、目を通して見た。自分の記憶と時系列も内容も違う部分が多い。自分の記憶は、もはや、不確かだから公刊されている末広陽子さんの記述に合わせることにして書き直した。 末広陽子さんは、末広恭雄先生の娘でピアニスト、門前の小僧的に、魚類学者のタイトルも使っている。なぜ、記憶の外に押し出されていたのか?、それは、シーラカンスが、自分のプロジェクトではなく、田沼健二(後にスガ・マリン・メカニック社長)のプロジェクトであり、そして、自分がコモロに行かなかったからなのだからだろう。 田沼は、日大水産を出て、福井水族館に一年ほどいた。そのかかわりから来た計画だったかもしれない。 「ゴンペッサよ永遠に」を追って見ていこう。 第一章 この奇妙な魚はいったい何? シーラカンスは、1938年アフリカのイーストロンドンという港町の沖、カルムナ河の河口近くで、トロールで捕られた。まだ生きていて甲板をよちよち歩きしたという。イーストロンドンには小さい博物館があり、その博物館の館長として、赴任していたラティマー女史のところに、この魚が届けられ、彼女が第一発見者になる。魚として巨大であり、そして魚なのか? いわゆる脊椎骨がなく、硬い鱗で保持され、進化の途上で進化を停止し、爬虫類の恐竜よりもはるか昔、魚類が陸に揚がって来ようという段階で、その進化を停止している。三億年前でストップしている。生物学者ならば、いや生物学者でなくても熱くなるだろう魚である。 日本にシーラカンスのホルマリン漬けだか、剥製だかが来たのは1967年でよみうりランドの水族館に展示された。僕はこれを見てはいないが、新聞記事の記憶はある。 第二章 魚博士と映画制作者の出会い。 末広先生と篠ノ井公平氏の出会いが書かれている。 末広恭雄先生は文章家で、子供向けの魚の話、童話と言ってよいのだろうか、も書いている。僕は、鯉の子供が河の中で次第に成長していく物語を、子供の頃愛読した。成長していく課程で、他の、アユとかナマズとかに出会い、会話もする。その魚の会話がおもしろかった。今、2023年、魚が鳴き交わす声の調査をしているが、とにかく、本当に、魚は、互いに音で会話というか、意思を伝え合っている。これはどうわではない、 とにかく、多作な先生で、物書きと言ってもいい。 シーラカンスは、おめにかかるチャンスだったのだが、残念ながら、おめにかかれなかった。 篠ノ井氏は、映像制作者で、ネス湖の恐竜とか、水中の怪物のドキュメンタリーが撮りたかった。そこで、油壺マリンパークに館長をしていた末広先生を訪ねてシーラカンスの話を聞く。そして、巨大魚であるのに、まだ水中で泳ぐ姿が撮影されていない。この撮影されていないと言うところに、映像制作者の篠ノ井さんは飛びつく。 そういえば、油壺マリンパークは閉鎖だ。ここのイルカランドに何度か撮影に行った。 最後は、イルカが隅田川に上ってくる話で、このときは自分でカメラを振らないで、中川のところに下請けにだし、上で指示をしていた。 篠ノ井氏は末広先生とで出会い、生きているシーラカンスを日本に持ち帰る計画を話し合う。このアイデアは末広先生のアイデアだ。 しかし、誰が考えても不可能に思えるアイデアを水族館長の末広先生がよくも考えたものだ。学者というよりもロマンチストなのだ。いや、学者は、元来ロマンチストなのかもしれない。 篠ノ井氏は、ヤクザ映画、それも安藤登のことを描いた映画で名を売っている。ヤクザの安藤とシーラカンス、水中の怪物、どこか通じるところがあるようなないような、 篠ノ井公平は映像制作者である。まだ、だれも生きて泳いでいるシーラカンスの姿を撮った者がいないということが、シーラカンスに踏み切って、よみうりランドのシーラカンスがとれたコモロ島にいくことを決意したが、コモロはなかなか、調査隊をコモロは受け入れてくれない。その交渉の苦労話が、第三章シーラカンスの戸籍と素性、第四章日本の学術調査隊コモロへ、に書かれている。交渉には9年も要しているがようやく、1981年の12月に、出発できることになる。 シーラカンスの釣れるのは、12月から冬の間であるという。 なお、この探検隊のスポンサーは、釣り道具のリョービが主で、その作る、自動釣り機でシーラカンスを釣ろうということだった。他に日本テレビなども、名を連ねている。 第五章 幻の化石魚の捜索活動を開始 ここで田沼の名前が出てくる。 現地リーダー 鈴木直樹 東京慈恵医大ME研究室 工学博士、鈴木さんは医学博士だとおもっていたのだが工学博士だ。 ダイバー 田沼健二 スガ・マリン・メカニック 映像監督 小林一平 カメラマン 堀田泰寛 顧問兼通訳 永岡謙一郎 60代で大手建設会社の人 篠ノ井公平 代表 コモロには、漁村がいくつもあり、漁師が、それぞれの部落に20人ぐらい居る。四つぐらいの部落とシーラカンス釣りの契約をして、カヌーを出してもらっている。 毎朝、契約している漁師が戻ってくるのを見に行ってから、朝食で、結構良いものを食べていて、果物が素晴らしくおいしい。 田沼が水深40mあたりまで、フランス人のダイバーと潜った記述がある。田沼はスガ・マリン・メカニックの作った曳航式のビデオカメラも持って行っているようでそれを壊してしまったことも書いてある。 地元の有力者、フランス人のオラガレィという人が出てくる。日本に、駐留軍としてきていたこともある人で、田沼からこの人のことをコモロのフィクサーだと聞いたが、まともな人で自動車工場を経営している。その人がシーラカンスのホルマリン漬けを持っていて、中国に送ったりしている。 その人から、シーラカンスをプレゼントとしてもらうことができた。親日家で、売らないけれど、プレゼントならするということだった。 第七章 日本隊の帰国寸前で釣れた大物。 本当に帰り支度をしているとき、1m70センチのこれまでで、2番目に大きいと言うシーラカンスが釣れた。これは、美しい魚で、これを持って日本に帰る。 解剖して、その所見を発表している。 ※自分の記憶では、この部分が二次隊のようになっている。 この1981~982年が一次隊。二次隊が1984年で、これが、僕の日記に書いた時だ。 僕も自分が参加したプロジェクトではないので、時系列がよくわかっていない。末広陽子さんの著書も、時系列が明確でないし、そして、1984年の二次隊のことはほとんどふれていない。 ※ここで、この前のブログに書いた1984年の日記の部分を再出する。 「 以下日記 1984年1月11日(日記) ※(日記の文とおりなので、その後の事実と合っていない部分もある。) シーラカンス学術調査隊の最終ミーティング(AM1130~、三井アーバンホテルにて) 1月18日より、2月25日まで田沼君が行く。