|
須賀次郎のURL
辰巳国際水泳場での練習会日程などを発表しているURL
http://homepage2.nifty.com/j-suga/index.htm ブログ、スガジロウのダイビング http://plaza.rakuten.co. jp/sugajirou jack2009さんに、wikipediaに掲載することを許可しています。 外部リンク
カテゴリ
全体 雑感 最新ダイビング用語事典 旅行 撮影 スタイル 日記 ログ 80.80 日本水中科学協会 ダイビング運用 グラフィティ リブリーザー 沿岸漁業・人工魚礁 リサーチ・ダイビング 福島 レクリェーションダイビング 学生連盟 book・映画・テレビ 辰巳 潜水士 歴史 お台場 浦安海豚倶楽部 ダイビングとは? スキンダイビング ダイビングの歴史 最新水中撮影技法 フィロソフィー 未分類 以前の記事
2026年 07月 2026年 06月 2026年 04月 2025年 12月 2025年 06月 2025年 02月 2024年 10月 2024年 06月 2024年 05月 2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 06月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 2022年 05月 2022年 04月 2022年 03月 2022年 02月 2022年 01月 2021年 12月 2021年 11月 2021年 10月 2021年 09月 2021年 08月 2021年 07月 2021年 06月 2021年 05月 2021年 04月 2021年 03月 2021年 02月 2021年 01月 2020年 12月 2020年 11月 2020年 10月 2020年 09月 2020年 08月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 05月 2020年 04月 2020年 03月 2020年 02月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 09月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 ライフログ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2026年 07月 15日
![]() エスパリオン(Espalion)潜水博物館 ヘルメットを離れて、スクーバに スクーバとは、自給気、呼吸する気体を自分で持って潜水する潜水機。その発想の歴史は、送気式よりも古いが実用になり普及したのは1943年のクストーのアクアラングからだ。ここではアクアラングよりも古いスクーバの話。 ★★明治3年 1870 ★ニューヨークに地下鉄ができ、日本では廃藩置県 新橋~横浜の鉄道が開通した。 その1870年、ジュールベルヌの「海底二万里」が書かれた。 ★ 明治3年に書かれた「海底二万里」は 2026年現在でも岩波文庫、新潮社文庫で買え、読み継がれている。SFが2026 驚きだ。ここを現代のスクーバの原点、出発点にしたい。
