須賀次郎のURL
辰巳国際水泳場での練習会日程などを発表しているURL
http://homepage2.nifty.com/j-suga/index.htm ブログ、スガジロウのダイビング http://plaza.rakuten.co. jp/sugajirou jack2009さんに、wikipediaに掲載することを許可しています。 外部リンク
カテゴリ
全体 雑感 最新ダイビング用語事典 旅行 撮影 スタイル 日記 ログ 80.80 日本水中科学協会 ダイビング運用 グラフィティ リブリーザー 沿岸漁業・人工魚礁 リサーチ・ダイビング 福島 レクリェーションダイビング 学生連盟 book・映画・テレビ 辰巳 潜水士 歴史 お台場 浦安海豚倶楽部 ダイビングとは? スキンダイビング 未分類 以前の記事
2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 09月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 ライフログ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2017年 08月 30日
8月28日のワークショップ、ダイビングの安全とか、ダイビング機材とか、ダイビングそのものに関わることではなく、ダイビングでする事、対象についてのワークショップだった。 そして、その対象も、自分たちの活動に関することで、一般的な事ではない。自分たちの活動計画のPDCAの部分を公開する。 なるべく他所の仲良くしている団体とは企画がダブらないようにしようと、枠を狭めると、テーマが尽きてしまう。 沖縄の大学院で事故があった。PDCAのサイクルを廻していれば事故は起こらなかった。と思う。それが公開されたものであったとすれば、そのサイクルで起こった事故の社会的な責任も小さくなる。そして、その事故もPDCAに組み込んで公開で議論できれば、、事故防止に大きな力になる。そんなことできないとわかっているけれど、もしできれば、と思う。
自分たちの活動の底まで公表してしまう。もちろん機密に類することもあるだろう。また、その反面として、PRができるという利点もある。プランに客観的な評価をしてもらえるメリットもある。 そんなことで、今回のワークショップを調査研究ワークショップとして、これまでのワークショップとコンセプトがちがうと言う意味で第一回とし、通算で第17回となった。 自分たちのPDCAだから、計画に参加、応援してくれている会員だけが来てくれたと言う結果になるかもしれないが、誰でも参加できるよう公開と銘打ったが、20人来てくれれば良い。それでも、10人が良いところかなと予想した。
選んだテーマは、2011年12月から2012年2月にかけて、理研の守屋さんと組んで、福島県いわき市久ノ浜で行った放射性物質調査と、現在、そしてこれからも中心機材として使っていくスペクトル分析機についての二つである。一回に二つのテーマをやるのも初めてだ。 いずれにせよ、一般のテーマではない。 にも関わらず、30人、ちょうど借りた研修室の定員だった。JAUSワークショップ初めての満員であった。この前の満員はJCUEとの共催、DPVの話だった。今回のテーマは、マニアックを通り越して、自分たちだけ、個のテーマなのに、である。 守屋さんのテーマは、僕たちの調査の出発点であったから、PDCAのC,チェックにあたる。
原発から放射性物質が吹き上がり、危険な放射性物質が飛び出した。水中にも溶け込んだ。その水中に魚を入れても、魚に放射性物質は入って行かないという実験結果がある。なのに魚の体内には放射性物質が蓄えられて行く。それは食物連鎖、フードウエブを通しての吸収である。その食物連鎖の底辺、入り口が微生物、プランクトンとバイオフィルムである。 プランクトンはおなじみである。僕はプランクトンが食物連鎖の底辺だと思っていた。しかし、バイオフィルムは、食物連鎖のさらに底辺であるとともに、プランクトンと双璧をなす。 バイオフィルムとは、身近では流しのぬるぬるであり、海底では岩の表面に付く薄い膜のようなものである。 バイオフィルム、そして、マクロベントス、小さい底棲生物を採集して、実験室内でガンマ線のスペクトル分析、 をする。水も採水して分析する。 これが、研究の組立である。 水中では、守屋さんと鈴木が組になって採集、採水を行う。須賀は、俯瞰撮影記録とカウンターを持って放射線量を測定する。 調査の基本であるライン調査を考えて鉛ロープを引いて採泥、採集を行おうと考えた。 しかし、水中は濁りと波浪、そして寒さとの戦いだった。水温は1月には5度まで下がった。海が荒れるので、堤防の内側での潜水が多かった。港内は表より冷たいのだ。守屋さんは、6.5のウエットで通した。研究者はマッチョな人が多く、守屋さんもその典型の一人である。僕はドライである。 今、振り返ると、2011年にもこの講演、発表程度の打ち合わせがまずあり、研究内容についての組立、知識の共有があれば、よりスムース、効果的な潜水作業ができただろうと考える。このワークショップの今後の必要性を強く感じた。 ※放射性物質とは、神経を尖らせる問題であり、実際にはプランの段階で公表できないことが多いが、メンバーの内で公表しないワークショップも考えられる。
学術的な、研究の成果に付いても発表説明されたが、これは、わからない。 わかるのは、調査が行われた2011年当時、水には放射性物質は無く、バイオフィルムには、マクロベントス(カイメンとかヤギの類など)よりも多くがのこっていた。
高野さんの講演は、放射性物質とは何か、放射線とは何、放射線のうちのガンマ線を測定するのだが、その測定の方法についての発表だった。 守屋さんの講演と重ねれば、放射線と放射性物質、生き物とのかかわりを頭のなかで、組み立てることができる。 ここまできて振り返ると、2011年当時、いかに僕たちが、いや、僕が、無知のまま放射線と取り組んでいたかが、わかる。そして、このようなワークショップで計画を検討し、実際にやってみて、その結果をフィードバックすることの有意性がわかり、また、おのようなチェックでワークショップをやることで 実際的な知識になることを感じた。 冒頭に書いたように、これは潜水の安全確保についても言えることだと思う。
高野さんの講演で、強調されていたことは、光電管(ガラス)を使用する繊細な測定装置の脆弱性であり、この前、2月の調査では、よくも無事だった(分析機が)と思う。 そして水中では10数センチ離れると測定に意味がなくなってしまう。僕らは、身体に着けている線量計のイメージで測定をとらえていた感じがする。汚染された海中に入れば、数値が高くなると思っていた。事故直後の水中の状態はわからないが、とにかく、陸上と水中は違う。 水中での測定のマニュアルが必要である。
今回の発表、一般のダイバーには、ほぼ無縁であり、このテーマの選択の是非について、心配したが、1時間半の講演を熱心に聴いてくれ、質問も多くでた。ダイバーとの知的好奇心、知的レベルの高さを感じた。 次回は、いわき市江名の人工魚礁調査について、とりあげたい。4人が潜水して、三人がウエアラブルカメラを着けている。その3人の動き、動線を解析して、(解析できるのか?)この調査方法の有効性、そしてスペクトル分析器との関連を見て、今後の調査の方法を論じたい。
守屋さんの発表のまとめの一つは、「特定の資源に注目するのではなく、復活していく沿岸生態系をつぶさに観察していくチャンスでもあるのではないか?」 僕たちの考えと少し違うところもあるが、沿岸生態系を、放射性物質の行方とともに、つぶさに継続して観察して行くことは、僕たちのなすべきこととして重要だと考えている。
今回は成功、次回は失敗かもしれないが、失敗したとしても、その失敗から得るもの、自分が得るものは大きいはずだから、この方向で良い。 そして、このワークショップシリーズの最後は、2月の調査で何をどのようにやれば良いかの提案、計画の検討をやりたい。
守屋さんとは、もう一度一緒に仕事をしたい。高野さんは現在進行形で一緒にやれている。お二人とも本当に魅力的な人だ。 もう一人2011年の調査で、守屋さんのアシスタント役をしていた木原さん(女性)当時東京工業大学の研究生?、タフで港の猫に好かれていた。なぜか、彼女が行くと、猫が寄ってくるのだ。今は熊本の高専の先生で、生物物理学の研究室を持っているとか。生物物理学って何だ?もと水泳選手だったとかで辰巳にもきてくれた。東京にいれば、だけど、 ▲