私は、2月22日に成田を出発して、2月25日にコモロの空港で、田沼君と交代する。 2月25日までに、シーラカンスが撮影されてしまえば、僕が行くことはないが、まず、そんなことはないだろう。 まず、この探検隊の隊員、構成について、 代表と呼ばれている。主催者は篠ノ井公平氏、映画プロデューサーで、本当にすごい人だ。 篠ノ井さんの映画代表作は、愛奴、愛欲映画だ。確か日活から配給されている。その他、「ヤクザ非情史」は、三部作、かなり当たった映画らしいけど、一本も見ていない。今思えば、見ておきたかった。面白そうだ。 カメラマンの掘田さんは、16mmシネカメラでドキュメンタリーを撮って来たベテランカメラマンで、太ってゆったり構えていて、人なつっこそうな人柄だ。 隊長の鈴木直樹さん、慈恵医大の電子医療機器を専門にするドクターであるが、シーラカンスの解剖学的な分野の謎を解き明かそうとしている。ダイビングは、出来る、と言う程度。現地では、全員、鈴木隊長の指揮下に入る。 中日新聞、中日スポーツの長谷記者も同行する。もちろん、新聞で報告するためだが、学術調査隊という性格から、一者独占にはならないと、篠ノ井さんか念を押されている。 対馬さん、この人が一番若い、英語が堪能で、通訳兼篠ノ井さんのアシスタント、撮影の手伝いもするというが、撮影のことはほとんどわかっていないみたいだ。 私がコモロに行く1月25日時点で、田沼、鈴木隊長、掘田カメラマン、長谷記者は還ってきて、入れ替わりで、篠ノ井さん、対馬さん、と私の三人だけとなり、なんとかして私が水中でシーラカンスの自然に泳いでいる姿を撮る。 今回は生きているシーラカンスを日本に持ち帰るという計画で、大きな運搬槽を持って行く。水を入れないで、200キロある。水を入れてシーラカンスをいれれば、1トンを越える。こんなもので、生きたシーラカンスを飛行機で運べるとは思えないのだが、水槽設計者の田口さんの説明を聞いていると、もしかしたら、と言う気持ちになってきた。 さて、今回のコモロ行きの目標だが ①シーラカンスの水中運動、生態の研究、すなわち、シーラカンスの生きて泳いでいる姿を水中で撮影する。 ②釣り上げられ生きているシーラカンスを保護して、日本に持ち帰る。 ③冷凍されたシーラカンスでは、生理的な研究が出来ない部分があるので、現地で高鮮度なシーラカンスの細胞の研究をする。 この方向で撮影プランを作って田沼君に渡した、以下、その下書きである。 ①釣り上げられたシーラカンスが、生きている状態で岸に到着した場合。 この場合が一番難しい状況になるでしょう。生きているシーラカンスの生け簀への収容、運搬に水産出身で、水族館勤務の経験もある田沼君がたよりにされている部分も大きいのですが、基本的にカメラによる記録も重要で、カメラマンであるという立場を重く考えてください。これは、篠ノ井さん、鈴木さんにも確認をとってください。 シーラカンスが死んでも、田沼君の責任にはなりませんが、シーラカンスの世話に追われて、水中でのシーラカンスの姿の撮影が出来ていないと、こちらの責任になります。生きたシーラカンスが日本に到着する可能性は低いけれど、まだ、生きて泳いでいるシーラカンスが水中で撮れていないと、責任になります。生きて岸に着いたシーラカンスの水中での泳ぐ姿の映像は絶対に必要です。と言って、逃げられてもいけないし。 ②夜間に釣りかけられている現場にカメラを持って到着した場合の判断も大変でしょう。 生かして日本に持ち替えるためには、傷を付けたくないし、水中で釣リ揚げられるシーンもとりたい。 逃がしてしまったら、元も子もない。 代表と、鈴木隊長の指示に従うのでしょうが、この場合、生かして日本に持ち替えるということ、どだい無理な話だけど、とにかく、生かして岸に持ち帰ることでしょうが、最低限度の水中映像は抑えてください。シーラカンスの釣れるのは夜中、それも深夜らしい。 夜の潜水です。危険でもあるし、忙しくもあり、じっくりと腰を落ち着けて撮ることは出来ないと思います。なるべく、寄り気味に、できるだけ長く、カットを切らずに廻してください。5分ぐらいのカットが一つ撮れれば良いところでしょう。そして、とにかくライトが当たっているように、水中からは、250Wのバッテリーライトで、また、舟の上からは、懐中電灯タイプを5本束ねたものを水中に手を突っ込んで、シーラカンスに向ける。二つのライトを使ってください ③シーラカンスが死んでしまっている場合の釣り上げシーンの再現撮影。実はこの可能性が一番高いと同時に、これが一番安全、かつ成功の可能性が高いです 。 安全な海面で、夕方薄暮時に水中ライトの光束が水の中で目立つようになる頃に撮影をはじめると良いと思います。 カヌーからシーラカンスを吊して、波の動きにまかせて揺れていると、まるで生きているように見えるはずです。~この後、ライティングについて注意を書いているが省略 ④水深40mぐらいまで潜ってのシーラカンス生態の撮影。これは後から行く私のやりたい、やるテーマですが、チャンスがあれば、どんどんやってみてください。ロケハンという意味もあって、少なくとも2-3回はやってください。 シーラカンスが釣り上げられている位置の近くで、 田沼君の場合は40m-50mぐらいまで、RNPLの減圧表で潜水してください。現地でのアシスタントの技能が頼りにならない場合には、40mどまりで、降下索を降ろして、命綱代わりにして潜水してください。 シーラカンスのいる海底の本当の地形の撮影だけでも意味のあることです。 なお、一回は鈴木隊長と一緒に潜水して彼の姿をとっておいてください。 ※この後、機材とライト、ライティングの注意を細々と書いているが省略。 以上 日記から」 ※ここから先は当時の日記では無いが、当時、自分が潜水して撮影プランについて、篠ノ井さんに要請されて、考え、説明していたこと。 まず、シーラカンスが釣られている水深は、正確にはわからないが、80-100mあたりらしいときいている。 80m-100mに機材も十分ではなく、頼りになるアシスタントもナシで、潜ることは、危険でありできない。60mが限界で、それも、なれない、潮流とか海況のわからないところで一人で潜るのは無謀に近い。それでも、あえてやってみようとおもった。釣りの餌に惹かれて、60mぐらいまでは上がってくるだろう。沖縄のソデイカ(烏賊)の撮影では、夜、100m以上の深さから、30mぐらいまであがってくる例がある。