須賀次郎のURL
辰巳国際水泳場での練習会日程などを発表しているURL
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2023年 10月 13日
ここに、「NHK潜水撮影の半世紀」という手作りの冊子がある。NHK水中カメラマンの小口順吾氏が平成13年(2001)にまとめたものだ。 大事に本棚のいつでも取り出せる位置におさまっている。取り出すことなど無く、今、これを書こうと取り出したところだが。ありがたいことに、僕の名前も後書きに「NHK潜水撮影班誕生に一方ならぬご支援をいただいた須賀次郎氏」と書いていただいている。1967年、日本潜水会の誕生に、河野祐一さん、竹内庸さん、に加わってもらい、こちらの方こそ一方ならぬ力になり、NHK水中撮影班はその中心になるメンバーは、日本潜水会の会員、指導員にならなければならない、ときめてもらった。 今、河野さん、竹内さんとかいたが、「河野、竹内」と呼び捨てにするほど親しく、生涯の友達だ。最近会っていないけど。 だから、1970年代のNHKのカメラマンのほとんどとは、いっしょの釜の飯を食った仲間になった。 その日本潜水会を設立した頃、僕はプロのテレビカメラマンではなかったが、その後、僕も撮影を生活の糧にするカメラマンになり、なんとかがんばって彼らに対抗してきた。 たった一人の自分、相手は大組織、最後は力尽きてしまったが、水中にVTRを沈めたのは僕の方が先だったし、水中からの生中継も競り合った。 友人としての彼らとの交流は、NHK水中撮影班外伝になるほどのものだ。中で仕事の上での雁行していたのは南方盈進さんだ。 ここでは、南方さんのことを書くことにする、 日本初のトライアスロンの撮影をしていた時、宮古島のホテルでばったり会った。二人で鍾乳洞の話をした。彼は僕の撮影を見て研究してくれたそうだ。 浦賀の沖で、大型釣り船の第一富士丸が潜水艦と衝突して沈んだ。南方さんは現場に駆けつけて、水深56mに沈んでいる第一富士丸を撮影した。流れも無く穏やかな天候で上手く撮れていた。このNHK放送の直後、電話がかかってきた。テレビ朝日の報道からだ。 すぐに現場に出動しろとの依頼、いや命令だった。ニュースステーションの水中レポートシリーズで世話になっているから仕方が無い。気が進まなかったがとるものもとりあえず、出かけた。 南方さんが特ダネぬけがけ水中撮影をしたおかげで、民放各社、新聞社のカメラマン、及び、僕のように、縁のある局や新聞社から狩り出されたダイバーカメラマンが出張っている。もともと、海上保安庁は潜水を許可するつもりは無かった。そこに、まさかと言う形で南方さんは無許可で、撮影してしまった。 南方さんは、バリバリの報道のエースカメラマンだった。おだやかな人だったが、鋭い。命を張るときにはためらわない。これは、本当の特ダネで、各社は抜かれた。保安部も、そうなると各社にも許可しないわけには行かない。 僕たちに許可された時間は午後になってからである。午前中に現場に入り、テレビ朝日がチャーターしている船を見に行った。 「嘘だろう」と言うような船がそこにあった。中型のタグボートだ。タグボート、すなわち曳き舟でエンジンの塊のような船だ。一般には、タグボートのいる水面にダイバーが接近するのは厳禁だ。そのタグボートから潜れという。 ダイバーの心配は、潮に流されることだ。富士丸の沈んだ浦賀水道は潮が速い。小回りの効くボートで拾ってもらいたい。なんとかしてもっと小さい漁船をやとってくれるように頼んだ。急には間に合わないという。すぐに会社のゴムボートを持ってくるように連絡したが、これも届くのは夕方であり、午後には間に合わない。 とにかく午後になり潜る時間が来た。第一富士丸が沈んでいる位置を示すブイが浮いている。 各社の船が集まっているので、ブイの上に船を着けることはできない。ずいぶん離れたところから発進して泳いで行かなければならない。 このタグボートはシュナイダーの推進器だと言う。後ろにスクリューは無く、船の中心部に垂直に船底似付いているタービンのような回転軸が縦に回転する方式で、前後左右に自由に動くことができる最新式の推進器だ。ダイバーが水に入る時には、推進器を停止するのが絶対のルールだ。一つ間違えば、ダイバーはひき肉になってしまう。が、船長は推進器を止めるわけには行かないという。沢山の船が集まっているところでアンカーも入れずに推進器をとめれば、流れもあるし、たちまち衝突してしまう。それはそうだ。 シュナイダーのペラに吸い込まれて、ミンチになる自分の身体を想像した。船長は大丈夫だという。普通のスクリューだったら危ないが、このシュナイダーならば大丈夫だ。人を吸い込んだりしない、撥ねだしてくれるという。嘘だろうとおもったが、信じるしかない。 一緒に潜るアシスタントの田島雅彦は、スガマリンのスタッフの中で最も筋肉の強いダイバーだ。一緒に船から飛び込んだ。飛び込んだとたんに流された。2ノットはある。若いころだけど、全力で泳いで、止まっていられる状況だ。ちょっとでも泳ぐ力を弱めれば、流されて行ってしまう。とても目標のブイまでは泳げない。すぐに助けを求めた。救命浮環にロープをつけて投げてくれた。潜水するどころか、ブイに接近することすらむずかしかった。シュナイダーを廻して、船が近づいてきて揚げてもらった。