![]() 参考書 海底二万里 ジュール・ヴェルヌ ※朝比奈知子訳 岩波文庫 2007 ※村松潔訳 新潮文庫 2012 この文庫本の挿し絵に、1864年に発表されたルキヨールの潜水器をイメージした潜水器が描かれている。この挿し絵は、1870年の原版にも使われていたもので、当時の(当時想像した)海底絵本といっても良いほどだ。 ![]() ![]() ![]() ★1864年、フランス人鉱山技師、ブノア・ルキヨール(Benoit Rouquayror)とフランス海軍軍人のドネルーズ(Denayrouze)は、背中に小さな空気容器と、後のアクアラングの原型とも言えないこともないレギュレーターを背中に背負う潜水器を作った。なぜ鉱山技師が?、鉱山は何かの理由で無酸素になることがあり、その脱出用としても使用することを考えて作られたからだ。 未だ、タンクの充填圧が低く、救急脱出用の時間しか呼吸を持続できなかったから、潜水では、ホースで空気を送る送気式として使われた。 しかしこれは、現在のシステム潜水の送気式で、ホースのトラブルに備えてボンベを背負う、2系統の供気をもつシステム潜水と同じではないか? ![]() ★ベルヌの海底2万マイルに書かれている潜水器は、絵はルキヨールの潜水機だが、文中では、酸素発生装置を持っ完全なスクーバだ。海底に8時間以上とどまることができ、水深も百メートルを越えて行動できる。現代のリブリーザーでも、ベルヌの想像した潜水器のレベルには到達していない。
![]() ★海底2万マイルは映画化されている。 映画公開は1954年、この1954年の1年前、1953年に日本にスクーバが紹介された。 映画の製作は、ウォルト・ディズニー。出演はカーク・ダグラスが主人公のネッドという水夫、ジェームス・メースンがネモ船長、船長と言うのは、この物語が、ノーチラス号という潜水艇が舞台になっているストーリーだからだ。 ![]() ![]() ![]() 映画にでてくる潜水器は本物(ルキヨール)のレプリカではなく、デイズニープロの誰かが映画用にデザインしたもので、本の挿絵とは似つかない。なんとかレプリカに近い形にできなかったものだろうか?、本当に潜水して水中撮影したからこうなった。。 この映画の潜水服は、日本の東亜潜水機が作った。1954年の公開だから、1952年頃だろう。僕が東亜潜水機に就職したのは、1958年だが、工員さんから、あのときは大仕事だったと聞いた。
![]() ![]() 浦安のデイズニーシーには海底2万マイルのコーナーが有り、疑似海底を走る乗り物と。潜水艇ノーチラスの模型がポンドに浮いている。これは原作のイメージより。はるかに小さいが、ポンドの大きさに合わせたから仕方が無い。それでも、展示には夢があり楽しい。
★博物館 南フランスのエスパリオン(Espalion)は、ルキヨールの潜水器が生まれた街であり、テストしたと言われる小川が流れ、記念の潜水博物館がある。 ホームページで見ると、博物館には、ルキヨールの潜水器のレプリカ、歴代のへルメットなどが展示されている。行って見たいが、その機会はなかった。
#
by j-suga1
| 2026-07-15 09:28
| フィロソフィー
|
Comments(0)
2026年 07月 12日
![]() ヘンキー ヘルメットとハーフドレス 写真提供 Maki Murata ★ 昭和16年ごろに流行った歌、岡晴夫の「パラオ恋しや」 「海で暮らすなら、パラオ島におじゃれ、北はマリアナ、南はポナペ、 島の夜風に椰子の葉揺れて、 若いダイバーの舟歌もれる 島へ来たならダイバ船にお乗り、 男冥利に命をかけて、 珊瑚林に 真珠採りするよ ダイバ愛しの舟歌うとて。
高いうねりに度胸がすわり、 海はふるさとパラオの王者、 アンカおろしてランタン振って、帰るダイバは人気者」
ダイバーのことを歌った唯一のヒット歌謡曲で、いまでも you tube で聞くことができる。ぜひ聞いてほしい。ところで、パラオの珊瑚林に真珠貝などいない。 南洋(マリアナ、パラオなど)が日本に委任統治の時代で、アラフラへのダイバー船の基地でもあった。昭和12年、パラオを基地としてアラフラに向かうダイバー船は170艘、アラフラ艦隊などと呼ばれた。アラフラ海でダイバ船が採るのは白蝶貝、白蝶から珊瑚も出るが、10000個に1個程度で、白蝶は釦の材料として、世界的に高級品。良い 白蝶の釦は、宝石に次ぐアクセサリーであった。 ![]() 参考 ドルフィン 日本ダイビング協会機関紙 1-1 「アラフラ海から帰って:猪野峻」 このドルフィンがでた1957年には、まだアラフラ艦隊の出漁もあったが、やがてプラスチックがでて終わりになる。
