スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
2024-03-18T12:05:31+09:00
j-suga1
89歳になります。スクーバダイビングによる水中活動の支援を展開しています。、
Excite Blog
0318 シンポジウムを終えて
http://jsuga.exblog.jp/33721554/
2024-03-18T11:59:00+09:00
2024-03-18T12:05:31+09:00
2024-03-18T11:59:18+09:00
j-suga1
未分類
昨日、第13回、日本水中科学協会 水中活動シンポジウムを終えた。その反省と覚書き
第13回 JAUSシンポジウム 3月17日 日曜
第一部 講演
サウンドスケープ 楯慎一郎 全国水産技術協会
魚の話し合う声、叫び声で、海の中は騒がしい。ダイバーの耳に聞こえないだけです。
すばらしい講演、話 だった。
自分たちのチーム 日本水中科学協会もこのサウンドスケーププロジェクトに加わり、ほぼ同じことをしている。
機材の開発、も同じ苦労というか、努力を自分たちもやり、一歩を先んじた部分もあると思っているが、その、まとめ方、報告のデータ化について、楯君はすぐれていて、これぞ、サイエンス・ダイビングといえる話だった。
魚の鳴き声、話し声、叫び声も、存分に見せてくれ、聞かせてくれた。臨場感があった。
一部、画像の出し方放映がスムースにいかなくなった。トータルして、これまでにない、良い講演だった。
第二部 活動報告
1400 種市高校訪問記 須賀次郎 10分
自分でパワポを操作し、自分でパワポの中のビデオをオンオフさせて、話をうまくまとめたかった。自宅で練習して、うまくできた。
しかし、操作に自信がない。結局、セットPCから出してもらって無事終えた。納得はできなかったが。
1420 種市高校でのプライマリーコース 久保彰良
これは、映像の出しに完全に失敗し、せっかく作った映像なのだが、久保さんは、映像とは無関係に無難に話をまとめた。
1430 種市高校の潜水教育 下川顕太郎 種市高校教諭
遠く、岩手県種市からの登壇なので心配したが、これが一番うまく映像が出た。プールでのヘルメット練習の映像もよかった。
ホース、潜水服などの機材の説明もよかった。
トータルして、種市高校の紹介は成功で、種市高校の全貌がわかった。ただ、心配なのは、海洋開発科の人数の減少で、職業潜水士になる若者が稀少になってしまうことだ。
1510 サイエンス・ダイビング出版予告 須賀次郎 5分
この発表の準備で、ようやく、この本執筆のコンセプトがかたまった。発表で踏ん切りがついたということだ。なんとか、秋までに作り上げ、出版して、来期のシンポジウムの第二部のテーマにしよう。
1515 お台場2023 山本徹 10分
東京湾大感謝祭での発表とほぼ同じだから、お台場の水中、全貌を見られた。
第三部 学生ダイバーの活動 2023
1600 東大海洋調査探検部 深谷真央 20分
小田原市根府川における魚類調査
学生のサイエンス・ダイビングの発表であり、うまくまとめていた。
1623 東京海洋大学潜水部 入来院祥子 10分
ウエアラブルカメラを使ったライン調査
1633 学習院大学ダイビング部
1641 中央大学 藤島靖久 OB会会長
1650 法政大学アクアダイビングクラブ
芝浦工大
このあたりまで、第三部は順調だったが、芝浦工大が出席できずに、録画したパワポでの発表になったが、これが、暗礁で、乗り上げて難破してしまった。映像が動かないのだ。後で聞いたところでは、サイズがズームのソフトに合わないほど、重かったからだという。
1705 関東学生潜水連盟
樋口喜一 法政アクア OB会会長
を先行させ、
芝浦工大を最後に持ってきて、
潮美司会のパネリストの質疑があり、なんとか乗り切った。
学生のダイビング部活動は、東京海洋大学潜水部、創始のOBであり、僕のライフワークの一つであるが、潮美は法政アクアのOBであり、別の視点からの想いがあるだろう。
学生の部をまとめると
樋口君の孤軍奮闘があり、関東学生潜水連盟が復活の兆しをみせてきた。
東大 海洋調査探検部は別の形であり、海洋大学潜水部は、その間に浮遊している。海洋大学が学校の授業として、水中調査を教えることが無くなり、今後も復活することはないので、それに代わる形を期待しているのだが。
応援している大学部活の現状をみることができた。
全体をまとめて言うと
シンポジウムをその実行も含めて、自分たち日本水中科学協会の勉強会であると位置づければ、大成功であり、自分が得るところが大きかった。
ぶっつけ本番のテレビ番組中継的にみると失態であり、スポンサー、プロデューサーに謝りに行かなくてはいけない。
僕ら、日本水中科学協会の支柱であり、親友以上の存在であった白井常雄が、3月9日に亡くなってしまい、14日、お通夜だった。
シンポジウムでも、久保彰良、僕・須賀が追悼の言葉を終わりに述べた。
この「白井常雄メモリアル」のパワーポイントの処理だけは、うまくできた。
★★★★
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0227 ウエアラブルカメラ EK7000
http://jsuga.exblog.jp/33697373/
2024-02-27T11:10:00+09:00
2024-02-27T11:10:31+09:00
2024-02-27T11:10:31+09:00
j-suga1
未分類
AKASO EK7000 7700円を買った。写真左側
AKASO7000は、昔、気に入って使っていたウエアラブルカメラで、画質もよく、色調もよかった。現在のAKASOの主力機種はAKASO Brave-7 で価格は22490円になっている。これに相当するAKASO Brave-7 proも持っている(写真右側)が、陸上の撮影には良いカメラだが、水中は、色補正をしている。その色補正が良くない。赤茶けた色になってしまっている。陸上の設定のまま水中に入れても、気に入らない。この手のカメラは、自分で色補正をすることができない。
廉価版の7000は、どうだろう。水中では使えないタッチパネルを省略、色補正も省略してくれているならば、そして、画質がそのままならば、使える。
購入してみて、タッチパネルは省略、水中色補正も無くなっていて、これは期待どおり?だったが、画質も一段落としてあった。でも、水中では、どうだろう?
今度のアクアティックスセンター、お台場でテストしてみる。
テストの如何にかかわらず、学生用にはなるけれど。
なお、現在持っている、使用可能なウエアラブルカメラは、GoPro10 GoPro8 SJcam 5000 SJcam4000 SJcam 1000 MUSON それにこの AKASO7000とAKASO7000pro それに、海洋大学潜水部に貸しているGoPro7、だ。なんでこんなに多数かといえば、設置 合計9台になる。
撮影に使っているし、現在執筆中の「サイエンス・ダイビング」に撮影方法の章があり、それを書くために、テスト撮影が必要なためである。
なお、現時点でもっともCP もよくておすすめは、 14800円のSJcam 5000です。もちろん、GoProも良いけれど、調査カメラ=消耗品なので、価格が高い。
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0215 3月17日の第13回JAUSダイビング研究活動シンポジウム 2
http://jsuga.exblog.jp/33684751/
2024-02-15T19:12:00+09:00
2024-02-16T17:03:42+09:00
2024-02-15T19:12:00+09:00
j-suga1
日本水中科学協会
第13回JAUSダイビング研究活動シンポジウムのご案内 2
■日時:2024年3月17日(日)13:00~
■会場:オンライン(Zoomウェビナーを予定)
■参加費:無料
■申し込み方法:以下、URLよりお申し込みください。
https://jaus.jp/?page_id=3710
先ごろ第一部の紹介をしました。
第1部 13:00~14:00
今回は、
第2部 14:15~15:15
「2023年JAUS活動報告」
もう、今回のシンポジウムが、最後だろう、と毎度思っていて、どうしてもやりたい事、語りたい事が多く、いくつも話をしてしまいます。
皆様に、聞いていただきたく、ご紹介をしていきます。
1「岩手県立種市高等学校の潜水教育」
同校には全国で唯一、潜水と土木の基礎的知識と技術を学ぶことのできる海洋開発科があります。生徒たちは伝統の「南部もぐり」(ヘルメット潜水)に加え、マスク式潜水機「デマンドバルブ付フルフェイスマスク」や、もちろん「スクーバ」も学び、卒業後は全国の海洋土木の会社で潜水士として活躍しています。JAUSでは昨年、須賀次郎と久保彰良が同校を訪れ、プライマリーコースの紹介などを行いました。その活動報告と、下川顕太郎教諭に種市高等学校の潜水教育についてお話いただきます。
登壇者
「種市高校訪問記」須賀次郎(日本水中科学協会代表理事)
「プライマリーコースの実演について」久保彰良(日本水中科学協会副代表理事)
「海洋開発学科の潜水教育」 c(種市高等学校)
僕が担当するのは、訪問記で10分ほど、その時撮影した映像を流しながら説明する。
その内容は、シンポジウムをお楽しみに、ということにして、この種市高校、1959年に東京水産大学を卒業した時に、ここに行かないか?という話がでた。その時まで、ここで、潜水についての教鞭をとられていた井関泰亮先輩は戦時中海軍兵学校に在学していて、終戦後、水産講習所に入学された。そして、種市に行かれたのだが、古巣の江田島に教官として移ることになり、その後釜にという話がでた。残念ながら、僕は大学で教職課程を取っていなかったので、先生にはなれない。
以来、自分の人生が終わるまでに、一度は行きたい場所になっていた。
今回、生徒相手にささやかな、講義、15分ぐらいかな。行うことができ、60余年の宿願をはたすことができたのでした。
この頃の航行の授業、こんなふうなのだろうか、
岩手県の果て?にある高校でこれだから、東京は?
