月刊 マリンダイビングを出している水中造形センターの会長、舘石昭氏が亡くなった。
この前のマリンダイビングフェアには姿を見なかったので、親しいと僕は思っているマリンダイビング誌の山の端さんにどうしたの、と聞いた。腰が痛くて歩けないと悔しがっているそうだ。ぎっくり腰のようなものかと思っていたら、9日に亡くなった
若き日の舘石さん 二人とも一匹狼のつもりだった。
僕と館石さんは、本当に長い付き合い、それも、二人で100mに潜ろうとした。一本の命綱に二人の命を託した。そして、けんか別れした。僕が悪い。それ以来、共通の友達も多いし、海中開発技術協会では一緒にしごともした。連携はあるのだけれど、心を開くことは無い。そんな月日だった。
月刊ダイバーに書いているニッポン潜水グラフィティ、ちょうど舘石さんとの100m潜水にさしかかったところで、亡くなった。月刊ダイバーはマリンダイビング誌のライバル誌だ。しかし、この100mは、僕の若い時最大のイベントであり、そして60歳の100mにもつながる。さけては通れない。どうしようと思っていた。
とにかくお通夜に行った。共通の友人多数。でも僕はセントラルリーグなのか、パシフィックリーグなのか、
心を開くことはなかったけれど、それだけ舘石さんにとって僕は特別のひとだったのだろう。そう思って合掌した。
顔をみてのお別れもした。お通夜でも、僕と館石さんのわかいころの潜水のことを書いたものが読みたいという人がおおかった。
月刊ダイバー誌の記事、どうしようかと坂部編集長におうかがいをたてた。あくまでも、次郎さんの書く記事だし、事実関係さえ間違いがなければ、読みたい人も多いだろうから、是非と言うことだったので、そちらに進むことにした。あくまでも、僕の視点からの事実関係だけど、間違いはない。舘石さんは撮影するカメラマンとしての視点、僕の視点は、今でいう、応需弁送気式フルフェースマスクを新しい潜水器としてテストするということだった。
でも、これを書いたら、今の時点で、舘石さんはどう思われるか、本当に、もう一度喧々がくがく議論したかった。しかし、生きていたら、決してこの潜水のことは話題にしなかっただろう。でも、もしかして?とも思う。それが、思えなくなってしまった。そういうことだ。