![]() ![]() アラフラ海 オーストラリア北岸、ニューギニアとの間、アラフラ海で、その中の木曜島を基地として、白蝶貝を採った。つまり、パラオからの出漁と、木曜島で、とうぜんパラオからの船も木曜島を基地にした。 ダイビングは、独特のスタイルで、大型のヘルメット(一般ヘルメットの1.5倍くらいに見えた)ヘンキー式だった。これに潜水服も独特で、一般のヘルメットは、海底を歩く全身密閉だが、半袖で上半身だけのハーフドレスだった。半袖の腕を上げれば、空気が抜けて沈み、腕を閉めれば、半身に空気がたまる。もちろん、ヘルメットのバルブも使うが、これで中性浮力で崖の壁面に付いている白蝶もとる。 潜水病(減圧症)も多発し、墓地にはダイバーの墓が林立したと聞いていたが、水深が20m以下なので、後述「木曜島の夜会」では、日本人墓地の碑は100を超す程度とかかれている。死なないダイバーも多く、ダイバーはステイタスだた。 ![]() 参考書 「木曜島の夜会」 司馬遼太郎 文春文庫 は高名な作家が、木曜島ダイバーを主題にして書いた中編で、明治から昭和初期のダイバーとは、そのステイタスもわかり、面白い。紀行としても優れている。文庫本だから、是非一読を勧める。 なお、白蝶貝の養殖については、潜水部の3期後輩、笹原君で(後にブリヂストンの101(人工魚礁の項)が、若い日、木曜島ですごした回顧を書いた「アラフラ海の思い出」笹原捷夫 文芸社 2000が秀逸だが、私費出版に近くアマゾンにない。
#
by j-suga1
| 2026-07-12 13:47
| フィロソフィー
|
Comments(0)
2026年 07月 08日
![]() 東京湾・富津のバカ貝とアサリ採りで、水流を噴出させるノヅルをヘルメットのサイドに着け、ジェット噴流で海底の砂と一緒に貝を網袋の中に吹き込む。何度も撮影に行った。
★ヘルメット式の業種は「海産もぐり」「工事もぐり」「サルベージ」であり、スクーバのような、スポーツ、レジャー、研究者の潜水は、無い。 「海産もぐり」は、アワビ、サザエ、ウニ、なまこ バカガイ(アオヤギ)アサリ、ハマグリ、タイラギ イセエビ、手で獲れる水産物は何でも獲る。
「工事潜り」は港湾工事、サルベージは、沈船の引き上げの大きな浮力タンクを取り付けたりする。
なお、港々には潜水屋がいて、ちょっとした工事、スクリューに絡まったロープの取り外しなどを業としていた。 現在は、スクーバを使っている。ヘルメットでは、ポンプ:ホース、などが必須だが、スクーバならば、タンクを背負えば良いだけ。
★ここでヘルメット式潜水機の構造概略を説明する。 どのような危険があるのか、その根っ子の部分である。
![]() ヘルメット 頭部分の全体を覆っている。視界が90度あるように、正面と左右に窓がある。
![]() しころ (肩がね、兜台) 「しころ」とは、和製の鎧兜の胸当て部分である。ヘルメットと潜水服の接合部分である。ドレス(潜水服)襟部分はゴムのパッキンになっていて、「しころ」から突き出しているボルトにパッキン部分ははめ込み、上から「おさえ金」を当て、蝶ネジで締め付ける。 オーリングシールのような完全水密ではなく、にじむように少しずつ水が入ってくる。服には筒型の大きな水返しがついていて、水が身体に行かないように水を貯める。たまった水は、兜の横。下方に附いている手動弁を開いて放出する。
![]() 「キリップ」排気弁 ヘルメットの内側、頭の右側で押す排気弁で、これで浮力に微調整をする。ヘルメットダイバーがタオルで鉢巻きをするのは、これを押すためである。キリップは外側からも手動で押して排気できるようになっている。
