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1 2017年 06月 17日
雑誌「海の世界」を軸にして、1970年代のダイビングについて書こうとしているのだが、そもそも、「海の世界」とは、今、ネットで調べても何も出てこない。 運輸省、今では国土交通省の外郭の公益法人である海事広報協会が出していた雑誌だ。 今、海事広報協会のホームページを見ても、海の世界は、出てこない。今、この協会が出している雑誌は、一般向けの「ラ・メール」と船員向けの「海上の友」だ。もちろん、ダイビングは出てこない。そのくせ、海事広報協会のホームページにはダイビング講習のことが出ていたりする。 「海の世界」は、そのうちにネットで調べると、僕のブログに当たるのだろう。 「海の世界」は、昭和30年、1955年の創刊である。1955というと、僕が東京水産大学に入学した時だった。水産大学は久里浜にあり、東京の僕は、横須賀線で通っても良かったのだが、鎌倉に下宿した。その年の秋、僕は鎌倉の雪ノ下にいた。同級生の城君と、木村君、三人の共同、今で言えばルームシェアだ。その通学の駅から雪ノ下までの途中の本屋で「海の世界」の多分、創刊号を買った。鎌倉駅前には大きな本屋があるのだが、なぜか、雪ノ下に歩いて行く途中の小さい本屋で買ったと覚えている。 その「海の世界」は残念なことに今持っていない。 持っているのは、1963年の11月号、僕と舘石さんの90m潜水が載っている。 記事をみると、「人体実験の新しい試み」とある。そのころ、実験的なダイビングは「人体実験」だったのだ。しかし、考えてみると、2017年の今でも、通常の範囲を超えたダイビングは「人体実験」以外の何物でもないのかもしれない。 海上自衛隊の、潜水医学実験隊、そして70年代の海底居住も人体実験だったのだ。 テクニカルダイビングなどというものも、そして、僕が80歳、80m潜水などと言っているのも、「人体実験」に他ならないだろう。 「人体実験」としてのダイビングの意味、考えてみた、今も昔も「人体実験」の意味は、できるかどうか、人体で試してみる。人体実験と冒険とのかかわり、意義、また考えることが増えてしまった。 1963年の「海の世界」は、潜水の記事は、僕たちの潜水以外は掲載されていない。もしかすると「海の世界」のダイビングの記事は、これが嚆矢だったのかもしれない。 そして、何時のころから、ダイビングについての記事が次第に増えてきて、これから扱おうとする「海の世界」になる、その推移も見たいのだが、今、手にしているのは1972年以降のものだ。他にもあるか探してみよう。 なお、「マリンダイビング」の創刊は1969年で、僕はそれを持っていたのだが、潜水部の後輩の田村君がマリンダイビングに就職するとかで、そのお祝いにあげてしまった。田村君は、マリンダイビングをすぐにやめてしまって、今は千葉県の水産センターにいる。 その時には、こんなことを書くとは思っていなかったのだ。 ともあれ、1970年代のことをまず書きたいので、1972年の1月号からスタートする。
平成13年度2001年、レジャー・スポーツダイビング産業協会の発表した「ダイビングの実態に関する動向調査」によれば、2001年のエントリーレベルCカード認定数(累計)は、1126845、およそ112万枚である。そのCカードの数が、折れ線グラフの原点である1984年には13000、である。70年代、Cカードというものは存在していなかった。 C-カードが生まれる、その推移については、別に論じていかなくてはならないが、1980年あたりを境にして、1970年代はダイビングの別の文化があった。 このブログの前回、1980年以前は今のCカード文化の前、有史前のようなものと書いたが、このスキャン作業をはじめて見ると1980年以前は、別のダイビング文化があったのだと思う。 1980年代以降、C-カード文化とそれは別のものなのだ。とすれば、別の文化を調べ、知ることで、現在のダイビング、そして近未来のダイビングを論じて行くことができるのではないか。 その別文化の頂点であった1970年代のことを知るには、その資料を整理すること、つまり、その時期に発行されたダイビングに関連する文献として、雑誌がある。
とはいえ、その全部をスキャン、ファイリングをすることは、(本当はやるべきだろうが)現時点での僕の時間では無理。今の自分の立ち位置から選択してスキャンし、そのポイントを述べて行く。つまり、僕の主観というフィルターを通したものにならざるをえない。 スキャン、ファイリングの後で、オリジナルは保管しておく、ということにして、ここでは自分の位置からの解説を述べ、1950年にはじまり、1960年から1970年代に頂点に達して、1980年代に現在の文化に移って行く、ダイビング、を雑誌を軸にしてみて行きたい。それにしても、たいへんな作業だな。 1970年代のダイビング文化とは。