by j-suga1
| 2017-08-30 12:41
| 福島
|
Comments(0)
2017年 05月 03日
アクアマリン プレゼンテーション ![]() 話をアクアマリンに戻して。 今、2017年に、おそらくカメラマン人生の最後でそして、頂点だったと思われる1997年、62歳の時点でのコンペ企画書を見ると感慨にひたってしまう。
まず、コンペの公募の通達である。 「福島県海洋文化・学習施設(仮称)マリンシアター大型映像ソフトの企画・制作に係わる企画コンペ実施要領」平成9年11月17日 まず「海を通して「人と地球の未来」を考える」 という基本理念がある。展示の基本方針は、ローカルからグローバルへ、過去現在から未来へ。 展示のメインテーマは「潮目の海 黒潮と親潮の出会い」展示のストーリーは、福島の海 潮目の海を中心に置いて、北の海、南の海 福島の川と沿岸がそれをとりまく。 マリンシアターは、204席 スクリーンサイズは300インチ 今の視点から見れば、普通のハイビジョンで、僕の得意だった3Dではない。まだまだ当時はハイビジョンといってもなかなか大変なことだったのだ。 制作期間は平成10年2月から12年の2月丸二年かける。
まず、ビクターの企画、先に誘いがあり、企画の段階から話に加わった。その内容については、ずいぶん意見の違いがあったが、それは、最終的には演出監督が決めることなので、仕方がないが、企画は、僕の企画ではない。カメラマンは、意見、アドバイスはできるが、最終的には演出に従うことになる。 可もなく不可もない総花的な内容だったが、戦略的にはこれで良いのだということだった。水中撮影とほぼ同じくらい空撮の分量がある。撮影の困難さは比較にならない。水中の方が苦労だ。 映像タイトルは「福島、命沸き立つ海 親潮と黒潮の出会い」 構成は五つに分けられている。 1 プロローグ 福島の陸から海へ 2分 福島山地から海岸、沖合までの空撮 2 黒潮の旅 4分 南西諸島沖から房総沖までの黒潮の流れをカツオの旅を追う。具体的には珊瑚礁の魚、カツオ釣り船にのっての漁の撮影 以下 全体にわたって 空撮 水中 水上 顕微鏡撮影 3 親潮の旅 3、5分 北海道オホーツクの流氷、クリオネなどから南下してくる。 4 潮境 親潮と黒潮の出会い。 4分 福島県沖 潮境で起きる生物のドラマ 5 エピローグ 親潮から地球全体へ 空撮 多分コンペに出てきたほとんどの企画がこんなものだったのだろう。
水中撮影 演出の僕としては、おもしろくもなんともない、と思った。葛西水族園のように3D 函館昆布館のような巨大全天周映像ならこれで良い。しかし300インチのスクリーンでは、普通の映画館の大型スクリーンより小さい。水中のドラマがなければいけない、まあいいや、撮影が始まれば、なんとかなるだろう。それに、あんまり大きいことを言って、驚くようなシーンが撮れなければ引っ込みが付かない。
潮境の親潮と黒潮の出会いに賭けるつもりだった
寒流と暖流が出会うのは、北茨城から福島そして三陸沖に至るのだが、福島はまずその中間に位置する。 僕は、お得意の人工魚礁と、そしてサンマ漁を撮るつもりだった。サンマは、南に下って産卵するが南の魚ではない。暖流の魚かといわれれば微妙だ。北上して豊かな北の海で成長して、北の海から南下する。その回遊の途中、福島沖、三陸沖で漁獲される。小名浜は、サンマ漁船の基地、水揚げの港として名高い。 これは、協力してくれる漁船が難しい条件になるが県の水族館なのだから何とかなるだろう。 もう一つの人工魚礁だが、これは、今度2017年の放射能調査でも取りあげた、オレンジ色のホヤと黄金のアイナメがある。アイナメは四倉の、そのころはまだだったが、ブランド魚になった。 犬も歩けば棒に当たる。たくさん、数多く潜っていれば、とんでもないシーンにぶつかることもある。 福島の人工魚礁は、たいてい40mを越える。減圧も長い。その減圧の時に、オットセイの子供がやってきたことがある。親とはぐれたのだろうか、なつっこくて、離れようとしない。やせている。餌も十分ではないのかもしれない。どうしてやることもできない。船に上がろうとしてもついてくる。 今のようにデジタルで、ウエアラブルカメラを持っていれば、撮れたのだがとれていない。
夏で、海はべったり凪いで、透明度も良い。勇んで潜ったのだが、20m潜ると濁っていて、3mも見えないことがあった。寒流が暖かい水の下に潜り込んでいるのだ。これが寒流と暖流の重なるところだ。 寒流と暖流の境目は潮目で、魚が集まる。空撮ならば、わかるので、空撮もやるのだが、水中撮影の出番はない。水撮の潮目は上下の潮の重なりだ。 何か、驚くような映像を撮りたい。水表面が透明で、中ほどが濁り、暗黒になり、底に行ったら透明でメバルが群れているとか。そして、オレンジのマボヤに金色のアイナメ、とかをワンシーンで廻したい。
ここで平成10年1998年当時の撮影機材について触れておこう。 水中撮影機材 ①一体型ハイビジョン水中カメラ メーカー開発中の機材を完成後レンタルにて使用④に比して大型で機動性に欠ける。 ※当時のハイビジョンカメラは大きい。 ②ケーブル型ハイビジョン水中カメラ ①が当撮影に間に合わない場合に限定的に使用。 ※太いケーブルでつながれていて、船上には大きな録画機VTRがある。VTRを冷やすために冷房が必要で、コンテナーの中で冷房つきで録画する。移動にはトラックが必要で、使う船も大きくなる。今、ウエアラブルカメラのハイビジョンなどを見ると夢のようである。 ③35ミリ8pビスタビジョンカメラ ※35ミリスタンダードのフィルムを横に走らせて 巨大スクリーンの映像に対応している。僕はこのカメラのハウジングをつくっていて、これを使っていた。35ミリフィルムが1秒で28駒飛んでいく。1秒で普通のスチルフイルムの1本が消費される。 ④35ミリフルフレーム水中カメラ 35ミリスタンダードのフィルムを20%拡大してハイビジョンに対応できるようにしたもので、このカメラが一番コンパクトである。過酷な状況での信頼性も高い。 ※ハイビジョンと言っても、300インチだ。制作側はこの④を中心にしたいと考えている。しかし、僕はNGがとても多いカメラマンなのでできれば、ビデオのハイビジョンカメラを使いたかった。 NGが多い。今のビデオ撮影で1時間撮影して、その中から3分使ったとすれば、57分はNGなのだ。ビデオで番組を撮ることが多かった僕は、どうしてもNGが増える。 前に述べたように、僕は、二つの企画の撮影監督で立っている。もう一つはイマジカだ。お世話になっている比重はイマジカの方が重い。プロデューサーも仲が良い。しかし、最初に声をかけてくれたのがビクターだった。完全な板挟みだ。
イマジカの企画はドラマ仕立てだ。 タイトルは「出会いの海」 登場人物 武史少年 インターネット(当時としては先進)でミハエルとレイラという二人としりあう。インターネットのやりとりで、親潮と黒潮のことを学んでいる。 ミハエル カムチャッカ半島のとある村で動物の研究をしている青年、武史に親潮の生態をおしえる。 レイラ ミクロネシアのとあるリゾート地に住む少女 インターネットを通じて武史に黒潮の海中の華やかさ、文化を伝播させたことを教える。 これに平行するように 水中カメラマンの親娘のストーリーがある。親は「生命を育む海」をテーマに親潮を北から潮目に向かって撮影している。娘は「創造の海」をテーマに黒潮に乗って撮影している。親娘は、潮目の海で合流する。武史がそれに参加する。これもインターネットでの繋がりが契機になっている。
おわかりになると思うけれど、水中カメラマン親娘は、僕と潮美だ。当時の潮美はニュースステーションから離れて、すでに月刊ダイバーと係わっていて、フリーになっていた。 どちらの企画をやりたかったかと言えば、当然、イマジカの企画である。 通らなかったけれど、潮美がプレゼンに出たらどうなっただろうか。 この企画が、あわただしく、僕にも潮美も参画していないのだ。なぜといえば、プロデューサーが親しかったから、であろう。 今に至っても、痛恨である。しかし、ifのはなしだ。 でも、この話展示映像よりも、テレビの番組向き?