これに賭けるしかない。 結局のところ、僕はコモロには行かれなかった。アフリカ近辺の政治状況が悪化して、フランス海軍の海兵隊が、休暇の名目で続々と島に乗り込んできた。危険になってきたということと、シーラカンスが釣り上げられ、生きてはいなかったが、撮影プランのような再現撮影がかなりうまく行き、篠ノ井プロデューサーの眼鏡に叶い、獲れたシーラカンスを日本に持ち帰れば、一応の目標は達成されたということで、全員が戻ってきた。 海兵隊が乗り込んできたということで、僕は命拾いしたのかもしれない。行っていたら、状況によっては60mを越えて潜っただろう。 シーラカンスの生態、生き様はわかっていない。釣り上げられたのは、80mくらいからしい。それとても、丸木舟的カヌーに魚探があるわけでもなく、正確な水深は、わかっていない。漁師の舟に、調査隊の誰かが乗っていったわかではなく、釣れたという知らせを受けて、海岸に出向いて、釣りの再現シーンを撮ったものだ。 シーラカンスの形態、釣られ方から類推して、マハタ、クエのような生態だろうと推測した。おなじみのモロコである。モロコは、水深で100mぐらいまでいるし、釣り上げられる深さは深い。シーラカンスの釣れ方とにかよっている。水中銃で追い回していたが、水中銃で追われていない状況では、ダイバーが近づくと興味深げにこちらを見て、逃げようとしない。しかし、突き損じて、ダイバーが敵とわかると、岩の下に逃げ込む。 イシダイなどは、行き止まりの穴に入り、穴に追い込んで突かれてしまう。これを、「穴うち」と言って馬鹿にしたが、モロコ、ハタは一旦学習すると、決して行き止まりの穴には逃げ込まない。向こう側にするりと逃げ、行方をくらます。シーラカンスもそんな生活、生態をしているのだろう。 夜中に釣られるということは、夜中に自分の住処、岩の下からでてパトロールして摂餌するのだろう。そこで釣られるのだが、その大きさから考えても、相当広い範囲で餌を追うのだろう。だから、餌でつれば、40mあたりまで繰るはずだ。来なくては、撮影できない。 ただし、時間がかかる難しい撮影になることはまちがいない。篠ノ井さん、通訳と三人で、一ヶ月以上、コモロに滞在しなくては、できるかできないかの判断さえ付けられないだろう。 1984年、1935年生まれの僕は49歳、ダイバーとして、水中カメラマンとしても経験とフィジカル、ピークにあった。 1984年の僕のスケジュール、僕の行動記録をみると。 3月ー4月 水曜スペシャル 川口浩探検隊、セブ島で、猛毒ウミヘビが群れで、水中に潜っている川口さんめがけて降ってくる撮影。これは、今2023年でも、DVDが売り出されている。 グアム PICにスケートチャンピオンの佐野稔さんとのロケ 5月 沖縄で、ジェットスキーチャンピオンの曲芸的撮影、水面でカメラを構える、僕の上を飛び越していく。大学三年生で、法政アクアで仕込まれた潮美を助手にしていた。と そのまま石垣島で、追い込み網、アギャーの撮影、これも親方の伊計さんに潮美は、ウミンチューに慣れると褒められた。 続いて、石垣島で北村皆雄監督のロケテングハギ突きと海歩き(うみアッチー)撮影。 石垣島で博物館を開いていた、探検の師匠である白井祥平さんを訪ねる。 6月 7月 アラスカ行き、日本テレビ 山中さんがプロデューサーで、グリズリーが泳いで、レッドサーモンを獲るシーン、米田茂を助手にして。 8月 再び北村皆雄さんと沖縄、糸満で、タイガーシャーク(イッチョウさめ)を追う。この時に、慶良間と渡名喜の間の慶良間曽根で、水深70mにカメラに餌をつけて降ろして、特大のはマハタをとった。シーラカンスもこの方法で行けるのではと思った。 9月 79Eのハウジングができる。 カメラ本体は800万で買えなかったが、電通の環境ビデオを撮る。 10月 知床の神の子池で撮る。 11月 フィリピン サンボアンガ 水曜スペシャル女探検隊を撮る。 CMASの日本支部ともいえるフェジャス発足、三笠宮殿下を総裁にする。関 邦博さんとともに発起人になる。 12月 新生日本潜水会45人集まる。六本木ドルフィン、学習院OB。兼高かおるの野田君のお店で 尾崎豊のプール撮影 ダイブウエイ フルフェース完成 1985年もこんな具合で,1986年にはニュース・ステーションの水中レポートシリーズが始まる。 こんなスケジュールで、シーラカンスの長期ロケなどできない。そして、自分の撮影仕事が繁盛するのに反比例して、1984年、スガ・マリン・メカニックは赤字になり、借金が1000万をこした。それはそうだろう。社長がほとんどロケに行っていないのだ。 さて、この時の現地コモロの状況だが、田沼君の報告からの伝聞である。 篠ノ井さんは、難しい人なので、人間関係を心配していたが、まずまずだったらしい。中日新聞の記者が浮いてしまったらしいが、これは仕方がない。鈴木隊長とは、うまく行っていたようだ。 現地は、ちょうどフィリピン、インドネシアの田舎の町のようで、のんびりして良いところらしい。観光ずれもしていない。 島は、フランス人の顔役が取り仕切っていて、自動小銃なども持った、私兵(子分)がいて、篠ノ井さんは、その人と良い人間関係を築いていて、それですべてができている。 ※これが田沼から聞いたはなしだが、ちょっとちがっていたようだ。しかし、顔役であることはまちがいなく、この人、オラガレイ氏に信用され親しくなったことが、一応の成功の原因だろう。 カヌーでのシーラカンス漁も、当然、ボスの取り仕切りであり、なるべく多数の漁師を出してもらった。そして、運良く、滞在中にシーラカンスが釣れた。 そして、事前の読みのように、生きて岸に連れ帰ることは出来なかった。釣れたのは深夜らしいが、とにかく手漕ぎでもどってくるのだから、田沼君達が見たのは、朝になってからで、それから準備をして、その夜に撮影を、僕の書いたような装備と考え方で水中撮影をした。 撮影は上手に出来ていて、素人眼には、やらせに見えないで、本当のように思える出来映えだった。 この映像、確かに見たのに、そして苦労話も聞いたのに、末広陽子さんは、これに全く触れていない。この部分が僕の記憶とまったくちがう。 ゴンペッサよ永遠に、では「第二次隊の滞在40日の間には、シーラカンスは釣れなかったし、もちろん幼魚も手に入らなかった。しかし、コモロ政府からは、この二年の間に捕獲されて冷凍保存された、一尾をクリスチャン・オラガレイの世話で寄贈してもらい、それを日本に持ち帰った。」となっている。多分これが、公式発表なのだろう。