須賀次郎のURL
辰巳国際水泳場での練習会日程などを発表しているURL
http://homepage2.nifty.com/j-suga/index.htm ブログ、スガジロウのダイビング http://plaza.rakuten.co. jp/sugajirou jack2009さんに、wikipediaに掲載することを許可しています。 外部リンク
カテゴリ
全体 雑感 最新ダイビング用語事典 旅行 撮影 スタイル 日記 ログ 80.80 日本水中科学協会 ダイビング運用 グラフィティ リブリーザー 沿岸漁業・人工魚礁 リサーチ・ダイビング 福島 レクリェーションダイビング 学生連盟 book・映画・テレビ 辰巳 潜水士 歴史 お台場 浦安海豚倶楽部 ダイビングとは? スキンダイビング ダイビングの歴史 最新水中撮影技法 未分類 以前の記事
2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 06月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 2022年 05月 2022年 04月 2022年 03月 2022年 02月 2022年 01月 2021年 12月 2021年 11月 2021年 10月 2021年 09月 2021年 08月 2021年 07月 2021年 06月 2021年 05月 2021年 04月 2021年 03月 2021年 02月 2021年 01月 2020年 12月 2020年 11月 2020年 10月 2020年 09月 2020年 08月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 05月 2020年 04月 2020年 03月 2020年 02月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 09月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 ライフログ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2010年 08月 14日
海洋公園のことを書いている。友竹さんのことを書かないわけには行かないと思っていたら、リクエストがあった。そして、書いて、完成したのだが、あとで見たら消えている。友さんが書かないでくれと言って消したのではないかと思った。書いたもののどこかが気に入らなかったのだろう。書き直すことにした。とても面倒だし、気持ちが進まない。何なのだろう。この前書いたときまでは気持ちよく進んでいたのに。 1970年代の海洋公園、多分、一番の根の手前、水中クリスマスをやっている。岩の下にツリーがあり、岩に腰を下ろして見下ろしている。そのツリーの写真が、どうしても見つからない。消えている。40年の月日は、たいていのものを消してしまう。波に洗われて漂着したようなものが、残る。 友竹さんに初めて会ったのは、僕がまだ東亜潜水機に勤めていた頃だ。海洋公園に据え付ける高圧コンプレッサーのことで、東亜潜水機にやってきた。高価なコンプレッサーを買ってくれたお客様だから、ご接待をした。 なぜ、そんなことになったのか、覚えていないのだが、浅草に行き、遊園地の花屋敷に行った。僕が花屋敷に行ったのは後にも先にもこのときだけだ。二人でジェットコースターに乗った。大の男が二人並んで乗ったのだ。繰り返すけれど、なぜそんなことになったのか、わからない。コンプレッサーのできあがり時間待ちだったのかもしれない。 それから、一緒に日本潜水会を作った。数え上げたら切りがないほどのエピソードがある。いつも楽しかった。例えば事故で死んだ人の遺体を揚げることでもひょうひょうとして楽しかった。いい男だったのだ。 途中経過はともかくとして、ラストダイブのこと。 友竹さんは癌になった。大腸癌だ。もともと痔の気があったので、出血が癌のものだとわからなかったので、発見がおくれてしまったと言っていた。運が悪かった。 僕は、1994(平成6年)東京都立葛西水族園 3D立体展示映像「伊豆の海」を撮影することになり、富戸を撮影地の一つに選んだ。友竹さんはすでに海洋公園を退職していた。友さんにアシスタントを頼みたかった。少しばかりはギャラが払えるし、もしかしたら、これが最後かもしれない。電話を入れたら、気軽に「いいよ」と言うことになり、打ち合わせに友竹さんの家を訪ねた。まだ炬燵に入っていたから、春も浅かった。ミカンを二人で食べて、打ち合わせをした。 数日後、益田さんから、友さんと潜ることはやめてくれと電話連絡が入った。電話では納得出来なかったので、海洋公園の益田さんの家を訪ねた。「須賀さんのやることには、何でも応援するけれど、友竹と潜るのは絶対にだめ。」という。「癌は、潜ったから悪くなるとかいう病気ではない。