ブログは試行錯誤の記録。読者が僕といっしょに試行錯誤してもらえれば、それでいい。というのが僕の基本姿勢だ。 ▲
by j-suga1
| 2017-06-17 11:18
| 最新ダイビング用語事典
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2017年 06月 14日
今日こそはブログを書きださなくてはと思いつつ。他のデスクワークと、何もしないでいること、に追われている。
海の世界 1 ダイビングを知るため、ダイビングのこれまでの経緯を見ながら、ダイビングを分析して行こうというのは、最新ダイビング用語事典のⅡのコンセプトである。その一つとして、書誌、これまでダイビングについて書かれたもの書籍として発行されたものを見ていくという作業がある。 ![]() 単行本として発行されたもの。次に雑誌がある。雑誌としてリストアップしているのは、「海の世界」「オーシャンライフ」「マリンダイビング」「ダイビングワールド」「月刊 ダイバー」その他、とうていこれ全部を調べることは、無理、出きる範囲、ということになる。マリンダイビングについては、先頃舘石社長に会ったとき、最初からの全部を閲覧させてもらいたいと、申し入れ、とりあえず、承諾をいただいている。が、まずその前に、自分が持っている、これまで捨てないで残しておいたものも、事務所のガラス書庫の四分の一を占めている。まずそれから見ていこう。自分の持っている部分をまず整理して、その欠けた部分を他に求める。としても、どのようにやったらいいだろう。 ノートをとって読むといっても余りにも多すぎる。とりあえず、ぱらぱらと見て、必要部分に付箋をつけてみよう。まだ、付箋の段階まで行かないで、ぱらぱらだけでたいへんだ。もう一度見返す分だけ抜き出した。まず見ているのは、1972、73、74、これは沖縄返還、そして、沖縄海洋博が行われた当時にあたる。僕が一番、これらの雑誌に書いていたときになる。今から四十有余前だ。先日、Cカードのこれまでの発行数の統計について、少し調べた。これも重要なテーマなのだが。その現在までの発行累計数が120万余りとして、そのグラフの原点が1980年あたりなのだ。だから、僕の活動していたのは、Cカード元年以前、つまり、有史以前?そうか、考えてみると、沖縄海洋博は、今のダイビングの歴史が始まる前のできごとだったのか。海洋博は1975年、EXPO75だ。72、73、74は、その準備段階のころだ。現在お付き合いのある方で、そのころの雑誌でよく見かけるのは慶松さんだ。そのころは、当たり前だが若者だった。40年前だから、30歳前後か。僕は40代半ばか。 そして、工藤昌夫さんが、本当によく書いておいでになる。僕は、ずいぶんと、自分では書いているつもりで、僕が海の世界を書き支えていたぐらいに思っていたが、とんでもなかった。工藤さんだ。ぼくは、田口哲さんと同じぐらいだ。そんな時代のことだ。まだ、どんな風にまとめて行くか、考え中なのだが、選び出したものについて、タイトルだけか、タイトルにちょっとだけノートをつけるかで、その部分はできるだけ写真で複写しておこう。複写しておけば、複数の人で見られるし、原本は捨てるつもりはないが、失っても良い。 これを書いたのが、6月12日だ。 そして、次が6月13日のメモ 雑誌で残しておきたい部分に付箋を入れ、書写機で取り込む。とりあえずこの作業をやってみた。 そして、これはたいへんなことだと、今の自分にとってだが、たいへん重要なことだと気づいた。まずは1970年代の海の世界が、身の回りの書棚の中に5冊ばかりあったので、それを書写した。書写するために少し丁寧に見る。そしてちょっと、読んでも見る。 ![]() 40年前に書いたこと、書かれたこと、ダイビング界が考えていたこと、目指していたことを、ほぼその結果の中に自分たちが生きている。それを今の自分が見ている。それは新しい発見に満ちていて、10年先、50年先が見えるような気がする。もちろん、未来の話は各人各様だろうし、日本の国がどうなっているかわからない。しかし、すぎた40年は確定していることなのだ。もう、どうにも変えようがない。解釈はそれぞれだが、事実は変えられないのだ。 ![]() ![]() ![]() そうか、歴史とはそういうものだったのだ。といまさらのように痛切に感じた。もしかしたら、最新ダイビング用語事典Ⅱは、1950年代から、今まで、1960年代、70年代、80年代、90年代、2000年代、今の2010年代、これからの2020年代、さらにその先の未来を10年セグメントで見ていくことが中心になり、それ以前、アクアラング以前は、若干詳しい、正確な年表で良いのではないか。 とすると、雑誌の書写、そして分析研究が最重要になるのではないか。と気づいた。 今は書きなぐっている、キーボードを叩きまくっているただそれだけなのだが、さらにこの着想を展開して行けば!