久保さんの発表は、プライマリーコースのプレゼンテーションを行った報告だが、それに参加した生徒に、マスクマウントを着けさせたが、さすが、潜水の学校の生徒という撮影できばえだった。これも映像で流します。
高校の下川先生の発表は、ヘルメット潜水の実技講習だけでなく、デマンドバルブ付きフルフェイスマスクの講習風景をリクエストしたのですが、それは、時期が悪く,終了しているとのことでしたが、ストックでなんとか見せていただくよう、お願いしています。
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0208 シンポジウム報告
http://jsuga.exblog.jp/33677022/
2024-02-08T12:48:00+09:00
2024-02-08T12:48:12+09:00
2024-02-08T12:48:12+09:00
j-suga1
日本水中科学協会
第13回JAUSダイビング研究活動シンポジウム
■日時:2024年3月17日(日)13:00~
■会場:オンライン(Zoomウェビナーを予定)
■参加費:無料
■申し込み方法:以下、
https://jaus.jp/?page_id=3710
中身を少しずつ紹介したい。
第1部 13:00~14:00
「石西礁湖の海中サウンドスケープ調査」
「魚の自然誌 ヘレン・スケールズ」愛読書です。
海の中はオーケストラ、魚の鳴き声、しゃべる声で満ちている。スズメダイはさえずっている。岩陰に群れるイットウダイは、「おい、そこどけ」とつついている。でも、人間の耳、ダイバーの耳には聞こえない。カメラにマイクを着け、撮影した映像の音を増幅して、レシーバーで聞けば、聞こえる。しかし、魚は口を動かしてしゃべるのではない。誰がしゃべっているのかわからない。どの種類がどんな声をだしているのか、まだ日本では研究がはじまったばかり。
発表は以下です。
JAUSでは2019年から石西礁湖で行われている「海中サウンドスケープ調査」に協力しております。海中のあらゆる「音を録る」というほぼ前例のない基礎研究プロジェクトで、昨年、「やいまの魚(いゆ)めいおん図鑑」として、その成果を発表しています。このプロジェクトの成果から、人々が「魚が鳴く、音を出す」ことに気づき、特に子どもたちが将来の研究者や水産人を目指し、水中環境への興味を持ってもらえることを期待しています。
登壇者
楯 慎一郎氏
一般社団法人全国水産技術協会 研究開発部 主査
いであ(株)国土環境研究所 生態解析部 主査研究員
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0203 サイエンス・ダイビングからの想いで
http://jsuga.exblog.jp/33669208/
2024-02-03T17:57:00+09:00
2024-02-03T18:09:38+09:00
2024-02-03T17:57:23+09:00
j-suga1
グラフィティ
今書いている「サイエンス・ダイビング」から派生するような思いでをぼつぼつとblogにも書いて行こう
写真は、1970年か1971年、福島県相馬沖のの人工魚礁です。1.5m角のコンクリートブロックが一段でひろがっている。大きな有線ライトで照らしています。今、サイエンス・ダイビングという本を執筆していて、人工魚礁のことも書いていますが、1970年代、撮影のライトは、船上に発電機を置いて、有線の1キロワットをつかっていました。このライトケーブルが命綱にもなっていたのです。これですくわれたことも幾たびか。
写っているダイバーは福島県水産試験場の鉄人ダイバー、大和田さんです。首からニコノスⅠ 型をぶら下げています、
なぜ、鉄人と呼ぶかというと、人工魚礁調査は秋口から冬、水が澄んでからやるのですが、天気のいい日は、遠くに蔵王連山が見えて、蔵王降ろしが吹いてくる。潜水を終えて船に上がると、蔵王降ろしの中、大和田さんは、ウエットスーツに真水をかぶって、ガバッと脱ぐ。裸の身体から湯気が立つのです。
男として本当にかっこいいので、僕も真似しました。若かったのです。半身ウエットをぬいで、水をかぶったら、身体が凍り付くようで動かなくなり、あわてて船室に飛び込んで、みんなにこすってもらいました。
2011年の東北大震災の後。これらの人工魚礁がどうなっているか、撮影することになり、小名浜にある福島県水産試験場を訪ねたおり、もう遠の昔に退官されているのですが、大和田さんの消息も聞きました。「残念なことに、まだ消息がわかりません」
洋上から視た蔵王連山、澄み切ったような遠くから吹き降ろしてくる蔵王おろし。一瞬で凍りつく身体の感覚。
そして、大津波。結びつける言葉が見つかりません。
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2024 01 21 魚の泪
http://jsuga.exblog.jp/33648736/
2024-01-21T18:42:00+09:00
2024-01-21T19:01:21+09:00
2024-01-21T18:42:53+09:00
j-suga1
グラフィティ
blogが全然書けないでいる。書く意思がないわけではない。昔のブログを読み返して、今書いているサイエンス・ダイビングの参考にしているし、昔の自分の文章、嫌いではないので,書かなくては、という気持ちも強い。でも書けない。
今書いているサイエンス・ダイビングが上手く書けていないこともあって、書けないのだろうと思う。今書いている本は、余分なことを一切カットするつもりで、blogはどちらかと言えば、余分なことなので、二つの事を同時進行させる頭の働きが出来なくなっている。
で、2007年の6月に書いたブログを再録する。
Jun 2, 2007
魚の泪
(4)
カテゴリ:本の紹介
作家の大庭みな子(おおば・みなこ)さんが、24日、(2007年の)亡くなった。76歳だった。愛読書がある。「魚の泪」「オレゴン夢十夜」「虹のはしづめ」だ。主な著作は、「三匹の蟹」「津田梅子」などで、それも読んでいるけれど、重くて読み返す気持ちになれない。僕の愛読書基準は、読み返そうとして、取っておくか否かだ。
1967年の益田さん
「魚の泪」は、伊豆海洋公園の創立者、益田一さんにもらった。文庫の奥付は、昭和45年(1970)になっているから、そのころのことだ。益田さんは、この本がいたくきにいっていたらしく、ぼくにくれて、「ぼく(益田さん)や、須賀さんは、最後はのたれ死にだからね。」といった。もらった「魚の泪」を読んだけれど、どこにものたれ死ぬようなことは書いていない。魚の泪→芭蕉の奥の細道の出立→旅→旅に死ぬ人生→のたれ死に、となるのだろうか。
益田さんは、「のたれ死に」にかなりこだわっていて、娘の潮美がパーティで益田さんと話したとき、「君のお父さんとか、僕はのたれ死にだから」と言っていた。なんのことかわからないと僕に聞く。僕もわからない。僕はともかくとして、益田さんはのたれ死ぬ方向には進んでいない。立派な仕事をして、立派な家に住んでいる。きっと、覚悟として旅に死ぬつもりだったのだろう。でも、そんな単純なことではない?
そして、益田さんは、みんなに見送られて、きっちり死んだ。(2005年没)形の上ではのたれ死にではない。一方の僕は、益田さんの言うとおりの道を歩んでいる。
益田さんのことを何も書いていない。書けば一冊の本ができるほどの思い出がある。そして、その思い出が一つも不愉快なことがない。きっと、袖スリ合った人、だれにも、いい思いを残しているにちがいない。益田さんはすごい人だと今更のように思う。
魚の泪は、「Xへ、」という書き出しで、Xへの手紙の形をとっている。
テーマはアラスカのことで、アラスカでの生活の日常をとても美しい文章で書いている。
読んでいて快い。もう一度、引き出して、読み始めている。眠る前に読むのにちょうど良い。
大庭みな子は、96年に脳梗塞(こうそく)で倒れ、左半身不随で車いす生活になった。02年には夫との二人三脚の日々や若い日の追憶を詠んだ短歌を集めた「浦安うた日記」(紫式部文学賞)を刊行して話題を呼んだ。
と訃報にはあった。浦安に住んでいたのかな、そのことも、この「浦安うた日記」のことも知らなかった。けれど読む気持ちにはなれない。
2024年1月21日 今日です。
上のブログを書いたのが2007年、そして、2013年の10月、伊豆海洋公園で、1960年代の益田さんと海洋公園の思い出ばなしをする企画を森田稔君(ダイブドリームの)がアレンジしてくれた。森田は、1960年代、海洋公園がオープンしたころ、小学生で(中学生だったかな?),鼻たれ小僧で海洋公園のプールで泳いでいた。(森田のお父さんが、立川の基地から、PADIを伊豆にもってきていた)そして、1974年の沖縄海洋博記念の長距離、森田は、フリッパーレースでぶっちぎりで速かったのだが、オープンシーだったので、ゴールへのコースをまちがえて、優勝できなかった。
ところが、僕の講演、お話し会の日、台風の接近で、海洋公園が潜水クローズになった。潜水できなければ、僕の話を聞いてくれてもいいのに、それもクローズになった。
益田さんが亡くなってから、富戸と赤沢には何度も通ったが、伊豆海洋公園に行っていない。もう行くこともないだろう。
魚の泪、もう一度読もうかな。文庫は持っているけど、字が細かい。キンドルで探してみようか。
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1223 年末雑感
http://jsuga.exblog.jp/33603892/
2023-12-23T12:10:00+09:00
2023-12-23T12:10:49+09:00
2023-12-23T12:10:49+09:00
j-suga1
雑感
今年から年賀状をやめることにしますというご挨拶状がずいぶん来る。年賀状を書いたほうが、やめますという通知をだすよりも、簡単だと思うのだが、、年賀状廃止の通知をいただく方は、みなさん、本当に律儀な方ばかりだ。律儀な方なので疲れたのだろうな、と想像する。僕などは、でたらめな性格だからつかれないで、いいかげんな賀状を毎年書いて、それで納得して、新しい年を迎えている。
だけど、賀状廃止の、なんというのだろう、挨拶状をいただいているうちに、自分も、年末のごあいさつを、メールで出そうと思い始めてしまった。
現在、執筆中の「サイエンス・ダイビング」もしかしたら、「Research(science)diving」の方が良いのでは、と思ったりしている本が暗礁に乗り上げている。その上に、「スキンダイビング・セーフティ」が3訂版になり、ある程度書き直さなければならないと思っていて、その共著者会議が、25日にある。そんな忙しさの中で、年末のご挨拶をする。そしてさらに、そのメールでの挨拶の他に賀状もだそうと、お年玉つき年賀はがきを100枚買ってきた。
心にちかっている。100枚で止めるぞ、と、でも、こちらが出さないのに、賀状を書いてくれた方には、やはり返事を書かなくては、と買い足すだろうな。
そんな、愚にもつかないことを書いている年の暮れです。
写真は、1963年に、浅井慎平さんとご一緒に、南太平洋のキリバス、のタラワに行った時のものです。別件で写真をさがしていて、このタラワの写真が何枚かめについて、そして、気になっていた写真なので、使いました。その頃のタラワというところは、と書き始まると際限もなくなります。またいつの日にか書きます。
★★★★
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1214 サイエンス・ダイビング ①
http://jsuga.exblog.jp/33586901/
2023-12-14T13:15:00+09:00
2023-12-14T13:15:18+09:00
2023-12-14T13:15:18+09:00
j-suga1
リサーチ・ダイビング
blogが本当に滞ってしまっている。
「サイエンス・ダイビング」という本を、久保彰良君と合冊共著で書いている。合冊共著、そんな言葉があるかどうか知らないが、共著というと、一緒に、相談して手分けした書く。ここまでは、良いのだけれど、共著となると、書いた後も、お互いの意見主張に矛盾がないかとか、話し合い、相談してまとめるのだと思う。その相談する編集をやめようというのだ。
ダイビングのスタイルもまったくちがう。相談して個性をころしてしまうのは、つまらないし、もったいない。
どちらも、正しいし、お互いにそれなりの根拠があって書いている。
いいとこ取りを、読者に投げてしまおう。
そんな考えが、編集者である成山堂の小野さんに通るかどうかわからないけれど、僕は「有り」だと思っている。
互いに別の分野を書いているから、意外にうまく合冊でまとまるかもしれない。
ついでにかいてしまうと、既に、書きあげている、総論その一、「サイエンス・ダイビング・70年」というブロックが、他の部分、「サイエンス・ダイビング撮影術」「ライン調査」の章と整合しないのではないか?いや、整合しなくてもいい。これは、自分の中での合冊なのだ。
そんなこんな、事で、blogがとおくなってしまっている。
僕のブログでも、何時も読んでくださっている人もおられるし、書かなくてはと筆を執った。
このあと、「潜水部70年史」というテーマで、本とは別に、blogも書くつもりにしている。
写真は、住んでいる部屋の、玄関を出たところから、見下ろした光景。
撮ったカメらは、ウエアラブル「SJ・CAM」、これは旧型で、使わないでいたものを発掘してきて、テストしてみた。現在使っている 5000型、4000型と比べて、悪くない。多分1000型か?