コンペはNHK{子会社)に負けた。 カメラマンは、親しい友達の南方盈進だった。 NHKは、これにぶつけたわけではないのだろうが、サンマ漁のドキュメンタリーをオンエアーした。 だからだ。とプロデューサーはいう。 さらにそして、このコンペが人の運命を大きく変える。 続く。
▲
by j-suga1
| 2017-05-03 11:01
| 福島
|
Comments(0)
2017年 05月 02日
ここのところしばらく、お台場のことを書いていた。やがては、一冊の本にまとめるほど書こう。本にはならないとおもうけれど、というぐあいに書いていたのだが、二枚貝のところで停滞してしまった。 福島のことも、やがては、と思っていて、こちらの方は、ある程度書いたものがまとまっていたので、こちらを先にすることにした。 アクアマリン福島
1997年12月16日 1997年に僕は何歳だっただろう。1997ー1935=62、62歳だった。その頃のことだ。
今は、2017年、82歳の2月、僕は日本水中科学協会のチームで福島に行き、福島第1原発の前に潜水した。 チームは、久保、山本 中川 大西 国方だ。大風が吹いて海に出られない21日、中川、大西は、前夜東京に帰って、出直してくる。福島久ノ浜は、日帰り可能なのだ。2011年の調査の時は、日帰りで10回潜水した。今度は、福島のテレビュー福島の撮影だから、立派な温泉、いわき簡保の宿に泊めてもらっている。 国方君は近くの富岡の出身だとか、同級生に会いに行った。残りの久保さん、山本さん、僕は、波で壊れた、カメラの取り付けステイを修理する部品を買いにいわきのドイトへ行った。ドイトは本当に何でもある。僕はサングラスと寒さ除けのフードを買った。買ったというより、久保君に買ってもらった。なぜだか、買ってくれてしまって、おカネを受け取らない。まあ、仕方が無い。サングラスをかけるたびに、これはいわきで久保君に買ってもらったと、ひそかに感謝しよう。少し面倒ではあるけれど。 宿に戻ってきて、久保さんはのんびり温泉に浸かっているという。山本さんはアクアマリンに行くという。しばらく行っていないので、とか。僕は疲れ切っているので、温泉にしたかったが、なんと、僕はアクアマリンに行ったことがないのだ。これから書く、あれほどの因縁がありながら行っていない。いや、因縁があるから行かなかったのかもしれない。でも今行かないと、行かないで終わってしまうかもしれない。そういう年齢なのだ。82歳とは。
アクアマリン福島に行くことにした。もちろん見学、遊びに行くのだ。仕事ではない。 僕とこの水族館のつきあいのはじまりは、1967年12月、この水族館のマリンシアターの展示映像制作のコンペに始まったのだ。 このことを書こうと思ったのだが、日記記録がない。思い返して適当なことを書いた。適当にある程度書き終わったころ、別の調べ物で書架を見たら、大型映像 というクリアーファイルがあり、このときの映像コンペの書類が全部出てきた。 僕の記憶と全く違っている。なにか証拠になる書類を見ないで、記憶だけでなにかを書くことは怖い。怖いけれど、ノンフィクションだからいいや、でも書類が出てくれば書き直すことになる。
僕はそのころ、大型展示映像の水中カメラマンとしてトップを走っていた。と自分では思っている。 1993年から1998年までの僕の作品を並べてみると
① 1993:レザーデスク「水」電通映画社・環境映像 ② 1993:網走『流氷館』ハイビジョン・マルチの映像撮影 ③ 1993: 函館『コンブ館』全天周イマジカ・ビジョンの映像撮影 ④ 1994:東京都立葛西水族館『伊豆の海』3D立体映像撮影 ⑤ 1997:東京都立葛西水族館『珊瑚礁の海』3D立体映像撮影 ⑥ 1998;東京都立葛西水族館『知床の海』3D立体映像撮影
だから、順風だったのだとおもっていた。ところが、今回、1998年周りの記録を調べて、1998年の5月~6月のノートがでてきたので、見ると。来月は三つあった会社の二つを閉めて、スガ・マリン・メカニック一つにしたい。などと弱気を書きつづっている。自分がカメラマンとして走り回っているので、経営が杜撰になったのだろう。借金が肩に重かったのだ。 とにかく、それでも売れっ子だった僕は、この1997年のアクアマリン福島のマリンシアターの大型ハイビジョン映像製作のプレゼンに、二つのグループから水中撮影監督の名前をだしている。 普通、そんなことはありえないのだが、別にプレゼンの条件に水中撮影監督が掛け持ちしてはいけないと言うこともかいていないので、まあ良いかと、一つは、ビクター・ワークスというビクター系列もう一つはイマジカから名前をだした。
とにかく、コンペのプレゼンは、製作会社、プロデューサー、そしてカメラマンが企画書を持って行き、一室に次々と呼び出されて、面接のようなことをする。 ビクターの方が先に出た話で、いくつかの仕事をそれまでにやった縁があった。 もう一つの方はイマジカで、こちらは、35mmのフィルムを横に走らせる8パーフォレーションの巨大カメラのハウジングをつくらせてもらったし、そのカメラを駆使した函館昆布館の「北の炎」も撮影させてもらっている。親しさはイマジカなのだが、話がくるのが遅かった。そしてビクターの方は、すでにプレゼンの企画書もできていた。とにかく断ることはできないので、カメラマンとして二足の草鞋のような気もしたけど、一方ではどちらかが通ればと思ってもいた。
僕はカメラマンとして、そんなに優れていたとはおもわない。そもそも、優れたカメラマンとはなんなのだろう。どういうことなのだろう。カメラを被写体に向けてシャッターを切れば、誰だって写る。バイチャンスで、アマチュアの方がいい絵が撮れることもある。プロとの違いは、プロデュース能力のちがいなのだ。どこへ行って、どういう写真をとれば、どこで売れるかわかっていて、売れる能力なのだ。売れるためにはクオリティも必要になるから、機材のクオリティと、水準の技術が必要なのは前提だけど。水中の場合は、潜って生きて戻ってくる能力も必須となる。大型映像の場合はチームで撮影するから、撮影監督である。 テレビとか展示映像の場合は、別に全体のプロデューサーがいることが普通だから、そのプロデューサーの求めるもの、映像を撮らなければならない。それは、なかなか難しいことなのだ。 プロデューサーとの人間の組み合わせがうまく行くこともあるし、まずいこともある。あんまり喧嘩をした記憶がない。あ、あった。一度だかあった。がこれは、僕から喧嘩したのではなくて、首を切られたのだ。僕はわがままだから、自分の思い通りにする。摩擦が起こると、割合すぐに謝る。謝ることで、打ち解ける人とは一生のともだちになる。中には決して許さない人もいる。そういう人は一生の友達はいないはずだ。
※これまで、僕のブログは脱線が多く、脱線をやめる方向で書いてきたが、脱線こそが、ブログのようなものでは、命 かもしれないと脱線は自由にしようということにした。
脱線、ニューカレドニアのジュゴン ジュゴンと言えば、沖縄だ。そしてパラオで益田さんが撮影に成功した。だれかがフィリピン、インドネシアでも撮っている。 ニューカレドニアにもジュゴンがいる。 その撮影は別にジュゴンの撮影が目的ではなかった。大塚孝夫さんという素敵な人がレポートする。もちろんちょっと潜ってみせる。その部分はうまく撮影できた。それから、カタマランヨットでカレドニアを一周する。それも気持ちよく撮った。 次にジュゴンである。ジュゴンはのんびりしているようだが、臆病で、逃げる時にはイルカのように速く泳いで逃げる。イルカよりも速いかもしれない。それにイルカはボートの走りに寄ってくるが、ジュゴンはただ逃げて、それで終わりだ。 ニューカレドニアには、ジュゴンの見える丘、ではないか、ジュゴンが見える崖がある。今もいるかどうかは知らないけど。崖から見下ろすとジュゴンが1頭泳いでいる。たいてい居るらしいけれど必ずとは言えない。ぼくたちが行って見降ろしたときは居た。ジュゴンを崖の上から撮影する場所としては悪くない。水中でも悪くないと思う。しかし、どうやって? 崖の上からジュゴンが見えたら、下の水面に浮いている僕に合図する。あっちの方にいると合図する。あっちの方に静かに泳いでいく。ジュゴンは餌を食べたりしているのだろうから、運が良ければ撮れる。僕はカヌーのような手漕ぎのボートを用意してもらった。 僕は運が悪かった。それに、一日だけのスケジュールだ。