二次隊は2尾のシーラカンスを持ち帰り、そのうちの1尾はどんな事情か、スガ・マリン・メカニックの作業所に大きい冷凍庫をおいて,一時あずかっていた。そして、社員は鱗をそれぞれ引き抜いて,記念にもっていた。僕も一枚もっていたが、机の引き出しで行方不明になってしまった。探してみたけれどない。今ならば、もっと大事にするのに、僕の欠陥の一つである。 そして、1986年5月第三次シーラカンス学術調査隊が8名がコモロに出発した。今度はシーラカンスの遊泳撮影を第一目標として、日本からは田沼隊員以下2名がダイバー兼カメラマンとして参加。 スガ・マリン・メカニックからは、田沼の他、井上孝一が参加したはずであるが、現地で参加したフランス人のジャン・ルイ・ジローの名前はあるが、井上の名前が無い。だから井上だったという確信がもてない。そんなことからか、この「ゴンペッサよ永遠に」はスガ・マリン・メカニック内では、評判が悪く、僕の書棚に残っていなかった、のかもしれない。 現地では、高さと幅は1m、横2.5mの金網のケージを作り、これを水深50mに沈めた。 そして、今度は延縄式で釣ってみようということになり、一度はかかったらしいが切られてしまい。滞在日数がきれて、機材だけはそのまま、釣りも続けるようにして、永岡さん(一番高齢の)を残して、日本隊 は、帰国してしまう。 そして、その後、永岡さんも日本に戻る前日に水深200mでシーラカンスがかかる。そして、水深5mのところで泳がせて、泳いでいるシーラカンスを撮る。しかし、これはフィルムだったのだが、失敗、写っていなかったしかし、幸運にもその直後にもう一尾、シーラカンスがつれ、これはケージに入れることに成功して、ビデオを撮ることができた。 マンボウの泳ぎ方に似ているらしい。このシーラカンスは人に慣れそうだったが死んでしまう。 田沼と井上は泳ぐシーラカンスを初めて水中で撮ったダイバーにはなれなかった。 この映像は見た記憶がある。素人が撮ったものだから、映像的にはどうしようもないものだった。 各国からこの映像購入の引き合いが来た、とゴンペッサには書かれている。がちょうどその1986年の夏、西ドイツ隊が小型潜水艇を持ち込んで、シーラカンスが岩だなの下に棲み着き泳いでいる姿を撮っている。これは良い映像で、日本でもテレビ番組で放送され、僕もこれを見た。映像制作者の篠ノ井さんとしては悔しかっただろう。 しかし、 日本では、持ってきたシーラカンスの冷凍と、二次隊で田沼の撮った映像を篠ノ井さんが編集したものなどを集めて、全国で、東京では池袋の東武デバートで、シーラカンス特別展示会が開かれた。もちろん、篠ノ井さんのプロデュースだったはずだ。図版のいくつかはその時のプログラムから切り取ったものだ。展示会は大入りで、シーラカンスに触るという趣向には長蛇の列ができた。そして、シーラカンスに触れた人には、シーラカンスに触ったことを証明するカードが発行された。僕はこの展示会には行かなかったが、行って写真を撮り、シーラカンスに触って、カードをもらっておけば、ここに貼り付けられたのに、残念なことをしたと後悔している。 これが何時の、何年のことなのか記憶にない。パンフレットに日時が入っていないのだ。多分、全国を巡回したためだろう。 篠ノ井さんも元はとっただろう? 田沼も計3回もコモロにいくことができ、一生の思い出になったと思う。 この展示会が1987年のこととして、それから30余年の月日がながれた。 篠ノ井さん、生きておいでだろうか。僕よりかなり年上のはずだから、90歳はオーバーしているだろう。お元気だと良い。そして、この文の間違っているところを直してくれると良い。篠ノ井さんはチャレンジャーだった。そして、奇妙な魅力のあるひとだった。 自分の記憶とは違った部分があったが、「ゴンペッサよ永遠に」は面白い本で、シーラカンスのことを」書いた本の中で、といって他の本を読んだわけではないが、この一冊で十分、そんな本だった。 自分の視点からかなりいい加減に書いた。そして長くなった。ブログだから、良いだろう。 そして、シーラカンスの夢は、まだまだ続く。 #
by j-suga1
| 2023-04-16 15:59
| グラフィティ
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2023年 04月 08日
マリンダイビングフェアに行った、目的の一つは、西表のMrサカナさんにあうことだった。昨年、彼のところで、一緒にちょっとした撮影がしたくて、メールを往復させていたのだが、心筋梗塞で倒れ、行けなかった。今年も、夏にタンクを背負えるまで回復するかどうか不明だ。行けなかった謝りと、今年行かれなかった場合の撮影のお話を少しばかり、これはメールでもすむことだが、東京に出てきておられるならば、直接会ってお話ししたい。話すことが出来、カレンダーをもらった。僕はこのところ、カレンダーを飾ることがないのだが、気に入ったので、飾ることにした。 中川西君の映像展示の場所だけ、椅子と机があったので、腰掛けて休み、若干の映像論を話しながら、彼の映像を見た。8Kの映像はたいへんすばらしいもので、その昔、僕が環境映像をやっていた頃にこのカメラがあったらと、昔日の思いがあったが、今、これだけの画質の水中映像があって、そのアウトプットをどうすれば良いのだろう。そんな話をした。隣にあやのも居たのだが、彼女とはプールでいつも一緒だし、話すことも無いのだが、こういう席にいつも待機していてくれるところが、彼女の成功の一因だとおもう。 折良く、フィッシュアイの社長も顔をだしてくれて、これで一連の記念撮影が出来て、今日の目標はほぼたっせいした。 本当に、どこかにたまり場があれば、良いのだけれどとも思うが、 もどりがけに、SDC シニアダイビングクラブのブースに市川会長がいたので、ちょっと顔を出し、マガジンの最近号をもらってきた。読んでみると、安全潜水の項で、水中で脳梗塞を起こしたらしい人の報告が出ていて、それについての意見などは僕とは少しちがうが、高齢化社会におけるダイビングは、この問題が、一番重要、それをマガジンに載せているところは、まっとうで、良いとおもう。市川君でなければ、できない仕事だろう。巧みにやっている。 途中で、海洋大学潜水部の子たちにあったので、これから頼もうと思っている撮影についてちょっと話をした。中川西のところに、この子達を連れていって話を聞かせたりしたいと思ったが、混雑していたので、思うようには行かないだろうとやめておいた。 元PADIの鷸谷くんが、フォトコンテストを取り仕切っていた。彼の行方も心配していたのだが、活躍する場があって良かった。 挨拶したいところが、まだまだあったが、もどることにした。 地下鉄の乗り場ちかく、浅野屋で肉南蛮のそばをたべた。1300円、これはひどいものだった。蕎麦が多すぎる。ドカンと居座っている感じ、そして不味かった。半分以上残した。門仲までもどって、門仲で食べた方が良かったと悔やんだ。 8000歩、歩いた。退院以後の最高記録が8205歩だから、ほぼ、最高記録だった。 まとまりがないことを書いたけど、たまには、単なるログも良いだろう。 #