書いている、「サイエンス・ダイビング」の撮影術で、ウエアラブルカメラの代表格であるGoProを、僕は推していない。
GoProも現在、8と10を使っているが、8は故障中である。バッテリーを入れて、一晩おくと、電池が放電されてしまう。
僕は原則として、この手の消耗品カメラは修理にださない。壊れたときが寿命だ。
そして、GoProはなぜか、タイム・インサートが、画面にでない。画面の左下に出ているのが、タイムインサート;撮影日時だ。
GoProは、かたくなに、このタイムインサートを画面に出すことを拒否している。使わないならば、消した設定にすればいいと思うのだが、ださない。
これは、GoProが、映像を使うプロをプロだけを相手にしているという意志表示なのかもしれない。このタイムインサート表示が入っているとプロが、テレビ放送などでは使えない。スタジオでの録画でもつかわない。編集できない、前後の入れ替えが不自然になってしまう。繋げなくなってしまう。GoProもタイム設定はするが、それは、プロパティでみる。画面にはない。
一方で、サイエンス・ダイビング、水中調査撮影では、タイム・インサートは、必需ともいえる。記念撮影でも単発で使う場合には、これがあると、何時のことかが証明される。ただし、撮影行為に入る前、一日に一度は時間が正確か、チェックしている必要があるけれど。
そして、その価格だが、現在のSJ・CAM 5000が1万3千円である。GoPro一台の値段で、3~5台買える。水中調査撮影のカメラは消耗品である。
絵がそこそこきれいで満足でき、丈夫で、捨てても良い。そして、タイムインサートが、できる。
なお、SJと並ぶカメラにAKASOというのがある。これは陸上のカメラとしては面白いのだが、水中で撮影した時に、水の色が、SJの方が、本当っぽく見える。本当の水の色は、わからないが。なお、この価格帯のカメラで、「水中」という設定にすると、水の色が赤茶けてしまう。赤いフィルターを使う人もいるけれど、僕は着けない。 SJ・CAM 5000
AKASO 7000 PRO
GoPro 10 下も
真面目にテスト撮影をしての結果ではない。この手のカメラは、設定によって全く別のカメラになってしまうし、真面目にやったところで、この価格帯のカメラは,ばらつきが多くて、骨折り損になってしまうだろう。
まあ、GoPro10がきれいに見えるが、SJが、安くて捨てても惜しくなく、タイムインサートが入り、それなりの満足が得られる。消耗品としてのカメラとしては、SJでいい。
※ なお、ウエアラブルカメラを使った水中調査撮影は、すべて動画で撮り、動画から、PC上で、静止画を切り出す。上記の映像もすべて、その手法で取り出した。
なお、今日12月14日、お台場の撮影調査のワークショップをやるが、ウエアラブルカメラとして僕は、GoPro10、GoPro8 (故障しているが、だましだまし使っている)SJ5000 を使っている。
次回、12月の調査で、SJと AKASO GoPro10 を並べて設置撮影で、使って見る。
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1013 NHK カメラマン(南方さん)
http://jsuga.exblog.jp/33488060/
2023-10-13T20:22:00+09:00
2023-10-13T20:49:14+09:00
2023-10-13T20:22:38+09:00
j-suga1
グラフィティ
ここに、「NHK潜水撮影の半世紀」という手作りの冊子がある。NHK水中カメラマンの小口順吾氏が平成13年(2001)にまとめたものだ。
大事に本棚のいつでも取り出せる位置におさまっている。取り出すことなど無く、今、これを書こうと取り出したところだが。ありがたいことに、僕の名前も後書きに「NHK潜水撮影班誕生に一方ならぬご支援をいただいた須賀次郎氏」と書いていただいている。1967年、日本潜水会の誕生に、河野祐一さん、竹内庸さん、に加わってもらい、こちらの方こそ一方ならぬ力になり、NHK水中撮影班はその中心になるメンバーは、日本潜水会の会員、指導員にならなければならない、ときめてもらった。
今、河野さん、竹内さんとかいたが、「河野、竹内」と呼び捨てにするほど親しく、生涯の友達だ。最近会っていないけど。
だから、1970年代のNHKのカメラマンのほとんどとは、いっしょの釜の飯を食った仲間になった。
その日本潜水会を設立した頃、僕はプロのテレビカメラマンではなかったが、その後、僕も撮影を生活の糧にするカメラマンになり、なんとかがんばって彼らに対抗してきた。 たった一人の自分、相手は大組織、最後は力尽きてしまったが、水中にVTRを沈めたのは僕の方が先だったし、水中からの生中継も競り合った。
友人としての彼らとの交流は、NHK水中撮影班外伝になるほどのものだ。中で仕事の上での雁行していたのは南方盈進さんだ。
ここでは、南方さんのことを書くことにする、
僕がをNHK仙台の制作の龍泉洞を撮影し、高視聴率をとった後、南方さんは、それに負けじと山口県の秋芳洞で新洞発見にくわわり撮影、放送した。龍泉洞が新洞を発見できなかったのにたいして新洞を発見している。
日本初のトライアスロンの撮影をしていた時、宮古島のホテルでばったり会った。二人で鍾乳洞の話をした。彼は僕の撮影を見て研究してくれたそうだ。
浦賀の沖で、大型釣り船の第一富士丸が潜水艦と衝突して沈んだ。南方さんは現場に駆けつけて、水深56mに沈んでいる第一富士丸を撮影した。流れも無く穏やかな天候で上手く撮れていた。このNHK放送の直後、電話がかかってきた。テレビ朝日の報道からだ。
すぐに現場に出動しろとの依頼、いや命令だった。ニュースステーションの水中レポートシリーズで世話になっているから仕方が無い。気が進まなかったがとるものもとりあえず、出かけた。
南方さんが特ダネぬけがけ水中撮影をしたおかげで、民放各社、新聞社のカメラマン、及び、僕のように、縁のある局や新聞社から狩り出されたダイバーカメラマンが出張っている。もともと、海上保安庁は潜水を許可するつもりは無かった。そこに、まさかと言う形で南方さんは無許可で、撮影してしまった。
南方さんは、バリバリの報道のエースカメラマンだった。おだやかな人だったが、鋭い。命を張るときにはためらわない。これは、本当の特ダネで、各社は抜かれた。保安部も、そうなると各社にも許可しないわけには行かない。
僕たちに許可された時間は午後になってからである。午前中に現場に入り、テレビ朝日がチャーターしている船を見に行った。
「嘘だろう」と言うような船がそこにあった。中型のタグボートだ。タグボート、すなわち曳き舟でエンジンの塊のような船だ。一般には、タグボートのいる水面にダイバーが接近するのは厳禁だ。そのタグボートから潜れという。
ダイバーの心配は、潮に流されることだ。富士丸の沈んだ浦賀水道は潮が速い。小回りの効くボートで拾ってもらいたい。なんとかしてもっと小さい漁船をやとってくれるように頼んだ。急には間に合わないという。すぐに会社のゴムボートを持ってくるように連絡したが、これも届くのは夕方であり、午後には間に合わない。
とにかく午後になり潜る時間が来た。第一富士丸が沈んでいる位置を示すブイが浮いている。
各社の船が集まっているので、ブイの上に船を着けることはできない。ずいぶん離れたところから発進して泳いで行かなければならない。
このタグボートはシュナイダーの推進器だと言う。後ろにスクリューは無く、船の中心部に垂直に船底似付いているタービンのような回転軸が縦に回転する方式で、前後左右に自由に動くことができる最新式の推進器だ。ダイバーが水に入る時には、推進器を停止するのが絶対のルールだ。一つ間違えば、ダイバーはひき肉になってしまう。が、船長は推進器を止めるわけには行かないという。沢山の船が集まっているところでアンカーも入れずに推進器をとめれば、流れもあるし、たちまち衝突してしまう。それはそうだ。
シュナイダーのペラに吸い込まれて、ミンチになる自分の身体を想像した。船長は大丈夫だという。普通のスクリューだったら危ないが、このシュナイダーならば大丈夫だ。人を吸い込んだりしない、撥ねだしてくれるという。嘘だろうとおもったが、信じるしかない。
一緒に潜るアシスタントの田島雅彦は、スガマリンのスタッフの中で最も筋肉の強いダイバーだ。一緒に船から飛び込んだ。飛び込んだとたんに流された。2ノットはある。若いころだけど、全力で泳いで、止まっていられる状況だ。ちょっとでも泳ぐ力を弱めれば、流されて行ってしまう。とても目標のブイまでは泳げない。すぐに助けを求めた。救命浮環にロープをつけて投げてくれた。潜水するどころか、ブイに接近することすらむずかしかった。シュナイダーを廻して、船が近づいてきて揚げてもらった。なるほど、吸い込まれなかった。
他の局はどうだろう。港で顔を合わせて雑談した中村征夫は漁船で出てきていた。船の小回りがきくからブイの傍まで行けるはずだ。潜れただろうか。見ていると全員バラバラに流されて拾うのに難儀をしている状況で、征夫も流されている。だれもブイにたどり着いていない。
南方さんが潜ったときは潮止まりだった。海上保安庁は取材ダイバーを殺すつもりらしい。アンカーを入れないで何艘もの船が行き来している只中に、2ノットの流れの中にダイバーをばら撒くなんて。
しかし、危ないから取材を禁じようとしているのに、強引に頼み込んでいる。文句は言えない。
危ないからこれで終わり、と言うのは遊びの世界だ。プロは逃げ帰るわけには行かない。
ゴムボートが夕方に届いた。夜陰に乗じてゴムボートで接近して潜ろう。どうせ、浦賀水道の透明度で、50mの海底は昼でも闇だろう。ライト無しでは潜れない。闇ならば昼間も夜も変わらない。9時に潜れば、10時から放送のニュースステーションには間に合う。
潜る仕度をした。テレビ朝日の西村カメラマンが来ている。彼は潜水もする。田島は西村さんのアシスタントでサイパンの洞窟に潜ったこともある。こんなことに命を賭けるなんて馬鹿馬鹿しいと西村さんに引き止められた。
第一富士丸は既に引き上げのワイヤロープが取り付けられている。明日は引き上げられてしまう。水中撮影はできない。明日、水面に姿を現すのだから、水中撮影する意味は全く無い。しかし、とにかく水中に船がある時に撮影しなければ、水中カメラマンの仕事としては失敗だ。
テレビ朝日の報道と電話連絡をとった。「映像は欲しいが、無理をしないでくれ」という常識的な答えが返って来た。
港には、スガ・マリンメカニックの元チーフダイバーであり、チーフカメラマンであった新井拓が居た。彼はオートバイライダーであり、片岡義男の小説に出てくるような、よく言えば自由な、悪く言えばでたらめな男だ。彼との付き合いで、小説が書ける。でたらめだったから、会社を辞めさせた後でも、ずっと仲良くしていた。
彼は日本テレビのカメラマンとして来ていた。「骨は拾ってやるから、とにかく映像を撮って来い。と言われたから行くよ。」彼は夜陰に乗じて出て行った。
さて、自分の方だが、早朝に勝負をかけることにした。ゴムボートを降ろし、田島とアシスタントを乗せて、ブイに向かわせる。自分は、タグボートに乗っていてゴムボートを降ろした後、タグボートは別の方向に向かう。フェイントをかけたつもりだ。鳥が自分の卵を守るために別の方向に逃げるようなものだ。こんな簡単な作戦に海上保安庁が引っかかるとは思えないが、無許可だから、とにかくやってみた。
海保は、大目に見たのか無視してくれたが、吊り上げ準備をしたクレーン船の上には何人もの人がいる。ゴムボートが接近したら、注意されて追い払われる。
最後まであきらめない。引き上げのクレーン船は深田サルベージの船だ。深田には後輩のダイバーが何人か居る。現場監督で来ているかもしれない。双眼鏡で覗いてみた。
船上で指揮をとっているのは、大学の後輩の横尾君だ。横尾君は東京水産大学最強の男で、新制大学空手選手権の優勝者で、町で喧嘩を売られると、嬉しくて笑みがこぼれると言う奴だ。