★墜落 スクィーズ 吹き上げ ヘルメット式の浮力調節は、腰バルブとキリップで行う。キリップを頭で押すと空気が排出されて身体は沈む。手動で空気を出し入れする腰バルブで、大づかみに空気を出し入れし、細かい調節をキリップでする。これがなかなか難しく、上達するには「首振り三年」などと言われる。一人前になると、無重力の月面を走るように海底を走れる。しかし、下手が崖から墜落したりすると、空気の供給が間に合わなくなる。加速度的に墜落するとスクイーズが起こって、固いヘルメットに身体が押し込まれ、顔が膨れて大変なことになる。また、これも下手が転んでとか、足が頭よりも上になると、潜水服の足に空気が廻って膨れ上がり、キリップに頭が届かなくなり、腰バルブもつかめず、潜水服(ドレス)が風船のように膨れ上がり、吹き上げられる。逆立ちのように、水面にとびだす。それが、どんなに危険なことか、ダイバーならばしっている。そんなことにならないように、自動調節弁もあるが、職人気質というか、自動弁を嫌うダイバーが多かった。確かに、自動弁を使うと、海底を跳ぶように走れない。 ![]() アメリカのヘルメットダイバーは 中性浮力で潜降しない。ステージで吊り降ろす。 ★ヘルメットの習得は、海底で素早く動けるようになるまでは時間がかかる。見習いで雑用をして、空き時間に潜らせてもらって、練習する。半人前に潜れるようになると見習いダイバーで経験を積む、見習いダイバーを数年で、ようやく一人前になる。 ![]() 僕が就職した当時、東亜潜水機はヘルメットのトップメーカーである。一人前になると親方が、東亜潜水機に連れてきてカップ(ヘルメット)を誂え、口座を開く。以後この口座で、潜水服、ホースなどの掛け売りができ、その昔は、漁期が終わった頃の節季払いで良かった。このような東亜潜水機登録のお得意様ダイバーが2000人ぐらい居たのだろうか、ヘルメットの機材は卸価格はなく、メーカーとユーザー(潜り)の直結だった。
東亜潜水機も次第に、現代化する、その中で僕は、スクーバやデパートに卸す水中銃などを売るセクションを立ち上げて行った。
![]() ヘルメットも徒弟制だけでなく、種市で学校教育で習得する人が工事ダイバー等では多くなる。機材はヘルメットからフーカー、送気式の全面マスクなどに変わって行くが、ヘルメットを習得すれば、その他は楽勝だ。
EP 種市については別項で詳しくのべたいが、立派なプールでヘルメット、中性浮力の練習をしている。
![]() ![]() ★★ 東亜潜水機は潜水服を作る、「服工場」コンプレッサーを作る「機械場」 そしてヘルメットは、向島に別工場があった。別工場といっても、親方と弟子の二人だけ、月産5台ぐらいだが。弟子は山沢君、僕と同年配。新品のヘルメットは美術工芸品のように光り輝いている。修理に入って来るときには、銅の地肌が出て、貫禄がついているが。 ![]() そして、年が過ぎて行き、現在、ヘルメットダイバーは何人ぐらいだろう。みんな僕世代だから引退しただろう。種市高校は、南部ダイバーの伝統、そして習得の難しさから、生徒の誇りのために実習が行われているが、殆どの工事ダイバーはバンドマスク、海産は簡易マスクを使う。 山澤君も亡くなり、ヘルメットを作る人も居なくなった。しかしヘルメットは、一生もの、中古の修理だけで間に合う。
ヘルメットへの送気は、その昔は手押しポンプ、今はコンプレッサーサーになったが、1960年代、僕が東亜潜水機に入った頃は、コンプレッサーの空気は不味いといって手押しに固執するダイバーもいた。浅い港湾もぐりでは、奥さんがポンプ押しをしたりしていた。 東亜潜水機も今は、スクーバに空気を充填するコンプレッサーの日本一のメーカーだ。 ![]() 現在の東亜潜水機