by j-suga1
| 2023-04-08 16:20
| 雑感
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2023年 04月 07日
本棚に「日本の海洋動物」というグラフィックな、写真集と言っても良い立派な本がある。昭和44年 1969年の発刊だ。ラーメンが40円だった時の4500円だから、今ならば、45000円だ。1969年当時の伊豆海洋公園のすべてがここにある。 そして、その伊豆海洋公園が、僕らのまっとうな活動の基地だった。あとは水中銃で魚を追い回していた。もちろん、海洋公園のめぼしい魚は突き獲られ、1967年の日本潜水会の結成合宿、これも伊豆海洋公園で行われたのだが、その時に、水中銃は捨て、カメラに持ち替えようと決議した、その後の1969年の出版だから、益田さんのその後の活動の原点であるとともに、僕らの原点でもある本だ。 それが、益田一さんと畑正憲さん共著になっている。畑正憲さんが文章を書いている。 良い文章だとおもった。2016年4月にその一端をブログに書いた。そのことを、トタミンこと、藤堂喜民さんがかいてくれた。すごい記憶力だ。僕自身は忘れていたのに。 その時のブログから、畑さんの文章、窒素酔いについて書いたものだ。最近、僕も窒素酔いジャンキーのことを書いたが。 「「水深70メートル 神秘的なざわめきが聞こえてくる。初めてもぐったときは耳を疑った。思わずあたりを見まわした。潮騒のように密林の奥でなるドラムのように、ざわめきの中にトントンと皮を打つ音が響いてくる。わたしたちはこれを、70mの音楽とよんでいる。 音楽は深くなるにつてて変わる。血管を流れる血液の音に心臓の鼓動が交じるのだ。音楽の旋律によって私たちは深さを知る。 90メートルの音楽が聞こえ始めると、本格的な窒素酔が始まった。けだるくものうい。四肢から力が抜けていった。中略 1m上に上がっただけで、意識が清明に澄んでくるのだ。」 「日本の海洋動物」の一端をしょうかいしよう。 カラーの印刷は、今と大きな差があるが。それでも、これが益田一さんの写真の原点であり、益田さんの弟子筋のカメラマンたちの原点でもある。
そんなことを、畑さんの死亡ニュースから、思い起こした。 なお、畑さんとは、彼が北海道に行き、ムツゴロウになってから、幾度かテレビの企画があったが、海にはほとんど縁がなく、お目にかかったことはない。羽田さんが後藤道夫のところに出入りしていたころ、麻雀が強くて、巻き上げられた。
なお、アマゾンで調べたが、この本は出て居なかった。
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by j-suga1
| 2023-04-07 09:48
| 雑感
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2023年 04月 03日
グラフィティのタイトルで 60歳100mから、CCRの購入から講習、そして大瀬崎先端のハナダイを追って、窒素酔いジャンキーの話、そして、CCRを諦めたところまで書いた。 その続きで、シーラカンスのことを書こう。 シーラカンスは、世界で一番人気のある魚だろう。その仲間は、3億年前に地球上に多種棲息していて、両生類への進化の過程、その中間とも言われていている。そして、1.7mと巨大魚である。ちょうど、ダイバーにも釣り人にも人気があるモロコ、マハタと同じくらいのサイズだ。 そして、さらに、水深80m以上の深みに棲んでいる。1938年に最初の1尾が釣り上げられた。その場所は、アフリカとマダカスカルの間のモザンビーク海峡の北部に点在するコモロ諸島近海であった。その後、インドネシアのメナドでも、インド洋でも発見されたとも聞いたが、コモロが最初であり、また、自分がかかわったのもコモロである。。 アマゾンで、シーラカンスと検索すると、ぬいぐるみが多数でてくる。 水深80m以深に棲むことも、ダイバーが行けば行かれると思う限界の深度であり、命がけの深度である。とにかく、ダイバーであれば、死ぬまでに、シーラカンスの生きて泳いでいる姿を、目にしたい。水族館は、なんとか飼って見せたい。 スガ・マリン・メカニックがシーラカンスに関わったのは1980年代で、釜石湾口防波堤工事、龍泉洞のNHK番組の水中撮影、そして沼沢沼水中トンネルの調査など、深い潜水、冒険的な潜水で、少しばかり、名前が売れたことによって話が来たのだとおもう。自分が考えた企画ではない。 その1980年代は、原稿用紙ノートに記録とか企画とかを書き綴っていた時代だった。原稿用紙ノートなのでコピペで持ってくることができない。考えてみると、今これを書いているテキストライターは便利が良い。今の文体とはかなりちがうし考え方も全くちがうし、シーラカンスについての考え方もその頃と今ではちがう。だから自分としては面白くて、日記をできるだけ原型を残すことにする。 以下日記から 1984年1月11日(日記) シーラカンス学術調査隊の最終ミーティング(AM1130~、三井アーバンホテルにて) 1月18日より、2月25日まで田沼君が行く。私は、2月22日に成田を出発して、2月25日にコモロの空港で、田沼君と交代する。 ※田沼君は当時スガ・マリン・メカニックのNO2で、僕がいつも、良いところどりをして、面白そうな仕事は、全部僕がやり、ルーティンの調査仕事を彼にまかせていたので、今度は彼にまず行かせてあげようと思った。田沼君は日大農獣医学部、水産の出身で綿密な調査作業の長けていて、しかも絶対に船酔いはしない。やがて、僕が70歳で引退の後に、かれが社長になる。 大学卒業直後、たしか福井県の水族館に勤務してことがあり、魚の飼育方面の知識、実績もある。そのことも、このプロジェクトに出て行かせた理由の一つでもある。 2月25日までに、シーラカンスが撮影されてしまえば、僕が行くことはないが、まず、そんなことはないだろう。 