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2011年 07月 31日
7月31日 お台場の潜水
ブイを浮かべて潜っているあたり、岸近くにゴミが多い。 ![]() 私的なクリーンアップを行った。みんなに玉ねぎ袋を持たせて、潜水。僕は頑張って、8.3キロのゴミ主にビニール類を海底から引き剥がした。海底に沈んだビニール袋が、まるで海底に敷き詰められているようになり、その上を薄い泥が覆っている。だから、上から見たのではわからない。ビニールの端がちょっと出ているようなところを見つけて引っ張り出すと、とれる。毎年やっているクリーンアップ大作戦は、安全第一だし、ゴミのあるところをしらない。また上からざっと見てもわからない。この人工海浜は、二枚貝を入れて、二枚貝の浄化作用にも期待しているのだが、ビニールが海底を覆っていると、二枚貝が砂に潜れない。僕が8,3キロで、第一位、尾島さんの奥さんが8.2キロで第二位、0.1キロ差だった。ついで尾島さん、4.5キロ、木内さん4キロ、石川さん2.5キロ、鈴木さん、杉原さん、はゴミを拾ってくれなかった。 集めたゴミの一部 ![]() 午後もお台場で潜った。御前がゴミ拾いだったので、午後は、多分夏の酸欠で危機状態にある生物をじっくり撮ろうと潜ったのだが、午前中は1m近くみえたのが、50cm以下、何も見えなくなってしまった。マハゼが左右に逃げ散る。なかなか撮れない。ようやく1枚だけ何とか撮れた。 マハゼ ![]() あれほど沢山いた、トゲアメフライシは消えた。水平姿勢でトリムをとって、身体を滑らせてゆくと、まるで、火星探検のような気分になる。悪くはない。 ブログでは、用語集に書けない部分を書こうとしている。今はダイブコンピューターについて書いている。用語集に書けないサイドストーリーもまとめれば本になるかもしれないとおもったりしている。 まず、ダイブコンピューターとはなんなのだ。だいぶ混乱したので、整理してみよう。 ダイバーは、みんな減圧表かダイブコンピューターを使って、自分のダイビングを管理し、減圧症にかからないように注意している。100m潜水の時にお世話になったコルシカ島のサンゴとりダイバー、アランは、ダイブコンピューターも使わず、減圧表も使っていなかったが、混合ガス潜水の殆どの減圧表は熟知していて、その中から自分のコードを決め、自分の感覚で最終的な減圧時間、彼の場合はワンマンチャンバーに入って酸素吸入をするのだが、例えばその時間を2時間とか、3時間に深度と体に受ける感覚できめる。一つの理想だが、これは大深度潜水の例で、見方によっては大変単純な潜水である。多岐にわたるリサーチダイビングやレクリェーションダイビングでは減圧表とダイブコンピューターを使って、潜水する。 僕の場合は、減圧表で長い間ダイビングを続け、やがてダイブコンピューターをつかうようになった。ダイビング初心者の場合もまず減圧表を使いこなしてからダイブコンピューターに進んだ方が良いと思うのだが、現在では、まずダイブコンピューターを購入する。実はそのように僕も薦めてきたのだが、ここにきて考え方が変わっている。両者を使い比べて行くことが、初心者の場合に重要だと思う。 減圧表はどれでも良い、ここではDCIEMを例に使ってきたが、PADIのダイブプランナーでも良いし、NAUIのテーブルでも、あるいは別表第二でもいい。 ①減圧表は、ダイブプランを立てる時に使うように作られている。水中で表を持ち出して、使うことはほとんどない。一方、ダイブコンピューターにも、ダイブプランを立てるためのデータは表示されるが、ほとんどのダイバーは、ダイブコンピューターに従って事前に計画を立てると言うことはない。水中でディスプレーを見るだけである。ダイバーは、ダイブコンピューターの普及によって、減圧計画を事前にたてることがなくなった。 ②減圧表は、計画を立てるための道具だから、自分の意志が確実に介入する。つまり自分の意志で計画を決定する。ダイブコンピューターを使うと、計画をたてなくなる。計画に自分の意志が入らなくなる。言葉を変えると、ダイブコンピューターの意志にダイバーが従うことになる。好むと好まざるとにかかわらず、そうなるのだ。 人間には性善説と性悪説がある。ぼくはもうひとつ、だらしない説と几帳面説、二つのタイプの人間がいる。僕はだらしない人である。これは生涯にわたって矯正につとめてきたが、ついに達成できずにあきらめた。几帳面なひとをうらやむだけである。%で見ると、だらしない族の方が圧倒的に多いように思う。安全対策はだらしない族を対象にして考えなくてはいけない。だらしないから事故を起こしたとすれば、それはそのシステムが間違っているのだと思う。几帳面族は、だらしがないと反論するだろうが、努力を」薦める必要があるが、その人のDNAによるのだから、だらしなくても安全なシステムを考える方が論理的に正しい。 ダイブコンピューターは、だらしない族に適合している道具なのだ。几帳面族であれば、減圧管理についてはダイブコンピューターなど不要だと思う。記録のためには、水温と水深とダイビング時間を正確に記録してくれる時計があれば良い。そのような時計もダイブコンピューターよりはるかに安価に売り出されている。ダイブコンピューターの水深記録よりも精度が良い。 僕は、自分がだらしないために、減圧時間が60分必要なのに30分で浮上しようとして、アシスタントのガイドダイバーがもっていたダイブコンピューターを示されて叱られた。人間は間違うけれど、ダイブコンピューターは間違わない、と考えてダイブコンピューターを買った。そして、自分で計画する意志を失った。すなわち、あのダイブコンピューターは、減圧時間が長いとか、このダイブコンピューターは緩やかだから、こちらを使おうとか本末転倒のことを考えるようになった。 ことの善悪を論じることは、ほとんど意味を持たないとおもっているが、一応、正しいと思うことを述べると、自分の信じている、あるいは信じられる減圧表で計画をたて、ダイブコンピューターでリファレンスすることが正しい。 ダイブコンピューターが状況判断のための資料をリアルタイムで提供するものと考えた時に、タバタのIQ-850はとても良い。外の状況は目で見て確認できる。身体の中で起こっていること、窒素ガス圧の増減、つまり体の中の状況は、感覚だけではたよりにならない。その計器として12本のバーグラフがあり、ビジュアルにみられるということは、素晴らしい。だから、もっとバーグラフを大きくしたほうがよいと提言する。これが売りなのだ。 僕の場合、浮上速度の警告とか、安全停止のカウントダウンなど参考意見として承っておくという考え方である。しかし、参考意見も重要ではある。少なくとも、初心者と一緒にレクリェーションダイビングをするときには、初心者のために意見に従おう。次回は、参考意見に属する浮上速度について、これまでにも述べてきたが、もう一度まとめよう。 ▲
by j-suga1
| 2011-07-31 22:26
| ダイビング運用
