月刊ダイバーのグラフィティが書けないで、呻吟しています。
「この辺りで立ち止まって、その頃の潜水の世界のできごと、そして時代背景を整理しておきたい。僕たちの100m潜水は1963年、昭和38年の八月、アメリカが輝いていた1950年代が終わり、日本は所得倍増をめざした1960年代の始まりであった。1973年に公開されたルーカスの「アメリカングラフィティ」の宣伝コピーは、「1962年夏、あなたはどこにいましたか?」であった。」書き出しはこれで決まり。
それに続くフレーズ
「その1962年から1973年を時系列で並べて見る。
1962年 昭和37年 3月、潜水士制度、高気圧障害防止規則はじまる。
1962年 昭和37年10月、私事ですが、須賀潮美誕生
1963年 昭和38年8月 90m実験潜水、舘石、須賀
1964年 昭和39年 東拓海洋公園(伊豆海洋公園オープン、東京オリンピック
1964年 水中バレーシアター 竜宮城 オープン
1965年 昭和40年 水中射撃連盟結成、神津島でスピアフィッシングコンテスト
1965年 昭和40年 法政アクアクラブ発足」
これも決まりでしょうが、その間に次のフレーズを挟みたいのですが、収まらないのです。
「世界の潜水は、1962年、クストーはマルセーユで一週間の海底居住、コンシェルフⅠを行い。そして1963年のコンシェルフⅡは、映画・太陽の届かぬ世界となって世界に公開され、世界の先進国が海底居住の夢を追う時代の幕開けであった。
一方僕たちの90m潜水は80mから先は空気を吸って潜るのは、死亡率50%ぐらい、死ぬか生きるか半々、最初からわかっていたことだと言われてしまえばそれまでだが、それを実際に体験した。僕たちは命綱を身体につけ、太い潜降索を伝わって降りた。二人とも、程度の差こそあれ意識を失い、命綱がなければ、墜落、そして戻ってこられなかっただろう。この潜水で得た一番重要なノウハウは、深く潜るダイバーは、二つの供給源を持たなければならないと言うことだった。
僕は、この潜水のために特別の軽いビニール製のホースを用意した。耐圧は30気圧で強さは十分だと思った。しかし、夏の日差し、コンプレッサーの熱、空気の圧縮熱でビニールホースはやわらかくなり、ホースとコンプレッサーの接合部分がすっぽ抜けそうになった。抜ければ、僕の人生は終了した。タンクを背負って行き、ホースからの送気とタンクからの空気を併用すればよかったのだ。ヘルメット式とか、当時の軽便マスク式潜水では、こんなことはできない。レギュレーターを使っていればこそできたはずだった。しかし、僕はせっかくのノウハウを東亜潜水機では活かせなかった。設計する能力がなかった。」
これがつながらない。潮美はカットするだろう。でも僕は捨てられない。ブログにして後に残しておいて、なぜ、東亜をやめたか?の部分でつかうことにしよう。
フェイスブックなどで、他の人の映像は「切れ!切れ!眼から血が出る」などといいますが、自分の文章はなかなか切れないものです。