船舶電話で横尾さんを呼び出し、事情を説明し、10分間だけ目をつぶって潜らせてくれと頼んだ。
ようやく富士丸の水中撮影ができた。直ちに映像信号を飛ばし、朝6時のニュースからこの映像が流れた。富士丸が水面上に姿を現したのは、次の日で、僕たちの撮影した水中映像はその日一日テレビ朝日のニュースで使われた。
南方さんが富士丸のスクープをやらなければ、危険な目にあわなくても済んだのだが、負けなかった。夜陰に乗じて出港した4チャンネルでは、ついに水中の映像は流れなかった。自己防衛反応の強いプロダイバーである新井拓のことだから、骨を拾ってもらうようなことはしなかったのだろう。そのくせ、ギャラは僕たち以上に取ったにちがいない。
撮影の日の夕方、空腹状態になり、その夜にも海に出るつもりだったので、水中撮影チームで、ラーメンと餃子を食べた。その請求書をテレビ朝日に廻したところ、ロケの弁当が出ているのに、それを食べないで外のラーメンを食べたのだから認められないと言われた。文句を言って認めてもらったけど。
さらに年月が過ぎ、僕は大型の展示映像の撮影が主な仕事になっていた。葛西水族園の3D立体映像の企画コンペでは伊豆の海、サンゴ礁の海、そして知床の海を提案して3連勝した。網走流氷館のクリオネもとった。コンペでは、ほとんど連戦連勝していた。
次に福島県小名浜の大型水族館の映像コンペがあった。テーマが決められていて、「親潮と黒潮」だった。僕はビクターからカメラマンとして立てられたのだが、同時に、イマジカの企画も僕をカメラマンとして立てていて、二つのところから、カメラマンの申請がでていると、苦情っぽいことを言われたが、無理に通してもらった。が、NHK関係のプロダクションに負けてしまった。これ以後は大型映像の仕事はなくなっている。
南極の南方さんと河野、南方さんに写真はこれしかない
ケラマに内輪のお客様をつれてツアーに行った。ケラマに行くダイバーだったら誰でも知っている、港の出入り口の建物、円形階段を登った二階にある座間味食堂で昼食にヤキソバを食べていた。ここのヤキソバがとても好きだ。
そこに南方さんが入ってきた。やあ久しぶり、椅子を移して、二人で向かい合って雑談した。彼は、僕がコンペで負けた親潮と黒潮の撮影に来ていたのだ。南方さんはNHKを停年退職し、NHK系列の子会社のプロダクションに移って、そこからカメラマンとして立っていたのだ。
最後まで、私たちの企画とNHK関係の企画が残り、最終的に南方さんたちの企画に決まったのだが、こちらが勝っていたら、トカラ列島で黒潮を撮り、次第に北上して三陸沖を撮るつもりだった。南方さんのチームも同じような撮影だったのだろう。
夏のケラマで南方さんと会い、そして秋、南方さんが亡くなったと知らせが入った。下田の先の神子元島で撮影中にダウンカレントに引き込まれたと言う。ダウンカレントとは、ダイバーが海に引きずりこまれる潮だ。要するに渦巻だ。鳴門の渦潮もダウンカレントといえるかも知れない。
僕もテレビ朝日のネイチャリングスペシャルをトカラ列島で撮影していた時、引き込まれそうになった。自分の吐き出した気泡が下に向かい、そのままずっと深い下の岩の間に引き込まれて行くのを自分の眼で見た。
ニュースステーションでは、与那国で潮美と一緒にハマーヘッドを追っていたダウンカレントに引き込まれたが、ケーブルで船と繋がっていたので、船を基点として、コンパスで円を描くように水面に押し上げられた。急浮上だから、減圧症化、空気塞栓になる危険はあったが、とにかくケーブルに救われた。
南方さんは、潮に引き込まれ、潮から脱出して急浮上した。BCDも一杯に膨らませて、おそらくは肺の圧外傷で、即死状態だったと聞いた。それでも彼はカメラを手放してはいなかったそうだ。一緒に潜っていたガイドは行方不明になり遺体も上がらなかったと聞いた。
通夜があり、NHKと僕らをつなぐ絆であり、NHKのカメラハウジングを作っている後藤道夫もそして、NHKのカメラマンも皆集まった。これからは、お通夜が日本潜水会の同窓会になるね、と話し合った。とても悲しいことなのだが、だれも悲しそうな顔をしてはいなかった。皆心のどこかでうらやましいと思っていたのだろうか、宿命だと思っていたのだろうか。浦賀の第一富士丸でさきを 越されたように、これも彼に先を越されてしまった。かっこよく死んだ、
NHKの古いカメラマンの一人一人について、南方さんと同じくらいの交流と、思い出がある。みんな生命をかけて映像を追ってきた。口先だけでなく本当に命を張ってきた。競争相手なのだが、彼らと競っても、不愉快な思いをしたことがない。ダイバーとしては私が先輩だが、カメラマンとしては彼らのほうが先輩だし、残念ながら向こうの方が撮影は平均して上手だ。彼等は基本の撮影術を身につけているし、こちらは、適当に自分の感覚だけで撮って来た。それでもときどき、僕の映像を見て褒めてくれる電話をもらうことがあって、それは、とても嬉しかった。
南方が亡くなったのは、福島の小名浜のアクアマリンの撮影、アクアマリンの開館が2000年だから、死んだのは、1999年か
後藤道夫が亡くなった同窓会は2014年だった。
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1004 お台場9月24日調査
http://jsuga.exblog.jp/33473933/
2023-10-04T12:02:00+09:00
2023-10-05T13:39:19+09:00
2023-10-04T12:02:50+09:00
j-suga1
未分類
マハゼ
この前、お台場水中調査報告のblogを書いたのが5月15日、月例210回だった。
そこで、最近の概略を書いている。
その後 6月 10 日に港区ふれあい財団主催のクリーンアップが行われ、11 グループ68名を集めて、自分的には大成功だった。
大成功というのは、もはや、お台場水中には拾うゴミなどないと思っていたのだが、以外や以外、調査のD ラインはまた、ゴミの収斂するラインでもあった。
このD ラインを海洋大学潜水部にマスクマウントを着けて撮影しながら作業させた。この中で、3年生の田中君の撮った映像がとても良く。「これがお台場の水中清掃だ」というプロモーションに使えるほどで、各所に送って、喜ばれた。そしてまた。海洋大学潜水部とマスクマウントのワークショップをやる引き金にもなった。
このワークショップも、自分的には成功で、海洋大学の先生らに録画を送って喜ばれ?た。
その6月は、まだ、撮影が成功するほどの透視度があったのだが、7月は赤潮状態で、透視度は30cm以下。この7月23日には、この日以外は僕が潜るチャンスはないだろうと、潜ったのだが、何も見えなかった。
そして、8月もなんとか潜って、長時間を過ごしたが、7月よりももっと悪かった。
☆そして9月24日
10月14日、15日に「東京湾大感謝祭」という、イベントがあり、このイベントに毎年、動画の公開など、何かを出品、出展してきた。一度などは、写真展までやった。(清水まみ の写真;)
その「大感謝祭」に動画を出したい。また、その中で行われるシンンポジウムにポスター展示も募集している。この大感謝祭関連の展示を元東京都環境局の風間真理さんが、後押しと言うか、全面的に仕切ってくれている。ありがたいことで、それに甘えている。手続きとかいろいろめんどうで、僕にはそれに関わっている時間がない。
その大感謝祭向けの動画、ポスターの写真を、この9月24日、一日に賭けることにした。もしも撮れなければ、ストックから、「お台場のこれまでについて、」の発表にならざるを得ないが、「お台場now!」
を9月24日に撮りたい。
折悪しく、僕は気管支喘息がひどくなって、水に入れない。まあ、ディレクターをやれば、そのほうが、みんなの負担にはならないのだが。
参加メンバーは、中心の多留さん、尾島夫妻、山本徹、小林正浩 三ツ橋知沙、山田、臼島コンビ 毎月のチームだ。
★計画と経過
ラインCの山本さんへのリクエストは、もう少し、移動速度を緩く、10mの目盛りごとに10秒程度の静止、撮影距離も透視度に応じてもっと近く、撮影距離20cmでも良い。海底をシャープに撮りたい。
ラインDの小林さんへのリクエストは、ラインDはいつも通り、その上に、ラインCを撮っている山本さんの姿を撮ってもらいたい。ポスターに使いたいので、という盛りたくさんのお願いをした。
ラインと設置カメラの位置 概略図
設置カメラは、円筒の12時間継続撮影かめらに、水中ライトをゴムバンドでとめた。
設置位置は、わかりやすいところに、そろそろ、定点を決めよう。Dラインの上に一台、山本さんに一台設置をお願いする。上がる時に撤収で良い。
設置した周辺を別カメラで撮ってもらいたい。
尾島雅子ママは、南岸の砂浜の展望台の内側に行く予定なので、とにかく魚のスポットをいつも通りに撮る。三ツ橋は、目的としている海草がまだ生えていないので、SJ5000ウエアラブルカメラを渡して、雑感的に何かめについたものを撮ってもらうようにお願いした。
上がって来ての報告では、水深1。5mまでは透視度Ⅰから2mあってよく見えるが、ラインCの10mから先は硫化水素で白濁して何も見えない。しかし、その白濁との層ははっきりみえる。それが撮れていればOKだ。あくまでも事実の記録なのだから。
南岸へ行った尾島グループは、時間がながくかかり、北岸グループは10時エントリーの12時上がりで、あったが機材を片づけ終わって、15時になってももどってこない。15時45分もどってきた。成果はあったらしい。
★撮影結果
①ラインD 小林正昭撮影
カメラが水に入る前に、岸の状況をパンして位置を確認して水に入る。このパンが良かった。鉛に巻き尺のラインを結びつけた基点は岸から8mほどだったが、すぐにマハゼがとらえられた。
カメラはマハゼを追うのではなく、ラインをフォローして行くが、それにマハゼが写り込む。
回数をかさねて、ライン撮影が上手になっている。
カメラが少しふらつくが、見苦しくはなくい。
巻き尺の陰に帯状に微細なイサザ類のプランクトンが見える。巻き尺もプランクトンにとっては、陰の魚礁効果があるのだ。巻き尺をある程度の時間引いておけば、それにマハゼも集まるかもしれない。
カメラは巻き尺を写し込んで進んでいく、移動の速度、撮影距離藻、良い。
設置した設置カメラのA が写る。マハゼが点々と写る。ラインDの基点から20mが、砂地に付くマハゼのポイントなのだ。転石の磯場の状況もわかる。転石の上に、10尾ほどマハゼが集まっているポイントが写った。これは静止画を抜き出して使える。 D ライン上のマハゼの群
なお、この調査撮影は、すべて、動画で撮っている。報告書、SNSにはこの動画から抜き出す静止画を使っている。今度、ポスターに使う写真もすべて、この動画からの抜き出しを使う。
以前は、ポスターに使う写真は画質の良い大判カメラのスチルを使っていた。今でもここで使っているウエアラブルカメラ、小林さんはgo-proは、画質では劣る。しかし、シャッターチャンスは二度とない。動画からの抜き出しスチルは、チャンスを逃がさない。
例えば、ラインの上に、マハゼが10尾群れている。それを見てライン撮影の動画カメラを置き、スチルカメラを持ち替えていたのでは、マハゼは笑って逃げる。
しかし、ウエアラブルカメラの動画からのスチルの画質は悪い。チャレンジだ。もちろん、ポスターの写真は、きめ細かく、美しいに越したことはない。しかし、今度作るポスターの目標・コンセプトは、お台場の状況説明、お台場水中の美しさの説明もしたいが、美しさがポイントではない。
赤潮の濁り、硫化水素の白濁、無酸素に耐えて生き抜く、生態系のたくましさをみせたい。画像は粗くとも、かまわない。
基点からおよそ80mのあたりで、直角に沖に、お台場の中心に向かって引かれたラインが、Cラインだ。ついでに、対岸の繁華な砂浜、展望に突き出しラ突堤の内側にラインAを設定したが、このあたりをスポット的に撮影している尾島雅子ママがラインをひかないので、そして、やはり、展望台に遠慮があって、ラインがない。このあたり、一帯と言う感じである。そして、お台場プラージュ(海水浴)が行われる東岸が、ラインBだが、ここは、一回しかラインをひいたことがない。同じ場所、できるだけ同じ位置を月例で撮影調査したいので、C、Dが定着している。