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2011年 07月 30日
40年前、こんな風にして、シーワールドのイルカと遊ぶことが出来た。今は昔の話だ。
![]() 用語集の編集に本腰を入れなければならない時期になってきた。 これまでも、本腰を入れてきたのだけれど、追い詰められる時期になってきた。 思えば、この原稿を書き始めたのは、平成12年で、その時にほぼ、「ダイビング技術用語集」として原稿は完成していた。今、10年前の原稿を取り出してみると、現在の用語集の状況よりも、完成していた。当時、僕は財団法人、社会スポーツセンターの常任理事をつとめさせてもらっており、社会スポーツセンターからの出版を考えていた。なぜ、出版出来なかったのだろう。当時の往復書簡をとりだして見てみる。当時、もちろんメールも使っていたけれど、書簡の往復が中心だった。 当時の、海洋科学技術センター、現在の海洋研究開発機構の医学生理学担当のM博士に医学生理学の分野の監修をお願いしていた。送った原稿は、修正して送り返していただがその時の原稿が手元にある。見てはいただけたのだが、添書があった。 「ダイビング技術用語集(医学・生理学の章)拝見させていただきました。 この用語集を編集するに当たり、基本方針が最も重要と考えられます。再度この基本方針を考え、再考された方が良いと思います。」 協力はするが、基本方針がわからないということだ。振り出しにもどって議論をしなければならないということで、ここで、着陸寸前で墜落してしまった。Mには、そこまでのご意見ではなく、もう一度原点に戻って考えてみようということだったと思う。僕としては、現在書きつつある用語集よりも、より整理されたコンセプトシートを送らせてもらった。 「ダイビング技術用語は、その基となる語のほとんどが英文であり、訳書が出版される度に新しい用語が作り出されると言っても過言ではなく、また、日進月歩の技術でもあるので、新しい技術とともに、新しい語も作り出されます。その上に、日本の伝統的な潜水のようごもあり、さらにダイビングの活用される分野も、スポーツ、港湾作業、漁業、高度な飽和潜水と広範囲にわたっており、かねてから整理する必要があるとかんがえられておりました。類書としては、海洋科学技術センターが昭和60年に編纂した潜水技術用語集がありますが、現在では入手できなくなっております。また、この用語集はスポーツ関連については全く触れていません。この度、水産、海洋高校に置いて、ダイビングが正式科目として授業が行われることになり、教科書の編纂が進行しております。教科書の編纂には用語の決定が必須となります。」 僕は、多忙とともに(現在と同じ)失速した。持続する意志を持てなかった。 この用語集の編集のまとめをお願いしていた、中谷三男先生が、せっかく完成していた原稿をもったいない。少し手直しすれば出版できるということで、成山堂を紹介いただいて、今度のプロジェクトが始まった。 そして、はじめてからおよそ六ヶ月、辞典ではなくて安全のための基準(提言)海洋高校などでの講習のサブテキストとして使えること、などを考えて、辞書の項目をあいうえお順ではなくて、繋がりで見てゆくと、その項目に関連する全てが理解できるようにと並べ変えて、一つのシナリオになるようにした。 そしてここで、暗礁に乗り上げている。乗り上げたまま、他の作業、放射能汚染の水中での測定、プライマリープログラム研修会の実施、三陸の復興援助のプロポーザルなどに没頭していた。暗礁は、やはり基本方針と、ダイビング指導教育についてのスタイルの違いである。スタイルはそれぞれで良いと思っている、レクリエーションダイビングとリサーチ・ダイビング、プロのダイビングではスタイルが違って当然であるし、それこそ現場ごとにちがう。その参考にするのだから、交錯していても構わないし、自己主張があっても当然、未整理でもそのまま強行突破しようと考えている。読者にとっては、もしも読者がレベルの高いダイバーであれば、それを面白いと考えてくれるだろうし、作られた経緯が理解できていれば、初心者にとっても、指導団体のマニュアルで考え方を押し付けられるよりも視野がひろがり、ためになるのではないか。強引に押し切るパワーがあれば出来上がるだろう。 基本スタイルについては、会員諸氏に原稿のうちで、辞書から離れたところにある安全確保の章を送って、意見を伺った。いくつかの意見をいただいた。独立行政法人 産業技術総合研究所のM博士からのご意見である。 「原稿を拝読いたしました。 内容的には深く書かれており素晴らしいものと感じました。 しかし、文章表現として辞書なのか、教科書なのか、読み物なのか 分からないところがあります。また、エンサイクロペディアという場合には、あくまでもアイウエオとかABCで引けるものでなければなりません。索引として付けることも可能ですが、辞書である以上、先頭に(たとえば第0章として)用語一覧をつける必要があると思います。 これらは出版側の態度ですので、何を目指すのか先に決める必要があると思います。また、水中活動ということばですが、潜水にした方がわかりやすいという気持ちもわかりますが、この二つは意味が違うと思います。何を相手に伝えたいかで使う用語も必然と決まってくると思います。本書の中で、潜水は一部ですので、小生は水中活動に1票入れます。」 M博士は、地下水研究の大家であり、日本列島は地下水の上に浮かんでいる。放射性廃棄物を地下深く、例えば数千メートルに埋めた時に、数万年後、容器がこわれたとして、どのように地下水に浸透して、海に流れでてゆくかの研究をされていた。今は、地下水にも、そして海にも直接に放射性物質が放出されている。超多忙であるのに、辞書なのかよみものなのかを統合するお手伝いをしてくださるという。 また、小浜水産高校のK先生からは、 「安全の章、確認させていただきました。この章が入ることでサブのテキストとしての利用価値が大きく上がると思いまし、授業での使用頻度も上がると思います。特にデータが示してあることが教える側として大変助かります。」 K君は、水産大学潜水部のキャプテンを務めたことがあり、水産高校、海洋高校の潜水教育の次代のエースになるべく、後押ししている。8月の研修会には、中谷先生のお骨折りで、沖縄水産高校のO先生が受講にきてくださる。大神先生は、現在の潜水教育のエースである。なお、中谷先生とは、元文部省の視学官時代に海洋高等学校の潜水教育の基礎を築かれ、僕はその最初の教科書を書かせていただいた。中谷先生は、平成12年のコンセプトの完成を勧めておられ、僕は変節している。 僕が、自信をもつことが大事で、座標軸を見失い自信を喪失すると、また着陸出来ずに墜落する。 ▲
by j-suga1
| 2011-07-30 19:17
| ダイビング運用
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2011年 07月 29日
勝鬨橋が開いたころ。