それに、もしもそれで駄目だったとしても、僕と一緒に潜って倒れるならばいいじゃないか。」と迫った。「須賀さんはここに住んでいるわけではないし、家族とのつきあいも無い。もしも、そのために、数日でも命を縮めたとすれば、自分の責任になる。」 仕方がない。僕はあきらめて、森田君に替わってもらった。もちろん、森田で問題は無い。それでも、友さんは、船に乗り込んできてくれて、上周りをしてくれた。それが、友竹との最後のつきあいだった。ラストダイブは、潜らないラストダイブだった。友竹さんは、その年の夏、家族を連れてモルジブに潜りに行った。元気に潜ったらしい。別に僕と潜っても問題はなかったはずだ。理由は別のところにあったのだろうと思う。多分、病気で休んでいても、会社から給料を出していたのではないか。となると、ダイビング仕事は会社を通さなければならない。病気休職中だからそれは出来ない。僕はそう解釈した。 また、中山千夏さんの「海中散歩でひろったリボン」から引用させてもらおう。 体育会系ということについて書こうともおもっていたので、それに引っかける。 以下、海洋公園ベストの泳ぎ手であり、日本を代表する水中カメラマンの一人になった中村宏治が、千夏さんのインタビューにこたえている部分だ。 最初、宏治さんに直接ダイビングを教えたのは友竹さんだった。「マッさんは教えるのきらいだから。」 「トモさんは体がでかくて、ダイビングもうまかった。そりゃもう、鬼軍曹だった。明治大学でバレーボールなんかやってたらしいから、けっこうスポーツマンで、こわい顔をしててさ、寝てると足で頭蹴って起こすわ、とにかく暴虐の限りを尽くしていたね。いつか殺してやろうと思ってたけど(笑)、その前に亡くなっちゃった。トモさんとマッさんというのは、ある意味、コンビネーションだったんだ。あの時代にマッさんに寄り集まった人間は、みんなトモさんとマッさんを経験している。」 「すべてマッさん独自の教え方だった。マッさんみたいに指導力のある人間は、いろいろな体験のなかからいきなり「ダイバーは泳げれば絶対事故はおきないんだ」というのをだしてくる。それで、僕が習った時には、とにかく泳げだった。それはすごい人だよマッさんは、東海大学の潜水訓練センターをやっていた時でも、一日に6000メートルくらい泳がしているからね、みんなへろへろになるけれど、その時代に育ったひとたちはすごくしぶとい。だからマッさん、間違っていない。」 まさしく体育会系のトレーニングだった。 一方、体育会系と言って頭に浮かぶことは、 「四年神様、一年奴隷」そんな言葉だが、その体育会系の精神論を僕は大嫌いだった。虐め、意地悪の気持ちが伝わってくる。 昭和30年、僕は、東京水産大学に入学した。虐め、しごきの体育会系の風習が学校を覆っていた。終戦で海軍兵学校を途中で退学せざるを得なかった学生が、水産大学に入学して、兵学校の伝統を移植した。その名残が残っていたのだ。都会育ちの僕は、そんな雰囲気には耐えられないで、その空気が色濃い寮には入らなかった。そしたら、通学生というだけで、しごかれた。スタンバイという変な踊りがある。水産大学の前身である水産講習所の初代練習船、快鷹丸が朝鮮の仁川沖で遭難したとき、乗り組みの学生(大先輩たち)がバケツで水をくみ出して闘った。そのバケツで水を汲み出す踊りだ。踊りの途中で、上級生がストップというと、そのままの姿勢でフリーズしなければならない。これに何の意味があるのかまったくわからない。見ている人は面白いと思うだろう、ただそれだけだ。OBが集まって飲むと、「スタンバイをやるぞ」という号令を誰かがかけて、踊りが始まる。僕は参加しない。 ダンチョネ節という唄がある。小林旭が唄っていた。あの唄の元歌がスタンバイの唄である。唄は嫌いではない。 トモさんと中村宏治の体育会系には、そんな陰惨な空気はない。何でも言い合える風通しがあった。そのころの海洋公園の二階の若者たちのリーダーは、中村宏治だったが、僕は海洋公園に行く度にその雰囲気に足を踏み入れた。それは、気持ちの良いものだった。 日本潜水会も海洋公園的体育会系のトレーニングだった。どちらが先かは、鶏と卵の関係である。その流れを汲むNHKの水中撮影班のトレーニングも、今は知らないけれど同じような雰囲気だった。 友竹さんが亡くなった時の葬儀を取り仕切ったのは、中村宏治だった。もちろんトモさんに教えられたダイバーたちはみんな集まっていた。 友さんにダイビングを習ったということ、いまでもその時代の人は誇りに思っている。日本潜水会で指導をうけたダイバーたちも、そのことを誇りにおもっている。しかし、その流れの中に、事故が起こり、僕は体育会系トレーニングがその遠因ではないかと反省し、思い悩むことになる。
by j-suga1
| 2010-08-14 08:20
| 旅行
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||