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辰巳国際水泳場での練習会日程などを発表しているURL
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2010年 08月 15日
書くことが辛いことがダイビングにはある。
しかし、ダイビング施設を運営していたり、ダイビングの指導をしていたりすれば、避けて通れない。 オープンしたのが1963年、スピアフィッシング全盛のころだ。海洋公園は魚の多い場所だった。スピアフィッシングは、既に名人クラスが居る。初心者も居る。名人は幸運と素質で名人になった。 初心者の講習は、無いも同然である。日本での最初の指導者は、1967年に僕たちが日本潜水会を作った。海の彼方のアメリカでは、ロスアンゼルスカウンティ(略してロスカン)、向こうのロスアンゼルス州の郡にあたるらしいが、その郡にカタリナ島という、ダイビングポイントがあるらしい。行ったことがないから、らしいとしか言えない。その郡が、ブルーカードというライセンスを発行した。事故が多いので、一定の基準、講習を受けた者でなければ、潜らせないと言うことらしい。そのアメリカの小さな地域のカードを日本に持ち込んで発行していた人たちがいた。 やがて、ロスカンのブルーカードが進化してNAUIになった。そのNAUIの日本人インストラクター第一号が、僕の大学の一級後輩、日本アクアラングに就職した浅見さんだった。真鶴で、日本で第一号のダイビングサービスを始めた後藤道夫、と浅見国治、それに僕と三人で集まって日本潜水会を始めて、東拓で第一回の指導者講習をした。 そのもっと前、1963年から、1967年の野放し時代、スピアフィッシングにバディシステムなど無い。二人並んで魚を突くことなどあり得ない。まれに超大型のハタなどは、チームプレーで突くが、基本的には一人である。一緒に潜っても水中で出合うと、敵の獲物と自分の獲物を見比べて、向こうが多いと「頑張らなくては」とまた魚を探す。空気が無くなるのはほぼ同じだから、帰り途では一緒になり獲物を見せ合うが、こんなのはバディシステムではない。 そんなダイビングで初心者と名人クラスが一緒に潜っていれば、生死は運ということになる。運の良い人が多かったが、それでもよく死んだ。 どうしたら死なないか、練習あるのみ、泳げないダイバーは死ぬ。泳げれば生きる。同じ結論を真鶴の後藤道夫も出していて、配下の若い者をを泳がせた。日大水泳部出身が多かったことが、真鶴組の特色だった。日本潜水会発足当時の泳力は、真鶴組が圧倒的に優れていた。その後に中村宏治などが、海洋公園に居着いて、マッさん、友さんの体育会系トレーニングの結果、競技会を制覇するようになる。千夏さんの本にも、宏治がオリンピックの金メダリスト山中と勝負するくだりがある。僕は、その時見ていたが、「海中散歩でひろったリボン」は、見てきたように面白い。 日本潜水会とほぼ時を同じにして、関東学生潜水連盟が生まれる。当初は、学生連盟のメンバーの多くは日本潜水会でトレーニングを受けた。日本潜水会の一級になる、つまり死なないダイバーになることが学連の上級生の条件だった。学連は、学生連盟独自の競技会を開いていたが、日本潜水会が関西、中部の潜水連盟と連合した全日本潜水連盟の競技会は、ローレックス時計がスポンサーであったから、一位になるとローレックスがもらえる。学生はローレックスを目指す。 学連の中でも、それぞれの学校が強い時期が交替する。最初の頃、法政が常勝で、海洋公園組とせりあって、ローレックスをゲットしていた。 日本潜水会発足の時、ベテランでも泳げなくても5キロのウエイトを首にかけて、泳がされた。真ん中は、東京アクアラングサービスのオーナーである青木大二さん、ほとんど泳げない。手前は、既に当時大御所であり、今でも健在の大崎映晋さん、沈む寸前である。横になって泳いでいるのは、初代事務局長の松沢さん、青木さんのクラブの会長で、スピアフィッシングの達人だったが、泳げなかった。「スクーバは、泳げなくても出来ます。」ではなくて、「泳げなくても首に5キロのネックレスで泳がされます。」そう言うところから僕たちのトレーニングは始まった。 日本潜水会と海洋公園とは、ほぼ同じトレーニング種目を採用していた、その中に、水中重量挙げと立ち泳ぎがあった。もちろん、ひたすら泳ぐことが基本ではあるが、その成果をレスキューに役立てなければならない。水中重量揚げは、沈んだダイバーをスキンダイビングで引き揚げなければならない事態を想定した競技だった。 溺れる者は藁をも掴む。救助に来た人にもしがみつく、日赤の水難救助は、それをふりほどく、あるいは一回沈めて力をなくしてから曳航する。ダイビングの場合、バディをふりほどいたり、沈めたりしたら、人殺しと言われるかもしれない。