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辰巳国際水泳場での練習会日程などを発表しているURL
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2009年 12月 26日
もう本当にせわしない。本当に年末年始はだいきらいだ。
昨日、年賀状を300枚書いて投函した。書いてといっても、プリンターで印刷するだけだけれどそれでも大変だった。 あとは、年賀状をくださった方に返事を書くのだが、正月は潜りにでかけるので、かえってきて、5日から書くことになる。これも頭が痛い。 メールでご挨拶するところは、今日から31日までの間に出すことにしている。 その合間にブログを書く、これもせわしないのだが、ブログを通じておつきあいいただいている人も少なくないので、ガンバらなくては。 さて、1953年に日本にアクアラングが正式に紹介され、1957年に潜水科学協会が生まれた。そして、機関誌のどるふぃんを紹介しながら、1964年まで、当時のダイビング界の様子を紹介してきた。 要約すると、1957年時代には、アクアラングダイバーは、そろってスピアフィッシングに精を出し熱中していた。協会もスポーツーと称してスピアフィッシングを奨励しないまでもダイバーの当然の行動として、擁護していた。1960年ごろから、漁協との摩擦が表面化して、どるふぃんでも何度となくこの問題を取り上げている。1964年の号では、スピアフィッシング大会の得点表を発表しており、出来たばかりの伊豆(東拓)海洋公園でスピアフィッシング大会を開催している。 ダイビング界も次第に盛んになってきていて、潜水科学協会の会員数は、1500を超えた。ところで、今、2009年のC-カード発行数は、70000とか80000とか言っている。1500でも、各地で漁協とのトラブルが起こり、スピアフィッシングをどうするかということが、問題になっていた。 ふと考えて振り返ると、僕自身はずっと1500の世界に生きてきたように思う。かかわっていた財団法人社会スポーツセンターの認定した指導者の数も1500ぐらいのものだ。だれもが顔を見知っているというと1500でも多すぎる。 そんな脱線はともかくとして、1963年、須賀は、100m実験潜水をやって窒素酔いで気絶した。ちなみに、その前年、1962年には、スイス人のハンネス・ケラーは、混合ガスを使って300mに潜水している。僕の潜水は、デマンドバルブをつけたフルフェースマスクのテスト潜水だったが、それでも九死に一生だった。工藤昌男さんは、下田ー大島間の横断潜水を試みて、とちゅうでギブアップした。 そして、1964年には、多摩の読売ランド、の山の上に、大水中バレー劇場ができてしまった。潜水科学協会が、三越の屋上にアクリル水槽を据えて、僕が水中脱着の妙技?をみせたのが1958年だったから、アクリル水槽も巨大になった。 とにかく、元気の良い時代だった。あの元気がもう一度ほしい。僕個人としても、日本としてもだ。 そして、その1964年秋のどるふぃんを最後にして、どるふぃんは「キャン」とも言わずに死んでしまう。廃刊の挨拶も何もなく、突然消滅した、ように事情を知らなかったひとには、突然消滅に見えただろう。 潜水科学協会が海中開発技術協に変身したのは、昭和四一年度(1966)である。最後のどるふぃんが1964年の秋だから、1965年が空白である。 海中開発技術協の創立三〇周年記念誌は、昭和41年から始まっていて、その前身である日本潜水科学協会には、ほとんど触れていない。その記念誌の座談会で、館石さんと須賀が前身の協会についてコメントしているだけである。 空白の1965年、まだ、潜水科学協会の理事ではなかったし、何か、協会から通知があったのか、協会で何が、どのように進んでいたのか、思い出せない。 僕は、その頃、カメラを持たなかったから、写真はない。アンコウを突いて食べてしまった。 