まず、この調査探検隊の隊員、構成について、 代表と呼ばれている。主催者は篠ノ井公平氏、映画プロデューサーで、本当にすごい人だ。 しかし、私とはほぼ正反対の生き方をしている。まず秘密主義、絶対に一匹狼で仕事をしようとしている。 https://eiga.com/person/162637/ 篠ノ井公平 プロフィール https://www.allcinema.net/cinema/142944 篠ノ井公平制作 やくざ非情史 ※この最終打ち合わせまでに、数ヶ月、何回か会って、ここまでこぎ着けているのだが、その間の感想を書いている。 私は、誰にでもフランクに、オープンにしているし、ある程度妥協しても人と仲良く仕事をしたい方だ。自分のそんなところを弱みと感じる時がないでも無いが、大自然を相手にするには、私の生き方のほうが良いとも思う。しかし、学術探検隊をここまで持ってきたのは、篠ノ井プロデューサーだ。 篠ノ井さんの映画代表作は、愛奴、確か日活から配給されている。その他、ヤクザ非情史は、三部作、かなり当たった映画らしいけど、一本も見ていない。その頃1980年代は映画館に行かないと映画は見られなかった。残念、今からでも見たいが。 カメラマンの掘田さんは、16mmシネカメラでドキュメンタリーを撮って来たベテランカメラマンで、太ってゆったり構えていて、人なつっこそうな人柄だ。 隊長の鈴木直樹さん、慈恵医大の電子医療機器を専門にするドクターであるが、シーラカンスの解剖学的な分野とか、細胞、血液の謎を解き明かそうとしている。これは現地で新鮮な魚を手に入れないとできない。ダイビングは、出来る、と言う程度。現地では、全員、鈴木隊長の指揮下に入る。 中日新聞、中日スポーツの長谷記者も同行する。もちろん、新聞で報告するためだが、学術調査隊という性格から、一者独占にはならないと、篠ノ井さんから念を押されているとか。 学術代表は魚類学者として高名な末広恭雄 先生で、確か末広先生の娘さんの末広陽子さんも魚類学者で「ゴンベッサよ永遠に」というシーラカンスの本を書いている。末広先生の信用で、この調査隊の費用を集めたとか。 対馬さん、この人が一番若い、英語が堪能で、通訳兼篠ノ井さんのアシスタント、撮影の手伝いもするというが、撮影のことはほとんどわかっていないみたいだ。 ★★★★★ 私がコモロに行く2月25日時点で、田沼、鈴木隊長、掘田カメラマン、長谷記者は帰ってきて、篠ノ井さん、対馬さん、と私の三人だけとなり、なんとかして私が水中でシーラカンスの自然に泳いでいる姿を撮る。 今回は生きているシーラカンスを日本に持ち帰るという計画で、大きな運搬槽を持って行く。水を入れないで、200キロある。水を入れてシーラカンスをいれれば、1トンを越える。こんなもので、生きたシーラカンスを飛行機で運べるとは思えないのだが、水槽設計者の田口さんの説明を聞いていると、もしかしたら、と言う気持ちになってきた。 さて、今回のコモロ行きの目標だが ①シーラカンスの水中運動、生態の研究、すなわち、シーラカンスの生きて泳いでいる姿を水中で撮影する。 ②釣り上げられ生きているシーラカンスを保護して、日本に持ち帰る。 ③冷凍されたシーラカンスでは、生理的な研究が出来ない部分があるので、現地で高鮮度なシーラカンスの細胞の研究をする。 この方向で撮影プランを作って田沼君に渡した、以下、その下書きである。 ①釣り上げられたシーラカンスが、生きている状態で岸に到着した場合。 この場合が一番難しい状況になるでしょう。生きているシーラカンスの生け簀への収容、運搬に水産出身で、水族館勤務の経験もある田沼君がたよりにされている部分も大きいのですが、基本的にカメラによる記録も重要で、カメラマンであるという立場を重く考えてください。これは、篠ノ井さん、鈴木さんにも確認をとってください。 シーラカンスが死んでも、田沼君の責任にはなりませんが、シーラカンスの世話に追われて、水中でのシーラカンスの姿の撮影が出来ていないと、こちらの責任になります。生きたシーラカンスが日本に到着する可能性は低いけれど、まだ、生きて泳いでいるシーラカンスが水中で撮れていないと、責任になります。生きて岸に着いたシーラカンスの水中での泳ぐ姿の映像は絶対に必要です。と言って、逃げられてもいけないし。 ②夜間に釣りかけられている現場にカメラを持って到着した場合の判断も大変でしょう。 生かして日本に持ち替えるためには、傷を付けたくないし、水中で釣リ揚げられるシーンもとりたい。 逃がしてしまったら、元も子もない。 代表と、鈴木隊長の指示に従うのでしょうが、この場合、生かして日本に持ち替えるということ、どだい無理な話だけど、とにかく、生かして岸に持ち帰ることでしょうが、最低限度の水中映像は抑えてください。シーラカンスの釣れるのは夜中、それも深夜らしい。 夜の潜水です。危険でもあるし、忙しくもあり、じっくりと腰を落ち着けて撮ることは出来ないと思います。なるべく、寄り気味に、できるだけ長く、カットを切らずに廻してください。5分ぐらいのカットが一つ撮れれば良いところでしょう。そして、とにかくライトが当たっているように、水中からは、250Wのバッテリーライトで、また、舟の上からは、懐中電灯タイプを5本束ねたものを水中に手を突っ込んで、シーラカンスに向ける。二つのライトを使ってください。 ※この学術調査隊は、第一次隊があって、書いた1984年が二次隊になるのだが、一次隊の時も田沼君が行っているのだが、自分では無いのでその記録が全くなく、二次隊は、日記が残っていたのでそれを書いているが、現地事情など、ここから先、書く内容は、田沼君の口頭の報告だけでなので一次と二次がミックスされている。 ※印は、日記には書かれていないことを、2023年現在で、補足説明したもの。 ※一次隊が撮った写真を見せてもらっているのだが、シーラカンスは、釣りで獲られる。現地コモロ島の釣り舟は、縄文時代もかくや、と思わせるような手作りカヌーが使われている。立派な漁船がない。つまり、島嶼国家であるにもかかわらず、漁業が栄えていないことが、深みに棲むシーラカンスが長い間発見されなかった理由かもしれない。しかも、シーラカンスが釣れるのは深夜である。深夜に丸木舟で漁に出るのは危険である。もちろん、無線もなく、水深80mを超せば、アンカリングもできない。だから、シーラカンスはまれにしか釣られることもなく、天敵もいなかったのだろう。3億年、生き延びた。 ③シーラカンスが死んでしまっている場合の釣り上げシーンの再現撮影。