1950年代 日本にアクアラングが入ってきて、それが何らかの形で潜水機として定着していく時代、つまり黎明期だろう。そして1960年代、それがなにかの形をとろうとした年代、米国ではロスカンのブルーカードが生まれ、それがNAUIのカードの繋がっていく、PADIがUSダイバーという潜水機メーカーの中で誕生する。日本では、1967年日本潜水会、関西潜水連盟が生まれる。 そしてEXPO75 海洋博が行われ、世界は海洋開発、海底居住実験が盛んに行われ、人類はその夢を海にゆだねる。それが、どのような結末を迎えたか、今の自分たちは知っている。その知っている目で1970年代を見る。 そして1980年代、先日Cカード発行の累計を見て、この累計の折れ線グラフの原点が1980年なのだ。今の潜水世界から見れば、1970年代は有史以前なのだ。 今の2010年代の現実は決して否定できない。これが事実なのだ。2020年代については各人各様であり、なるがまま、そのなるがままを予測するほかない。歴史のねじを巻き戻すことはできないのだが、予測することは可能である。 それぞれのダイバーが予測する、その資料に最新ダイビング用語事典Ⅱがなるとすれば、
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by j-suga1
| 2017-06-14 09:44
| 最新ダイビング用語事典
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2017年 05月 29日
このところ、ダイビングの危険とか安全について書いていません。 水中科学協会では、最新ダイビング用語事典Ⅱの編纂に取り掛かっていて、素材を集めつつあります。自分の書くものも素材の一つなので、その視点です。つまるところ、最新ダイビング用語事典Ⅱも危険と安全についての論議が基調になります。 その意味で、最新ダイビング用語事典Ⅱというタイトルは適切ではないかもしれない。今後の議論で決めて行きます。とりあえずのタイトルです。 海洋大学潜水部60周年記念誌への寄稿の一部です。
①まず、水中では、驚くほど簡単に人が死ぬ。 ②そして、その理由、真因は状況だけしかわからないことが多い。 ※状況とは、曰く一人にした。頭上に舟をおかなかった。この事故では、肺の破裂と言われたが、二人連続して肺が破裂するとは思えない。 ③事故は、チームの中、メンバーの内で、もっとも優れたダイバー、あるいは泳者に起こることを予想しておかなくてはならない。このことは、重要である。 ④事故は、後かたずけ、あるいは準備、予想外の時におこる。
②の※は、1954年、おそらく日本のスクーバでの最初の事故であった 学生の実習中に2名の命が失われた事故の状況のことです。この事故は、本当に想定外、実習に参加した学生で最優秀(技量的に、もちろん健康で体力も優れ、水泳も達者)な学生二名が、海況も穏やかな入り江で、後片付けをしている時連続して二名死亡した事故です。ただ、なぜか、頭上に居るべき小舟が居なかった。
ダイバーとして物心がつく、ということは、自分の生命がダイビングによって失われる可能性を、自覚 認識することです。可能性とは何パーセントとかの確率なのかです。可能性は、目前の状況で変化します。なお、①②③④は、人それぞれで、それはそれぞれの体験、もしくは知識から獲得するものです。知識とは、体験、経験を、他の人が認識できるような形にしたものです。
海洋大学への寄稿では、60周年以後、その①②③④を踏まえて、どのようにしたら事故が起きないか、事故が起こったとして、どうすればスマートに解決できるのか、を書いています。どのようにしても、失われた命は戻らないのですから、真の解決はないのですが、人の死は本人以外責任の負えるものではないので、本人以外への責任追及のスマートな解決を意味します。スマートとは、社会的に許容されるということです。学生について言えば、お父さんお母さん、特にお母さんは許してくれることは想定できないので、許容されない。スマートという言葉は不適切かもしれません。
その解決に普遍的なものはないので、海洋大学潜水部についての方策を述べました。 ここではその部分は述べません。もう少し研究を進め、今企画している最新ダイビング用語事典Ⅱ{タイトルは変更する可能性が大きい}で、整理したものを掲載する予定です。