![]() 僕は大学二年だったから、1956年だっただろうか。練習船に乗って海洋観測実習に出た。僕たちが乗ったのは、神鷹丸で、隣に並んでいて写真を写っているのは、はやぶさ丸で、これに半分の学生が乗って、2隻で出て行き、相模湾を抜けて駿河湾に入り、たしか沼津の港で降りた。 このはやぶさ丸だが前身は、第五福竜丸だ。アメリカのビキニ環礁での水爆実験で被ばくして、久保山さんという方が亡くなった。日本に戻って、政府に購入されて、放射能などを調べていた。やがて、放射能の影響がなくなったということで、改造されて水産大学の練習船になった。 僕たちは、放射能の影響がないことの人体実験かなどと話し合ったが、学生は数日乗るだけだが、船員はその船で暮らす。大丈夫だったのだろうか。大丈夫だったのだと思う。 そして、水産大学の練習船としての役割も終わり、東京のどこかに繋がれて、朽ち果てていたのを陸に揚げて、ふたたび第五福竜丸として、夢の島に展示館がつくられ、再び日本が放射能の影響を受けないようにという祈りをこめて飾られている。何を祈ったのだろうと思う。 その1956年ー57年、僕は水産大学で潜水を習った。そのころすでに米国海軍の減圧表を使っていたことは前回に述べたが、この減圧表をきっちり守らなければいけないと言われた。時計も残圧計もなくて、どうやってきっちり守るのかは教えてくれなかったけれど、当時のスクーバでは、適当にやっても減圧症にはなれないくらいの時間しか潜れなかった。 プロポーザルの息抜きに書いていたから、同じことを繰り返している部分もある。 それでも先生は言った。この表をきっちり守ったからと言って、減圧症にならないとはかぎらない。およそ、0.3%の確率で罹る。しかし、軽い減圧症だから再圧治療すれば治る。そこで再圧治療のことを説明された。0.3%というのは、生物学的には無視していい確率だ。誤差範囲にはいる。1000人に3人か、まあ大丈夫だろうと思った。 そして、病気というものは絶対的に防止することはできない。病気には必ず罹る。だから病院が繁盛する。治って後遺症がのこらなければ、良いのだ。減圧表を守っていれば、後遺症になるほどの減圧症になることはさらに稀である。ということで僕のダイビングはスタートした。このとき0.3%だといった先生の根拠はどこにあったのか知らない。いま、昔の文献を探してみたけれど、みつけられない。 やがて、1970年代は英国のRNPL,これは米国海軍よりも数等厳しい減圧で、特に繰り返し潜水は不可能に近かった。次に、1990年代は、DCIEM(カナダ)の減圧表を使った。これは、マルチレベルの潜水ができる。 ![]() RNPLでも米国海軍でも、その潜水で到達したいちばん深い点の水深で減圧表を引く。たとえば、30mに潜ったのだが、30mには5分しかいなかった。もどってきて15mで20分居て浮上した。合計は25分の潜水時間で、DCIEMでは、30mに25分は6mで5分、3mで10分の減圧をしなければならない。なんとかしたいのでマルチレベルに対応した減圧表を使う。有名なのはPADIのレクレーショナル・ダイブ・プランナーだが、僕はこのテーブルを使ったことがない。手に持ったこともない。写真でみるだけだ。 DCIEMもマルチレベルに対応して居て、ではどうするかというと、まず30mで5分潜った時のグループ記号は、Aである。次に潜りたい15mでAの記号のついている時間を探す。15mでAは、18分である。すなわち30mで5分すごしたことは、15mで18分過ごしたことに等しい。これは潜水士の修正時間と同じように考えればよくて、こちらの方がわかりやすい。次に実際に潜るのは、15mで20分だから18分を足して38分で表を見ると15mでは75分は無減圧だから減圧停止はしなくてもよい。 こんな処理は水中ではできないから、潜水する前に陸上で計画をたてる。マルチレベルのダイビングは、計画された潜水なのだ。そして、最初にいちばん深いところでグループ記号を調べて、浅いところの潜水時間をきめて行くから、最初に深く、そして階段で昇って行く理想的なパターン以外はできない。しかし、計画を立てても、実際はいい加減になるから、その心配を補うべく、3mで5分の減圧をする。いい加減を補うのは、常に減圧時間の延長である。すなわち安全停止だけれど、そのころは安全停止とは言わなかった。 そして、僕はトラック島に行き、水深60mの潜水をする。現地、ブルーラグーンのネイティブなガイドダイバーは、ダイブコンピューターを持っている。僕が減圧停止を60分しなければならないのを忘れて30分で上がろうとしたら、ダイブコンピューターをみせられて、60分だと言われた。 東京に戻って、アラジンを買った。アラジンで潜ると、マルチレベルのプランよりも長く、無減圧でもぐれる。その上に、面倒な表を引く作業をしなくてもよい。たちまち、ダイブコンピューターが宝物になり、なくてはならないものになった。 そして、BCの普及である。空気を節約するために、なるべく上の方で浮き漂う。必要な時だけ、海底に降りて、また上で待機する。そして、これは窒素をため込まないためにも役立つと考えていた。のこぎり歯状の潜水である。僕は減圧症に強いのだろう?けれど、弱い人がいる。そこでダイブコンピューターは減圧表よりも危ないという評価がされるようになったのだと思う。評価を打ち消すために、安全停止がダイブコンピューターに組み込まれるようになった。それは、マルチレベルでいい加減になったときに、安心のために5分の安全停止減圧をするのと同じことだ。 ▲
by j-suga1
| 2011-07-29 19:55
| ダイビング運用
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2011年 07月 27日
7月25日のマンスリーセミナー タバタの今村さんの話、大成功だったとおもう。
話も分かりやすかったし、減圧症をなくそうとする熱意が伝わってきた。 そして、タバタのIQ850、体内窒素のバーグラフもとてもいい。バーグラフがとても良いから、もっとバーグラフが大きくても良いと思う。下の字を小さくして、画面の半分ぐらいまでがバーグラフにしたほうが良いとおもうくらいだ。 ![]() 「飛行士気質と潜水士気質 熟練技術の領域を誇る飛行士は豪胆なる離れ業をもって他の追従も及ばぬ冒険を敢行し、危機を脱却して平然たる勇姿にモノを言わせ、落下傘にて危険を一度、二度、三度と切り抜けた始めて一人前になり、荒鷲の仲間入りが出来ると言われている。 潜友仲間でも二度、三度と潜水病の危機を逃れてその放胆なる人間放れの洗練された技術が認められて始めて潜水技術者の特権階級に進む。汝は潜水病に幾度かかったかと尋ねられる。三度やった。それでは一人前だということになる。潜水病の死線を越えて心身ともに洗練され超然たる態度によるその度胸が物を言うのである。」 ※潜水読本 山下弥三左衛門 東亜潜水機 成山堂印刷 昭和35年7月 山下先輩は、大正3年、東京水産講習所卒 鰤定置網自営、昭和3年 一等潜水士 御前潜水、講話、陛下御前研究資料潜水採集御下賜金13回 潜水士養成 2000名 潜水病の研究(治療特許) 昭和11-12年 南洋パラオ島沿岸海底映画潜水講習撮影 この潜水読本は、当時の潜水のことが何でも書いてある。減圧表も米国海軍を始めとして、英国の表、バルデーンと記された、ホールデンの表も掲載されている。他にも人工魚礁の研究書、など十冊以上の本を著している。大先輩である。決してでたらめを書いているのではない。 昭和35年は、僕が東京水産大学を卒業して、東亜潜水機に入社した年である。この本は、別に出版されていたものを、東亜潜水機で版権を買い、販促のために別刷りを作って、お得意さんに配ったものである。僕は大事にしていて、特に減圧表は、僕の持っている古い表として、唯一のものである。水深はメートルではなくて、尋、と尺で現してある。18尋から20尋に10分もぐると20尺で3分、10尺で5分停止する。現在の減圧表よりも安全なように思える。だから、潜水病について無知だったわけでは決してない。肩書きにも潜水病研究と記されている。治療特許とも書かれている。 潜水士気質については、潜水病など恐れるなといういましめであろう。 まさか誤解はしないだろうが、これは僕の考えではない。 この前紹介した、「パラオ恋しや」の若いダイバーが潜水士気質の時代だろう。 この時代から、今の今村さんのマンスリーセミナーの主催をする日本水中科学協会、その間の55年のダイビングライフを僕はすごした。 そして、僕は減圧症になったことがない。どうしてだろうと質問して、おこられた。答えは、「減圧症になりにくい人もいる。」という個人差である。しかし、僕は減圧症になりにくい体質ではない。さっき減圧症になったことが無いと言うのは嘘で、減圧症で医者に行ったことはないと訂正する。 今村さんは、減圧症の症例を集めて話してくれた。医科歯科大学のオルトメディコで減圧症にならなかった例を集めているが、もしも、ぼくが1950年代から今までのダイブプロフィールを持っていたとすれば、大変な価値があると思うけれど、そんなことはできなかったし、できえない。簡単なログブックだってつけはじめたのは、65歳の癌の罹患を記念して始めたくらいだ。 この前の前のブログでセフティストップについて書いた。それと前後してしまった。 もういちど、その原稿をここにつなげる。 物事には、二つの考え方、視点といったほうがよいのだろうか、がある、問題をいい加減に解決しようという考え方と、几帳面にきっちりとしておこうと言う考え方だ。いい加減というと誤解されそうだからファジイとしておこう。 減圧表についての見方もこの二つの視点がある。僕がスクーバダイビングを始めたころ、1956年ごろだが、米国海軍の標準空気減圧表をすでに使っていた。 先生、恩師である宇野先生に、うやうやしく言われた。「潜水は科学だから、科学実験をやるようなつもりで、正確にこの時間を守らなければいけない」これがきっちりやろうと言う視点だ。きっちり守らなければならないときめられている減圧表もある。それは潜水士テキストに出ている別表第二だ。このことは前にも書いたけれど、この表は高気圧作業安全衛生規則に含まれている。規則だからきっちり守らなければいけない。事実きっちり守っている人もいる。 僕は、先生の言いつけどおりに、きっちり守ろうとした。しかし、当時の僕たちは時計をもっていない。水密の時計はまだロレックスしかない。そんなものははるか星のかなたのものだ。時計を入れるケース、ハウジングに入れて腕に巻くので、腕巻と言われた時計ケースがあったが、それも僕たちは持っていない。だいたい、腕時計というものが貴重品だった。水中で見られる時計がなくて、どうして減圧表を科学実験のように守れるのだ。 だからいい加減にやるしかない。残圧計もないから、これも息が苦しくなったら上がってくる。 いい加減にならざるをえない。いい加減になると、ダイバーは、減圧症が怖いからついつい長めに減圧停止をするようになる。時計がなくても米国海軍の減圧表の数字はしっているから、120キロのタンクでも、水深3mぐらいに上がると、吸っても空気が来なく なるまで停止する。これがセフティストップの始まりだろうと思う。もちろんセフティストップなどという言葉はないが、念のために停まっておくという概念はおなじである。 やがて、残圧計も時計も誰もが持つようになって、僕たちは1972年に発表された英国海軍生理学研究所のRNPL減圧表を使うようになる。この減圧表は、使い方が米国海軍の減圧表よりもシンプルで、減圧症になりにくい。 減圧表について、まず、水深30mに潜った時の無減圧範囲を比較するがRNPLは20分、米国海軍は30分、労働省は25分である。 RNPLは、繰り返し潜水の計算が容易である。2時間以内の2回目の潜水は、前の時間に今度の潜水時間を加えて、その深い方の水深で減圧表を引く。繰り返し潜水については、とても厳しい。2回の潜水で、一回目の潜水で、20mに30分潜ったとして、次に30mに20分潜ると30mに50分の潜水になる。ほんの少しの時間30mまで行ったとしても、15mに5分、5mで70分の停止をしなければならない。スクーバでは不可能である。 次に、水深60mまで潜ったとすると、RNPLは、無減圧は5分で、10分もぐると10mで5分、5mで5分の停止になる。米国海軍は180フィートがリミットで、5分が無限圧、10分だと3mに3分の停止である。労働省は、8分以下でも3mで2分、8分を越えると3mで8分の停止である。RNPLがいかに厳しい減圧停止であるかがわかる。 日本水中科学協会のシンポジウムで、僕が減圧症にならずにここまで生きてこられたのは、どうしてかなどと質問して、外川先生を困らせたが、だんだん考えてみると時計が使えるようになってからはRNPL,やがてはDCIEMと非常に安全性の高い減圧表を使っていたからだと思う。それでもなお、ファジイ、いい加減な潜水をしていた。いい加減ということは、長く減圧停止をすると言う傾向になる。もしも浮上してきて空気が余っていたら、3分間ぐらいの余分な減圧停止をしていた。 科学実験をするような態度であれば、停止はしない。 ところが何度もこのブログに書いているが、この余分な減圧停止をさせていて、若い社員が突然死してしまう。労働基準監督署では、規則通りに別表第二を守っていれば、船の上に上がっているはずだから、事故は起こらなかった。長く水中に置いて、そのために殺したという。確かにそのとおりである。きっちりと規則通りであれば良かった。いい加減がいけない。真野先生にお願いして、世界の風潮として、余分な減圧をする方が安全だと考えられていると口添えをしてもらって罪を免れた。それ以後、潜水士のテキストには、「なお、無停止減圧の範囲内の潜水の場合でも、水深6mもしくは3mで安全停止を行った方がよい。」と改訂された。「安全停止」という言葉が公式のものになり、空気が余っていれば安全停止しても良いことになった。 しかし、僕の心には、減圧症になっても良いから、なるべく早く社員を船の上に回収したほうが良かったという気持ちがトラウマのようにして残った。 減圧症なんかでは人は死なない。減圧症は事故例の6.4%でしかなく、しかも最近の10年、減圧症による死亡事故を聞かない。再圧タンクに入れれば最悪でも車いすの生活になるだけで生き残る。植物人間にもならない。昔、こんなことを言われた。須賀さんが潜水病になって車いすに乗って会社の経営に専念するしかなくなったら、会社はもっと伸びると。僕が潜水して世界を飛び回り留守にするのがいけないということだった。 もう一度確認するけれど、僕はその時代、その時代で一番減圧症になりにくい減圧表を使って余分に減圧停止をしている。こんども、IQ-850を使って潜水するから減圧症にはならないだろう。しかし・・・・・ ▲