ライン撮影中の山本さん
ラインCの山本さんのダイバー姿は、なるほど、硫化水素の白濁で、よく見えないが、動画としては、迫力がある。
総じて、今回のDライン、小林さんの映像が発表する動画として、わかりやすい。良かった。
②ラインC 山本徹撮影。
ラインに特に近寄って、海底を克明に撮った100m、いつもと同じ視点、40cmほどライン上方から撮ったもの、二通りを撮ってくれた。
特に接近した方は、やはり、移動が少し早く、ストップをかけないと、シャープに見られない。しかし、シャープに、硫化水素を同化している硫黄細菌の皮膜が撮影できている。
いつもと同じ、距離の方は、安心して見ていられる。どちらかというと、接近しているほうが、バクテリアマットが多いようだ。位置の差はさほどないはずだから、視点の違いで、印象がちがってしまう。
山本さんは、8月よりも、バクテリアマットが発達していると言っていたが、バクテリアマットが濃いのは、覆砂が行われていないか、薄い、磯場から20mほどの範囲であり、Cライン100mの60ー70mあたりから先は、覆砂の砂粒が表面にでている範囲が多い。
総じて、覆砂プロジェクトは成功したと見ている。
残念なのは、覆砂前のこの部分でライン調査をしたことがなく、いちどだけ、ラインはひかなかったが、この位置を2018年に撮影した動画がある。それと比較すれば、大きなちがいがわかる。
そして、覆砂が行われてからの推移は、撮影しているが、ヘドロが表面に出てきている部分もあるが、おおむね、安定している。
③設置カメラ
山本徹さんが設置してくれたDラインの延長線上、ラインEと呼ぼうとしている。中間点、木材、沈木の手前においたカメラが大成功だった。
沈木②は、魚礁効果があるのでは、とこれまでも、注目していたのだが、これといった魚をあつめていなかった。
今回は、ポスターのメインにしたコノシロの群が、沈木丸太の上を何度と無く往来した。
小林正昭さんの置いた、Dライン、基点近くの設置カメラにも、この群が写っている、ということは、お台場全体を覆うような、よほどの大群なのだろうか。
これまでも、この魚群、なんだかわからない大群がいることは、遠目に見ていたのだが、魚種がわかるほど接近できなかった。
今回も、サッパなのかコノシロなのか迷ったが、多留さんに見てもらって、コノシロとした。
コノシロは、寿司たねのコハダである。
江戸時代から、コンスタントに東京湾奥の江戸前に群れていて、比較的安定した漁獲が続いていたと「東京湾の魚類 河野博」に記されていた。本当の江戸前(特産)の魚なのだ。
④尾島雅子
南岸、Aライン(仮想)マハゼの群も撮れているが、ラインが写っていないので、場所はとくていできない。 ツバクロエイ
特筆するのは、ツバクロエイ、マゴチ、であるが、マゴチは、もう少し接近してほしかった。
その他
シマイサキの幼魚
大型のハゼであるウロハゼ
カニの類はイシガにが、南岸でも北岸でも撮れている。
④三ツ橋
観察対象としている海草がまだ出てこないので、手持無沙汰だろうと、カメラ、SJ5000 を紹介したのだが、先月水没させてしまった。僕のSJを持って行ってもらった。
マハゼの群は、とても良かったけど、小林さんのラインが写っている方をポスターに使う。このブログのトップのマハゼは三ツ橋の撮影から取り出したもの。
大型のヤドカリも撮っている。お台場で初めて見る。図鑑、参考書で調べたが、名前はわからない。多留さんに教えてもらった。「コブヨコバサミ」浦安三番瀬には多く見られるらしい。干潟のヤドカリなのだ。お台場でも、浅い干出するようなところにいるのだろうが、何かのはずみでダイバーの守備範囲にでてきた。
★成果発表
9月24日撮影の動画をつないで、8分ほどの動画を作り、まず、ポスターのアレンジをお願いしている風間さんに送った。
本当に粗い繋ぎなので、後ほど編集しなおすよてい。
①小林正昭さんのDライン基点から、マハゼの群、
②Cラインを撮るダイバー。硫化水素の白濁、③Cラインの海底、③沈木設置カメラの映像、マハゼ、コノシロの群、の順で繋いだ。
お台場に潜って行くような臨場感があってわかりやすい映像になった。
多分、大感謝祭で映写展示できる予定。
10月13日には、東京湾大感謝祭に先立つシンポジウムが開催され、そこにポスターが発表できる。風間真理さんにアレンジをお願いして、ポスターも作ることができた。
以下がポスター原稿であり、この原稿を含めたポスターの製作も風間さんにおねがいした。
重ね重ね、ありがとうございます。
ポスター原稿
ポスター
【お台場海浜公園2023・江戸前の片鱗をみせてくれた。】
1 沿革
1996年:クリーンアップ活動【港区ふれあい財団・海上保安部】を契機に調査活動を開始し、2011年からは月例になり、218回を数える。2019年からは、覆砂の効果をみるべく、ライン調査を行い、撮像データを東京都港湾局に提出している。ライン水中撮影調査の習熟、新しい設置型カメラの開発使用で現時点での最高レベルの撮影調査ができると自負し、長期間(100年)継続を目指す。
2 2023年の調査結果
お台場水中調査は、メンバーそれぞれが目標を設定して行っているが、ここでは、覆砂の変遷効果を追っている、
2023年は、7月、8月と赤潮で何も見えなかった。9月、ラインC部分に硫化水素の発生があるものの、生き物の力強い跳ね返しで、砂地にはマハゼが群れ、設置カメラに写る中層にはコノシロの大群、クロダイが往来し、ここに写真は示さないが他に、ツバクロエイ、マゴチ、シマイサキ、ハゼの類(チチブなど)多数などを撮った。
【メンバー】
尾島智仁(運営;海洋測定調査 底棲生物)尾島雅子(魚類、スポット撮影)、風呂田利夫(研究指導)多留聖典(研
究指導 底棲生物)山本徹(ライン調査C)小林正昭(ライン調査D)清水義昭、三ツ橋知沙(海草 科学未来館)山田
康和:臼島多美子(底棲生物)依田浩太郞(バクテリアマット 東大大学院)杉原奈央子(貝類 バクテリヤマット 海生
研)小林和貴 深谷真央 東京海洋大学潜水部(撮影訓練)須賀次郎(責任者 日本水中科学協会代表理事)
まとまりのないblogになってしまったが、自分にとって、blog=自分のログ、記録なので、
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1002 「河を渡って木立の中へ」
http://jsuga.exblog.jp/33471437/
2023-10-02T12:23:00+09:00
2023-10-02T12:23:30+09:00
2023-10-02T12:23:30+09:00
j-suga1
book・映画・テレビ
Across the river and into the trees.
「河を渡って木立の中へ」ヘミングウエイの1952年、彼の終わりのころの本のタイトルだが、この小説、文庫本に入っていない。
この小説、死を間近にした小説家が、若い女性にプラトニックな愛を持つ筋書きで、ヘミングウエイのことだから、それが現実とも重なり合っていて、そのことが、この本の版権を持つ最後の夫人、メアリーの気に入らなくて、版権を売らないのだという。ということで訳書が文庫になっていない。そんなことらしい。昔、三笠書房の全集の普及版をもっていて、それには、収録されていて読んだのだが、ヘミングウエイらしい、悪くはないなと思った。
それでも、ヘミングウエイは好きなので、収録されている全集を図書館で借りたが、訳文が気に入らず、放り出してしまった。
訳文と言えば、高校三年の時、「老人と海」を翻訳した。時の高校の英語の先生、織家先生は、後に防衛大学の先生になった優秀な先生で、バスケット部の顧問だった。その織家先生にすすめられて、夏休みに訳した。自分としては自信があったのだが、先生に「こんなものは、訳ではない」と怒られた。創作だったのだ。どこかになくしてしまったが、惜しいことをした。
ヘミングウエイで繰り返し読んだのは、「移動祝祭日」、移動祝祭日って何だ?
「もし、幸運にも若者の頃、パリで暮らすことができたら、その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。」
アーネストは本の冒頭でかいている。
ヘミングウエイの最終作?で彼の死後発表された。そんな思い出話のパリの話だけど、好きだ。
僕がパリに行ったのは、一泊二日、通り過ぎただけで、ルーブルに行き、セーヌ河畔を歩いて、古道具やをのぞいて、ベトナム料理を2回食べた。本当に「移動」祝祭日だ。でも、パリはパリで、心についてくる。
ヘミングウエイと言えば「釣り」だけど、僕は「釣りはやらない」やや、かたくなに釣りはやらない。なぜやらないか、それを話すと、ダイビングと釣り、漁、水産のあるべき姿、と長い話になるし、まだ、結論はでていない。でも釣りは悪い趣味ではないと思ってはいる。
そして、「ヘミングウエイ釣文学全集」これには、晩年のヘミングウエイがエスクワイヤに連載した「キューバ通信」が、載っている。
キューバ通信の中で僕が好きなのは、「モロ沖のマーリン」「海流に乗って」「青い海で、」などで、短編なので、図書館で借りて、コピーして持っている。
話は跳ぶけれど、宮本輝「ひとたびはポプラに伏す」講談社文庫、全6巻を書棚に残していた。
作家の書いた旅行記、随想のような紀行文が僕は好きなのだ。前述のヘミングウエイ「移動祝祭日」もその類だし、村上春樹のこの類は、手に入った全部を読んでいるし、書棚にのこしてもいる。村上春樹も、小説は60歳以降には、読んでいない。考えないとわからないから。
その宮本輝の「ひとたびは、ポプラに伏す」は、西安から、トルファン、カシュガルを抜けて、イスラマバードへと、シルクロードをたどる旅だ。宮本輝も、小説はめんどうな作家なのだが、これは、楽しんでじっくり読んだ。1990年代後半の中国からパキスタンへのシルクロードが、どんな様子、どんな途なのか、感じることができる。
その中に、「河を渡って木立の中に」という章がある。クチャを抜けるあたりの章だ。
その文で、この言葉は、アメリカ、南北戦争の時、南軍のリー将軍が、突撃の前に、つぶやいた言葉だということを知った。
そして、ネットで調べたら、リー将軍の片腕だった、ストーンウォール・ジャクソン将軍の死の突撃の前に口にした独白だったとも書いてある。どっちでも良いが、とにかく南北戦争の時の言葉だ。
宮本輝は、人によってそれぞれ、様々な木立があるのだと書いている。
終着点「死」も木立というと、やすらぎのように感じる。
「三途の川」などと言われると渡りたくない。こちら側にのこってしまいそうだ。
と、これは、84歳の時に書いたものだ
今、
毎日、河を渡るような日々を送り、木立に近づいていきつつ、リライトした。
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0907 種市高校海洋開発科訪問。プライマリーコース紹介
http://jsuga.exblog.jp/33431310/
2023-09-07T17:26:00+09:00
2023-09-07T23:37:25+09:00
2023-09-07T17:26:11+09:00
j-suga1
ダイビング運用
種市丸40トン、理想の潜水作業練習船だ。
8月31日、午前700出発、岩手県 八戸に近い、種市にある種市高校海洋開発科に向かった。
久保彰良君が運転する「レクサス2500cc」に乗せてもラって行く。僕はもう運転はしないから、彼が全部運転しなければならない。
自分の体調は、決して良くならない。体調が良いと感じることは、自分の身体が記憶しているせめて80代前半の記憶だったとすれば、自分が若返ることはないのだから、もどることもない。しかし、リハビリテーションでどこまで、筋力が回復するか?がんばってはいるが、一日に3000歩歩くとして、それは毎日ジョギングをするくらいの負荷に感じる。