次は、月がとってもきれいだから、水中から月を撮れという。ボートを出してやってみた。半水面で月を撮っても、月は小さくて点のようだ。波に揺られてズームインすればめちゃくちゃだ。それに、水中に射し込む月の光なんて、暗くて写らない。水中ライトを使って、月のイメージをつくれば良かったのか、と後になって思った。しかし、やらなかった。月は撮れなかった。ジュゴンも撮れない。 僕は、レポーターの大塚さんの絵は良いと思ったし水中の魚も、カタマランの走りも良かった。これでもう十分と思ってしまった。ジュゴンも月も無理だ。監督は怒ってしまった。
カメラマンとして監督を怒らせたのはこの一回だけだった。このロケでは、成立している良い部分も監督は使わなかった。その監督の上に立つHプロデューサーは親しく、何度か一緒に仕事をした。その縁でこのロケをしたのだが、「どうしたの? 悪い男ではないのだけれど」と心配してくれたが、どうにもならない。 このHプロデューサーとは、ハワイアンシャークハント というとんでもない番組をやっている。ハワイのワイキキの浜辺をジョーズが襲ってきて、サーフィンしていたお兄さんを食われた、その弟が仇を打つドキュメンタリーだ。そこまでは脱線しない。
話をアクアマリンに戻して。 今、2017年に、おそらくカメラマン人生の最後でそして、頂点だったと思われる1997年、62歳の時点でのコンペ企画書を見ると感慨にひたってしまう。
▲
by j-suga1
| 2017-05-02 11:02
| 福島
|
Comments(0)
2017年 04月 15日
13日のワークショップ、福島での潜水をテーマにした。満席だったし、河田真智子さんからお花をいただいたし、内容は、自分の思うとおりに話せたし、山本さんとのコンビネーションも良かった。 ![]() 写真は2013年江戸川で測定しているところです。 ダイブコンピューターの専門家である今村さんが、見においでになって、フェイスブックにまとめを書いてくれた。よくまとまっている。今村さんは、ダイブコンピューターと減圧症の関わりを講演して全国で好評である。わかりにくいことをわかりやすく説明する才能がある。 僕も昔はそういう才能があると思われていたが、今はわかりやすいことを複雑にわかりにくくしている嫌いがある。特に、字数に制限のないブログでは書きすぎてしまう。 ここでは、さぼってしまって、今村さんのまとめを借りてしまおう。他者の目の方が客観性がある。 (今村さん 使わせてもらいます。) 裏切られたという表現は適切ではないですが、 今村さんだけど、自分の夢のダイブコンピューターをつくるそうだ。数日前、ペギー葉山が亡くなって、「あなたでなくては、出来はしない、素敵な夢をもつことよ」について、フェイスブックに書いた。今村さんの夢も実現すると良い。 そして被災地災害地へ出向いてのボランティア活動を熱心に続けられていて、文中にもあるように、各被災地に数十回は往復しておられます。
さて、フェイスブックのことがいろいろ出てくる。このブログとも連係している。友達申請に「ブログをいつも見ています」って、嘘でも良いから書いていただければ、即、承認してしまいます。
さて、今村さんのまとめを感心してはいられない。僕も、月刊ダイバーに報告をまとめている。6月号なので、御覧いただければ、うれしい。
結論だが、たった一回ちょっとだけ分析測定器を当てただけで何かをいうことはできない。ただ、現場で測った測定値をCRT画面と、周囲の状況を同時進行の動画で見せただけだ。しかし、分析器は、物差しだから、物差しを信じなければ、はじまらない。それにしても、もう一つのカウンターを同時に置いて、両方を撮るようなことをなぜ考えつかなかったのだろうと後悔している。しかし、これは始まり、スタートだと考えている。水中に放出されたセシウムがいま、どこに、どんな状況で、どのくらいの量があるのか追う調査の始まりだととらえている。出来るかどうかわからないが、出来るところまで、あと数回の調査がしたい。それが終わったら、少しまとまった形でどこかに書きたい。 そのときに、結論みたいなものにまとめるために。次の調査の前に、もう一度、2011年にもどろう。それに、テレビ番組のタイトルが「7年目の真実」だったので、7年前2011年のことをもう一度振り返って見ようと思う。そのころ読んだ資料をもう一度見直してノートをとりたい。残してある資料を出してみた。 東京新聞 2012「原発報道 東京新聞はこう伝えた」 AERA 11年5月4日 原発と日本人 AERA 11年7月18日 魚と濃縮放射能 朝日ジャーナル 12年3月20日 臨時増刊 「わたしたちと原発」 ニュートン 11年6月「福島原発 すでにチェルノブイリ級 レベル7」 ニュートン 11年7月「きちんと知りたい原発と放射能」 ニュートン 14年4月「災厄 福島原発1000日ドキュメント」 11年6月 緊急出版 福島第1原発事故と放射線 NHK出版
次に書くのは何時になるか?だけど ここで自分の心覚えと参考に現場で日記的に書いたブログをリストアップしておこう。
2011年 11月からの福島県久ノ浜調査
そして、2011年 11月には、福島県久ノ浜での調査ができるのであるが、この調査については、 http://jsuga.exblog.jp/16407128/ 2011年10月8日 http://jsuga.exblog.jp/16490814/ 2011年 10月24日 http://jsuga.exblog.jp/16817775/ 2011年 11月11日 http://jsuga.exblog.jp/17002301/ 2011年11月20日 http://jsuga.exblog.jp/17272202/ 2011年12月10日 http://jsuga.exblog.jp/17493254/ 2011年12月31日 http://jsuga.exblog.jp/17618090/ 2012年 1月15日 http://jsuga.exblog.jp/17625846/ 2012年 1月16日 http://jsuga.exblog.jp/17635174/ 2012年 1月18日 NHK「知られざる放射能汚染~海からの緊急報告」 東京湾全体が汚染されてしまうように感じる番組だった。これについては後で別に述べる。 http://jsuga.exblog.jp/17652693/ 2012年1月20日 http://jsuga.exblog.jp/17663262/ 2012年1月22日 http://jsuga.exblog.jp/17670193/ 2012年 1月23日 http://jsuga.exblog.jp/17713445/ 2012年 1月30日 http://jsuga.exblog.jp/17746757/ 2012年 2月4日 久ノ浜サンプリング終了 http://jsuga.exblog.jp/17787903/ 2012年 2月12日 測定器材について http://jsuga.exblog.jp/17796674/ 2012年 2月13日 久ノ浜の謝辞
http://jsuga.exblog.jp/17874111/ 2012年 2月27日 お台場放射能測定
2017年について http://jsuga.exblog.jp/26694784/ 2017年 3月4日 http://jsuga.exblog.jp/26697295/ 2017年 3月5日 http://jsuga.exblog.jp/26700935/ 2017年 3月6日 http://jsuga.exblog.jp/26703333/ 2017年 3月7日 http://jsuga.exblog.jp/26705547/ 2017年 3月8日 http://jsuga.exblog.jp/26710982/ 2017年 3月11日 オンエアー 7年目の真実 http://jsuga.exblog.jp/26774965/ 2017年 4月7日 深夜番組 30分 オンエアー ▲
by j-suga1
| 2017-04-15 21:14
| 福島
|
Comments(0)
2017年 04月 08日