なお、僕は東亜潜水機のタワーで練習はしたが、ヘルメットでは潜れない。作業ができるレベルには、遠い。
★★蛇足 僕は東亜潜水で仕事ができる「人」となった。とりわけ佐野泰治専務(当時、のちに社長)には生涯、親しくしていただいた。やめるとき、「潜水にかかわることなら、何でも好きなことをやらせるから辞めるなと引き留めてくれた。」 ![]() 現在の東亜潜水については、後で述べるが、今の佐野弘幸社長は僕が辞めるとき、小学校高学年だった。
#
by j-suga1
| 2026-07-08 14:17
| フィロソフィー
|
Comments(0)
2026年 07月 05日
ヘルメットも年表に沿った、エピソードにするつもりで写真を探し出し、書き始めた。しかし、次から次、写真も出てくる。収まらない。この機会にヘルメットのこと、思い出すことをならべることにした。ヘルメットダイビング史である。 写真は JAMSTECの ディープダイビングコースを習得したスガ・マリン・メカニックの田島雅彦(釜石湾口防波堤で出てくる)。修了後、対馬沖、ナヒモフの金塊捜索に出向した。 抱えているヘルメットは、ヘリウム・酸素を循環させるセミクローズである。ヘルメットとしてのディープダイビング最終形で、次は、ホース送気とタンクからの空気供給を共有するバンド・マスクに継がれる。なお、ナヒモフは、船上飽和潜水でバンド・マスクで行われた。 田島雅彦も早く逝き、JAMSTECも有人(ダイバーが潜る)潜水から撤退し、ダイビングの一つの時代が終わった。 ヘルメットは、常用される潜水機としては、最も歴史が古く、世界で広く使われて来た。潜水機と言えばヘルメットであり、今でも潜水のマークはヘルメットをデザインしたものが人気がある。ヘルメットはダイビングのクラシックである。 図はヘルメット式の総体、一人のダイバーを潜水させるのに、潜水機、ホース、送気のコンプレッサー、もしくはポンプ。それを載せる船が必要。、 ★ヘルメット式の誕生 写真はモナコ 海洋博物館の展示。 ★天保8年 1837 (大塩平八郎の乱) オウガスタス・シーベ(Augustus Siebe) 銅製のヘルメットを作る。 1839年 グッドイアーが天然ゴムに硫黄を混ぜてゴムの改良に成功。シーベは、これによる完全防水スーツをヘルメットに装着 ヘルメット式潜水機のプロトタイプを売り出す。以後、改良は加えられたが、ヘルメットと言えば「シーベ・ゴールマン」というメーカーが世界のスタンダードになる。 ★ 日本のヘルメット潜水の始まり 1859年 ヘルメット潜水器が日本に輸入されたのも シーベ・ゴールマン社のヘルメットであり、自分が1960年に東亜潜水機に入社したころ、まだ、明治時代に輸入された、シーベのヘルメットが修理に持ち込まれていた。 ★増田満吉 1867年 増田万吉、ヘルメット潜水器により「ハラシイ号」の船底修理を行う。 1872年 増田万吉、横浜で潜水業を開始。 1878年 漁業用として、千葉県根本で、シーベゴーマンの送気ポンプ輸入され、これも、増田万吉が指導。 増田万吉は、日本人ヘルメットダイバーの開祖である。 1879年 岩手県種市でも器械潜水開始 南部潜りと呼ばれる。 ★1886年 器械根 千葉県大原沖、漁船でおよそ2時間ぐらいのところに沖の根(暗礁群)が発見され、器械潜水による漁が行われることから、器械根とよぼれるようになった。 発見された時点で、器械根はアワビ漁の天国であった。 岩の上がアワビに覆われて、岩が見えないほど。 海女の採る鮑は、クロアワビとメカイアワビ、クロの方が、値が高く、クロの大きいのはオオグロと呼ばれていて、また値が高い。海女さんが一日に2個獲れば、もうかるくらい。 器械根で採れる鮑は、オオグロよりも更に一回りも二回りも大きいマダカアワビで。特大は洗面器に例えられるほどだ。 