しがみつかれたまま、立ち泳ぎして、水面上の空気を呼吸させて、恢復させなければいけない。それに必要な時間だけ、溺れるダイバーを抱えて顔を水面に出し続けるのだが、そのための立ち泳ぎである。僕たちは、標準ウエイトの他に5キロのウエイトを手に持って、10分間の立ち泳ぎを設定した。1968年のことだった。 1975 昭和50年 沖縄が日本に返還されたことを記念した海洋博が開催された。全日本潜水連盟は、スポーツ競技会と写真展でそれに参加した。300人の選手を連れて行き、スポンサーのローレックス時計は、24個の時計を賞品として提供してくれた。 1976 昭和51年 スポーツダイビング入門という本を、そのころ新宿に出来た海、ドゥスポーツプラザの主任コーチをしていた竜崎君と共著で出版した。 そのあたりまでが、僕がスポーツダイビングに熱中していた時期だった。スポーツダイビングでは、自分の会社が成り立たない。調査潜水とテレビ番組の撮影を主たる業とするようになった。スポーツは、足かけ程度、年に数回のインストラクター講習会に顔を出し、講師を務めるくらいにとどめた。 そして、昭和57年、1982年、娘の潮美は、法政大学に入り、アクアダイビングクラブに入った。体育会系クラブであり、「とんでもないクラブに入った」と愚痴をこぼしつつ、嬉々としてとして海に行っていた。潮美は耳抜きが出来なかった。普通の人が一週間で出来る耳抜きに三ヶ月ぐらいかり、夏の八丈島合宿でようやく耳が抜けるようになった。娘は色白で陽に焼けないタイプだった。陽に焼けろと干物の真似をさせられた、とこれも自慢げに話す。娘も体育会系だったのだ。 そして、秋、海洋公園の友竹から会社に電話がかかってきた。娘の同級生が立ち泳ぎで心臓麻痺を起こして亡くなったという知らせだった。 きけば、7-8キロのウエイトを持って30-40分を泳ぐ練習になっていた。 それと同じような事故がその後にも引き続いて2例、やはり関東学生潜水連盟の大学で起こった。学生連盟も、そして一般にも、ウエイトという負荷をかける立ち泳ぎ練習は禁止、行われないようになった。 確かに、体育会系の空気のうちに、波が来たと言っては先輩がバケツで水をかけ、溺者にしがみつかれたと言って沈められたりする練習はしごきに見える。そのことが、お父さんお母さん、特にお母さんには耐えられなかったのだろう。僕は、同級生であった娘の父親であり、かつダイビングのエキスパートであり、亡くなった立ち泳ぎ練習の創始者の一人であるという立場で、ご両親宛に長文の手紙を書いた。けっして、精神論的なしごきではない。楽しみながらの練習だった。少しでも、子供たちのやっていたことを理解してもらい、海ではその厳しさが必要であること、を説明した。もちろん、事故の起こった海洋公園の益田さんも、友竹さんも、おなじような努力はされたと思う。しかし、納得はしていただけなかった。 法政大学の創立30周年記念誌「法政アクアの曙」には、こう書いてある。「事故の詳細についていくら語ろうとも、ご遺族の方々が納得されることはなかった。ただここに二つの事実が残るのみである。それはクラブの練習中に20歳の若者が亡くなったということと、彼を失った人々の心に生涯消えることのない悲しみが存在するということである。安全を前提とした今後のダイビングの練習、あるいは学生のダイビングクラブ活動というものはどうあるべきか、唯一の正解などないのかも知れないが、メンバーの一人ひとりがこの過去の事実を認識し、考え、行動するべきである。事故から教訓を学び、決してこの記憶を風化させてはいけないのである。」 僕も、気が進まないままに、何度もこの事故のことを書いている。決して風化させてはいけないと思うからである。僕は、日本潜水会の現場コーチとして、友竹は海洋公園の現場コーチとして、少なからぬ遠因を作っている。 そして今、学生たちに口をすっぱくして言っているのは、学生は死んではいけない、死ぬようなダイビングをしてはいけない。なぜならば、死ぬようなことをする必然性がないし、自分の責任で生き死にを決められる大人ではない。もちろん、社会人のレジャーダイビングだって、プロのダイバーだって死んではいけないのだが、子供ではない。学生は子供なのだ。しっかり判断できる大人がかかわっていなければいけない。 しっかりした大人の管理体制を前提として、果たして立ち泳ぎがいけなかったのだろうか、体育会系の適否について、もう少し考えてみよう。 もちろん、事故が連続して起こった練習種目は禁止されるべきである。しかし、何故立ち泳ぎで事故が起こったのかという問題は残る。本当に立ち泳ぎが事故の原因なのであろうか。 まず言えることは、精神主義はいけない。トレーニングはハードであればあるほど科学的であるべきである。
by j-suga1
| 2010-08-15 10:54
| 旅行
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