なるほど、吸い込まれなかった。 他の局はどうだろう。港で顔を合わせて雑談した中村征夫は漁船で出てきていた。船の小回りがきくからブイの傍まで行けるはずだ。潜れただろうか。見ていると全員バラバラに流されて拾うのに難儀をしている状況で、征夫も流されている。だれもブイにたどり着いていない。 南方さんが潜ったときは潮止まりだった。海上保安庁は取材ダイバーを殺すつもりらしい。アンカーを入れないで何艘もの船が行き来している只中に、2ノットの流れの中にダイバーをばら撒くなんて。 しかし、危ないから取材を禁じようとしているのに、強引に頼み込んでいる。文句は言えない。 危ないからこれで終わり、と言うのは遊びの世界だ。プロは逃げ帰るわけには行かない。 ゴムボートが夕方に届いた。夜陰に乗じてゴムボートで接近して潜ろう。どうせ、浦賀水道の透明度で、50mの海底は昼でも闇だろう。ライト無しでは潜れない。闇ならば昼間も夜も変わらない。9時に潜れば、10時から放送のニュースステーションには間に合う。 潜る仕度をした。テレビ朝日の西村カメラマンが来ている。彼は潜水もする。田島は西村さんのアシスタントでサイパンの洞窟に潜ったこともある。こんなことに命を賭けるなんて馬鹿馬鹿しいと西村さんに引き止められた。 第一富士丸は既に引き上げのワイヤロープが取り付けられている。明日は引き上げられてしまう。水中撮影はできない。明日、水面に姿を現すのだから、水中撮影する意味は全く無い。しかし、とにかく水中に船がある時に撮影しなければ、水中カメラマンの仕事としては失敗だ。 テレビ朝日の報道と電話連絡をとった。「映像は欲しいが、無理をしないでくれ」という常識的な答えが返って来た。 港には、スガ・マリンメカニックの元チーフダイバーであり、チーフカメラマンであった新井拓が居た。彼はオートバイライダーであり、片岡義男の小説に出てくるような、よく言えば自由な、悪く言えばでたらめな男だ。彼との付き合いで、小説が書ける。でたらめだったから、会社を辞めさせた後でも、ずっと仲良くしていた。 彼は日本テレビのカメラマンとして来ていた。「骨は拾ってやるから、とにかく映像を撮って来い。と言われたから行くよ。」彼は夜陰に乗じて出て行った。 さて、自分の方だが、早朝に勝負をかけることにした。ゴムボートを降ろし、田島とアシスタントを乗せて、ブイに向かわせる。自分は、タグボートに乗っていてゴムボートを降ろした後、タグボートは別の方向に向かう。フェイントをかけたつもりだ。鳥が自分の卵を守るために別の方向に逃げるようなものだ。こんな簡単な作戦に海上保安庁が引っかかるとは思えないが、無許可だから、とにかくやってみた。 海保は、大目に見たのか無視してくれたが、吊り上げ準備をしたクレーン船の上には何人もの人がいる。ゴムボートが接近したら、注意されて追い払われる。 最後まであきらめない。引き上げのクレーン船は深田サルベージの船だ。深田には後輩のダイバーが何人か居る。現場監督で来ているかもしれない。双眼鏡で覗いてみた。 船上で指揮をとっているのは、大学の後輩の横尾君だ。横尾君は東京水産大学最強の男で、新制大学空手選手権の優勝者で、町で喧嘩を売られると、嬉しくて笑みがこぼれると言う奴だ。 船舶電話で横尾さんを呼び出し、事情を説明し、10分間だけ目をつぶって潜らせてくれと頼んだ。 ようやく富士丸の水中撮影ができた。直ちに映像信号を飛ばし、朝6時のニュースからこの映像が流れた。富士丸が水面上に姿を現したのは、次の日で、僕たちの撮影した水中映像はその日一日テレビ朝日のニュースで使われた。 南方さんが富士丸のスクープをやらなければ、危険な目にあわなくても済んだのだが、負けなかった。夜陰に乗じて出港した4チャンネルでは、ついに水中の映像は流れなかった。自己防衛反応の強いプロダイバーである新井拓のことだから、骨を拾ってもらうようなことはしなかったのだろう。そのくせ、ギャラは僕たち以上に取ったにちがいない。 撮影の日の夕方、空腹状態になり、その夜にも海に出るつもりだったので、水中撮影チームで、ラーメンと餃子を食べた。その請求書をテレビ朝日に廻したところ、ロケの弁当が出ているのに、それを食べないで外のラーメンを食べたのだから認められないと言われた。文句を言って認めてもらったけど。 さらに年月が過ぎ、僕は大型の展示映像の撮影が主な仕事になっていた。葛西水族園の3D立体映像の企画コンペでは伊豆の海、サンゴ礁の海、そして知床の海を提案して3連勝した。網走流氷館のクリオネもとった。コンペでは、ほとんど連戦連勝していた。 次に福島県小名浜の大型水族館の映像コンペがあった。テーマが決められていて、「親潮と黒潮」だった。僕はビクターからカメラマンとして立てられたのだが、同時に、イマジカの企画も僕をカメラマンとして立てていて、二つのところから、カメラマンの申請がでていると、苦情っぽいことを言われたが、無理に通してもらった。が、NHK関係のプロダクションに負けてしまった。これ以後は大型映像の仕事はなくなっている。 ケラマに内輪のお客様をつれてツアーに行った。ケラマに行くダイバーだったら誰でも知っている、港の出入り口の建物、円形階段を登った二階にある座間味食堂で昼食にヤキソバを食べていた。ここのヤキソバがとても好きだ。 そこに南方さんが入ってきた。やあ久しぶり、椅子を移して、二人で向かい合って雑談した。