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| 2011-07-27 11:43
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2011年 07月 25日
パラオでもヤップでもないチューク、僕はこの島に何回行っただろう。夢と冒険と失われた時が詰まっている。
![]() 1.海で暮らすなら パラオ島におじゃれ 北はマリアナ 、南はポナペ 島の夜風に 椰子の葉ゆれて 若いダイバーの 船唄洩れる 2 島へ来たなら ダイバー船へお乗り 男冥利に 命をかけて 珊瑚林に 真珠とりするよ ダイバーいとしの 鼻唄うとて 3 高波うねりに 度胸が座りゃ 海はふるさと パラオの王者 錨(アンカー)おろして ランタン振って 還るダイバーは 人気者 http://www.youtube.com/watch?v=QGstAHku4c8 昭和16年に岡晴夫が歌っている。 最初にこの歌を聞かせてくれたのは、ミナミ・スポーツの社長の南彰さんだった。ミナミ・スポーツが急上昇する前で、そのころミナミに入社して、スクーバダイビングを担当した長谷川剛たちと一緒に、社員旅行を兼ねて、伊豆大島に潜りに行った。社長が、夜の宴会の余興で僕のためにわざわざ覚えてきたと言って歌ってくれた。きっと僕がこの歌を知っていて、一緒に歌うと思ったにちがいない。僕はこの歌を知らなかった。南社長は、この歌のパラオのところを大島に代えて歌った。みんなで手拍子をとって歌った。銚子の良い歌だ。ミナミ・スポーツいまどうなっているだろうか。ネットで調べたら、ミナミ・スポーツという名前はなくて、ミナミアクティブスポーツになっている。 そして、次は、僕が初めてテレビカメラを持って海外ロケに出たポナペのナンマタール遺跡のロケで、ディレクターの日本テレビの佐波さんが、ロケ現場でプロデューサーの山中さんと折り合いが悪くなり、べろべろに酔っ払ってこの歌を歌った。この時も僕が知っているに違いないと思って歌ったのだろう。その時、佐波さんはポナペで歌っているのに、ヤップ島にして歌った。この時は、失意の歌のようにしんみり歌った。 「島で暮らすなら、ヤップ島におじゃれ」と僕は聞き覚えてしまった。 佐波さんは腕のいい編集マンだったのだが、若くして亡くなった。 ヤップ島と覚えたものだから、木曜島の白蝶貝採りの前進基地がヤップ島にあり、その歌だと思った。 全部完全に覚えて、宴会の時などに歌いたいと思った。酒を飲まなくなり、耳も悪くなって歌うこともなくなってしまったが、時々、「島で暮らすなら、ヤップ島におじゃれ」と頭の中で鳴る。去年、ヤップ島に行ったが、ヤップのスーにこの歌のことは聞かなかった。 覚えていたら歌ったのにと思った。 集中力が切れて、仕事がはかどらないので、気分転換にこの歌を徹底的に探すことにした。「島で暮らすなら」で検索しても出ない。「ダイバーの舟歌」でもでてこない。ヤップ島でも出てこない。ポナペでもでてこない。パラオで出てきた。「パラオ恋しや」がタイトルだった。その間、一時間。 岡晴夫は、「あこがれのハワイ航路」もヒットさせている。 「海で暮らすなら」の方が、「島で暮らすなら」よりも良い。もはや、若いダイバーではとてもなくなってしまったが、10回ぐらい聞いていたら、若い気持ちになり。気分がよくなった。 気分が晴れないときぜひ聞いてほしい。ダイバーならば、気分がよくなるはずだ。 そして「海で暮らすなら OOO島へおじゃれ」と替えて、歌ったら受けると思う。僕はもはやカラオケはやらないから、調べられないけれど、もしかしたら、カラオケにあるかもしれない。 ▲
by j-suga1
| 2011-07-25 14:41
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2011年 07月 24日
![]() 今の僕のデスクトップ 気持ちが落ち着く ダイブコンピューターが普及して減圧症患者が増えていると言う。なぜだろう。そんなバカな話がある者か。高いお金を払ってダイブコンピューターを買う。そして減圧症になるなんて。ずっと考えている。今度の25日には、月例のマンスリーセミナーで、タバタの今村さんを呼んで減圧症とダイブコンピューターのことを話してもらう。それはそれとして、僕も自分の考えをまとめておこう。 僕自身はダイブコンピューターを使って、そのために減圧症になどならなかったから、そんなおかしなことは無いと思っていた。今も思っている。人間、自分が痛い目に合わないと、何も信じない。 物事には、二つの考え方、視点といったほうがよいのだろうか、がある、問題をいい加減に解決しようという考え方と、几帳面にきっちりとしておこうと言う考え方だ。いい加減というと誤解されそうだからファジイとしておこう。 減圧表についての見方もこの二つの視点がある。僕がスクーバダイビングを始めたころ、1956年ごろだが、米国海軍の標準空気減圧表をすでに使っていた。多分1952年版だと思うのだが、忘れてしまっていて、今探したけれど、手元にない。明日、仕事場に行って探せばわかるのだが、まあ、1952年でも1954年でも良い。そのあたりだ。たいしたことではない。もっと古い減圧表がある。バルデーン氏浮揚時間表というのが手元にある。でもこの表のことは、いずれ潜水士の別表2のことを書くときに使う予定だから触れない。とにかく僕たちは米国海軍の表を持っていた。 先生、恩師である宇野先生に、うやうやしく言われた。「潜水は科学だから、科学実験をやるようなつもりで、正確にこの時間を守らなければいけない」これがきっちりやろうと言う視点だ。きっちり守らなければならないときめられている減圧表もある。それは潜水士テキストに出ている別表第二だ。このことは前にも書いたけれど、この表は高気圧作業安全衛生規則に含まれている。規則だからきっちり守らなければいけない。事実きっちり守っている人もいる。 僕は、先生の言いつけどおりに、きっちり守ろうとした。しかし、当時の僕たちは時計をもっていない。水密の時計はまだロレックスしかない。そんなものははるか星のかなたのものだ。時計を入れるケース、ハウジングに入れて腕に巻くので、腕巻と言われた時計ケースがあったが、それも僕たちは持っていない。