自分がテレビにでること、あんまり好きではない。 なぜかと言えば、テレビ番組は作ったディレクターの作品であり、自分ではどうにもならない部分がある。 マスコミ、メディアは、最初にタイトルがあり、ねらいがあり、そのねらいに沿って出演者、インタビューを受けた者のコメントが編集される。 先日、お台場の環境について週刊誌からインタビューを受けた。僕の言いたいことは、東京湾の奥で、環境的には劣悪な状況で、夏の無酸素をたくましく耐えて、生きる生き物たち、すこしでも、生きやすくなり、増えるように、見守り手助けができるものならば、例えば、小型人工漁礁のようなものを作りたい、水の浄化ができるものならばしたい。そんなことで、コメントをした。内容はコメントに近いものだったけれど、タイトルはやはり、汚染された死の海というようにうけとられてしまうものだった。それは、自分の考え、言いたいことではない、とエクスキュースのメールをだすことに忙殺されることになった。 今度は、放射能汚染の死の海、福島第一原子力発電所の目の前の海に潜り、測定をしようとする番組だ。測定機器、γ線分析器は、テレビ撮影のために作ったものではない。できるだけ細密に、測定がしたい。それが、できるならば、水産のためになってほしい。 そして、「まだまだこんなに汚染されています」というコメントにせよ、「もう汚染は去りました。」というにせよ、微妙である。だから、数値を言いたい。それも、データの発表ではなくて、テレビ画面に数値が映し出される、改変、データ改竄のできようがない姿で映しだしたかった。 番組のディレクター桶田さんも同じ考えであることが、わかり、協力することになった。 これで、とにかく、自分の意見、自分が映し出そうとしたものは、そのまま出してもらえるとして、撮影に入った。 それでも、このような題材であるデータが独り歩きすることが、怖かった。いいじゃないか、独り歩きするならば独り歩きさせて、こちらは、その独り歩きしたデータを検証したいと計測をさせてもらえば良い。
それでも、間近になると怖かった。たとえば、線量計を持って走り回り、あらさがしをするように放射線量の高いところを見つけ出し、囃し立てるようなことになるのは嫌だ。その逆も困る。 行くしかない。行って自分の感じたことをコメントすればいい。
桶田ディレクターは、ほぼ自分の見た目、自分の感じたことを伝えてくれた。 観測値については、観測値だけを映し出す。 言うまでもないことだが、これだけの測定で、何かを言おうとは思っていない。これで、この観測を定点で、定期的にすれば、また、移動してもっと第一に接近し、海底の地質の違うところを測定できればとねがっている。
福島の海は、今も昔と変わらない。中川隆の撮った映像も、自分がカメラを持って撮影したものと、ほぼ同等と思える絵を撮ってくれた。 ▲
by j-suga1
| 2017-04-08 19:56
| 福島
|
Comments(0)
2017年 03月 11日
今日、3月11日、14時からTBSのオンエアー、どんな形になるか知っていないが、それはもう制作するプロデューサーの側に任せるのが僕のスタイルだ。撮影ロケが終わった後も編集の段階で、自分の意見を言いなおさせる人も少なくないが、それでは、、すっきりしたものにはならない。自分の意見と制作者の意見は大きく異なるのが常であり、その調整など出来ないし、時間の無駄である。 どうなるか、楽しみに見た方がいい。
今度の潜水、82歳としては、いっぱいいっぱいだった。僕が1969年に大和田さんと江名の魚礁二潜ったとき、二人ともウエットスーツだった。その時、34歳の自分と、いま一緒に潜ったらどうだろうな、想像する。 そのころ、ダイバーの現場定年は45歳頃だとおもっていた。45歳になったら陸に上がって社長業に専念して、会社を発展させようと考えていた。それがちょっとした弾み、日本テレビの山中さんというプロデューサーに出会い。そのご1986年51歳のときに娘の潮美とニュースステーションを始めたことで、人生の計画がくずれ、この年齢82歳までダイビング人生を送ることになってしまった。 今、カメラマンの中川はたしか62歳だ。その運動能力、すごいなーとおもう。 ダイバーの現場年齢が70歳ぐらいまで、いや75歳ぐらいまで上がったのだろうか?。 82歳というと、すごく頑健なひとのように僕を見てくださっている人が多いと思うけれど、自分でも(主観的にも)よその目(客観的に見ても)で見ても、自分は病弱だとおもう。もっと鍛えておけば良かったと反省もする。ただ、タバコを30歳でやめたこと、お酒は53歳、ニュースステーションの途中でやめたことは、良かった。それと、自分は病弱だと思っていることが今でも潜水を続けていられる理由なのかもしれないともおもう。
年齢のことは忘れなさいというが、忘れられるものではない。各方面から、今まで出来ていたことをやめるようにプレッシャーがかかる。高齢ということ、半分は周囲にたいする戦いである。 今回の番組も、僕が高齢であるということがそのテーマの一つになっている。それは自分にとって好きではないけれど、それを認めなければ、福島に自分の身で潜ることは出来なかった。 さて、まだ福島はやめないつもり、今度の潜水で、連続した定期的な定点潜水調査が必要だと改めておもった。 ▲
by j-suga1
| 2017-03-11 10:50
| 福島
|
Comments(0)
2017年 03月 08日
2月23日 予想通りに天候は晴れ、風もなさそうだ。バイキングを食べてから出られた。
今日潜水できたら、これでロケは終了し撤収するので、チェックアウトをして出るという。僕は何の相談も受けていない。出演者なのだ。 自分的には、ようやく身体も慣れてきた。調査ならば、これから、という感じなのだ。まだ何も調べていない。機材のテスト程度しかしていない。 しかし、これはテレビロケなのだ。このごろ、テレビから足が遠くなっている僕の感覚がちがう。桶田プロデューサーが、これで十分と言えば充分なのだ。
潜水は四倉沖の江名に潜る。江名はS44年に福島の魚礁似始めて潜ったときの場所で、大和田さんと潜った。途中、気分的に折れたときには、ここで黄金のアイナメを追うことにしようなどと言ったこともある。 潜る予定のポイントは高さが10mあるペンタリーフという大型魚礁だ。
久ノ浜を出て、福島第一とは逆方向、遠ざかる方向におよそ40分。GPS位置もしっかりとれているし、魚探にも大きく写るはずだ。 少しばかり捜索して、魚礁を見つけ、今度は大きいダンフォース型錨を潜降索のアンカーに着けた。 今度はマスクマウントもGOPROを着けた。分析器も完璧だ。潜水の手順、段取りも各自よくわかってチームになっている。中川が撮影、須賀が出演、山本が分析、久保はDPVでアンカー周辺を回って、魚礁とアンカーの間にラインを張る。ラインが長い場合には、須賀を曳航する。これは、オーバースペックだと思うけれど、態勢として完璧だ。大西がゴムボートオペレーター、国方が及川丸での機材降ろしと引き揚げ、須賀の引き揚げ、など上回り全般。 水温が11度と暖かいので、ドライスーツは、インナーの下着をダマールとDeepだけにした。これで足の浮きが若干改善されるだろう。 水深は32mを予定して、僕の潜水時間は8分とした。31%のナイトロックスを使う。