しかし、これを逃したら種市には行かれないで、人生をおわることになる。予定通り、思い切って行くことにした。もしものことがあれば、久保さんにはたいへんなご迷惑をかけるが、「浮き世の義理だ」
東北道の枝分かれはしているが、端から端まで、何キロだろう。
困ったことに、最近食欲がない。空腹にはなるのだが、食べたいものがなく、苦労して食べる。「長者原SA」宮城県仙台の少し先、中尊寺の手前で、昼食にした。「みぞれそば」というのを食べた。もりそばを皿に入れ、みぞれと言うのか、なめこの粒々の佃煮のような汁をかけたもの、これが、なかなかおいしかった。このところ、おいしいと思ってものを食べたことがなかったから、ちょっとうれしかった。
およそ8時間走って、15時ごろ到着。
ホテルはグランパークホテル八戸、すべて、久保さんにおまかせだから、どういう位置づけのホテルかわからないが、あるべきものはすべてある。なかなか快適なホテルだった。毎日、3000歩あるくと久保さんに話しているので、「少し歩きましょう」と夕暮れの街に食事にでた。街に車で入ったときは、がらんとした何もない、シャッター街のような街の印象を受けたが夕暮れの酒飲みのハッピーアワーになると、それなりにハッピーな街になる。飲み屋横町のようなところに入ったが、久保さんは下戸、僕は60歳で完全禁酒にしているから、入る店がない。それでも、カウンターではあるものの、酒を飲まなくても許してくれそうな、「鯖の駅」と言う鯖専門の店に入り、鯖寿司を食べた。大きな寿司で、一口では口に入らない。ほぼ総入れ歯の僕は、食べるのに苦労、形を崩して食べたが、鯖はおいしかった。食べた後で検索したら、かなりの有名店だった。
種市は、岩手県九戸郡洋野町、検索しても漁港がありウニを採っているとだけ書かれていて何もない町だ。種市高校海洋開発科は、世界に誇れると、僕は思うのだが、ウィキペディアで見てもでてこない。もっとも、学校、高校は名所旧跡にはならないから、しかたがないが。 種市高校海洋開発科、校舎、この中に潜水プールも教室もすべてがある。
八戸から車で30分ほど走った海辺に種市高校海洋開発科はある。校門があり、運動場があって、教室校舎が立ち並んであって、その中に、潜水プールがあるというのが、潜水プールのある水産高校・海洋高校のパターンだから、ここもそうかと思っていたら、門らしい門もなく突然にプールを内蔵した校舎があり、教室があって、廊下があり、廊下の引き戸を開けると、プールがある。これには、何となく感動した。感動したので、教室の並びの教室として、水深10m、5m、2mのプールがあり、そこを歩いていくカットを何回も撮った。
教室の後ろの壁面のガラスケースにハードハットのコレクションが飾ってある。完璧なコレクションで、じっくり見たかったが、撮るだけにした。
コレクションを使って学生が潜ることは、ないのだろうが、プールサイドには、カービーのバンドマスク2台とダイブウエイズとマンテイスフルフェースが棚にのっており、これはつかっているのだろう。
ここの実習の売り物は、「南部潜り」ヘルメット式潜水だ。置いてあるヘルメットのすべては、東亜潜水機製で、東亜潜水機:南千住のネームプレートが貼られている。ヘルメット式は過去の遺物とまでは行かないが、伝統的な潜水器で、習得が難しい。これを潜水の基礎として習得できるのは、世界でここ種市だけだ。
僕は、1958年に東京水産大学を卒業し、この東亜潜水機に入社して、スクーバ部門を立ち上げたが、1969年に退社した。この東亜潜水機で、人となった。足を向けて寝られない、お世話になった。現在は、コンプレッサー部門と、潜水服部門が別になっている。スクーバ部門は僕が退社したので、消滅している。申し訳ないことだ。
ヘルメットは、僕の同僚、やや年上の先輩、山澤さんが、最後のヘルメットつくり職人だったが、亡くなってしまい、今は、ヘルメットを作る人とてないが、これまでのものを修理して使えば不自由はしない。 一番左がヘルメットのスーツ、ドライスーツと同じ素材だ、
しかし、その潜水服だが、ここ種市にあるのは、すべて、「ゼロ」製、ドライスーツメーカーのゼロ 製で、ドライスーツと同じ素材、ラジアルスポンジで作られている。ゴム引き布製の東亜潜水機の潜水服は消えてしまっている。最近、東亜潜水機に行っていないのだが、潜水服部門が心配だ。僕がお世話になった三沢社長の、息子さん、と言っても僕より年長だから、90歳は越えている。生きておられるだろうか。数年前と言っても、8年ほど前だったが、おじゃましたときはお元気で、天丼をごちそうになったのだが。
話をもとにもどして、
カメラはgo-pro10と8、予備にニコンのクールピクスを持って行った。go-pro8をまず使ったのだが、充電が緩く、予備のニコンで動画を撮った。これが結果として幸運で、go-proは、撮れていなかった。
その日は講義の時間を1時間もらっていた。久保君のプライマリーが、主役なので、僕は前座で、10分離す。スクーバダイビングの歴史と言うタイトルで、日本のスクーバの黎明、1953年のデイビス博士のプレゼンと1954年の学生実習の事故、そして、1958年のころの種市のの話をしようと、半日がかりでパワポを作って持って行った。高校でパワポを使う授業がうまくできる設備があるのだろうか、などと心配したが、とんでもない認識不足、立派な視聴覚教室があって、大きなモニターと、PCが生徒個別にずらりと並ぶ。
海洋開発科の生徒定員は、1学年1クラス40人、2年3年が同時に来ている。
考えなおした。作ったパワポがどうもおもしろくない。1956年の項で、クストーの「沈黙の世界」のタイトル部分だけを抜き出してパワポも入れているのだが、「沈黙の世界」も持ってきている。急遽、沈黙の世界を10分間弱、映写して、クストーのことアクアラングの始まりのことを話した。今みてもすごいシーンだから、楽しんでもらえたと思う。
久保さんの話も無事に終わり、午後は、港、車で10分ほどのところにある漁港だが、40トンの、立派な潜水作業実習船が鎮座している。これでの実習の様子を見せてもらえる予定だったが、僕の病状を考慮してか、停泊している外観をみるだけに終わったが、手頃な大きさのすばらしい船だ。
9月2日土曜日、午前中、プールでの久保さんのプライマリー実習、先生全員と、3年生の潜水業への就職希望者全員が参加「潜った」した。
水を見ると、プールの水を見ると入りたくなる。
しかも、10mの潜水プールだ。元気ならば高校生と10mにすもぐりできたのに。そして、今でも、もどって、5日の火曜日には浦安海豚倶楽部でスキンダイビングの練習会がある。
しかし、陸上での体調は良くない。三日間の旅、倒れれば迷惑をかける。出発前々日まで、迷っていた。
もしも、僕が泳げば、みんなの眼が集中するだろう。心配させる。水には入らないと決めていた。
が、迷いがあり、半ばパニックだったのだろう。忘れ物というか、持参する道具リストに入れて居なかった。杖、お台場で使っているカメラのステッキだ。そして、マスクマウントのワークショップを準備中なのに、マスクマウントのマスクを持ってきていない。
幸いなことに、プールには、以前に石川総一郎氏がJAUSの主要メンバーだった時に作っていた、着脱式マスクマウントの枠があった。これにgo-pro8を付けて、生徒の一人に、撮影をお願いした。
マスクマウントでの撮影、生徒が撮影した。
プライマリーコースの中心思想は、「水平姿勢・水中での静止、フィンで海底の泥を巻き上げないように、ひざを曲げ、フィンを海底から離して、足首を回すように使って水を掻き、前進、後退、旋回をする。
僕のように、スクーバの基礎は、スキンダイビングにあり、スキンダイビングの延長線上にスクーバがあるスタイルでダイビングを習得した者は、これができない。2種類のダイビングスキルを習い、習熟しなければならない。水中撮影、水中観察には、このプライマリースタイルが有利である。
僕は、日本水中科学協会が横須賀の海洋研究開発機構のプールでこのコースを実施していた2年間、この練習をして、どうやら、形にはなったが、今は元にもどってしまった。最初の講習からこのスタイルで練習すれば、それほど難しいことではない。水泳で言えば、ブレストのキックとクロールのキックを練習するのと同じ程度のことだ。最初の段階が大事で、加齢によって、足首の回転が難しくなると、むずかしいが
。
例えば著名なカメラマンで見ると、中村征雄は、僕と同じ泳ぎ方だ。姿勢は、カメラを持った自然体、45度から60度だ。鍵井君は、久保君とほぼ同等に水平姿勢に巧みである。他の人とは、最近一緒に泳いだことがないのでわからないが。
種市の卒業生の目標は、港湾潜水士、水中土木工事だから、足をしっかりと海底に着けたスタイルでよいのだが、それでも、スクーバを巧みに使って、調査模できた方がいい。二つのスタイルをきれいにできてこそのプロだ。
結果は、僕と同じレベルだった。しかし、なにしろ教室にプールがある学校だ。遊び半分、ゲームとしてこのスタイルの練習をすれば、若いこともあるから、たちまち、上達して、種市のスクーバスタイルになるだろう。それを目指しての訪問だった。
生徒のマスクマウントも、うまく撮れていて、使える。次にまた、もう僕は来られないかもしれないが、できれば、もう一度来て、スキンダイビングをやりたい。その時に生徒は見違えるほど、水平スタイルが決まっているかもしれない。そうなると良い。
帰りは、12時に学校スタート、久保君はけっこうな跳ばし屋で、2500ccのレクサスで、一台も抜かれることは無く、一人で往復の運転をして、20時30分に帰り着いた。
途中、「岩木山」という、小さなS.Aで遅い昼食を食べた。
メニューの選択肢がなく、カレーライスを食べた。田舎のカレーライスと言う感じで、素朴でおいしくかった。この岩木山には、なぜか、ベーカリーがあって、久保君が、おやつにとあんパンを買ってくれたが、これがおいしく、東京でも、こんなにおいしいあんパンは無いと思った。
次回がもしあれば、今度は日本水中科学協会のツアーをかねて、グループで訪問したい。
校長先生
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0923 波佐間
http://jsuga.exblog.jp/33403995/
2023-08-23T20:07:00+09:00
2023-08-23T20:07:49+09:00
2023-08-23T20:07:49+09:00
j-suga1
日記 ログ
波左間
高根 心配していたように流れがあり、それも、これまで経験した一番はやいながれだった。5キロの潜降索で沈めるとおもったのだが、とんでもない。
飛び込んだとたんに流され、88歳、心不全の衰えた筋肉ではさかのぼれない。事前に荒川さんが着けてくれていたガイドロープで、設置されている潜降索にたどりついた。ここで、一休みして心臓の鼓動を確認する。少しでも苦しかったら、ギブアップしようかと思ったが、大丈夫。
最近、スチールのタンクを背負っていない。3mmのウエットだから、ウエイトは2キロで良いと思った。軽かった。BC.の空気をぜんぶ抜いても、吹き流し状態で、腰が定まらない。マスクマウントだから両手が使える。がんばった。コブダイ超接近して荒川さんがサザエの殻を砕いて、ヤドカリを餌にしているカット、マスクマウントで15cmまで寄った。大迫力だとおもった。それに、流れの強い感じもとれている。
9月15日に、海洋大潜水部とマスクマウントのワークショップをやる。その教材になる。
ところが、
カメラが、まわっていなかったのだ。確認したつもりになっていたのだが、やはり、パニックに近くなっていた。カメラは、壊れていない。確認不十分だ。 がっくり肩を落とした。
生存でいっぱいいっぱいだったのだ。いつも注意してはいるのに、ラストダイブに近いダイビングで失敗するとは!!
