撮影する画像の中で表現しようとする光と影は、意識するかしないか。どのように意識するかで、決まる。
個人的な感覚なので抽象的な例は理解しにくい。具体的に単純な例として、流氷の撮影をあげる。
流氷というと、接岸した氷の氷原がまずイメージされる。流氷は、アムール川と聞いただけでロマンチックなのだが、そのアムール川から流れ出した淡水が凍って、海面に張り詰めて、割れて流れてくる。流れてくる間に積み重なって小さな氷山になっている。本当の氷山も来るのかな、と思うほどの大きな塊もある。それが接岸する。流氷に潜り始めたのは、1970年代の終わりごろだっただろうかとおもっていたが、調べて見ると1982年だった。
やがて、1986年、ニュースステーションの潮美と立松さんの水中レポートシリーズが
積み重なった流氷の隙間から漏れる光がきれいだった。雪の深い年に、流氷の上に深く雪が積もると光は入って来なくて、暗黒の世界になり、ライトで撮影した。人工光を当てた氷も美しかった。
3月になると氷が緩む。氷が緩めが、光が射し込む。射し込んだ光で氷を撮り、氷の下の生き物を撮る。
その時代には、釧路のトッカリというショップの木澤さんと一緒に潜ることが多かった。木澤さんはクリオネ号という船外機付きのボートを持っていて、そのボートで冲を流れているミニ氷山を追って上陸する。氷山の周囲で撮る。これは射し込む光と氷の塊だけの美しさであって、氷に当たる光の輝きがすばらしかったが、太陽が無ければ、どうにもならない。これからの時代、潜水は沖縄のサンゴ礁ではなくて、流氷だな。などと話し合った。
ミニ氷山の流氷l
氷原
やがて、リュック・ベッソンの映画「アトランティス」が公開された。闇の中、水中に一筋に光が射し込んでくる。その光の変化のうちに、氷の下に射し込んできている光だと言うことがわかってくる。光と氷だけで10分ほどの大型映像を見せてしまう。僕にもこのカットは撮れたはずだ。光に対する感覚の差だと降参した。
僕が自慢できた光は、ニュースステーションの始まりの1986年、流氷の表面を、レポートする潮美は手で軽く触れる。繊細な氷が、ダイヤモンドダストのようにきらきら輝く。
少し前に書いた、知床の原生林の泉、原生林の木漏れ日から射し込む光が水面が風で揺れる波紋を白い砂地に波紋を作る。水中の光とは光の波紋なのと。静岡の柿田川も、透明な水に射し込む光が緑のミシマバイカモにあたって輝く。
こんなことは、言うまでもないことで、当たり前のカメラマンならば、誰でも心に刻んでいる。
ただ、アマチュアのカメラマンは、被写体にとらえられてしまうと光がみえなくなってしまう。僕も同じだ。動く被写体、イルカ、カメ、サメ、マンタ、などなどに捉われると光は見えない。また、光が無くても画をつくることもできる。ただ、同じ被写体を追って、プロとアマチュアの差が出てくるとすれば、その一つは光に対する感性の差、そして、光を画面にとらえる技術の差だと思う。しかし、プロの撮影はスケジュールに左右される、その時に、その場にある光で間に合わせなくてはならない。人工光は、お金さえかけられるならば、いつでも作ることができる。次は人工光のことを書く。