僕のグラフィティ -1
竹下先輩の写真を見ていたら、その頃のことをもう少し書きたくなった。
アメリカン・グラフィティという映画があり、好きな映画だった。50年代のアメリカの若者たちの青春を描き、ラストシーンが、その後、30年経過した若者それぞれの置かれている状況を淡々と語って終わる。古い映画で、ビデオも持っていないので、この映画そのものも彼方になっているけれど、ラストシーンで涙がこぼれた。
僕のグラフィティを少し書きたい。昭和31ー34年、最近、「三丁目の夕日」という映画が当たったが、ちょうどその頃のことだ。1956-59年だから、50年前だ。50年、時系列で出来事をおぼえていられない、遠くかすんでしまっている昔、はるかな昔。
今、ちょうど、東京水産大学ー東京海洋大学潜水部の50周年記念事業を進めている。昔の写真を集めていて、竹下先輩のアルバム、僕のバディ、原田進のアルバムを見ている。
その頃、勝鬨橋が開いていた。手前に見える船は、水産大学の練習船「はやぶさ丸」。この船は、元第五福龍丸で、ビキニ環礁で原爆実験に出会い、放射能汚染で、たしか、久保山さんという方が放射能障害で亡くなった。その後、放射能が船体から消えたことを確認して、練習船に改造された。学生を乗せることで、放射能が残っていないことの実証実験をしていたのではないかと疑う。はやぶさ丸は、再び第五福龍丸にもどされて、今、夢の島に恒久的な保存施設になっている。放射能のことを忘れないためのモニュメントなのだろう。はやぶさ丸に乗せられた船員や学生はその後どうなっただろう。癌で死んだ人もいるだろうし、元気に長生きしている人も居るだろう。
その頃、水産大学には、海鷹丸、神鷹丸、はやぶさ丸があり、僕が乗ったのは神鷹丸で、その神鷹丸から撮った写真である。
1956年夏、米国から返還されたばかりの奄美大島に白井祥平先輩の水中探検隊に参加して、生まれて初めてアクアラングを背負った。
左から、橋本先輩、一級上で、竹下先輩のバディだ。竹下、橋本先輩のバディと、僕と原田進のバディ、4人が中心になって潜水部を創った。
座って笠を被っている僕、後ろで、そのころのスノーケルを咥えているのが、この部落の子供だった良雄君、彼はのちに東京に出てきて、白井先輩のアシスタントになり、南太平洋の海を駆け巡った。
幼児は、名前もその後も知らない。
右端は白井祥平先輩、4期上で、その頃も、そして今も、僕の兄貴分である。以後波乱万丈の探検家生活を送り、現在は千葉県大網で南太平洋の博物館に住み、黄金の龍の化身であることを自覚されている。スピリチュアルな世界だから、一般人にはわかりにくい。
後ろの家は、当時の奄美大島の普通の民家である。滞在中に台風が来て、屋根が飛ばされた家がいくつか。次の日、台風一過、皆集まって、楽しく屋根を再び乗せた。
OK、サインを出して、潜水開始する原田進。
僕の生涯のバディだった。何時でも、どこに居ても、水の中に居ても、陸上でも、遠く離れていてもバディだった。
学生時代、大酒のみで、奨学金はほとんど酒に消えた。
70歳にならないうちにすい臓癌で死んだ。もうだめとわかってから、一日、一緒に過ごすことが出来、それからの死だったけれど、僕は、しばらく涙が止まらなかった。大酒のみはみんな60代で死ぬ。