だいたい、腕時計というものが貴重品だった。水中で見られる時計がなくて、どうして減圧表を科学実験のように守れるのだ。 だからいい加減にやるしかない。残圧計もないから、これも息が苦しくなったら上がってくる。当時のタンクは、120キロしか充填できない。つい最近だが、豊潮丸の航海で、船のコンプレッサーでは150キロしか詰めてもらえない。同行した石川インストラクターは、何とかしてくれと言うが、何とかできないのだ。圧縮効率が悪くなる150以上は詰められない。 昔のコンプレッサーは、さらに能力が低いから、120キロが精いっぱいだし、タンクの充填圧も120キロだった。その120キロのタンクで、1日にタンクは1本ずつしか使えない。車が無いから背負って電車に乗ってゆくのだ。あるいは、前もって充填したタンクを荷造りして送っておく。バルブが折れてロケットになったりすると大変だから、木枠で厳重に荷造りする。1日に120キロを1本とすれば、減圧症になりたくてもなれない。減圧表は、あったけれど、なるほどと思って数字を頭に入れておくだけだ。 いい加減にならざるをえない。いい加減になると、ダイバーは、減圧症が怖いからついつい長めに減圧停止をするようになる。時計がなくても米国海軍の減圧表の数字はしっているから、120キロのタンクでも、水深3mぐらいに上がると、吸っても空気が来なく なるまで停止する。これがセフティストップの始まりだろうと思う。もちろんセフティストップなどという言葉はないが、念のために停まっておくという概念はおなじである。 やがて、残圧計も時計も誰もが持つようになって、僕たちは1972年に発表された英国海軍生理学研究所のRNPL減圧表を使うようになる。この減圧表は、使い方が米国海軍の減圧表よりもシンプルで、減圧症になりにくい。 減圧表について、まず、水深30mに潜った時の無減圧範囲を比較するがRNPLは20分、米国海軍は30分、労働省は25分である。その後につかうようになったDCIEM は15分と短いが、それは1990年代に出てきた減圧表である。RNOLは、繰り返し潜水の計算が容易である。2時間以内の2回目の潜水は、前の時間に今度の潜水時間を加えて、その深い方の水深で減圧表を引く。繰り返し潜水については、とても厳しい。2回の潜水で、一回目の潜水で、20mに30分潜ったとして、次に30mに20分潜ると30mに50分の潜水になる。ほんの少しの時間30mまで行ったとしても、15mに5分、5mで70分の停止をしなければならない。スクーバでは不可能である。次に、水深60mまで潜ったとすると、RNPLは、無減圧は5分で、10分もぐると10mで5分、5mで5分の停止になる。米国海軍は180フィートがリミットで、5分が無限圧、10分だと3mに3分の停止である。労働省は、8分以下でも3mで2分、8分を越えると3mで8分の停止である。RNPLがいかに厳しい減圧停止であるかがわかる。 日本水中科学協会のシンポジウムで、僕が減圧症にならずにここまで生きてこられたのは、どうしてかなどと質問して、外川先生を困らせたが、だんだん考えてみると時計が使えるようになってからはRNPL,やがてはDCIEMと非常に安全性の高い減圧表を使っていたからだと思う。それでもなお、ファジイ、いい加減な場合に、もしも浮上してきて空気が余っていたら、3分間ぐらいの余分な減圧停止をしていた。 30m以上潜った時には、3mでの余分な停止をした方が良いと考えた。これもファジイな考え方であり、科学実験をするような態度であれば、停止はしない。 ところが何度もこのブログに書いているが、この余分な減圧停止をさせていて、若い社員が突然死してしまう。労働基準監督署では、規則通りに別表第二を守っていれば、船の上に上がっているはずだから、事故は起こらなかった。長く水中に置いて、そのために殺したという。確かにそのとおりである。きっちりと規則通りであれば良かった。いい加減がいけない。また、RNPLを使っていたこともとがめられた。より安全だといっても規則だからだめだ。真野先生にお願いして、世界の風潮として、余分な減圧をする方が安全だと考えられていると口添えをしてもらって罪を免れた。それ以後、潜水士のテキストには、「なお、無停止減圧の範囲内の潜水の場合でも、水深6mもしくは3mで安全停止を行った方がよい。」と改訂された。「安全停止」という言葉が公式のものになり、空気が余っていれば安全停止しても良いことになった。 しかし、僕の心には、減圧症になっても良いから、なるべく早く社員を船の上に回収しようという気持ちがトラウマとして残った。余分に水の中にいるとろくなことがない。 続く ▲
by j-suga1
| 2011-07-24 07:36
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2011年 07月 21日
震災で壊れていた東大・本郷のプールも先月に応急修理が終わり、東大海洋探検部の練習も再開されていた。僕も、現監督の小久保博士(僕のバディ)に誘われて、久しぶりに練習を見に行き、お話をさせてもらい、ついでに自分も泳いだ。久しぶりのロングフィンが重くて、400mをゆっくり泳いで汗をかいた。トレーニング不足だ。
![]() 写真の練習は、新入部員のダッシュ練習で、200mを3分半で泳げないと、8月前半の合宿に連れて行ってもらえない。 なお、スクーバを付けての練習は、数人の部員が17-18に参加してくれた、プライマリープログラムの水平トリムの練習をすでに取り入れていた。 ![]() 40年前も200mを3分半で泳がせている。 この探検部と僕との付き合いはながい。このまえ写真を探していて、たまたま出てきた、昔の記録、この中の柴山知也君は、いまでは、探検部の一番古いOBで、早稲田大学の教授で、津波の研究の専門家である。http://www.f.waseda.jp/shibayama/ 高瀬さんは外交官になり、いつだったか外務省の廊下でばったりあった。それも15年以上前の話だ。他の人たちはどうしているだろう。みんな偉くなっているはずだ。 練習が終わっての僕の話は、いうまでもなく安全の話だ。日本を何らかの形で創り支えて行かなければならない未来を持っている。練習が耐久力テストになってはいけない。垂直方向への練習、スキンダイビングで深く潜ること、錘を持ち上げる練習、垂直方向へのベイルアウトをしてはいけない。合宿でお酒を飲んではいけない話などなど。 監督の小久保君も、売れっ子のシミュレーション天文学者だ。合宿には顔を出せない。僕も一緒に行きたいけれど、今度の合宿は加計呂麻島だ。なにしろ探検部だから、探検っぽいところに行く。次の世代のインストラクターを考えなくてはいけない。 全日本潜水連盟のインストラクターにすることを考えていて、日本水中科学協会のメンバーである全日本潜水連盟のコースディレクターに任せようと言うと、昔の須賀がやっていたような厳しいインストラクターコースでないと、みんなが練習しなくなると言われた。今でも全日本潜水連盟は厳しいと思うのだが、酒を飲んで言い争いをしていたと言う噂も聞く。