器械根は端から端まで船で走れば小一時間はかかろうという広大な根であるが、明治18年は56台、19年には106台、20年30台、21年18台。22年13台、になっている。 19年に106台が商売になったのに、その3年後には、13台に減った。つまり、獲れるだけ獲ったのだ。 同じ鮑漁でも、海女・海士の素潜り漁と、ヘルメットの器械潜水漁を比べて見ると、海女漁では、水中眼鏡を制限しても、地元の資源を持続的に維持しようとした。ヘルメットの方は、やりたい放題だった。 海女・海士の方は、地先の海の漁だ。地先とは、地域社会の財産、自分の庭のようなものだ。器械根は沖合へ漁船で走って、1~2時間、地先ではない。日本国民共有の海だ。特別なルールを作り、申し合わせをしない限り、閉め出せない。 明治40年(1907)漁業者の資格が定められ、許可台数は6台になった。 以後、制度に変遷はあったのだろうが、6台程度で推移して、自分が千葉県の調査に関わるようになった1970年代は、大原、御宿、岩和田の3組合で、それぞれ2台ずつ、6台が出漁していた。それでも、水揚げを見に行くと、見事なマダカが、ごろごろ獲れていた。(残念なことに、大きなマダカの写真が見つからない。) しかし、それも、あのころは良かったと言われるほどに採れなくなり、やがて、全面的禁漁が続くことになった。 参考書 大場俊雄「房総の潜水機漁業史」など 崙書房 1993 参考書の著者;大場俊雄(東京水産大学 4期先輩 千葉県水産試験場場長)等 研究者の努力でアワビは、完全採苗が出来るようになり、水産試験場は種苗生産工場になり、やがて、試験場から独立して、種苗センターになった。しかし、種苗を播いても器械根のマダカ鮑資源は復活しない。当初はアワビ種苗(2~3cmの稚貝)を水面から散布していた。それでは駄目とダイバー作業で丁寧に岩の下に貼り付けるようにしたいと提案し、何回か実施した。 丁寧に稚貝を並べるとうに置く。 しかし、それでもマダカは復活しなかった。現状は不知だが、その後、アワビの餌であるカジメの激減などがあるから、好転したとは思われない。 なお、外房沿岸でも海女;海士によるアワビ漁は健在である。稚貝の放流と資源管理の賜である。 #
by j-suga1
| 2026-07-05 09:53
| フィロソフィー
|
Comments(0)
2026年 06月 27日
![]() ![]() 「000年前の琉球の村」 歴史における潜水についての最古の記述は、アクア説がある。樹上生活(木登りして森林に住んでいた)の原人が二立歩行にいたる途中で、アフリカ北部で一日の大部分を泳いで暮らしていたという説である。これは1960年、BSACの講演で、サー・アリスター・ハーディが講演した説である。しかし、BSACだからリップ・サービスかもしれない。アクアラングの初期のパンフで、水中を泳いで暮らしていた人間が、陸上に揚がってきて、陸上で文化を築き、再び水中へと戻って行く図があった。 日本の歴史記録で、潜水のスタートは「魏史倭人伝」が出発点である。晋の時代(223-297)に書かれたもので、日本に住んでいる倭人は全身に入れ墨をして、潜って魚介類をとって食料としいていたと書かれている。原書を読んだわけで絵はない。他{潜水の歴史:社会スポーツセンター・2001からの転記である。 しかし、倭人伝よりも古い「2000年前の琉球の村」というジェオラマが千葉県佐倉の国立歴史民俗博物館で展示されていて、そのメイキングがグラフィックな本になっていて、それを手に入れた。 トップの図 キャプションは「琉球では、およそ弥生時代から平安時代までを貝塚時代後期といいます。九州や本州の弥生式時代は稲作を中心とした農耕社会に移り変わっていましたが、琉球列島では米を作っては居ませんでした。理由の一つは豊かな珊瑚礁の自然の恵みにあったとおもわれます。」 