久保さんが先に潜って捜索してラインを張る。かなり時間がかかっている。アンカーから15mの位置に大型魚礁がある。 中川、山本が飛び込み、ゴムボートに着いてから、須賀が入る。やはり足、下半身が浮くけれど、それは自分が斜め45度の姿勢に慣れてしまっているからだろう。中川が僕を撮影しながら潜降していく。 以下の説明は自分のマスクマウント ウエアラブルカメラの撮影結果を見ながら書くことができる。このマウントの撮影、自分ながら上達している。そのまま見られるし、相当迫力がある。編集してスマートフォンに入れておこう。 32mの降下は長く感じるが、安全策としては、速すぎるだろう。下を見ながら潜っていくので、かなり濁っている感じだが、ヘッドマウントの撮影結果から、やや上向きになった映像をみると、福島沿岸としては、透明度が高く、ペンタリーフの向こう側、7mほど離れたところに、1.5角の魚礁一個が見える。1.5角魚礁群の上に、大型を枕設したのだろう。カメラは1.5を見て、写しているが自分の目は確認していない。 アンカーまで下りて、魚礁に引いたラインにすぐに乗る。下りながら大型が見えるかと思っていたのだが見ていないのでラインがあってよかった。 山本さんの分析器を見る。これも演出的だ。上方にキツネメバルが見える。あまり大きくないがスチルを撮ろうかとカメラを構えると、誰かが僕の身体の方向を力を入れて動かした。その方向、足下に大きなミズダコがうずくまっていた。ライトを点けて、スチルを何枚か撮る。1枚か2枚で、他を見た方がよかったが、視界が狭い。タコから目を離すと、黄色いアイナメがいた。黄金とまでは言えないが、黄色い。そのアイナメに接近したが、追い写しをしてしまう。カメラマンとしては落第だ。最近スチルを撮っていないので下手になっている。追って、魚礁から少し離れた。久保さんが、戻るか?と聞くので、浮上のサインを返す。 ロープをたぐって浮上する。久保さんは僕の上に居て抑える形だから、これで良いと思って上がる。 DPVは完全な中性浮力で彼の横に漂っている。手は触れていない。このDPVの優れたところは、ここなのだと思う。これまでのスクーターならば、手に持っていなければいけないだろう。手が塞がってしまう。 久保さんとの浮上サインを確認して水面にでる。新しいダイブコンピューターの安全停止の表示は、やはりよくわからない。安全停止は確認できていない。ダイブコンピューターの画面をみると、目一杯速度違反のマークがでている。M値の表示のところには、DECOのマークが点滅している。31%のナイトロックスだから、良いのか?ナイトロックスへのダイブコンピューターの切り替えは、面倒すぎる。空気のままナイトロックスを使えばそれで良いと考えていた。 10時53分潜水開始、最大 34。3m 潜水時間17分 水温12度 速度表示は最大、右はDECOのマーク点滅。 全面的な信頼を置いているのだが、久保さんの潜水時間は長い。僕たちの潜る前にライン張で潜っている。僕よりも先、上に上がっている。別に停止はしていない。多分、僕たちの潜水を、水深20m辺で見下ろしていたのだろう。僕は彼に右へ倣えで浮上している。31%ナイトロックスならば、これで良いのか。良いのならば、調査の潜水はすべてナイトロックスが良い。 帰途、四倉の道の駅で食事をして速攻で東京に帰ってきた。
さて、これで終了だ。番組の放映は予定どうり3月11日午後2時、長さは多分10分程度だろう。その後、日を改めて30分の番組を作る予定とか。 僕自身が老いた姿でテレビに出ることは、恥ずかしいのだが、そのことでこのような番組を作ることができ、γ線スペクトル分析器も世にでたとすれば、厭ってはいけない。 ▲
by j-suga1
| 2017-03-08 21:26
| 福島
|
Comments(0)
2017年 03月 07日
2月20日 剣だしは、福島第一原子力発電所の沖、およそ6キロにある天然礁である。かつて、スガ・マリン・メカニックで福島県水産試験場の依頼で調査したことがある。残念なことに実際に潜水したのは自分ではなかった。チーフダイバーだった河合が調査した。その報告書を垣間見たことがある。岩が入り組んでいて隙間がある。魚が隠れる、集まりやすい良い磯なのだ。そして、河合が言っていた、福島らしからぬきれいな磯だと。その場所の平面図だけが、なぜか残っている。僕が行きたいと思って残しておいたのだろうか。
桶田プロデューサーと最初に会った時に見せたのもこの剣出しの図だった。なお、この磯根の名称は、各組合によってちがうらしい。剣だしとは、あくまでも僕の持っていた図に書かれた名称である。手にしている図にも、イシキネとも書いてある。 2011年に福島県水産試験場におじゃましたとき、スガ・マリン・メカニックで調査した報告書が書庫にあり見せてもらった。写真が入った報告書で、その中に、この磯ねの報告書もあって、見たような記憶がある。今回訪ねた時は見せてもらえなかった。テレビ局の取材も兼ねていて、カメラが入っていたからだろうと思う。 終わりに、結論として剣だしのことはもう一度のべるが、僕の調査手法の基本は定点連続観測である。この根は定点になる。
20日朝、早朝の出発だった。聞いていなかった。すでに述べたように今回の自分は、潜水計画、段取りの中枢ではない。出演者という役割だ。 午前中だけがかろうじて潜れる海況だろうとは、僕も予想していた。たたき起こされる形になった。一緒の部屋の久保さんは、規律正しく、朝もきちっとしている。もう出発できる状態になっている。僕は朝が弱い。10時頃にならなければ、人として機能しない。 車に乗せられて、久ノ浜に向かう。10分ぐらいで到着してしまう。せめて1時間かかれば、眠れるのに。潜水機材はすでに船に積んである。撮影調査機材を用意して、潜水機材は確認すれば良い。 僕の撮影機材は大げさなものではない。昔使っていたsea&seaのシンプルなハウジングにフィッシュアイのライトをつけた。深さ40mでも大丈夫だし、いざというときに手放して捨てても良い。 中川はお道具といえるプロの撮影機材を持つ。軽量のカメラを用意してきているがそれでも大きい。山本君は、ガンマ線分析機を持つ。久保さんは大きいDPVを持っている。僕が流されたとき、ゴムボートに到着出来なかった時に曳航してくれるという。そんなことは無いが、スーパバイザ―である。
久ノ浜から第一の前までは、40分ぐらいだろうか。剣出しのGPS位置は、漁師に正確な数字をきいている。 沖合、6キロ沖といっても、第一はかなり近くに見える。 第一をバックにチームの記念写真を撮る。
潜水準備をする。いつも何か重要なものを忘れる。マスクを取り違えている。ウエアラブルカメラが取り付けられないマスクを持ってきてしまっている。これは、痛恨と言っていい。僕の見た目の映像が撮れないのだ。このため、このポイントの水中写真がない。
泣いているわけには行かない。 凪とはいえないまでも、ゴムボートが出せる。 及川丸は、停止して、その周辺を小回りする。GPSの位置なのだ。小高く盛り上がっている上に来ている。位置決め、潜降の錘、ブイを入れる。船から飛び込んで、ブイまで泳ぐのがいつも不安である。泳ぐトレーニングは欠かしていないが、不安である。恐怖心、不安を大事にする。安全は恐怖というカードの裏側だ。などと書いているが、本当に不安だ。 上回り、潜らない世話役の国方君がタンクを背負わせてくれる。みんなが入り、スタンバイした状態で、船を近づけて貰って、サイドロールで飛び込む。 泳ぐと、少し流れがある。流れというほどの流れではないのだが、下半身が浮いているような感じがする。インナーの浮力に慣れていないだけだと言い聞かせて泳ぐ。潜降索につかまってたぐるとすこし緩い。余分があるということだ。山本さんと一緒である。僕は、水底でγ線分析器を操作する。それを中川が撮影する。このカットを押さえれば、あとは、その場の生物を撮れば、この撮影は成立する。 潜降索をたぐるが、下を向いているので暗い。人間の目はカメラの目に比べて暗い。
海底に着く。泥岩という感じ、所々にオレンジのホヤが着いている。γ線分析器を手に取る。驚いた。 分析器は上面のCRT表示、テレビモニター画面を上からウエアラブルカメラで撮影記録するようになっている。そのウエアラブルカメラが飛ばされてしまってない。取り付け部が衝撃を予想した強度がなかった。これがこの日二回目の痛恨、もう一つ痛恨が続くのだが、それは後からわかること。 分析器を持って少し泳ぐ。岩ノ下に隙間がある2mほどの高さの磯に接近する。魚、多分メバルの類が、右手下に見えた。それをゆっくり見る余裕がない。視界が狭窄している。岩ノ下に分析器のヘッドを差し込んでみる。 自分の潜水時間は無減圧で、8から9分時計画していた。後ろでカバーしてくれている久保さんに浮上の合図をする。潜降索の位置までは10mも離れていない。 ロープをたぐるのは長くかかるという感覚がある。むかし、福島の魚礁に潜水したころとは、浮上の速度が2倍以上遅くなっている。 波が出てきているのでセフティストップは5mでする。新しいダイブコンピューターi300 は、セフティストップの表示がわかりにくい。 頭を抑えるように上に見ていてくれる久保さんが上がったので、僕も上がる。波がかなり高くなって来ている。BCとウエイトを脱ぐのに手助けを受けてしまう。本船にもどり、船縁から手を降ろしてもらって、よじ登る。それほど息は切れていない。 潜水開始 9時42分 最大水深27.2m、潜水時間14分 水温11度 波が高くなってきて、山本さん、中川が機材をあげてよじ登り、ゴムボートの引き揚げを見ると、このくらいがゴムボートを使う潜水の限界かと思う。 中川の撮影プレビューを見ると、カレイ、そして黄色いアイナメもいる。カレイは手乗りのように接近出来たという。海底はオレンジのホヤで美しい。 とにかく想像していたよりもきれいだ。これが、福島第一の目前なのか、福島の海は生きている。