内容ももちろんだけれど、姿勢の厳しさがもっと大事だと思う。この頃、水中ではともかく、陸上では疲れてよろよろしている僕の姿勢も問題だ。姿勢が少し違うけれど、外見は大事だ。反省しよう。とにかく相談してプログラムを決めて、全日本潜水連盟のインストラクターにしよう、という結論になった。 小久保准教授と、ラーメンでも食べようと、この練習の後、何回か行ったことがある白山ラーメン に行った。しかし、白山のいつもの場所にないのだ。他のラーメンでもいいよ、と僕は言うけれど、小久保は、携帯のGPS片手に探す。30分ぐらい走り回り、Uターンを繰り返す。このしつこさが、研究者には大事だ。17号線を行ったり来たりして、ようやく板橋に引っ越した白山ラーメンをみつけた。深夜に車が集まるので近隣の苦情が出て、引っ越したのだそうだ。味はかわらなかった。 今朝、ツイッターを見ていたら、娘の潮美が大学時代に起こった事故について書いていた。 http://diving-commu.jp/divingspirit/item_5740.html その話も東大でしたばかりだった。一人の死は、一人の未来を消す。しかし、若者は、夢と冒険を追って海に出て行ってほしい。 40年前、200mを3分半で泳がせて、合格とか不合格とかチェックされていた若者は、今、教授になっている。政府高官になっているかもしれない。病に倒れ、死んでいるかもしれない。40年後、僕はもういないけれど、目の前の若者は何になっているのだろうかと思う。なるべきものになっているはずだ。 ▲
by j-suga1
| 2011-07-21 12:07
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2011年 07月 19日
7月19日 昨日の朝は、プライマリーコースの研修会の合宿だったのだが、早朝、3時半からサッカーを見てしまった。 僕はバスケットのプレィヤーで、高校3年までは死ぬほど没頭した。大学に入ってダイビングに転向し、命を賭けた。つまりまだやっていて、死ぬまでやるだろうということだ。 サッカーは、息子が小学校と中学校、そして高校で彼はアメリカンフットボールに転向したが、大学ではサッカーサークルに入っていた。息子との付き合いで、サッカーの試合も良く見たし、テレビ観戦もした程度である。しかし、その程度でとてもよくわかる、わかりやすいサッカーだった。 日本は、アメリカと20回以上対戦して、一度も勝ったことが無いと言う。身体の大きさでもぶつかったパワーでも及ばない。この試合で感動的だった宮間というお姉さんは1m55cm?だという。運動量、そして考え抜かれた戦術と連携、そして技術力で対抗する戦略しかない。多分、22回の敗戦の中で、どうしたら勝てるのか、それ以外に勝つ道はないと言うことを考え抜き、身体にたたきこんでいたのだろうと思う。そして、彼女たちは自分たちのやるべきことと、自信に満ちていた。口先だけの自信ではなくて、動きの中に自信があふれていたように見えた。走り回ることでアメリカを上回り、そのスタミナは、驚異的にみえた。それでも、そのテンションを持続させて行くことはできない。力が抜ける瞬間がある。すこし動きが遅くなる。危ない状況が目に見える。あ、危ないと思う瞬間に得点される。その意味でとてもわかりやすかった。実力は、向こうが上だと言う先入観が見ている僕たちにはあるから、もうこれでだめだろうと思う。しかし、彼女たちの自信は揺らぐことがないらしく、それは、頑張るとか根性だとかいう次元のものではなく、考え抜かれた戦術とトレーニングから得られる自信であり、最後まで完全燃焼で走りぬこうという気持ちが表れていて、ワンチャンスに体をぶつけて得点をしてしまう。 そして延長に入り、あれ、動きが少ないと思うまもなく、得点されてしまう。もう駄目だと見ている僕たちも思い。多分アメリカも勝利を確信しただろう。でも、日本はまだあきらめず、セットプレーから得点してしまう。ボールゲームはモメンタム、流れの中での勝負である。最後まで、ほんのわずかな隙、を確実にとらえる技術と意欲を日本は持っていた。 同点になって、もはやアメリカはすべてのモメンタムを失った。相手が得点した心の隙間をねらって、モメンタムを引き寄せる、他に、戦略はなかったのだと思う。 そのモメンタムにのったPKは、キーパーの第一回目の神がかり的なセーブ、これで、アメリカは、どこに蹴っても弾き飛ばされると思っただろう。日本の最初のキック、小さいお姉さんは、からだの動作だけのフェイントでキーパーを飛ばしてしまう。 お金もあまりもらえない、女子サッカーが勝った。そのことも、不景気の中で、つらく耐える日々の中での日本人を励ましてくれる。お金とかかわりなく、サッカーが大好きな、ただそれだけの女の子たちの人生一瞬の輝きが美しかった。 日本はほかの分野でもこのパターンの戦いしかできない。考え抜いた日本人の持つべき戦略を持たなかった太平洋戦争に負ける。しかし、歴史の流れの中で、これは必然だったように思うし、必然だったから、その後の脅威的な復興があったのだろう。それは、江戸時代の鎖国に続く明治維新のパワーによく似たものでもあった。 ![]() 昭和44年の福島の海 カラーではないのでわからないが、人工魚礁には、だいだい色のホヤがびっしりとついている。 そして、震災とそれに引き続き、おそらくは今世紀の終わりまで続くであろう放射能汚染との戦いが始まっている。それは、頑張れとか根性論では、どうにもならない戦いであろうと思う。考え抜ぬかなくてはならない。 震災以来、恐ろしいダメージを陸上と同様にうけた沿岸部、水深20メートルまでの水中世界、そして、地下水からの流出を考えると、少なくとも向こう30年は続くとおもわれる汚染とどのよう対抗して行けば良いのだろうか。福島県の沿岸はもう捨てなければいけないのだろうか。前にも書いたけれど、福島県は、僕のプロとしてのリサーチダイビングがスタートした海だ。 福島県に潜る手配は、まだできそうにない。夏を越してからもう一度考えよう。 必ず福島の海に潜る。 そして、宮城県は? 出来たばかり、まだほんの小さな力さえない、1年前には心の中にだけあり、そして現実には高い壁だけがあった日本水中科学協会としても、できるだけのことをしたい。 3月4月は、ただひたすら現場に行かなければと思い願った。しかし、お金がない。貧者の一灯ともいうべき献金をするぐらいの術しかない。どうするか、考え抜くしかない。 お金はないけれど、とにかく現地に行って、現地の人と話し合い、行動の中で道を見出そう。スケジュールをおさえて、現地に連絡した。他のボランティアグループが来るので、ダブってしまうという返事が戻ってきた。ボランティアの押し売りを競ってするようなことは、ナンセンスでしかない。先を越したグループは、よく知った仲である。できることがあればお手伝いしますというメッセージを送って、別の道をかんがえることにした。 今も考え続けている。考えて助成金の申請書を書きまくった。