下は今のお台場、
週刊新潮の2月24日創刊55周年記念特大号のグラビア特集で、東京タワー建設中の1958年からの東京の写真がのっている。1974年のお台場の写真があったので買った。何時も潜るお台場だ。
1974年のお台場は、貯木場だった。しかし、それだけではない。今とは、海そのものが大きくちがっている。今のお台場の海は陸地だったようだ。お台場の海は埋め立てたものを、また掘って海にしたのだろうか。1974年というと、1970年が大阪万博、1973年には海洋博だったはずだ。そのあたりの年表を見ると僕の記憶がめちゃくちゃにちがっている。海洋博は1975年だ。1967年が日本潜水会の設立、1972年に日本潜水会から全日本潜水連盟にかわった。1974年のお台場がこんなだったとは、記憶にない。此のお台場の写真は空撮のようだ。僕は、歩いて行って立ち入り禁止の鉄条網の外からお台場を見ている。そして、鉄条網をくぐり抜けて、お台場に潜った。たしかに貯木場だった。
中村征夫の全東京湾という写真集を本棚から出してみる。彼は昭和52年、1977年にフリーのカメラマンになり東京湾の撮影をはじめている。1975年の海洋博で、僕は征夫くんと始めてで会い、ぼくと同じTシャツを着ていたので意気投合して親しくなった。
日本は、西暦と和歴が混在している。それが僕の記憶をばらばらにひきちぎっている。
どうしても1974年のお台場が納得できないのだ。
全日空の飛行機が羽田沖に落ちたのはいつだっただろう。もう、頭が完全に混乱した。
どうでもいい。考えるのをやめにした。
いや、今日は全日本潜水連盟の評議委員会に出席して、懇親会にもでて、今戻ってきてブログを書いている。
第38期の総会だという。1972年が全日本潜水連盟の創立だから、38を足すと、2010になる。計算はあっている。理事長をやめたのが2年前だから、36年、僕は全日本潜水連盟とともにあった。理事長のやめ方は不本意なものだったが、懇親会にでれば、50%以上が僕のファミリーだ。新しく指導員になった若い子たちも海洋大学の潜水部だから、これもファミリーで、一年生の時からかわいがってきた。その子たちが、経験6年だと言う。そうか、修士から博士コースに行けば、6年にもなる。
知らない顔が挨拶してきた。18年前の僕に教えられてインストラクターになったという。石崎くん、名前は忘れていなかった、様な気がする。顔と名前が重ならない。もっと話したかったけれど、握手しただけだった。もう一度会うことがあるのだろうか。
時の流れの中に生きている。時の流れに流されているのだろうか。踏みとどまって流れを見ているのだろうか。
なんだかまとまりのないことを書いた。