明日21日は風が強くなる予想で、潜水は中止、中川と大西は、東京に戻った。 僕は、気圧配置は冬型だから、明日も早朝は潜れるのではと未練を残しているが、とにかく、福島第一の前に潜水でき、撮影もできた。自分については痛恨がいくつかあるが仕方ない。 温泉に入って身体をやすめよう。
2月21日 宿の夕食は相当に豪華であり、朝食のバイキングもとても良いのだが、あまり食欲がない。と言って食べないわけではない。 分析器のカメラはゴムボートの上で外れて飛んでしまった。外れないように取り付ける工夫、工作をしなければならない。みんなでドイトに行った。取り付けはうまく出来たのだが、いわきのドイトは大きい、何でもある。東京人のくせに田舎にきて感心している逆おのぼりさんだ。僕はサングラスを買ってしまったが、一括して久保さんが払ってくれてしまった、テレビ局に請求すると言って、僕が出そうとするのだが、聞いてくれない。ありがたくいただいて、久保さんに買って貰ったサングラスということで、大事に使おう。
宿に戻り、国方君は富岡町の同級生にと会いに行く。久保さんは温泉でゆっくりする。山本さんはアクアマリン福島に行くという。 僕は疲労が大きいので、常識的には温泉を選択するべきだ。僕は迷ったが、「えい!」っとばかりに、アクアマリンを選択した。アクアマリンとは因縁があり、書くことがたくさんあるが、それは別の話だ。
このブログの撮影のオンエアーは、3月11日 午後二時 TBS テレビです。 ▲
by j-suga1
| 2017-03-07 21:12
| 福島
|
Comments(0)
2017年 03月 06日
2月19日、 2時に目覚めてしまった。6時に事務所で待ち合わせだから。僕の睡眠のピッチは4時間だから、次は6時に目覚めることになる。それでは、間に合わなくなるので、眠れない。 5時30分に事務所に行った。山本徹さんが車に乗せていってくれる。5時45分に出発した。 車の中で眠る。 10時に福島県四倉の久ノ浜に到着した。およそ4時間である。2011年には自分が運転して、アシスタントをしてくれる鈴木君を拾い、12時少し前に久ノ浜到着。15時頃に潜水を終了して、16時ごろ東京に向かって走る。往復自分で運転する。6年前はまだまだタフだった。
11時には、全員集合して、潜水準備を始める。河童隊の中川はゴムボート2隻を車から降ろして組み立てを始める。大西がゴムボート運用の中心である。 久保君は、僕と山本さん三人の使うタンクを持って来ている。31%酸 全体の世話を総合的に見る、上回りを日本水中科学協会運営委員の国方君が引き受けてくれる。彼は、第一原発に近い富岡町の出身だとかで、来てくれた。ダイビングの関連者は、自分も入れて、総勢5人である。この編成も、機材の用意もこれから始める潜水の段取り、僕が一番大事なこととしている段取りもすべて中川が中心になって仕切っている。これまで、すべてのオペレーションで、僕が中心だったが、今回は中川である。僕は一切主張はしない。こんなことは、初めての体験になるが、船頭多くして、船、山に登るというたとえもある。 自分は、自分の道具の心配をしていれば良い。レギュレーターは、整備してきたDWだが、セカンドを換えてくれたので、マウスピースは、特に小さいものを使っていたのだが、普通に小さいものに変わってしまった。別に問題はない。BCは、これも30年ものの、旧アポロのプレステージである。着脱が目をつぶっていても手早く出来なければならない。ドライスーツはワールドダイブが、2013年に作ってくれたもので、その後使いこなれている。5mmのドライである。問題はインナーである。中川も久保さんも、山本さんも、大西も国方君も、みな今時の綿入れのようなインナーを着ている。僕は1980年代に流氷の潜水を重ねた時に着ていたインナーだ。裏が起毛で、表は水を跳ね返す黒い生地だ。DEEP というタッグが張ってあるから多分シンギーのものだろう。お台場では、 キルティングの作業員つなぎを着ているが、昔のDEEPを引っ張り出して来た。一番下にダマールの上下を、これも80年代、流氷時代のものだ、その上に「日だまり」これは柴田君に最近もらって気に入って着ている。普段の生活では、ダマールと日だまりを交互に着ている。それを重ねた。2012年の冬、ここ久ノ浜で、水温は5ー6度だった。その時何を下着に着ていたか覚えていない。特別のものを用意していれば覚えているはずだ。覚えていないから、多分お台場で着ているキルティングだったろう。 船に機材をすべて積み、昼食のお弁当を食べ、港も真ん中に船を置き、ゴムボートに分析装置を積み、アンカーを降ろしてブイを打ち、潜水を開始したのは14時59分、僕はタンクを背負い、サイドロールのようにして、飛び込んだ。船縁は高いけれど、そのことは問題ない。やはり冷たく感じたがダイブコンピューターの測定では11度もあった。山本さんのダイブコンピューターが10度だったから、間違いではない。 飛び込んで二呼吸ほど深呼吸すると、収まって泳げる態勢になる。泳いでゴムボートに向かった。ウエイトが軽くて沈めない。 7キロのウエイトベストに4キロのベルト、レッグが1。5キロ、タンクが12リットルだから、下着は増えたが、お台場と同じで良いと思った。久保さんから3キロもらって、BCのポケットに入れて、沈んだ。海底の水深5。9mでは、オーバーウエイトになってBCに空気を入れた。下では普通に泳げたが、水面で足が浮くのは困った。立ち姿勢になり空気をぬいても、足が浮く感じになる。身体のバランス感覚が悪い。9分間潜水した。この場所は2012年に潜水したところなので、よくわかっている。柔らかい砂で、巻き上がるけれど、ヘドロではない。2012年には線量が二桁上がる。ホットスポットがあったが、そのスポットに ゴムボートに上がる時、5mmのスポンジ手袋では、手早くバックル類を外すことが出来ず、付き添ってくれている山本さんとボートの上の久保さんが引きはがすように手早く脱がしてくれてしまう。自分で手早く脱げなかったことが、少し悔しい。手袋に慣れていないのだ。
とにかく予行演習は終わった。これをやらなければ、危ない。内側から感じる体調は悪かったが、外側から見たら、わからない程度だろう。
宿は、「いわき簡保の宿」という温泉だった。冷たい水に浸かったあとの温泉だからごちそうだ。 ▲
by j-suga1
| 2017-03-06 19:24
| 福島
|
Comments(0)
2017年 03月 05日
桶田さんの努力で、出てくれる船が決まった。久ノ浜の船だという。2月内に撮影を終了、3月11日に放送と最初の段階で予定していたのだが、ほぼ予定どおり、2月19日に出発することに決まった。25日までに何日間潜水ができるだろうか。。