海洋大学潜水部については、60周年の、部がまだできる前に起こった1954年の事故が、以後の事故を防止するための遺産になればと願って、小文(でもないか)を60周年記念誌に寄稿しました。 もしかしたら、その寄稿の意味を理解してもらえないで、事故が起こり(事故は必ず起こると想定していなければいけない。想定外という言い訳は、原子力発電所の事故以来、通用しなくなっています。)その処理が、僕の遺言に背いていたら部が本当に終わる時でしょう。60周年記念誌に書くということは、そういうことなのです。 ▲
by j-suga1
| 2017-05-29 11:17
| 最新ダイビング用語事典
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2017年 04月 07日
素眼と水中眼鏡について書いている。※素眼のほかに、裸眼という言葉も使われる。 水中眼鏡については、沖縄のミーカガンが先だと思っていたと山本徹さんが言う。ミーカガンをネットでみると、
「1884年の夏に、糸満(現糸満市の中心市街地であり、旧糸満町に当る地域。古くから漁業が盛んな集落であった[2]。)に住んでいた、玉城保太郎によってミーカガンは開発された[3]。なおミーカガンの開発には約4年の歳月がかかったとされる[4]。彼は特に漁具の改良を行ったことによって、琉球の水産業に影響を与えた[5]。海で潜水を主体とする漁法を行っていると、水中メガネがない場合、眼がただれたり、年齢を重ねると目がかすんだりしたため、ミーカガンが開発されるまでは獲物を捕るのにも手探りといった状態だった[6]。しかしこのミーカガンが登場したことで、貝類の採集などの潜水を主体とする漁法が発達するなど、糸満の漁業にとっては大きな影響を与えた発明であった[7]。
ミーカガンは、1884年である。すでに述べた熊本の出島辰五郎さんは1885年である。志摩では1890年、房州では1892年である。やはり、沖縄が最初で次第に北上して行ったものだろうか。 熊本と糸満は、ほぼ同時期と見て、それが志摩、そして房総につたわっていったのだろう。参考にした{潜水漁業と資源管理}によれば、沖縄糸満は1986年になっている。そのあたりは民俗学的には面白いと思うけれど、潜水の歴史としては、「潜水漁業と資源管理」はかなり専門書だし、どうしよう。沖縄の顔を立てて、1884年のミーカガンとしようか。
それはそれとして気になるのは、眼鏡なしで潜ってメクサになってしまうことだ。 にもかかわらず、志摩では、資源保護のために水眼鏡禁止にしたりしている。健康よりも資源を、資源=お金とすれば、金蔵をなによりだいじにしたのだろう。それでも、今はさすがに水眼鏡禁止の部落はない。
メクサの被害といえば、以前見た本で、ペルシャ湾の海綿取りの裸潜りのアラビア人が、みんな盲目に近くなってしまったいる写真を見た。
1962年によみうりランドの水中バレーシアターがオープンした。僕はその初代水中舞台監督、つまりダイビングインストラクターになったのだが、水中バレーは素眼で演技しろという。たしかに、竜宮城の人魚が水中眼鏡をかけていたのでは、ショウにならない。インストラクターとしても、素眼をやってみなければならない。 少し目を細めると、いくらか楽になるし、レンズの絞りが絞られる原理で、すこし像がシャープに見える。演技をするわけではないインストラクターだから、指導だけで良いので、普通にはマスクを付けていたが、素眼の出演者は本番ではマスクを着けられない。メクサになった人は居なかった。
素眼がいけないのではなくて、汚い水がいけないのだろう。日本の海水は良くて、アラビア湾の海水はいけないのだろうか。? 考えて見れば、自分の子供たちのころは、水泳はすべて素眼だった。つい20年前ぐらいまで、都内の小学校のプールは水中眼鏡禁止だった。眼鏡が割れて危ないというのが理由だった。眼よりも、ガラスで足を切る方が危ないという判断、それにガラスが割れたら、プールの水を抜いて掃除しなければならない。 今では強化ガラスになってその心配はなくなったのだが。 自分の経験では、素眼で泳ぐと確かに目は赤くなるが、そのまま病んでしまうことはなかった。
それとは別に 水中眼鏡が水圧で圧せられて、目のスクイーズが起きる。スクイーズについては、常識のようなものだから、ここで説明しない。そのスクイーズを防ぐために、二眼の水中眼鏡では、風船のようなものを着ける。これを風耳(ふうじ)と呼んだりする。鼻も眼鏡の中に入れてしまう。一眼の眼鼻マスクならば、鼻から息を出せるから、スクイーズの心配はない。
