27日午後、立松さんのお別れの会に行った。
例によって、時間を間違えて、14時に始まるのに13時に行ってしまった。青山斎場の周りには、高級そうなレストランがいくつもあるが、高いのでデニーズでコーヒーを飲んで時間をつぶし、14時ちょうどくらいに行った。このような会は、少し遅れていって、お焼香だけすまし、顔を出せばOKと思っていたのが大きな間違いだった。もう列が出来ていて、中には入れない。そのまま,立ったまま会が始まった。弔辞が聞こえるように、外にスピーカーが立てられている。たったまま弔辞を聞く、小説家仲間のようで、熱弁しているけれど、故人と過ごした年月、何故死んだ、途方に暮れている。故人の遺志をついでやって行く。にまとめられる。一人終わると、次の方と始まる。およそ、2時間立ち尽くして、足と腰が痛くなった。ただ、耐えることが故人に対する想いだと耐える。
足と腰が痛くなった。
知床、斜里の友人佐野さんが熱弁をふるう。知っているのはこの人だけだから、耳をすました。パリ・ダカールレースに一緒に走ったこと、知床に毘沙門堂を一緒に立てたこと、そのために、全国の高名なお坊さんが参集したこと、世界遺産に指定されたことに対しての立松さんの功績などが述べられた。思えば、この佐野さんとの出会いも僕が始まりだった。僕の知床物語が書ける年月のつき合いだ。
初めての摩周湖僕は16mmシネフィルムのカメラを回している。まだ、テレビがモノクロだった時代だ。
たしか1968年だった。北海道摩周湖にはじめて水中カメラでのテレビ番組の撮影をやった。カメラとボートを急斜面から下ろすために、樹と樹の間に索道を作った。索道のロープを樹に付けるために木登り名人を知床から呼んだ。その時に来たのがたしか17歳の佐野少年だった。それから、年月が流れ、知床の原生林の泉で、冬に環境ビデオの撮影をした。知床斜里の漁師で、一緒にミクロネシアの旅をした佐藤雅博からスノーモビルを借りた。娘の潮美がこのスノーモビルに乗って、道を外して、樹にぶつかって新品のスノーモビルが壊れた。新品だったから、買い直さなければならない。誰かに下取りをしてもらう、その相手が佐野モーターズ、行って見たら、木登り名人が成長して成功している佐野さんだった。その後、潮美がレポーターで「立松和平の心と感動の旅」が始まり、佐野さんにひとかたならぬお世話になることになった。そして、佐野さんと立松さんのつき合いが始まった。もしも、あの時、潮美がスノーモビルに乗らなかったら、樹にぶつからなかったら、この縁は無かった。立松さんならば、仏縁とでもいうだろうか。そんなことを考えながら、寒い外に立ち尽くした。
潮美がスノーモビルで樹にぶつからなかったら、立松さんは知床で毘沙門堂を建てなかった?
ようやくご焼香になった。偉いお坊さんが一列に並んで読経していた。すごい帽子?をかぶっている。こんなのは見たことがない。よほど偉い大僧正なのだろう。とにかく、終了した。
追悼文集をもらったが、先ほど、表で聞いた弔辞は全部この文集に入っている。熱涙とともにしゃべったあれは、何だったのだ。今後偉い人の葬儀が、例えば、14時から17時だったとすれば、16時30分に行かなければならないと学習した。
僕の追悼 立松さんが第二の故郷だと言っていた、与那国の話が今度は出なかったけれど、その与那国に二ユースステーションでロケに行った。夜、みんなで飲んで騒いだ。与那国の小学校の先生たちが合流して、おもしろい女の先生(左側)で、みんなで踊った。カチャーシーも踊った。立松さんは、女装のつもりだろうか。