2月10日、いわきへ行く。 水産試験場と、久ノ浜の船を見に行く。 試験場では、僕の調査の趣意を説明し、スガ・マリン・メカニックがやった調査の報告書のコピーをもらう。魚礁のGPS値を教えてもらう。 福島の魚礁はほとんどが水深40m線にある。最初に考えていた双葉の魚礁も大熊の魚礁も40ー50mにある。40m以上は混合ガス潜水になるし、福島の海の状況、そして、自分の年齢を考えると、自分が潜るのでは35mが精一杯だ。福島第一の前の天然礁、剣だしは、水深25m線にある。そして、四倉沖、江名の魚礁は、水深32mだ。 水深ということで絞るとこの二カ所が候補になる。 漁場環境部長の談では、今はもうほとんどの魚種がセシウムは検出されていないし、線量も基準値以下で、出荷制限も解除されている。2012年に来た時には、タコが食べられるぐらいで、漁はしても、測定しては廃棄だった。 「アイナメはどうでしょうか?」ホームページでも確認できるのだが、インタビューの形で撮影されていたので、僕は訊ねた。「アイナメはもちろん大丈夫です。」福島県四倉のアイナメは、特に美味で、震災前は、ブランド魚だった。そして僕はこのアイナメに特に思い入れがある。 平成26年:2014年に書いた「ニッポン潜水グラフィティ」のおわりに囲み記事で書いた福島沖人工魚礁 「福島県で人工魚礁調査を行った海域は、放射能汚染海域になってしまっている。松川浦、相馬、双葉、大熊、四倉、江名、すべて沖に人工魚礁があり、潜っている。1970年代のホームグラウンドだ。そして、その1970年代は福島県水産試験場の大和田技師と潜っている。大和田さんは、人格が丸く、顔も丸く、身体も筋肉質で丸い。ダイバーとして、僕より上だった。なぜかと言えば寒さに強い。良いダイバーかどうかは寒さに対する強さで決まる。冬、水が澄む頃、相馬の沖から岸を見ると、空気も澄んで、蔵王あたりの山並みが見え、まっすぐに北西の季節風が吹き下ろしてくる。潜水を終了して船に上がると、大和田さんはウエットスーツをがばっと脱いで真水をかぶる。蔵王おろしが当たって身体から湯気がでる。僕もまねしてみた。たちまち身体が硬直して、もう少しで低体温症で凍死するところだった。 震災、大津波のことで何かの役に立ちたいと思ったが、瓦礫の引き揚げは、僕の年齢では足手まといになる。僕でなければできないこと、海に流れた放射性物質の調査を企画した。理化学研究所の守屋さんとともに、彼の微細生物の研究をたすけて、久ノ浜で調査が出来、10日間、うねりの中、濁水の中で潜った。その経験を生かして水深40mまで持ち込める放射線スペクトル分析装置のハウジングを後藤道夫に作ってもらった。彼の最後の仕事だったろう。昔潜った双葉沖(福島第一原発の前だ)の人工魚礁に潜って調べたい。大和田さんの力を借りたかったが、試験場で消息を訊ねると、「残念なことでした」という答えが返ってきた。大和田さんも津波には勝てず、流された。そして僕は福島第一原発の前の海には、いまだ潜れていない。」 これが、今度の企画の原点、僕の書いた企画書ともいえる。大和田さんはすでに定年退職されていたが、彼が生きていれば、僕の潜水は、実現していただろう。少なくても今度の潜水で船の上で助けてくれただろう。 大和田さん、福島魚礁との付き合いの最初のころ潜ったのが、四倉沖、江名だった。その時に書いた魚礁調査報告書のコピーがPCに残っていた。昭和44年:1969年報告書とファイルにタイトルが付いている。その中で、これがベストショットだった。オレンジの縁取りになっている。黄金のアイナメだ。 黄色いアイナメは、アイナメの婚姻色でそれほど珍しいものではな 大和田さんは、腕いっぱいに抱えるようにして、オレンジのホヤをもぎ取ってきた。「拓水」という調査船の甲板の上で、ナイフでホヤを開いてたべた。これまで口にしたことが無い味だった。 ☆★☆
船を出してくれるという久ノ浜は2011年10回の潜水をしたところだ。 船は及川造船の及川丸、及川造船は漁港の中心部を大きく占めている。港の最有力者なのだろう。2011年には造船場も大きく破壊されて、壁もなく屋根と半ば破損した作り掛けの船があったが、今は、どんどん新しい船を造りだして居る様子である。作り掛けの漁船が何隻も並べられている。 及川丸は、25人乗りの釣り船で、船室もあり、風を避けられる。心配なのは船へのエキジットで、僕たちはゴムボートを使うつもりであり、またゴムボートがなければ、潜水できない。 人工魚礁調査では、アンカーを入れて、アンカーロープに沿って潜水していくのが常道であるが、魚礁の位置に、潜降索をかねた目印ブイを入れ、それにゴムボートをつなぎ、本船は近くで見守り流しているのが良いということになった。
海を背にして、インタビュー、感慨として、僕の潜水人生のほぼすべてに関わってきた人工魚礁調査が、本格的なものとしては、これが最後、その時僕は本格的調査をするつもりになっていた。最後だと思うと感慨がある。そして、福島の海を一緒に潜った大和田さんに思いを馳せた。いま、ここに居たら、この場にいたら、そんなことを話した。
2012年の調査でお世話になった八百板さんはその時で80を越えていて今の僕よりもはるかに元気だった。今もお元気だろう。及川さんに訊ねると、お元気ということだった。戻り道で、船だまりを見ると、小さい、下から二番目に小さい八百板さんの正栄丸がいて、漁の支度がしてあった。多分刺し網漁をされているのだろう。本当にお元気らしい。多分87歳か。 東京に戻って、夜、1人になると考えた。僕の放射性物質の調査が何になるのだろう。もはや、魚からはセシウムは検出されていない。つぎつぎと生産制限も解除されている。その時にセシュウムのグラフ表示の調査映像が放送される。グラフと言うものは、レンジの取り方で、如何様にも見えてしまう。 人工魚礁調査で黄金のアイナメを追うことをメインテーマにして、第一原子力発電所はサブテーマにしたら?と提案した。
それでは、第一の前に行かないでお茶を濁したという言い訳になってしまう。が、黄金のアイナメは、テーマの一つとしておもしろい。
そして、なぜセシウムを測ろうとするのか。考え抜き、なぜ?が見えてきた。そのことは、もう一度、後に書こう。
☆☆ 2月13日、風邪を引いてしまった。インフルエンザが流行している。インフルエンザになったら、福島の企画、福島に潜ることは出来なくなる。一日、外にでないで横になっていることにした。
2月14日、 起きあがらなくてはいけないと、起き上がるが全くの無気力とはこういうものかと思うような状態、予定を四つ入れていた。①ダイブウエイズにレギュレーターを持って行き整備してもらうこと②お台場の潜水の申請書をつくり出しに行くこと。お台場の申請は、この後、もしものこともあるのだから、尾島さんの奥さんにバトンタッチするその予行を一緒にやろうと話していたのだが、とてもそんな余裕はない。自分一人でやるのが一番楽なのだ。③ワークショップ、久保さんがDPVの話題を、④ワークショップの後、福島行きの最終打ち合わせをする。 ①②はキャンセル可能、③④は不可。 困ったことが一つ付け加わった。ヒャックリ、横隔膜の痙攣が止まらなくなった。 ワークショップと打ち合わせは何とか、それほど具合の悪さは表に出さずに終えた。潜水すればすべては治る。と言うだけ。幸い、締めの飲み会は機嫌良く、横隔膜の痙攣もおさまって、過ごすことができた。
2月15日 横隔膜痙攣はまたはじまった。胃の調子が少し悪いことと、心理的なプレッシャーのためだろう。 お台場の申請、ダイブウエイズのレギュレーター整備を終えた。レギュレーターのセカンドが30年前の型だと言われた。30年整備をしなかったわけのものではない。度々、見てもらっては来ているが、セカンドはこれが一番気に入っているので、残っている。手島さんは、あんまりだ、ということで、10年ぐらい前?の新型に換えてくれた。新しい型を次々出すメーカーとしては、ギャランティ出来ないというのだろうが、ゴム製の部分だけ換えればレギュレーターは何時までも生きている。東亞潜水機時代、僕はレギュレーターのデザイナーだった。ダイブウエイズの武田さんは、僕の弟子筋なのだ。手島さんは孫弟子になる、と脅迫して、サービスさせている。サービスだから必要最小限度にしている。 2月16日 横隔膜痙攣はどうやら治めたが、喉の痛みがでてきた。これもかなりやばい。古い売薬が残っていたので飲んだ。よく効く薬だ。日本水中科学協会の運営委員会がある。資料作りは最小限度させてもらった。お弁当は食欲がなくて残してしまった。最新ダイビング用語事典Ⅱについて、中川が、このようなものは売れないだろうと今頃になって異論を唱えるが、論争する気力はない。 2月17日 事務所で福島の機材準備をする。今度のテレビ取材の長島カメラマンが事務所の倉庫化した状況でのインタビューを撮りにくる。僕の状態をカメラマンの目で見れば、心配だろう。 2月18日 故大岩先生を偲ぶ会があり、大岩先生には僕の60歳100m潜水の後ろ盾になっていただいたり、お世話になっている。出席の通知を早くから出していたのだが、自重して欠席する事にした。池田知純先生とお目にかかって、高気圧障害防止規則改正についてのお話をしようとも思っていた。池田先生のアドレスがあったので、世話役の望月さんに断りをお願いした。 大岩先生の会は、たいへん盛況だったという。
2月19日 そして、出発の朝がきた。 ▲
by j-suga1
| 2017-03-05 10:04
| 福島
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||