実はこの可能性が一番高いと同時に、これが一番安全、かつ成功の可能性が高いです 。 安全な海面で、夕方薄暮時に水中ライトの光束が水の中で目立つようになる頃に撮影をはじめると良いと思います。 カヌーからシーラカンスを吊して、波の動きにまかせて揺れていると、まるで生きているように見えるはずです。 ~この後、ライティングについて注意を書いているが省略 ④水深40mぐらいまで潜ってのシーラカンス生態の撮影。 これは後から行く私のやりたい、やるテーマですが、チャンスがあれば、どんどんやってみてください。ロケハンという意味もあって、少なくとも2-3回はやってください。 シーラカンスが釣り上げられている位置の近くで、 田沼君の場合は40m-50mぐらいまで、RNPLの減圧表で潜水してください。現地でのアシスタントの技能が頼りにならない場合には、40mどまりで、降下索を降ろして、命綱代わりにして潜水してください。 ※まだ減圧計はない。 シーラカンスのいる海底の本当の地形の撮影だけでも意味のあることです。 なお、一回は鈴木隊長と一緒に潜水して彼の姿をとっておいてください。 ※この後、機材とライト、ライティングの注意を細々と書いているが省略。 ※ここから先は当時の日記では無いが、当時、自分が潜水して撮影プランについて、篠ノ井さんに要請されて、考え、説明していたこと。 まず、シーラカンスが釣られている水深は、正確にはわからないが、80-100mあたりらしいときいている。 80m-100mに機材も十分ではなく、頼りになるアシスタントもナシで、潜ることは、危険であり、常識的にはできない。 60mが限界で、それも、なれない、潮流とか海況のわからないところで一人で潜るのは無謀に近い。それでも、あえてやってみようとおもった。釣りの餌に惹かれて、60mぐらいまでは上がってくるかもしれない。沖縄のソデイカ(烏賊)の撮影では、夜、100m以上の深さから、30mぐらいまであがってくる。これに賭けるしかない。 なお、そのころすでに調査の道具として使っていた吊り降ろし式のテレビカメラを使いたいが、当時のカメラ、ライトはまだ大きく、水面、船上から電源を供給しなくてはならず、そのための発電機などを入れると、かなり大きくなり、現地のカヌーには乗らないと思われた。現地にも、日本の援助などで贈られた小型漁船があったが、すぐに壊れてしまって使える状態にないという。 1970年~1980年代の南の島嶼では、漁業の盛んなモルジブあたりは別として、漁業のステイタスが低く、現地人の釣り漁業などの生活レベル、社会的なステイタスも低かった。先に述べたような、縄文時代的手彫り丸木舟のようなカヌーである。また、それだからこそ、シーラカンスが生き延びたともいえよう。 それに、現地の漁師のレベルでは、エンジン付きの、例えば、日本の3トン未満の漁船のような舟をつかったとして、沖合、洋上でエンジンが止まったら、海洋保安部も無く、無線もない状態では生きて戻れない。手こぎのカヌーならば、壊れる心配がない。帰ってこられる。そのころ、ロケに行ったポナペでもおなじような状況で、ポナペ本島の人は漁業には従事せず、カピンガマランギ環礁の人が、ポナペに来て部落を作って、丸木舟で漁業をしていた。その代わりに丸木舟での航海技術は、たいしたもので、どこまでも行かれた。 結局のところ、僕はコモロには行かれなかった。アフリカ近辺の政治状況が悪化して、フランス海軍の海兵隊が、休暇の名目で続々と島に乗り込んできた。危険になってきたということと、シーラカンスが釣り上げられ、生きてはいなかったが、撮影プランのような再現撮影がかなりうまく行き、篠ノ井プロデューサーの眼鏡に叶い、獲れたシーラカンスを日本に持ち帰れば、一応の目標は達成されたということで、全員が戻ってきた。その後もシーラカンスの水中撮影の話はあったが、ニュース・ステーションの撮影がレギュラー化したこともあり、出来なくなった。 海兵隊が乗り込んできたということで、僕は命拾いしたとも言える。行っていたら、状況によっては60mを越えて潜っただろう。 #
by j-suga1
| 2023-04-03 15:03
| グラフィティ
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2023年 03月 30日
リブリーザの練習、独習をしていた2003~2004年に、波左間、西川名がホームだったら、ずいぶん楽だったと思う。その独習をしていた大瀬崎のゴロタ石の上で滑って転んだりして、けがをしたら、また、潜水後、御殿場越えをして減圧症になっていたら、千葉の館山だったら事故にならなかったのに、と悔やんだろう。 その時期、外房の乙浜で藻場の調査をしていた。タンクは館山の西川名で調達していたし、内房では、坂田の海洋大学のセンター、そして、西崎でも、塩見でも魚礁の調査をしていた。それなのに波左間には、年に一度ぐらいしか行っていない。なぜだろう。波左間に通うようになったのは、仕事としての調査を全部終了してからだった。巡り合わせと言うほかないだろう。 その頃は、仕事としての調査は、外房か、内房、遊びのダイビング、半ば遊び、楽しみのダイビングは、大瀬崎だった。 なぜ、大瀬崎だったのか、それも足場の悪い、大きなゴロタ石を重いタンクを背負い、ころんだら骨折の可能性のある大瀬崎先端 なのか、それはハナダイのためだ。ハナダイの類は、ダイバーのためにこの世界、それも伊豆半島に存在している。ハナダイは、アクアリストにも人気があるが。 この大瀬崎・先端のポイントは、ハナダイのために、深く潜るダイバーのメッカだったのだろう。自分にとっては、そうだった。 釜石のところで、窒素酔いジャンキーのことを書いたが、大瀬崎先端と伊豆大島、秋の浜は窒素酔いジャンキーのたまり場だった。そして、伊豆海洋公園もそうだが、海洋公園は、深度をとるためには、二番の根付近まで行かなくてはならないが、海洋公園は益田さん、友竹らが1960年代後半から、窒素酔いジャンキーになっていた。まだ、テクニカルダイビングなどという言葉もなく、勿論、僕らは何もしらなかった。テクニカルダイビングは、僕の60歳100m潜水のときに、日本ではじめて、ハミルトン博士の講演会をひらいたが、その葛藤は、60歳100mの項で書いた。 リブリーザ独習以前、1990年代後半、12リッターシングルで、大瀬崎先端、水深50-60mで、窒素酔いを楽しんでいた。 あるとき、潜っていくと、それらしいダイバーが一人で、ゆっくり潜降していく僕を矢のように追い抜いて行った。