撮影というのは一期一会、やりなおしはできない。
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0821 ワークショップ トラック大空襲
http://jsuga.exblog.jp/33399227/
2023-08-21T11:00:00+09:00
2023-08-21T11:00:01+09:00
2023-08-21T11:00:01+09:00
j-suga1
グラフィティ
8月15日にチュークの沈没戦跡についてワークショップをやり、聞いてくださった方には好評だった。自分としては、大過なくしゃべることもできた。
チュークのことを考え続けてきたわけではない。ただ、自分のダイビング人生の終わりを感じているので、やったことのまとめをしておきたい。1983年から2009年まで毎年のように通った南の島についてまとめておきたいと思った。
しかし、最近、ひどい難聴で、会話ができにくい。会話ができなくなると、ナレーションでしゃべることもままならなくなってしまったような気がした。
司会をしてくれている潮美にナレーションも引き受けてもらおうか、とも思った。しかし、録音スタジオもないし、費用も時間もない。自分は常にチャレンジャーのつもりだ。チャレンジしよう。
下手でも良いけど、わかってもらえないのは困る。やる意味がない。パワーポイントをつくり、左側にナレーション原稿を書き、右側に写真をいれて、それをナレーション的に読み上げることにした。字入りの紙芝居だ。今、映画をキンドルで見るけれど字幕編だけをみている。視覚、聴覚併用はわかりやすい。
まず、そのパワーポイントを見て説明、次に6分程度の動画、そして、次の動画説明のパワーポイント。そして動画と交互に入れて、さいごにまとめのパワーポイントで終える。構成にした。
PPその一
① ミクロネシア
日本から南下していくと、小笠原、マリアナ、ミクロネシア、横並びにパラオ。トラック環礁は、ミクロネシアにある、太平洋最大の環礁、です。
第二次大戦中、日本の太平洋の激戦地ソロモンに近く、連合艦隊全部を泊めることができる湖のような環礁。トラックは太平洋最大の前進基地、軍港でした。
旧、日本委任統治の南洋の島々は、どこも魅力的で、ダイバーは、とりつかれますが、僕はトラックにとりつかれ、1983年から、最後は2009年、数え切れないほど通いました。
これら、島々は歴史的には自給して生きてきたのでしょうが、外貨獲得の最大の資源は観光です。そして、その観光の目玉はダイビングです。
②トラック大空襲
トラックは1944年2月17日、18日、アメリカ機動部隊の空襲を受け環礁に停泊していた日本の船全部が沈められます。
日本の連合艦隊はマリアナに避退しており、残されていたのは戦闘能力のない輸送船団でした。連合艦隊が残っていたら、もっと激戦になったでしょうが、結局は沈められたでしょう。航空機の空襲に対抗できるのは、基地の航空兵力。
そのトラックの航空兵力は竹島という航空母艦のような小島に飛行場、基地を置いていたのですが、トラックは鉄壁だと油断して、パイロットたちは、そのころのトラック市街地中心である夏島に遊びに行っていて、飛び立たずに地上で撃滅された。
③吉村朝之
1983年,トラックに残された遺骨の取材で 吉村朝之とトラックに行き、その後彼が亡くなるまで、僕はアアク5テレビ、吉村はアアク8テレビという姉妹会社を作る親交が続きますが、遺骨が取り持った縁です。
岐阜在住のダイビングインストラクターであった吉村はトラックに遊びのダイビングに来て、遺骨が水中でそのままに山になっていることに、心を痛め、それを撮って、朝日グラフなどに写真を発表し、沈んだ船の全部に潜り、それらの船の来歴と沈められた状況を「トラック大空襲1985 光文社」にまとめます。
④1987 沈船ライブラリー撮影
そして、1987、吉村と僕は、沈められた船の主要なものすべてを撮って、ライブラリーを作り、遺骨を祖国日本に帰す運動を拡大しようとします。
そのころのテレビカメラは、カメラと録画するVTR別々で、その間をケーブルで結んでいます。ケーブルの長さは100メートル、テレビに売り込もうとするので、当時として最高の画質の池上の79Eです。 また、発電機も必要、ちょっとした引っ越し荷物です。それを二人だけで、グアム経由、恐怖のコンチネンタル航空、恐怖というのは、荷物を下ろさずに隣の島に飛んでいってしまう飛行機であること。その飛行機で、トラックに運ぶのです。
⑤沈船に潜る。
撮影を行ったのは、1987年 9月2日 松丹丸 水深55m、に始まり、9月12日の駆逐艦追風 水深65mまで、当時としては、売り出されて間もない、ダイビングコンピュータ、アラジンとスントのテストの比較テストを行いつつ、潜水した。
沈められた輸送船は60隻、軍艦は22隻、うちダイビングポイントになっているのは、35隻である。 今回は、愛国丸、富士川丸 第六雲海丸、そして、駆逐艦追風を、紹介する。
★★★
ここから、動画の映写に入る。
フリートークの感じで、動画の説明をする。
動画:
愛国丸は特設巡洋艦、優秀、高速の商船に巡洋艦なみの大砲を載せている。
ケーブルさばき、アシスタントの労力が増えますが、これで、船内で迷うことがない。入れればどこまでも入れる。
水深44mにあるホールここになぜか遺骨が折り重なっていて、吉村は、これを見て、遺体を日本に帰す活動を始める。
吉村の写真に触発されたのだろうか、日本のマスコミの報道の働きもあり、1981年3月 トラック島の遺骨問題を国会が取り上げ、7月5日から27日まで379体の遺骨が収集され現地で荼毘に付された。収拾を行ったのは、深田サルベージなどの潜水工事会社で、フリーのダイバー、インストラクターなども加わった。自分はスガ・マリン・メカニックという調査会社を経営していたが、これには加わらなかった。
そして、愛国丸の遺体の多くは回収されたのですが、トラックのダイビングサービス、ブルーラグーンは、遺骨をキープしていて、1987年の僕らの撮影の頃、愛国丸船内に水中展示、飾っていた。
富士川丸
この動画だけは、1987年ではなく後に行ったツアーで撮ったものです。比較的浅くて、ナイトダイビングでみるソフトコーラルがきれい。ツアーの名所です1987年には、まだマストの先端が水面にでていました。
昼間は獰猛で、ダイバーにかみついてくるキヘリモンガラ
第六雲海丸
旧式の運送船ですが、、船内にいろいろな日常雑貨が遺されています。戦跡水中博物館ですから、鉛筆の一本でも、持ち出すことは許されませんが。
PP その二 追風について、
① 輸送船団は錨を入れた状態でその場で沈められた。軍艦は数は少ない追風と文月、駆逐艦2隻だけだが、走って戦闘中に沈んだ。離れていて、沈んだ位置が特定できない。吉村はこの2隻の捜索、発見に、努力を傾ける。小型の魚探を持ち込んで、大きなブロックが写ったら、小型の錨を引いてひっかける。何かがひっっかかったら、潜ってみる。これをブルーラグーンのダイバーと一緒にやる。オーナーのキムオさん、後にマネージャになるチェニー、苦労の末水深65mに沈んでいる追風を発見する。位置が離れているのは、このためである。水深も深い。
② 一等駆逐艦追風は、
ソロモンの海戦で大破して、トラックで応急修理をした、新鋭の巡洋艦「阿賀野」を護送して2月15日トラック出港、マリアナ経由、日本に戻ろうとしていたが、トラックをでて、まもなく、2月16日、潜水艦の雷撃をうけ、損傷している阿賀野は避けきれず沈没、追風はその乗員480名を救助し、狭い駆逐艦船内は寿司づめ状態になって。マリアナに向かっていた。
そこに17日のトラック空襲、追風は急遽トラックにもどって、戦闘せよと指令がはいる。
常識的には戦闘不能だが全速で引き返し、北水道から、環礁に入り撃沈される。
そして,ここから追風の映像、
先に述べたように、当時は、カメラとVTRは別で、その間をケーブルでつないでいる。
カセットテープ一個の撮影時間は20分。最初に吉村がもぐり、10分撮影する。僕は船上で、テープを交換して、エントリーしてケーブルを伝わっていきカメラを引き継ぎ、吉村は浮上、このリレーで合計30分は撮れる,
トラックブルーラグーンガイドのケーブルさばきはパーフェクトで、僕らは、何のストレスもなく65mに潜って撮影できた。
また、ブルーラグーンのオーナー(先代、創始者)のキミオさんは、米軍がこれら沈船の調査をしたときに助手として潜っていたダイバーで、減圧症で身体が陸上では不自由だ。「多分、これが最後だから、ガイドしてあげるよ」と一緒に潜ってくれた。
ここにも遺骨は見えやすいところに置かれていて遺骨の下のハッチには、多分、阿賀野の救助された兵士の遺骨なのであろうか、山になっているのが見えた。阿賀野から救助された兵士の467名がここで亡くなっている。タンクを脱がなければ入っていかれない。水深60mだから、入れなかった。
そのころ1980年代の終わりから、1990年代にかけて、僕は衛星チャンネルという、衛星経由で電波を発信する、今で言うBSの走りの局のフリーゾーン2000という番組の映像記者というのをやっていて、東京の海、川などの環境を追ったりする番組を小遣い銭稼ぎ程度のギャラで、本業の水中調査のかたわらやっていた。カメラマンが自分が撮った映像を映写しながら、アンカーという名称の女性キャスターとトークする番組でなかなか楽しかった。
その一本で、1957年撮影のライブラリーを使って、「南海に眠る駆逐艦追風」をやった。
駆逐艦追風の艦長であった魚野(うおの)艦長の遺族、奥様と妹さんをスタジオに呼び、追風の水中映像などを見ながら、お話を聞く。フリーゾーンとしては、大作だった。
まず、艦長の奥さん、妹さんと靖国神社にお参りするシーンを撮った。靖国神社のシステムなど、僕は知らなかった。日本国民、多くの人は知らないだろう。戦争で亡くなった兵士は靖国神社に奉られ、霊は靖国にもどってきている。遺骨があれば、そしてそれが遺族に戻されるならば、菩提寺に埋葬されるが、公的には、靖国に、名前が奉納され、奉られる。遺族はそれを参拝する。追風のような軍艦の場合、遺族は「追風会」という遺族会を作り、艦長の奥さんが、その代表をつとめ、艦が沈んだ日、命日には、靖国にお参りする。カメラは、奉られている、奥の院には入ることはできないが、応接の間までは入ることができ、そこで、僕は、魚野艦長の奥さんとお目にかかり、初対面の挨拶を交わした。
追風会は、靖国だけでなく、沈んだトラックにも花束を捧げに行く。
スタジオでは、遺骨の写っているよ水中映像を見てもらい、お気持ちは?など、馬鹿なことは聞けない。何を質問してよいやら、見当もつかず、ただだまって、みてもらうだけでしかないが、魚野艦長の奥様は、冷静に魚野艦長との過ぎた日々のことを語ってくれた。戦時中、帰らぬ出撃をする駆逐艦の艦長、魚野艦長は、もうこの戦争は負ける。今度の出撃では帰らない覚悟だと言っていたそうで、女の子を一人、お父さんの遺影だけをみて育てられた。1944年の戦死だから、番組を作った1991年には、お子さんは45歳だ。どのような月日が、ご家族に流れたのだろう。
聞けば、魚野艦長は兵学校を恩賜の短剣をいただいて、卒業していて、それも見せていただいた。兵学校を主席か次席で卒業ということは、将来の提督である。実戦で戦果を残さなければ、提督にはなれない。魚野は、今度の出撃が最後で、もう前線には出さないと言われていたとか。
阿賀野の救助した乗組員も480人乗っている。弾薬も少ない。トラックに戻らないという、指令違反をしてでも、船と救助した命を救う道が合ったのではないか。とも考えた。これは、後からの調査でわかったことなのだが、トラックに戻らず、マリアナに直行せよという指令もでていた。その電文の順序が通信兵のミスで、前後してしまった可能性もあったとされている。
もう一つ、吉村が高知に在住していた生き残りの竹本さんを訪ねてのインタビュー。今は亡い吉村だが、竹本さんは撃沈とともに海に飛び込んだ。かなりの人数が浮いて、泳いでいたのだが、艦載機が戻ってきて、機銃掃射で次々とこらされた。パイロットは手を振っていたのがわかったという。手を振りながら殺していった。竹本さんは、何とか逃れて、島に泳ぎ着く。
映像の説明はこれで終了、次はまとめのPPである。
PP その3
愛国のホールが遺骨の山であることをみた吉村は、遺骨を日本に帰すことを訴え続けた。
朝日グラフに何度か写真を載せ単行本として「トラック大空襲」を書くまでに12年、16回通った。
駆逐艦も探し、追風と文月、2隻とも吉村が発見した。
昭和58年(1981)3月 国会が取り上げ
7月5日から27日まで379体の遺骨が収集され現地で荼毘に付された。セレモニーをやった。
しかし、その後もブルーラグーンの水中遺骨展示は続行される。
追風も1994年に遺骨収集が行われ。
厚生省は追風などは、以後中に入れないように入るハッチを溶接で塞いだという。
②
チュークが、枕船のすべてを戦跡博物館として遺し、遺骨を含め何ものも持ち出すことは許されない。それを見ようと世界のダイバーが集まり、遺骨の水中展示も行われている。
厚労省が、遺骨収集の交渉をすれば、受け入れてくれた。しかし、ダイビングサービスは、自分たちの財産である展示している遺骨を基出すことは、しない
③
そして今はチュークへの中国の進出が大きくなっている。中国が作った海洋研究所がある。戦績保存と並行して日本が海洋研究所を作るべきだった。その経過の中で、遺骨展示の議論もする。展示はやめさせられないが、その形態は議論できる。そのようなこと、やったのかもしれないが、展示は続いている。
アメリカ人の経営するダイビングサービスもホテルシップであり、設備もよく、大繁盛で、予約は2年先まで満員とか。彼らがどう考えるか聞いたこともないが、遺跡はアメリカ軍の戦果だから、詳しく研究されている。そのレポートを見ることはでできていないけれど、一環であろう、立派な本も出版され販売されている。それを、ここでも資料として図を使っている。
④
霊は自分の心の中に存在するとおもっている。遺骨については、それを視てどう思うかである。
こうも考えた。
彼らがそこに居て、その船が日本の船であることを、自分たちの船であることを主張し、護っている。そして、過ぎた戦のことを思い出させる。
トラックの海は、他に魅力がたくさんある。美しい無人島もいくつもあるし、ジープ島、オーロラ島と宿泊できる島もある。僕もシャークの3Dをとったり そのサメに浪曲を聞かせるという番組をつくつくったりもした しかし、日本人としてこの問題を忘れて良いのだろうか。
⑤
遺族は靖国へお参りし、トラックにも花束を捧げにくる。
魚野艦長の遺族は、そうしてきた。僕らの作ったフリーゾーン2000の追風、遺族に残酷な問いかけをしたかもしれない。しかし、丁寧に答えてくれた。そして、自分の思いのたけを話すことができ、本当に良かった。家代々大事にします。といってくれた。
すべてが、事実であり、けっして忘れたり、無視してはいけない。それぞれが受け止めて考えることしかできない。
⑥
空襲のあった1944年から数えて、79年になる。明治維新から終戦までよりも長い。もう少しで100年だ。
3世代がトラックの海、戦跡を通り過ぎて行く。水中遺骨展示も視る。
そして、それぞれの感慨を持つ
日本人が、当時の姿そのままに見ることができる、おそらく唯一の戦跡。
ココまでで、僕のワークショップ、「トラック大空襲は終了した。
しかし、考え続けている。このブログを書くことで、一応のピリオドにしたい。
★★★
デンマーク在住、確か、日本のミノルタの電子機器のお仕事をされていて、ライフワークにダイビングの歴史の研究をされている竹川さんという方がいる。僕もダイビングの歴史の研究をしている関係で、日本の大串式マスクの研究のお手伝いをしたことで親しくなった。日本水中科学協会のシンポジウムでの講演をお願いし、快諾をいただいていたが、交通事故に遭われて、今年度はむずかしくなった。
今回はオンラインでのワークショップだったので、デンマークから参加されていた。なお、チュークからも、僕のすべてのトラックでのダイビングのお世話をお願いしている末永さんも参加されていた。その竹川さんから、メールをいただいた。
須賀次郎様
とても素晴らしいワークショップ『トラック島』でした。ありがとうございました。
終戦記念日に『トラック島』の記録に接したことは、辛い戦争という事実を、今回の『トラック島』を鑑賞して、痛く重く感じました。
多くの場合、映像記録が容易に真実を伝えることが出来ますが、その記録はもちろんほとんどの場合過去になっています。しかし『トラック島』の記録は現在も同じ位置に実在しています。海面から深くても70メートル海底に向かうと、約70年前の真実がそこに現存しています。
犠牲者がまだ横たわっている場所が、見せ物観光ビジネスのアトラクションでは、なんともさみしい感じもいたしました。
1)
ナチス(ヒトラーも含めて)がアルゼンチンに逃げるのを助けたと噂されていた、ドイツを最後に出港したUボート U3523 XXI(海底100m)が発見されました…この件は前にお知らせしましたが、、、下記のようなものです。
『2018年 4月 Newsweek英語版にセンセーショナルな記事が載りました。
かつて、ヒットラーは終戦直前に最も優秀な潜水艦で南アメリカに逃亡した、と云われる仮説がないでもなかったのですが。冗談話で、そのような仮説を信じないでもなかった人達も存在していました。いや、堂々とその説を書く人間もいたことはいたのです。しかし2018年 JD-Contractor A/S の海底 スキャナ船 が ノルウェーとデンマーク間の海域(Skagerrak)で、この話題の潜水艦を発見しました。U-3523 Type XXI.