彼は、僕がコンペで負けた親潮と黒潮の撮影に来ていたのだ。南方さんはNHKを停年退職し、NHK系列の子会社のプロダクションに移って、そこからカメラマンとして立っていたのだ。 最後まで、私たちの企画とNHK関係の企画が残り、最終的に南方さんたちの企画に決まったのだが、こちらが勝っていたら、トカラ列島で黒潮を撮り、次第に北上して三陸沖を撮るつもりだった。南方さんのチームも同じような撮影だったのだろう。 夏のケラマで南方さんと会い、そして秋、南方さんが亡くなったと知らせが入った。下田の先の神子元島で撮影中にダウンカレントに引き込まれたと言う。ダウンカレントとは、ダイバーが海に引きずりこまれる潮だ。要するに渦巻だ。鳴門の渦潮もダウンカレントといえるかも知れない。 僕もテレビ朝日のネイチャリングスペシャルをトカラ列島で撮影していた時、引き込まれそうになった。自分の吐き出した気泡が下に向かい、そのままずっと深い下の岩の間に引き込まれて行くのを自分の眼で見た。 ニュースステーションでは、与那国で潮美と一緒にハマーヘッドを追っていたダウンカレントに引き込まれたが、ケーブルで船と繋がっていたので、船を基点として、コンパスで円を描くように水面に押し上げられた。急浮上だから、減圧症化、空気塞栓になる危険はあったが、とにかくケーブルに救われた。 南方さんは、潮に引き込まれ、潮から脱出して急浮上した。BCDも一杯に膨らませて、おそらくは肺の圧外傷で、即死状態だったと聞いた。それでも彼はカメラを手放してはいなかったそうだ。一緒に潜っていたガイドは行方不明になり遺体も上がらなかったと聞いた。 通夜があり、NHKと僕らをつなぐ絆であり、NHKのカメラハウジングを作っている後藤道夫もそして、NHKのカメラマンも皆集まった。これからは、お通夜が日本潜水会の同窓会になるね、と話し合った。とても悲しいことなのだが、だれも悲しそうな顔をしてはいなかった。皆心のどこかでうらやましいと思っていたのだろうか、宿命だと思っていたのだろうか。浦賀の第一富士丸でさきを 越されたように、これも彼に先を越されてしまった。かっこよく死んだ、 NHKの古いカメラマンの一人一人について、南方さんと同じくらいの交流と、思い出がある。みんな生命をかけて映像を追ってきた。口先だけでなく本当に命を張ってきた。競争相手なのだが、彼らと競っても、不愉快な思いをしたことがない。ダイバーとしては私が先輩だが、カメラマンとしては彼らのほうが先輩だし、残念ながら向こうの方が撮影は平均して上手だ。彼等は基本の撮影術を身につけているし、こちらは、適当に自分の感覚だけで撮って来た。それでもときどき、僕の映像を見て褒めてくれる電話をもらうことがあって、それは、とても嬉しかった。 南方が亡くなったのは、福島の小名浜のアクアマリンの撮影、アクアマリンの開館が2000年だから、死んだのは、1999年か 後藤道夫が亡くなった同窓会は2014年だった。 #
by j-suga1
| 2023-10-13 20:22
| グラフィティ
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2023年 10月 04日
この前、お台場水中調査報告のblogを書いたのが5月15日、月例210回だった。 そこで、最近の概略を書いている。 その後 6月 10 日に港区ふれあい財団主催のクリーンアップが行われ、11 グループ68名を集めて、自分的には大成功だった。 大成功というのは、もはや、お台場水中には拾うゴミなどないと思っていたのだが、以外や以外、調査のD ラインはまた、ゴミの収斂するラインでもあった。 ![]() このワークショップも、自分的には成功で、海洋大学の先生らに録画を送って喜ばれ?た。 その6月は、まだ、撮影が成功するほどの透視度があったのだが、7月は赤潮状態で、透視度は30cm以下。この7月23日には、この日以外は僕が潜るチャンスはないだろうと、潜ったのだが、何も見えなかった。 そして、8月もなんとか潜って、長時間を過ごしたが、7月よりももっと悪かった。 ☆そして9月24日 10月14日、15日に「東京湾大感謝祭」という、イベントがあり、このイベントに毎年、動画の公開など、何かを出品、出展してきた。一度などは、写真展までやった。(清水まみ の写真;) その「大感謝祭」に動画を出したい。また、その中で行われるシンンポジウムにポスター展示も募集している。この大感謝祭関連の展示を元東京都環境局の風間真理さんが、後押しと言うか、全面的に仕切ってくれている。ありがたいことで、それに甘えている。手続きとかいろいろめんどうで、僕にはそれに関わっている時間がない。 その大感謝祭向けの動画、ポスターの写真を、この9月24日、一日に賭けることにした。もしも撮れなければ、ストックから、「お台場のこれまでについて、」の発表にならざるを得ないが、「お台場now!」 を9月24日に撮りたい。 折悪しく、僕は気管支喘息がひどくなって、水に入れない。まあ、ディレクターをやれば、そのほうが、みんなの負担にはならないのだが。 参加メンバーは、中心の多留さん、尾島夫妻、山本徹、小林正浩 三ツ橋知沙、山田、臼島コンビ 毎月のチームだ。 ★計画と経過 ラインCの山本さんへのリクエストは、もう少し、移動速度を緩く、10mの目盛りごとに10秒程度の静止、撮影距離も透視度に応じてもっと近く、撮影距離20cmでも良い。海底をシャープに撮りたい。 ラインDの小林さんへのリクエストは、ラインDはいつも通り、その上に、ラインCを撮っている山本さんの姿を撮ってもらいたい。ポスターに使いたいので、という盛りたくさんのお願いをした。 設置カメラは、円筒の12時間継続撮影かめらに、水中ライトをゴムバンドでとめた。 設置位置は、わかりやすいところに、そろそろ、定点を決めよう。Dラインの上に一台、山本さんに一台設置をお願いする。上がる時に撤収で良い。 設置した周辺を別カメラで撮ってもらいたい。 尾島雅子ママは、南岸の砂浜の展望台の内側に行く予定なので、とにかく魚のスポットをいつも通りに撮る。三ツ橋は、目的としている海草がまだ生えていないので、SJ5000ウエアラブルカメラを渡して、雑感的に何かめについたものを撮ってもらうようにお願いした。 上がって来ての報告では、水深1。5mまでは透視度Ⅰから2mあってよく見えるが、ラインCの10mから先は硫化水素で白濁して何も見えない。しかし、その白濁との層ははっきりみえる。それが撮れていればOKだ。あくまでも事実の記録なのだから。 南岸へ行った尾島グループは、時間がながくかかり、北岸グループは10時エントリーの12時上がりで、あったが機材を片づけ終わって、15時になってももどってこない。15時45分もどってきた。成果はあったらしい。 ★撮影結果 ①ラインD 小林正昭撮影 カメラが水に入る前に、岸の状況をパンして位置を確認して水に入る。このパンが良かった。鉛に巻き尺のラインを結びつけた基点は岸から8mほどだったが、すぐにマハゼがとらえられた。 カメラはマハゼを追うのではなく、ラインをフォローして行くが、それにマハゼが写り込む。 回数をかさねて、ライン撮影が上手になっている。 カメラが少しふらつくが、見苦しくはなくい。 巻き尺の陰に帯状に微細なイサザ類のプランクトンが見える。巻き尺もプランクトンにとっては、陰の魚礁効果があるのだ。巻き尺をある程度の時間引いておけば、それにマハゼも集まるかもしれない。 カメラは巻き尺を写し込んで進んでいく、移動の速度、撮影距離藻、良い。 設置した設置カメラのA が写る。マハゼが点々と写る。ラインDの基点から20mが、砂地に付くマハゼのポイントなのだ。転石の磯場の状況もわかる。転石の上に、10尾ほどマハゼが集まっているポイントが写った。これは静止画を抜き出して使える。 ![]() なお、この調査撮影は、すべて、動画で撮っている。報告書、SNSにはこの動画から抜き出す静止画を使っている。今度、ポスターに使う写真もすべて、この動画からの抜き出しを使う。 以前は、ポスターに使う写真は画質の良い大判カメラのスチルを使っていた。今でもここで使っているウエアラブルカメラ、小林さんはgo-proは、画質では劣る。しかし、シャッターチャンスは二度とない。動画からの抜き出しスチルは、チャンスを逃がさない。 例えば、ラインの上に、マハゼが10尾群れている。それを見てライン撮影の動画カメラを置き、スチルカメラを持ち替えていたのでは、マハゼは笑って逃げる。 しかし、ウエアラブルカメラの動画からのスチルの画質は悪い。チャレンジだ。もちろん、ポスターの写真は、きめ細かく、美しいに越したことはない。しかし、今度作るポスターの目標・コンセプトは、お台場の状況説明、お台場水中の美しさの説明もしたいが、美しさがポイントではない。 赤潮の濁り、硫化水素の白濁、無酸素に耐えて生き抜く、生態系のたくましさをみせたい。画像は粗くとも、かまわない。 基点からおよそ80mのあたりで、直角に沖に、お台場の中心に向かって引かれたラインが、Cラインだ。ついでに、対岸の繁華な砂浜、展望に突き出しラ突堤の内側にラインAを設定したが、このあたりをスポット的に撮影している尾島雅子ママがラインをひかないので、そして、やはり、展望台に遠慮があって、ラインがない。このあたり、一帯と言う感じである。そして、お台場プラージュ(海水浴)が行われる東岸が、ラインBだが、ここは、一回しかラインをひいたことがない。同じ場所、できるだけ同じ位置を月例で撮影調査したいので、C、Dが定着している。 ラインCの山本さんのダイバー姿は、なるほど、硫化水素の白濁で、よく見えないが、動画としては、迫力がある。 総じて、今回のDライン、小林さんの映像が発表する動画として、わかりやすい。良かった。 ②ラインC 山本徹撮影。 ラインに特に近寄って、海底を克明に撮った100m、いつもと同じ視点、40cmほどライン上方から撮ったもの、二通りを撮ってくれた。 特に接近した方は、やはり、移動が少し早く、ストップをかけないと、シャープに見られない。しかし、シャープに、硫化水素を同化している硫黄細菌の皮膜が撮影できている。 いつもと同じ、距離の方は、安心して見ていられる。どちらかというと、接近しているほうが、バクテリアマットが多いようだ。位置の差はさほどないはずだから、視点の違いで、印象がちがってしまう。 山本さんは、8月よりも、バクテリアマットが発達していると言っていたが、バクテリアマットが濃いのは、覆砂が行われていないか、薄い、磯場から20mほどの範囲であり、Cライン100mの60ー70mあたりから先は、覆砂の砂粒が表面にでている範囲が多い。 ![]() 総じて、覆砂プロジェクトは成功したと見ている。 残念なのは、覆砂前のこの部分でライン調査をしたことがなく、いちどだけ、ラインはひかなかったが、この位置を2018年に撮影した動画がある。それと比較すれば、大きなちがいがわかる。 そして、覆砂が行われてからの推移は、撮影しているが、ヘドロが表面に出てきている部分もあるが、おおむね、安定している。 ③設置カメラ 山本徹さんが設置してくれたDラインの延長線上、ラインEと呼ぼうとしている。中間点、木材、沈木の手前においたカメラが大成功だった。 沈木②は、魚礁効果があるのでは、とこれまでも、注目していたのだが、これといった魚をあつめていなかった。 小林正昭さんの置いた、Dライン、基点近くの設置カメラにも、この群が写っている、ということは、お台場全体を覆うような、よほどの大群なのだろうか。 これまでも、この魚群、なんだかわからない大群がいることは、遠目に見ていたのだが、魚種がわかるほど接近できなかった。 今回も、サッパなのかコノシロなのか迷ったが、多留さんに見てもらって、コノシロとした。 コノシロは、寿司たねのコハダである。 江戸時代から、コンスタントに東京湾奥の江戸前に群れていて、比較的安定した漁獲が続いていたと「東京湾の魚類 河野博」に記されていた。本当の江戸前(特産)の魚なのだ。 ④尾島雅子 特筆するのは、ツバクロエイ、マゴチ、であるが、マゴチは、もう少し接近してほしかった。 その他 シマイサキの幼魚 大型のハゼであるウロハゼ カニの類はイシガにが、南岸でも北岸でも撮れている。 ④三ツ橋 観察対象としている海草がまだ出てこないので、手持無沙汰だろうと、カメラ、SJ5000 を紹介したのだが、先月水没させてしまった。僕のSJを持って行ってもらった。 マハゼの群は、とても良かったけど、小林さんのラインが写っている方をポスターに使う。このブログのトップのマハゼは三ツ橋の撮影から取り出したもの。 大型のヤドカリも撮っている。お台場で初めて見る。図鑑、参考書で調べたが、名前はわからない。多留さんに教えてもらった。「コブヨコバサミ」浦安三番瀬には多く見られるらしい。干潟のヤドカリなのだ。お台場でも、浅い干出するようなところにいるのだろうが、何かのはずみでダイバーの守備範囲にでてきた。 ★成果発表 9月24日撮影の動画をつないで、8分ほどの動画を作り、まず、ポスターのアレンジをお願いしている風間さんに送った。 本当に粗い繋ぎなので、後ほど編集しなおすよてい。 ①小林正昭さんのDライン基点から、マハゼの群、 ②Cラインを撮るダイバー。硫化水素の白濁、③Cラインの海底、③沈木設置カメラの映像、マハゼ、コノシロの群、の順で繋いだ。 お台場に潜って行くような臨場感があってわかりやすい映像になった。 多分、大感謝祭で映写展示できる予定。 10月13日には、東京湾大感謝祭に先立つシンポジウムが開催され、そこにポスターが発表できる。風間真理さんにアレンジをお願いして、ポスターも作ることができた。 以下がポスター原稿であり、この原稿を含めたポスターの製作も風間さんにおねがいした。 重ね重ね、ありがとうございます。 ポスター原稿 ポスター 【お台場海浜公園2023・江戸前の片鱗をみせてくれた。】 1 沿革 1996年:クリーンアップ活動【港区ふれあい財団・海上保安部】を契機に調査活動を開始し、2011年からは月例になり、218回を数える。2019年からは、覆砂の効果をみるべく、ライン調査を行い、撮像データを東京都港湾局に提出している。ライン水中撮影調査の習熟、新しい設置型カメラの開発使用で現時点での最高レベルの撮影調査ができると自負し、長期間(100年)継続を目指す。 2 2023年の調査結果 お台場水中調査は、メンバーそれぞれが目標を設定して行っているが、ここでは、覆砂の変遷効果を追っている、 2023年は、7月、8月と赤潮で何も見えなかった。9月、ラインC部分に硫化水素の発生があるものの、生き物の力強い跳ね返しで、砂地にはマハゼが群れ、設置カメラに写る中層にはコノシロの大群、クロダイが往来し、ここに写真は示さないが他に、ツバクロエイ、マゴチ、シマイサキ、ハゼの類(チチブなど)多数などを撮った。 【メンバー】 尾島智仁(運営;海洋測定調査 底棲生物)尾島雅子(魚類、スポット撮影)、風呂田利夫(研究指導)多留聖典(研 究指導 底棲生物)山本徹(ライン調査C)小林正昭(ライン調査D)清水義昭、三ツ橋知沙(海草 科学未来館)山田 康和:臼島多美子(底棲生物)依田浩太郞(バクテリアマット 東大大学院)杉原奈央子(貝類 バクテリヤマット 海生 研)小林和貴 深谷真央 東京海洋大学潜水部(撮影訓練)須賀次郎(責任者 日本水中科学協会代表理事) まとまりのないblogになってしまったが、自分にとって、blog=自分のログ、記録なので、 #
by j-suga1
| 2023-10-04 12:02
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2023年 10月 02日