名のあるジャンキーなのだろう。 僕は、次第に窒素酔いになるのを楽しみながら、ゆっくり、それでも、減圧表の指定など無視した速さで60mまで達して、スミレナガハナダイを見る。窒素酔いの状態で、ハナダイを見るのは、夢のようだ。この酔いの愛好、大酒飲み状態になった奴を、窒素酔いジャンキーと僕は呼んでいる。 60mに達したら、タッチアンドゴー。直ちに引き返す。スミレナガハナダイをglimpse、ちらっと見たら、浮上をはじめる。よく、学生などに、魚は。observe、しっかり見て、写真を撮れ、と言ったりするが、オブザーブしていたら、減圧症になる。だから、グリンプス(チョロスナ、ちょろっとスナップ)の写真になる。ろくな写真は無い。12リットルシングルでは、減圧停止を長くする余裕は無い。潜降速度を早くしてターンプレッシャーは、120以上だ。引き返しながらも写真を撮る。ニコノス・ファイブに20mmを付けて、フィルムでの撮影だ。遊び、楽しみだから、社員ダイバーを連れて行くわけにはいかない」」。バディには、東大、理論天文学(現教授)の小久保君に何回かつきあってもらった。小久保君は、東大海洋調査探検部のコーチだったが、僕のバディをやらせたので、窒素酔いジャンキーになりかかった。反省したが、大酒飲みが酒をやめられないように、ダイバーが窒素酔いジャンキーになると、容易にはやめられない。窒素酔いの恐ろしさは、酔いだけではない。その酔いの魅力につかまってしまうことだ。 そんな状態のところにインスピレーションを買ってしまった。浅いところで、機材に慣れる練習をすれば良いのに、大瀬崎先端に行ってしまう。リブリーザにサイドマウントのベイルアウトタンクを持つと、重量は30キロを越える。それで、大きなゴロタ石を越えて行くのは、苦行で、転んだら大変だが、潜りたい一心で頑張る。 インスピレーションは、潜る寸前には、純酸素に近い酸素濃度に高めた気体を呼吸する。エントリーは労働だから、酸素濃度が高いと楽になる、そして、潜水直前にデュリエント、薄める空気を入れて、酸素センサーが設定する酸素濃度にする。この薄め操作を忘れると、酸素中毒になるので、アラームが鳴る仕掛けになっている。ある日、小久保君が、水中で変な音がすると、ハンドサインで知らせてくれた。僕の耳が、その頃から少し悪く、アラームの高い音が聞こえなかったのだ。今のリブリーザは、進化しているから、こんなことは無いだろうが、これが命拾いの第一回だ。もしも、バディがいなかったら、酸素中毒で死んでいただろう。 リブリーザのカウンターラング、呼吸袋は、一旦、深く潜り、少し浮上すると膨らんで、安全弁から気体が放出される。潜ると再び、空気が補給される。数回これを繰り返すと、浮上潜降の巾が1mくらいでも、どんどん希釈ガスが消費される。希釈ガスの容量は小さい。3リッターだったと思う。だから、水平姿勢で静止しないと危ない。僕は、水平姿勢での静止に自信がないから、海底に膝を着くようにして、先端の斜面を這い上がるようにして潜水していた。これなら身体は上下しない。ある日、それでも、希釈ガスを消費したらしく、タンクのガスが無くなった。水深60mだから、撮影のための少しの上下動でのガスの消費は大きい。浮上の途中、水深20mぐらいのところだった。 希釈ガスが無くなっても、カウンターランクは袋だから、呼吸は継続出来るはずと思っていた。だんだん浮上していくのだから、呼吸は続けられるはずなのだが、ガス分圧の変化のほうが恐ろしいので、希釈ガスがゼロになると、酸素も停まるようになっているらしく、 給気がとまった。ちょっと焦ったが、ベイルアウトタンクに切り替えた。しかし、60m潜っている。ベイルアウトタンクの容量、6リットルでは、減圧停止が充分にできない。空気が無くなるまで、3mに居て、後は運を天に任せて浮上した。1時間、ビクビクしていたが、減圧症の症状はでなかった。 なお、最近、辰巳でリブリーザの練習をしている中川が抱えているベイルアウトタンクは12リッターだ。 さて、東京にもどるには、大瀬崎の場合、御殿場をこえなくてはならない。一泊すれば良いのだが、予定が詰まっていた。これも運を天に任せて、御殿場を越えてもどることにした。東京から潜りに行く場合、西伊豆は、御殿場が癌だ。館山ならば御殿場越えはない。この時減圧症になっていれば、館山だったら、と悔やんだだろう。 御殿場を越えながら、祈るように心にに誓った。神様、減圧症にならないで越えられたら、リブリーザは終わりにします。幸運は3度と続かない。それに、バディを窒素酔いジャンキーにさせてしまう。 幸いにも減圧症の症状は出なかった。 田中光嘉の20世紀商事の社長に、インスピレーションを30万で引き取ってもらった。持っていれば、いろいろと考える。実は、この間、リブリーザを使った撮影の仕事もしている。「東京タワー」という映画で、主人公の岡田准一が、プールの飛び込み台10mから突き落とされるシーンを水中で受ける撮影、気泡を出せないので、リブリーザを使って成功した。 そして、この時にやめなければ、リブリーザで、その後、波左間で、深い、70m級の魚礁にもぐっていたことだろう。リブリーザを僕が使う場合、魚礁の中に座り込んで、1時間でも、石になっているつもりだった。上がったり下がったりしなければ良いのだ。海底の石になって、気泡を出さないで、魚の観察ができると思っていたが、田中光嘉を使って、そのような調査をする見積もりを、水産工学研究所などに出したが、決まらなかった。 ※ダイビング・ワールドを出していたマリン企画では、マリン・アクアリストという雑誌を出しており、その別冊特集で1998年に「ハナダイ深度」という特集を出して、そのスタッフの中心だた橋本直之君は、慶良間の座間味でダイビングスタッフをやっていて、何度か一緒に潜った。確か日大の水産出身で、たまたま、座間味のガイドをやめて東京に帰る時、僕と一緒になった。座間味で飼っていたという肺魚をしっかり抱えていた。肺魚だから、水に入れないで東京まで抱えていかれるらしい。カメラマンとしても雑誌の編集も優秀だったけど、その後どうしているだろう。座間味で肺魚を飼っているなんて、粋だとおもったものだけど。
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by j-suga1
| 2023-03-30 10:18
| グラフィティ
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