私のこの博物館の訪問は、このトピックに関する潜水艦の扱いがその後どのように進化したかを尋ねることでした。
答えは、ドイツ政府とデンマーク政府の間で、潜水艦は永久に手付かずの状態にしておく、神聖な埋葬地としてランク付けされました。
JD-Contractor A/S社の持ち主は Gert Normann Andersen氏で、SEA WAR 博物館の館長でもあります。またデンマーク潜水歴史協会の創立メンバーでもあります。
約5年が過ぎましたが、公式なドキュメント撮影目的の潜水でさえ、全面禁止。
2)
1940年 4月9日、大戦初日、ノルウェー首都オスロに入る、20キロ手前の狭い海峡(幅約500m)で、ドイツ戦艦 Blucher が島の秘密に構築されていた魚雷発射管(2013年、ノルウエー潜水歴史協会の招待で見学しました)からの魚雷攻撃で撃沈され、岸から僅か数百メートルのフィーヨルド内に沈んでいます(水深60-80m). 距離からすると、ダイバーの日常的アクセス地点であります。
しかし敵の戦艦であれども、2016 年 6 月 16 日に戦争記念碑として保護されました。フィヨルドの底に沈んでいる人々のために、ノルウェー文化遺産総局によって法律でも保護されました。 その目的は略奪者から船と魂を守ることでした。犠牲者600ー1000人。
3)
MS Estonia (スエーデンーエストニア間 フェリーボート 16000トン)、スエーデンーエストニアーフィンランド海域で1994年事故沈没(海底80m)、犠牲者852名。
3国間で、敬意を表す海中墓地として調査潜水以外の潜水禁止に合意。
少なくとも、なんとかこの3つの例の如き、トラック島にも対策が講じられたらと願うばかりです。
ZOOMで二人の再会の場面を眺めました。人間の繋がりとはなんと素晴らしいのだろうと、思わずにはいられませんでした。胸が熱くなりました。
最後に、須賀様の説明、ハッキリと、理解しやすく、とても素晴らしいナレーションでした。ありがとうございました。
お身体に気をつけて、お元気でお過ごしください。
再会を祈りつつ、
竹川一彦
竹川さんのご意見、僕も同じようなことを考えたものでした。戦跡として、そのまま手つかずに保存しておくという文化がトラックにも、そして日本にも無かった。
実は僕も、おなじような結論を思っていたものでした。もういい。静かに眠らせてあげたい。
しかし、僕も吉村も、そこに遺骨があったから、遺骨に呼ばれてトラックに行ったのではなかったのか。トラックは、美しい環礁で、世界中のダイバーは、それだけでも集まる。でも、遺骨に呼ばれても行く。
「トラック大空襲」で吉村が書いている。遺骨を日本に帰してあげたい、協力してくれとキミオさんにいうと、いや、彼らの最後の場所、海底に静に眠らせてあげた方が良いのではないかと、さらに、吉村がたのみこむと、そうだね、やはり日本の兵隊さん、日本に帰してあげようと協力してくれる。もちろん有料、30%OFFで、彼らには生活があるのです。
そして、そのキミオさんが、自分の創立したブルーラグーンでは、遺骨の展示をします。
なんだこれは。静かに眠らせていない。言っていることと違うではないか。そして、僕が追風に潜るとき、ダイバーは水深60mで、命がけで、狭いハッチをくぐり抜けて。遺骨を取り出して並べてくれます。大腿骨も集めてくれます。
そして、この遺骨の映像がなければ、35年後にこのワークショップを僕はやることはなかったでしょう。
海軍兵学校を恩賜の短剣で卒業した魚野艦長は祖国に愛しい妻と子、そして出世コースが帰りを待っています。船には救助した人員が満員で乗っているのに、全速で、トラックに戻ります。ゆっくり走って空襲をやり過ごすこともできた。そして、北水道を抜けて、環礁に入ってすぐに敵弾に倒れ、後は阿賀野の救助されていた副長が指揮をとり、撃沈されます。
魚野艦長はすばらしい指揮官であり、日本の武人の姿をみます。魚野艦長と追風の悲劇については、まつやま書房 宮崎三代治「ああ紅顔、未来の光」という本もあります。
僕が映画監督ならば、映画を作り、ヒットさせたでしょう。
今回、2023年8月には、ちょうど時を同じくして、NHKがマリアナとトラックをテーマにしたスペシャル番組を放映します。時を合わせたわけではなく、困ったものですが、NHKは、フォトグラメトリーを使用して巨大な沈船を再現したり、苦労していましたが、何を言いたいのか、わかりませんでした。でも、この番組企画が通ったのは遺骨がそこにあったからだと思います。そして、NHKだから遺骨の映像は使えない。しかし、遺骨の思いは伝えたかったのでしょう。
トラック島の戦跡は、遺骨がそこにあるから、人々に語りかける。何を?、それは、受け止める人様々で、結論などないのでしょう。
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0625 雑感
http://jsuga.exblog.jp/33316130/
2023-06-25T12:08:00+09:00
2023-06-25T21:49:47+09:00
2023-06-25T12:08:56+09:00
j-suga1
雑感
この前にブログを書いたのが、6月5日だから、もう20日もブログを書いていない。 書く意思はあり、書きたいと思っているテーマもあるのだが、ブログに気持ちを向けてしまうと、そして、それに集中すると、他のことができなくなってしまうのだ。
現在、焦眉のことは、代表をつとめている日本水中科学協会の総会が7月上旬にあり、その会計書類、活動企画の発表の書類をつくらなければならないことで、88歳の小回りのきかない、そして、二つの路線を交互にコントロールする思考の幅を持つことができないためだ、それでも言い訳がましく、こんなことをかいている。
言い訳がましいことを書くな、というのも、自分のルールだが、ブログは、僕にとってログ、(記録)であるから、もっとこんな備忘記録を残して良いと自分で自分を納得させて書いている。言い訳でも記録はどんどん書いて行こう。
今日は、その日本水中科学協会の経理の貸借対照表を作る、作るためには、特定非営利活動法人の活動報告の会計のスタイルがあり、そのスタイルに合うよう、数字を分類整理しなくてはならない、これに3日使う予定にしている。
そして、今日25日
東京海洋大学潜水部新人歓迎のZOOMミーティングが 18時からある。その挨拶の下書きをつくった。
①先日、21日、OB会の寺田会長、衣川副会長と話し合った
②日本のスクーバダイビングは1953年、東京水産大学(海洋大学の前身)の千葉県安房小湊実習場で、米国の海洋地質学者 ロバート・ディーツ博士のpresentationではじまった。
小湊実習場の中心 一回が水族館、二階が学生の実習室、三階が天文台 円形の当時としては、瀟洒な建物だった。
小湊実習場前の入り江、僕らのホームグラウンド、豊かな磯場だ。
③その翌年1954年、日本で初のスクーバダイビング海洋実習で受講した学生2名が死亡する事故がおこる。これが、海洋大学のダイビングの原点であり、僕のダイビングの原点でもある。
その事故の反省を基にして、米国のスクリプス海洋研究所の実習プログラムを参考にして、1957年、新しい(今となっては大昔だが)潜水実習が行われ、その実習を受けた僕らが、潜水部をつくった。(名称はまだなくて、ダイビングクラブだったが)それから数えて65年になる。
④この事故を追悼し同じような事故が起こらないことを祈念して、その同級生(大学4回)が、像を造った。その像が今、品川キャンパスのサイエンス・ミュージアムのエントランス・ルームに置かれている。昨年 2022年9月28日に潜水部 石井君、千葉君、宝迫君、西沢君、田中君、そして、0Bの依田君が、集まった。その後で、今後の潜水部のダイビングについて話をした。
追悼記念碑
⑥その後、潜水部がどのような潜水を続けていくのか、自分の考えも進化しているし、長くなるので、ここでは述べないが、いずれまとめて、提案する。
⑦あくまでも提案であり、潜水部がどんな潜水を展開していくのかは、君たちが決めることだ。ただ、最善と思う提案をしていくことは、自分に残された使命だとおもっている。自分として安全についてもベストの提案をするけれど。
その提案と、正反対のことをしてもかまわない。自分たちの考えでいい。いつでも言っているのだが、「ダイバーは、自分の考えで自由に潜り、自分のスタイルで死ぬことができる。安全潜水などと薄っぺらなことは言いたくない。自分の責任に命を託すのだ。」
ただ、1954年のルーツ、そして、65年の歴史の伝統と矜持を持ってほしい。
⑨確か2017年だったか18年立ったか、衣川さんの企画で千葉県小湊実習場にOBと現役でダイビングツアーをした。前の顧問の山川先生のアレンジだったか。
もう一度企画してほしい。(その時の写真を出そうと思ったが、見つからない。すぐに出せるところにおいておかなくては)
※これを書くだけで、午前中が潰れてしまった。作業がノロいのだ。
6月25日 夜
海洋大学潜水部のZOOMミーティング、新入生歓迎の会に出た。やはり、68年の年齢の隔たりは、あり、用意したコメントは一言もしゃべらなかった。ただ、彼らなりのスタンス、スタイルで非常によくやっていて、それは、褒めてあげたい、ためになった。楽しい、それぞれの個性に合ったダイビングを目指している、
死なない、今後の海の教養になるようなダイビングは無理、できない。彼、彼女らの幸運を心かラ願うことができるのみだ。90%、事故はおこらないだろう。97%以上の確率で、無事故をめざそうとしたのだが、それは、子供達には無理。
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