鼻から息を出すなんてとんでもない。涙腺から空気が漏れるだけでも、潜れる深さに影響するフリーダイビングでは、スクイーズを防ぐために、ゴーグルの中を液体で満たして、その状態でも光学的に、像が正常にみえるレンズをつけたリキッドゴーグルがあり、使う選手が多い。つまり、目を水にさらしていることについては、素眼と同じようなものである。素眼で潜る選手もいる。 いずれにせよ、フリーダイビングで深く潜るためには、目のスクイーズを防ぐためのゴム風船(風耳)ぐらいではまにあわないので、目とガラスの間に空間はつくれない。水に眼をさらして潜る。 とすれば、きれいな水ならば、目を病むことはあんまりないのかもしれない。
水眼鏡が無い時代の海女は、普通に素眼で、目を細めて潜っていたのだろう。 フリーダイビングの選手には、多分、それぞれに眼の痛みについての対策ノウハウをもっているのだろう。眼薬には何が良いとか。最新ダイビング用語事典Ⅱでは、岡本美鈴に書いてもらおう。
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by j-suga1
| 2017-04-07 20:51
| 最新ダイビング用語事典
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2017年 04月 03日
原稿ノート 用語事典Ⅱ 典Ⅱの原稿ノートもブログ煮出していくことにした。 索に便利だし、共著者のメンバーに見て貰うこともよういになる。 素眼 水中眼鏡 の時代から、人は潜って た」という学説もあるくらいだ。もちろん縄文の貝塚から水中眼鏡が出土した ことはない。 こで、眼鏡を付けないで潜ることを素眼と書いたが、国語事典には素眼という ことばはない。と思ってネットで調べたら、「潜水眼鏡をかけないで、水中に 潜り魚や貝をとること」とでていた。 とにかく、その素眼で眼は大丈夫だったのだろうか。眼科の先生に聞いてみな くては、とおもっているが、眼科の先生の意見も様々だろうとおもう。 海士・海女の起源は古い。延喜式にもある貢納物のなかの海産物の多くは彼ら の働きによるものである。彼らの働き場所はすべて海中のことであり、潜水技 術を駆使しての活躍だが、すべての作業は「素目」といわれる海中で眼をあけ て獲物を見つけるという方法で、この「素目」の作業は潜水の季節である夏の 間中続けられるのである。したがって、海士・海女は、メクサと言われる眼病 にかかり、眼を開けることさえできなかったと言われ、労働衛生上からも大変 なことだった。 見たら、メクサの眼が飛び出るような記事がのった。その様子を伝えよう。「 深川富岡門前町の高橋元義が発明したる水眼鏡というは、河海の水底を清明に 見る拵えにて、沈みたる品の所在を見極め、暗礁の模様を知るなど、船舶にも っとも有用な道具云々」とあり、これまでは曇りガラスで海中を覗いたものが 、潜水眼鏡をかけると透明ガラスを通すようにすべてが明瞭に見えた。それか ら数年後、大日本水産会は、水産物見分器機として本格的に製造に着手し、普 及を始める。房総の海士・海女がこの潜水眼鏡を使い始めたのは明治25、6 年のころで、当時の安房郡長尾町(現在の白浜町)に二つ目の潜水眼鏡がもた らされた。これによってアワビやサザエの獲物は飛躍的に増大したとある。 の水産大学での先輩にあたる、彼がこの辞典を編集した。 船の上から覗くタコ眼鏡だったかもしれない。大日本水産会が工夫して明治2 5年頃に白浜で使われ始めたのだろう。明治25年というと1892年である 。 これによれば、海女はメクサになった。 と資源管理」大喜多甫文 古今書院 1989 によれば、 「明治中期以前、アマは素眼で潜水していた。しかし、海中で眼を開けると 痛いので、多くは口の中に米糠などを含み、これを水面に吹き散らすか、また は魚鯨油を海面に点滴して、水中を透明にし、海底にあるアワビを見定めてお いて飛び込み、手探りで採った。 よりアワビを見定めておいて海中に飛び込み採った。この段階では覗き眼鏡で あり、アマはまだ眼鏡はかけていなかった。(上記、深川の眼鏡は箱眼鏡だっ た) 県天草郡二江村の出島久八、出島辰五郎両名製作の両眼鏡(二つ眼鏡)が最初 である。その後、1886年、沖縄糸満の漁夫、1887年壱岐郷ノ浦の海士 がそれぞれ二つ目がねを使用した。このようにして、明治10年末に九州で使 用去れ始めた両眼潜水用眼鏡は、その後各地に伝播した。志摩では、1890 年神島の海女が使用許可申請をし、翌年から使用した。房州では、1892年 頃安房郡長尾村(白浜町)で初めて使用され、それから少し遅れて伊豆半島に 伝播し、伊豆ではこれを房州眼鏡と称した。このようにして明治20年代には 、主要潜水漁業地に広まった。