その空白の1965年に僕は、水中射撃連盟を発足させ、5月に神津島でスピアフィッシング競技会をやっている。潜水科学協会の大会が無くなったのでそれでは、僕がやってしまおうと乗り出したものだった。 そのころ神津島出身の鈴木郁夫という、大島水産高校出身の若者が、東亞潜水機の僕の下に入社した。その鈴木郁夫が神津島でダイビングサービスをはじめるようなきっかけになれば良いと考えて、スピアフィッシング大会を企画したのだが、このスピアフィッシング大会のおかげで、鈴木郁夫は、開業に苦労することになってしまった。 それでも、神津島ダイビングサービスのホームページを見たら、1966年創業と書いてあった。これは半分嘘で、それから彼の苦難がはじまるのだが、とにかくこの大会のあと看板だけでも書いたのだろう。以後、僕が神津島に行ったのは一回だけ、鈴木君のダイビングサービスは大きくなり、油圧でエントリーエキジットができる豪華なダイビングボートを造った。しかし、心臓の具合が悪く、ダイビングは制限されているとのこと、もちろん若いスタッフが営業をしているのだろうが、少し心配して、今年の夏、神津島ツアーでもやろうとメールしたけれど、返事が返って来ない。新しい年には行こう! このときのはちゃめちゃな大会のことを書くと脱線が長くなるから別の機会に譲って、ただ一つだけ、自分こそスピア・フィッシングのチャンピオンだと思うダイバーが集まってきたのだが、このときはチームを作ってチーム別に得点を競った。得点表については、どるふぃんに発表されているのと大同小異だった。 そのチームの一つに、伊豆海洋公園、そのころは東拓の海洋公園チームがあった。キャプテンは益田一大先生だ。その後、銃をカメラに持ち替えたが、そのころは、銃が中心だった。海洋公園には今でもあるのだろうが、ブリ待ちの岩というのがある。そこで益田さんが銃を構えてブリのくるのを待っていたと言う伝説の岩だ。そんな岩があるくらい、益田さんはスピアフィッシングに熱中していた。チームは3人で、メンバーは、まず、勇み寿司の鈴木勇、いつも機嫌の良い男で、魚を自分で突いては、自分の寿司屋で握っていてそのころの店の名前はたしか「モンガラ」だったと思う。神田の鎌倉橋、全漁連の前にある店で、漁連の人が良く行く店だった。彼の突いた魚の握りを喜んで、もちろん突いた魚だと知っていて、新鮮さを味わったのだろう。 最後は、伊豆の下田で、潜水医学の後藤輿四之先生と一緒に潜っていて死んだ。もう一人のメンバーは、ミゼット山口で、たしか横浜の菓子屋で、いつもミゼット(軽三輪)に乗って現れ、魚を突いて去って行く。彼も潜っていて死んだ。二人とも、死んで当然と思われていて、それで良かった。益田さんも水中写真と生態図鑑の大家として高名になり、伊豆海洋公園をダイビングのメッカにして、十分に生きてから、病気で亡くなった。僕は、益田さんが潜水社会で一番偉い、一番尊敬している人だった。「人生は出足の勝負だよ」と教えてくれた。魚の生態図鑑は出足の勝負で他を圧倒した。 もう一つの口癖は、「須賀さんとか僕は、最後はのたれ死にだから」と言っていた。益田さんは畳の上で亡くなったが、僕の願いはのたれ死にである。意味は、最後まで潜り抜き、ファイティングポーズをとりながら倒れるということだろうと思っている。 その益田さんのチームが大会が終わってから、神津島に一日延泊して、巨大なカンパチを突いた。そのために、しばらく、神津島はダイビングが出来なくなり、鈴木君がくろうすることになった。しかし、成功したのだから、それで良かった。 水中射撃連盟は、一回の大会で消滅し、水中スポーツ連盟になり、八丈島でスピアフィッシング大会を開き、伊豆大島でも大会をやった。富戸でもやったような気がするし、伊豆山でもやった。 水中射撃連盟という名前は、今でも気に入っている。 1965年はそんなことをしていた。
by j-suga1
| 2009-12-26 16:21
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