「河を渡って木立の中へ」ヘミングウエイの1952年、彼の終わりのころの本のタイトルだが、この小説、文庫本に入っていない。 この小説、死を間近にした小説家が、若い女性にプラトニックな愛を持つ筋書きで、ヘミングウエイのことだから、それが現実とも重なり合っていて、そのことが、この本の版権を持つ最後の夫人、メアリーの気に入らなくて、版権を売らないのだという。ということで訳書が文庫になっていない。そんなことらしい。昔、三笠書房の全集の普及版をもっていて、それには、収録されていて読んだのだが、ヘミングウエイらしい、悪くはないなと思った。 それでも、ヘミングウエイは好きなので、収録されている全集を図書館で借りたが、訳文が気に入らず、放り出してしまった。 訳文と言えば、高校三年の時、「老人と海」を翻訳した。時の高校の英語の先生、織家先生は、後に防衛大学の先生になった優秀な先生で、バスケット部の顧問だった。その織家先生にすすめられて、夏休みに訳した。自分としては自信があったのだが、先生に「こんなものは、訳ではない」と怒られた。創作だったのだ。どこかになくしてしまったが、惜しいことをした。 ヘミングウエイで繰り返し読んだのは、「移動祝祭日」、移動祝祭日って何だ? 「もし、幸運にも若者の頃、パリで暮らすことができたら、その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。」 アーネストは本の冒頭でかいている。 ヘミングウエイの最終作?で彼の死後発表された。そんな思い出話のパリの話だけど、好きだ。 僕がパリに行ったのは、一泊二日、通り過ぎただけで、ルーブルに行き、セーヌ河畔を歩いて、古道具やをのぞいて、ベトナム料理を2回食べた。本当に「移動」祝祭日だ。でも、パリはパリで、心についてくる。 ヘミングウエイと言えば「釣り」だけど、僕は「釣りはやらない」やや、かたくなに釣りはやらない。なぜやらないか、それを話すと、ダイビングと釣り、漁、水産のあるべき姿、と長い話になるし、まだ、結論はでていない。でも釣りは悪い趣味ではないと思ってはいる。 そして、「ヘミングウエイ釣文学全集」これには、晩年のヘミングウエイがエスクワイヤに連載した「キューバ通信」が、載っている。 キューバ通信の中で僕が好きなのは、「モロ沖のマーリン」「海流に乗って」「青い海で、」などで、短編なので、図書館で借りて、コピーして持っている。 話は跳ぶけれど、宮本輝「ひとたびはポプラに伏す」講談社文庫、全6巻を書棚に残していた。 作家の書いた旅行記、随想のような紀行文が僕は好きなのだ。前述のヘミングウエイ「移動祝祭日」もその類だし、村上春樹のこの類は、手に入った全部を読んでいるし、書棚にのこしてもいる。村上春樹も、小説は60歳以降には、読んでいない。考えないとわからないから。 その宮本輝の「ひとたびは、ポプラに伏す」は、西安から、トルファン、カシュガルを抜けて、イスラマバードへと、シルクロードをたどる旅だ。宮本輝も、小説はめんどうな作家なのだが、これは、楽しんでじっくり読んだ。1990年代後半の中国からパキスタンへのシルクロードが、どんな様子、どんな途なのか、感じることができる。 その中に、「河を渡って木立の中に」という章がある。クチャを抜けるあたりの章だ。 その文で、この言葉は、アメリカ、南北戦争の時、南軍のリー将軍が、突撃の前に、つぶやいた言葉だということを知った。 そして、ネットで調べたら、リー将軍の片腕だった、ストーンウォール・ジャクソン将軍の死の突撃の前に口にした独白だったとも書いてある。どっちでも良いが、とにかく南北戦争の時の言葉だ。 宮本輝は、人によってそれぞれ、様々な木立があるのだと書いている。 終着点「死」も木立というと、やすらぎのように感じる。 「三途の川」などと言われると渡りたくない。こちら側にのこってしまいそうだ。 と、これは、84歳の時に書いたものだ 今、 毎日、河を渡るような日々を送り、木立に近づいていきつつ、リライトした。 #
by j-suga1
| 2023-10-02 12:23
| book・映画・テレビ
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2023年 09月 07日
8月31日、午前700出発、岩手県 八戸に近い、種市にある種市高校海洋開発科に向かった。 久保彰良君が運転する「レクサス2500cc」に乗せてもラって行く。僕はもう運転はしないから、彼が全部運転しなければならない。 自分の体調は、決して良くならない。体調が良いと感じることは、自分の身体が記憶しているせめて80代前半の記憶だったとすれば、自分が若返ることはないのだから、もどることもない。しかし、リハビリテーションでどこまで、筋力が回復するか?がんばってはいるが、一日に3000歩歩くとして、それは毎日ジョギングをするくらいの負荷に感じる。 しかし、これを逃したら種市には行かれないで、人生をおわることになる。予定通り、思い切って行くことにした。もしものことがあれば、久保さんにはたいへんなご迷惑をかけるが、「浮き世の義理だ」 東北道の枝分かれはしているが、端から端まで、何キロだろう。 困ったことに、最近食欲がない。空腹にはなるのだが、食べたいものがなく、苦労して食べる。「長者原SA」宮城県仙台の少し先、中尊寺の手前で、昼食にした。「みぞれそば」というのを食べた。もりそばを皿に入れ、みぞれと言うのか、なめこの粒々の佃煮のような汁をかけたもの、これが、なかなかおいしかった。