しかし、潜水眼鏡の使用が資源の乱獲を招来す ると考えた志摩地方北部の組合では、1897年(明治30年)この眼鏡の使 用を禁止した。 天草では、両端に空気調節用の皮袋を付け、下端からゴムホースを口にくわえ て空気を送り込んだり、その後、鼻入り式一眼潜水眼鏡が改良普及し、外枠も ゴム製に改良されていく。 まうほどの辛いことであっても、眼鏡を禁止してしまうほど資源管理には厳し 駆してきている。現在の海女もフィンの使用が認められているところと、認め られないところがあり、ウエットスーツにしても、パンツだけが認められると か、全く認められないとか、組合、部落単位で定めがある。 沖縄の糸満のウミンチューとか、最初に作った眼鏡は木製で手彫で作ったの ではないかと思う。それに小さい眼鏡のガラスをはめこんで、膠かなにかで糊 付けしたのだろうと、思う。上にある1885年の出島さんなどは、自分の手 作りから、なんとか商品化したもので、記録にのこっているのではないだろう か。 ▲
by j-suga1
| 2017-04-03 11:26
| 最新ダイビング用語事典
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2016年 10月 06日
ブログがぜんぜん進まない。 シンポジウムの原案、をブログにしていくより他に両立させることは難しい。 最新ダイビング用語事典Ⅱ の芯は、年表にしようと思っている。ダイビングの過去から現在までの道のりのすべてを表にする。大項目から中項目、そして小項目、三つの流れに分けて、系統的に表にしたい。 最新ダイビング用語事典Ⅱ、年表の次に現在から未来につながるトピックスと並べて行けば、ダイビングのすべてがわかる。Ⅰのように項目別の事典ではないが、読む事典としては、コレでよいし、検索する事典としては索引を充実させる。どうも、Ⅰは索引が気に入っていない。 最近の原稿の書き方だが、箇条書きに書いていって、その間を埋めていく。箇条書きは(1)(2)(3)(4)(5)(6)と①②③④⑤の二段だ。 ![]() マスク式潜水のことを書こうと思っている。 マスク式潜水
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by j-suga1
| 2016-10-06 06:57
| 最新ダイビング用語事典
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2016年 08月 06日
最新ダイビング用語事典の2017年版を出すことが、日本水中科学協会 理事・運営委員会で議論され、出発:進行することになった。5年ごとに新しい版を作って行くことにしたい。毎度、自分の寿命のことを口にして申し訳ないが、行けるところまでは、自分のライフワークで進めさせてもらいたい。 たぶん?これが自分として最後の版。
日本水中科学協会の活動も6年目に入り、シンポジュウム、ワークショップ、いくつかの研究会を実施しているが、すべて、連携を持たせて、その整理公開という意味も最新ダイビング用語事典に持たせたい。 この最新ダイビング用語事典を出すことが、日本水中科学協会の目標の重要なもの、こんなことにしたい。 今度の、12月18日のシンポジュウムは、最新ダイビング用語事典 Ⅱ の計画発表もプログラムに入れたいし、シンポジュウムの発表も最新ダイビング用語事典の内容の一部としたい。これまでのシンポジュウムの成果も最新ダイビング用語事典に組み入れて行く。
この計画は、主に、書くこと、つまりキーボードをたたくことになるので、ブログを書く時間がなくなる。効率の悪い高齢である。メイキング最新ダイビング用語事典もブログにしてしまわないとブログが続けられない。ブログに書くことで、内容の誤りも指摘されるし、考えのまとめにもなる。 間違いえお指摘されることが前提だから、気楽に、まちがい、多数でも良い。ブログのサブタイトルに「最新ダイビング用語事典」とあったら、そんなことだと思って見ていただきたい。
ご意見をコメント欄に書いていただけば、とねがう。しかし、これまでもそうだったのだが、コメントをなるほどと思い、参考、反映させていただいてもお返事をきちんと書けない場合が多かった。今後も、ますますその傾向は強くなる。これも、ご容赦お願いします。 ▲
by j-suga1
| 2016-08-06 15:41
| 最新ダイビング用語事典
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