僕はジェオラマ大好きだから、行こうと思っていたが時間がなく、やっと行ったら、これは特別展示だったということで見られずがっかりした。 以下 年表をまず出して、次いでEP(エピソード)を出し、また次の年表、そして、その年表のEP という順に出してゆく。 年表1 ★天保8年 1837 (大塩平八郎の乱) オウガスタス・シーベ(Augustus Siebe)鋼製ヘルメットに革製の潜水服 ヘルメット式の原型を作る。ヘルメットと言えば「シーベ・ゴールマン」というメーカーが世界のスタンダードになる。 EP ヘルメット式潜水 の歴史については別記する。 ★明治3年 1870 ★ジュールベルヌの「海底二万里」が書かれた。これを現代のスクーバの原点とする。 ★ニューヨークに地下鉄ができ、日本では廃藩置県 新橋~横浜の鉄道が開通した。 EP 海底2万哩 ★明治13年 1880~1886 ★ 素潜り漁業の水中眼鏡 素潜り漁は 貝塚の時代からあったが、素潜り用水中眼鏡が使用されるようになるまでは眼鏡なし。素眼で潜った。 1859年にはヘルメット式が輸入されているのに、1880が水眼鏡の始まりである。 ★スキンダイビング:素潜りについては、 前出 歴史民族博物館のジェオラマで「2000年前の琉球の村」現在の素潜り漁とほとんど同じような珊瑚章での情景が紹介されている。(特別展示なので現在は見ることができない) 参考「模型でみる歴史のドラマ」1999 財団法人 歴史民族博物館 振興会 ★素眼 マスク無しで潜って見るとわかるが、眼を細めると、絞り効果で、少しだけ、アワビ、サザエ、魚の像が定まって見える。後述する水中バレー「竜宮城」では、主演級は素眼だ。出演者のオーディションで素眼で潜れない人は、落とした。僕も素眼の練習はした。 しかし、日本のアマには、メクサという眼の病があったという。被害、病気がどの程度のものか資料がないが、眼の弱い人は海女を続けることができないで、脱落したのだと思う。 アラビアでは海綿採りの素潜りダイバーが眼を病んで失明している写真がある。 ★日本の水中眼鏡の発祥は、海底2万マイルに後れること10年余だ。 1885年、(明治18年)熊本県天草郡ニ江村の出島久八、出島辰五郎両名製作の両眼鏡(二つ眼鏡)が最初である。その後、1886年、沖縄糸満の漁師、1887年、壱岐郷ノ浦の海士が、それぞれ「二つ眼鏡」を使用した。 使用され始めた眼鏡は、各地に伝播した。志摩では、1890年 アマが使用許可申請をし、翌年から使用した。房州では、1892年頃、安房郡長尾村(白浜)で使用され、それから少し遅れて、伊豆半島に伝播した。房総では金属製のひとつ眼鏡(鼻も入る今のマスクのようなもの)もあり、現在出会った海士がお祖父さんのころ作ったものだと言うのを見せてくれた。今も使えるという。遺伝で顔の形がおなじなのろうか?金属製だから、顔に合わないと使えない。。 しかし、潜水眼鏡の使用が資源の乱獲を招来すると考えた志摩地方北部の漁業組合では、1897(明治30年)「水眼鏡は一切使用を禁止する」と使用禁止にした 熟練したアマにとっては、素眼に耐えて潜水することが、ちょうど良い漁獲量であり、眼が見えるようになっては、乱獲になると考えたわけだ。 素眼はつらいし、眼を煩うこともある。それでも、適正な漁獲量を維持するためには、我慢する。 言うまでもなく、現在マスクを禁止している組合はない。しかし、同じ理由で独立気泡のウエットスーツを禁止している地域はある。親しい友人でスキンダイバーでデザイナーから海女に転身した鈴木直美さんの所属する千葉県の組合では、独立気泡ではない独特のスポンジ服を使用している。 暖かすぎると乱獲になると考えているのだ。
#
by j-suga1
| 2026-06-27 14:46
| フィロソフィー
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||