このところ、おいしいと思ってものを食べたことがなかったから、ちょっとうれしかった。 およそ8時間走って、15時ごろ到着。 ホテルはグランパークホテル八戸、すべて、久保さんにおまかせだから、どういう位置づけのホテルかわからないが、あるべきものはすべてある。なかなか快適なホテルだった。毎日、3000歩あるくと久保さんに話しているので、「少し歩きましょう」と夕暮れの街に食事にでた。街に車で入ったときは、がらんとした何もない、シャッター街のような街の印象を受けたが夕暮れの酒飲みのハッピーアワーになると、それなりにハッピーな街になる。飲み屋横町のようなところに入ったが、久保さんは下戸、僕は60歳で完全禁酒にしているから、入る店がない。それでも、カウンターではあるものの、酒を飲まなくても許してくれそうな、「鯖の駅」と言う鯖専門の店に入り、鯖寿司を食べた。大きな寿司で、一口では口に入らない。ほぼ総入れ歯の僕は、食べるのに苦労、形を崩して食べたが、鯖はおいしかった。食べた後で検索したら、かなりの有名店だった。 種市は、岩手県九戸郡洋野町、検索しても漁港がありウニを採っているとだけ書かれていて何もない町だ。種市高校海洋開発科は、世界に誇れると、僕は思うのだが、ウィキペディアで見てもでてこない。もっとも、学校、高校は名所旧跡にはならないから、しかたがないが。 ![]() 八戸から車で30分ほど走った海辺に種市高校海洋開発科はある。校門があり、運動場があって、教室校舎が立ち並んであって、その中に、潜水プールがあるというのが、潜水プールのある水産高校・海洋高校のパターンだから、ここもそうかと思っていたら、門らしい門もなく突然にプールを内蔵した校舎があり、教室があって、廊下があり、廊下の引き戸を開けると、プールがある。これには、何となく感動した。感動したので、教室の並びの教室として、水深10m、5m、2mのプールがあり、そこを歩いていくカットを何回も撮った。 コレクションを使って学生が潜ることは、ないのだろうが、プールサイドには、カービーのバンドマスク2台とダイブウエイズとマンテイスフルフェースが棚にのっており、これはつかっているのだろう。 ここの実習の売り物は、「南部潜り」ヘルメット式潜水だ。置いてあるヘルメットのすべては、東亜潜水機製で、東亜潜水機:南千住のネームプレートが貼られている。ヘルメット式は過去の遺物とまでは行かないが、伝統的な潜水器で、習得が難しい。これを潜水の基礎として習得できるのは、世界でここ種市だけだ。 僕は、1958年に東京水産大学を卒業し、この東亜潜水機に入社して、スクーバ部門を立ち上げたが、1969年に退社した。この東亜潜水機で、人となった。足を向けて寝られない、お世話になった。現在は、コンプレッサー部門と、潜水服部門が別になっている。スクーバ部門は僕が退社したので、消滅している。申し訳ないことだ。 ヘルメットは、僕の同僚、やや年上の先輩、山澤さんが、最後のヘルメットつくり職人だったが、亡くなってしまい、今は、ヘルメットを作る人とてないが、これまでのものを修理して使えば不自由はしない。 ![]() しかし、その潜水服だが、ここ種市にあるのは、すべて、「ゼロ」製、ドライスーツメーカーのゼロ 製で、ドライスーツと同じ素材、ラジアルスポンジで作られている。ゴム引き布製の東亜潜水機の潜水服は消えてしまっている。最近、東亜潜水機に行っていないのだが、潜水服部門が心配だ。僕がお世話になった三沢社長の、息子さん、と言っても僕より年長だから、90歳は越えている。生きておられるだろうか。数年前と言っても、8年ほど前だったが、おじゃましたときはお元気で、天丼をごちそうになったのだが。 話をもとにもどして、 カメラはgo-pro10と8、予備にニコンのクールピクスを持って行った。go-pro8をまず使ったのだが、充電が緩く、予備のニコンで動画を撮った。これが結果として幸運で、go-proは、撮れていなかった。 その日は講義の時間を1時間もらっていた。久保君のプライマリーが、主役なので、僕は前座で、10分離す。スクーバダイビングの歴史と言うタイトルで、日本のスクーバの黎明、1953年のデイビス博士のプレゼンと1954年の学生実習の事故、そして、1958年のころの種市のの話をしようと、半日がかりでパワポを作って持って行った。高校でパワポを使う授業がうまくできる設備があるのだろうか、などと心配したが、とんでもない認識不足、立派な視聴覚教室があって、大きなモニターと、PCが生徒個別にずらりと並ぶ。 海洋開発科の生徒定員は、1学年1クラス40人、2年3年が同時に来ている。 考えなおした。作ったパワポがどうもおもしろくない。1956年の項で、クストーの「沈黙の世界」のタイトル部分だけを抜き出してパワポも入れているのだが、「沈黙の世界」も持ってきている。急遽、沈黙の世界を10分間弱、映写して、クストーのことアクアラングの始まりのことを話した。今みてもすごいシーンだから、楽しんでもらえたと思う。 ![]() 久保さんの話も無事に終わり、午後は、港、車で10分ほどのところにある漁港だが、40トンの、立派な潜水作業実習船が鎮座している。これでの実習の様子を見せてもらえる予定だったが、僕の病状を考慮してか、停泊している外観をみるだけに終わったが、手頃な大きさのすばらしい船だ。 