日本財団の補助金申請の書類を作り、基準とマニュアルの執筆、それにブログも書かなくては、気持ちだけは目が廻るのだけれど、身体はのんびりやっている。のんびりでなければ持たない。
そののんびりの方で、「カラオケ中年隊が行く 文春文庫」を105円で読んだ。1960年から1970年代が主体で何故か1993年の渡良瀬橋 森高千里だけが飛び離れて紹介されている。喉を慢性の気管支カタルで痛めてしまったので、今はカラオケはやらないが、1990年代は、少しは歌った。終わりまで読んで、表紙の裏をふと見たら、私本閲読許可書(受刑者)の付箋が張ってあった。氏名は女性だ。この本のたどってきた道は、と?思った。
本の中で、ルイジアナ・ママ 飯田久彦
「この曲をヒットさせた飯田久彦は、日大付属高校で野球部のピッチャーをしていたが、甲子園予選の決勝で、後に巨人入りする柴田勲の法政二高に敗れた。だが、同級生に坂本九がいたことがきっかけで音楽の道に入った。1961年に「悲しき街角」でデビュー。この時は芝浦工業大学の学生だった。
愛称「チャコ」といわれ、人気絶頂の時は、日劇をフアンが二重に取り巻いたという伝説もある。
だがロカビリーブームが去って、歌手を引退すると、1975年に一社員として日本ビクターに入社、やがて音楽ディレクターとしてピンクレディーを超人気者に仕立てあげ、プロデューサーになるとSMAPや河村隆一を担当した。ついにビクターの専務からテイチクの社長へと登りつめる。スターから裏方にまわり、そこでも頂点をきわめたという人は珍しい。」
その飯田さんの娘さんが僕のダイビングの弟子で、若く、素敵なお嬢さんで、一緒に慶良間に行ったダイビンググループのこれも僕のメインの弟子である伊藤さんの結婚式に呼ばれたら、飯田さんのお父さん、つまり久彦さんが隣に座った。僕は、ロカビリーのスターだったということしか知らなかったが、すごい聞き上手で、ダイビングの話を楽しくした。歌手以後の経歴をその時にしっていれば、こちらが聞き出したのにと思った。
受刑者、元スターで成功者、さまざまな人生があり、ふと一冊の本で、僕の頭の中で交錯する。