水を見ると、プールの水を見ると入りたくなる。 しかも、10mの潜水プールだ。元気ならば高校生と10mにすもぐりできたのに。そして、今でも、もどって、5日の火曜日には浦安海豚倶楽部でスキンダイビングの練習会がある。 しかし、陸上での体調は良くない。三日間の旅、倒れれば迷惑をかける。出発前々日まで、迷っていた。 もしも、僕が泳げば、みんなの眼が集中するだろう。心配させる。水には入らないと決めていた。 が、迷いがあり、半ばパニックだったのだろう。忘れ物というか、持参する道具リストに入れて居なかった。杖、お台場で使っているカメラのステッキだ。そして、マスクマウントのワークショップを準備中なのに、マスクマウントのマスクを持ってきていない。 幸いなことに、プールには、以前に石川総一郎氏がJAUSの主要メンバーだった時に作っていた、着脱式マスクマウントの枠があった。これにgo-pro8を付けて、生徒の一人に、撮影をお願いした。 僕のように、スクーバの基礎は、スキンダイビングにあり、スキンダイビングの延長線上にスクーバがあるスタイルでダイビングを習得した者は、これができない。2種類のダイビングスキルを習い、習熟しなければならない。水中撮影、水中観察には、このプライマリースタイルが有利である。 僕は、日本水中科学協会が横須賀の海洋研究開発機構のプールでこのコースを実施していた2年間、この練習をして、どうやら、形にはなったが、今は元にもどってしまった。最初の講習からこのスタイルで練習すれば、それほど難しいことではない。水泳で言えば、ブレストのキックとクロールのキックを練習するのと同じ程度のことだ。最初の段階が大事で、加齢によって、足首の回転が難しくなると、むずかしいが 。 例えば著名なカメラマンで見ると、中村征雄は、僕と同じ泳ぎ方だ。姿勢は、カメラを持った自然体、45度から60度だ。鍵井君は、久保君とほぼ同等に水平姿勢に巧みである。他の人とは、最近一緒に泳いだことがないのでわからないが。 種市の卒業生の目標は、港湾潜水士、水中土木工事だから、足をしっかりと海底に着けたスタイルでよいのだが、それでも、スクーバを巧みに使って、調査模できた方がいい。二つのスタイルをきれいにできてこそのプロだ。 結果は、僕と同じレベルだった。しかし、なにしろ教室にプールがある学校だ。遊び半分、ゲームとしてこのスタイルの練習をすれば、若いこともあるから、たちまち、上達して、種市のスクーバスタイルになるだろう。それを目指しての訪問だった。 生徒のマスクマウントも、うまく撮れていて、使える。次にまた、もう僕は来られないかもしれないが、できれば、もう一度来て、スキンダイビングをやりたい。その時に生徒は見違えるほど、水平スタイルが決まっているかもしれない。そうなると良い。 帰りは、12時に学校スタート、久保君はけっこうな跳ばし屋で、2500ccのレクサスで、一台も抜かれることは無く、一人で往復の運転をして、20時30分に帰り着いた。 途中、「岩木山」という、小さなS.Aで遅い昼食を食べた。 メニューの選択肢がなく、カレーライスを食べた。田舎のカレーライスと言う感じで、素朴でおいしくかった。この岩木山には、なぜか、ベーカリーがあって、久保君が、おやつにとあんパンを買ってくれたが、これがおいしく、東京でも、こんなにおいしいあんパンは無いと思った。 次回がもしあれば、今度は日本水中科学協会のツアーをかねて、グループで訪問したい。 #
by j-suga1
| 2023-09-07 17:26
| ダイビング運用
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2023年 08月 23日
高根 心配していたように流れがあり、それも、これまで経験した一番はやいながれだった。5キロの潜降索で沈めるとおもったのだが、とんでもない。 飛び込んだとたんに流され、88歳、心不全の衰えた筋肉ではさかのぼれない。事前に荒川さんが着けてくれていたガイドロープで、設置されている潜降索にたどりついた。ここで、一休みして心臓の鼓動を確認する。少しでも苦しかったら、ギブアップしようかと思ったが、大丈夫。 最近、スチールのタンクを背負っていない。3mmのウエットだから、ウエイトは2キロで良いと思った。軽かった。BC.の空気をぜんぶ抜いても、吹き流し状態で、腰が定まらない。マスクマウントだから両手が使える。がんばった。コブダイ超接近して荒川さんがサザエの殻を砕いて、ヤドカリを餌にしているカット、マスクマウントで15cmまで寄った。大迫力だとおもった。それに、流れの強い感じもとれている。 9月15日に、海洋大潜水部とマスクマウントのワークショップをやる。その教材になる。 ところが、 カメラが、まわっていなかったのだ。確認したつもりになっていたのだが、やはり、パニックに近くなっていた。カメラは、壊れていない。確認不十分だ。 がっくり肩を落とした。 生存でいっぱいいっぱいだったのだ。いつも注意してはいるのに、ラストダイブに近いダイビングで失敗するとは!! 撮影というのは一期一会、やりなおしはできない。 #
by j-suga1
| 2023-08-23 20:07
| 日記 ログ
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