振り返って冷静に見れば、落選して当然の企画だったから、すべて却下された。しかし、ただ落選させただけではなくて、却下した理由のコメントもいただいた。何かをやろうとするから、壁が出来る。 最後の申請まで、残された時間はわずかである。ここまでのボランティア活動は、遺体捜索、瓦礫の引き上げの援助だった。立派な活動であり、これからもそれは続けてゆくべきであるが、競うことではない。日本水中科学協会としては、研究者の会員と力を合わせて、環境の復興、生態系の復元が良い方向に向くべく努力をすることを目標にする。 それはそれとして、日本水中科学協会とはかかわりなく、沢山の研究者グループがこれから30年、現地の海に入って行こうとするにちがいない。当然、外国の研究者もたくさん来るだろう。爆発の可能性がある原発が世界に広がっている現状から考えると、その復活の途を示して行くことが日本が世界にできる貢献の一つかもしれない。目下のところ、グリーンピースにデータを提示されてあわてているような、お寒い現状だけれど、日本人のスタミナと考え抜く力、そして互いに協力する民族性を生かすことを戦略としなければいけない。研究者、漁業者、スポーツマン、学生も、安全に潜水して、協力し合える場を作る方向で努力を続ける。今書いている助成金申請が通るかどうかわからないが、折れなければ、次第に熟成して実現できる。他にとるべき戦略はないだろう。 ただ、目下のところ、考えれば考えるほど、現実とのギャップが大きく見えて、絶望的な気持になる。自信を失わずに世界を目指して走りぬいた女の子たちがいる。 まだまだ趣意もわかってもらえていないけれど、いま、ダイバーが一人前になるための実技講習について、僕たちは実質的にトップを走っている。用語集の編集完成と、マンスリーセミナーの開催で、運用理論の面でもトップに向けて走ろうとしている。 そして、その展開は、南の美しい海ではなく、荒れ果てた三陸の海であり、その海がやがては豊かさをとりもどすための水中活動である。助成金申請書の終わりに書いた。「夢は捨てない。」こんなことを書いてはいけないのかもしれない。出すときに、消してしまおうかとも思う。 ▲
by j-suga1
| 2011-07-19 21:00
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2011年 07月 18日
17日―18日とプライマリーコースの技能確認証(Verification card:Vカード)研修会、ようやく、プールも満員に近くなってきた。僕は、プロデューサーだから、混ざって気ままに練習しているだけだから、疲れることは何もないのだが、やはり疲れる。それに今日は、サッカーのワールドカップを見てしまったから眠い。
おかげさまで、研修会も定員に近くなってきた。SMBを上げる練習をしている ![]() ![]() ダイブコンピューターのこと、TUSAのIQ850にしたので、プールでも着けて潜ることにした。スントのソリューションαは、お台場のように浅いところでは働いてくれないが、TUSAは、働いてくれる。もちろん減圧停止などすることはありえない深さだが、データを記録してくれるのでありがたい。例えば今日の潜水は、最大水深2.7m、9時47分から10時24分まで、潜水時間は37分、平均水深は1.9mだ。深さ、3.2mのプールだから、着底していなかったことがわかる。 この前のブログで、浮上速度、毎分6mというのはとても無理で、ほとんどの潜水で浮上速度警告がでてしまうと書いた。一方で、1993年のDCIEM 減圧表での浮上速度は15m±3mである。毎分15mといっても、毎分10mといっても実際の潜水では毎度測定していたわけではないから、だいたい毎分15mぐらいだったのだろうと思う。その浮上速度で、55年間、減圧症にもかからず、他の圧力障害もおこさずに、無事に潜水してきた。 多分、ダイバーにも減圧症になりやすい体質のダイバーと、なり難い体質があり、僕は、まあ普通だったから、毎分15mでも無事だった。50年のうちにたしか1回だけ、浮上速度をきちんとまもって、上を向いて気道確保して浮上した。もちろん、減圧症になるような長い時間はもぐっていないのに、頭が痛くなり、一週間たってもよくならないと相談をうけた。再圧治療を薦めて、それで治ったので、多分減圧症だろうということがあった。そういう人は、多分100人に一人ぐらいだろうか、あるいは500人に一人、1000人に一人かもしれない。その人は適性がないのだから、水中で何かをするダイバーとしては無理だ。しかし、ダイブコンピューターとしては、それでは困る。ダイブコンピューターの指示とおりに浮上したのに、減圧障害になったとすれば、訴えられるかもしれない。ダイブコンピューターを勝った人、100人のうちに1人が障害がでたりしたらたいへんなことになる。僕は99人の大丈夫な人の方に入るから、浮上速度警告は無視するけれど、レクリェーションダイビングのお客様相手では、無視することはできない。毎分6mの速度を守るためには、潜降索を降ろして、一握りづつ手繰って浮上するか、サーフェスマーカーブイを上げて、完全な水平姿勢で、リールをゆっくり巻きながら浮上するかしかないだろう。 JAUSの技能確認証(Verification card:Vカード)研修会では、マーカーブイを上げて浮上する練習をしている。なかなか難しい。失敗するとマーカーブイに引っ張られて、それこそ毎分20mの速度で浮いてしまう。受講生は、みんな何度も失敗している。水深3.2mのプールだから、危険はないが、水深5mだったら少し怖い。習熟しなければ海でやってみるのはあぶない。実は、僕も70歳の時リブリーザーを買って練習を始めた。IANTDの豊田君をインストラクターに頼んで、フィリピンで練習したが、その時、サーフェスマーカーブイの練習で、2回ほどバランスをくずして、落第した。この方法は初心者には無理だ。 もしも、本当にダイブコンピューターの浮上速度を守らせて、警告マークが100回の潜水で一回もでないように浮上さえようとするのならば、潜降索を増やさなければいけない。僕は良く赤沢に行くのだけれど、(このごろはご無沙汰してしまっているが)堤防をまわりこんで、進んで、一番先端の部分に1個、コースの途中に2個ぐらい潜降索ブイを浮かべておくと良い。初心者の空気が少なくなったら、途中の潜降索でゆっくり浮いて、水面遊泳で戻ってくる。海洋公園も同様だろう。大瀬崎湾内は、岸へ向かえば、ゆっくり上がれる段になっているから、潜降索不要。 そして、講師の久保君とも話したのだがSMBを上げて浮上すると、事故だと思われて、海上保安部に通知される恐れがある。ダイブコンピューターの浮上速度警告は、潜降索もしくはSMBとセットになっているべきものだ。 それでも、目下のところ、僕は10回の潜水で、8回まで浮上速度警告をだしてしまいそうだし、必ずSMBを使うようになっても、失敗があるから、10回に1回は警告がでるだろう。10回に1回の失敗が通常だったとすると、やはり、ダイブコンピューターの訴訟回避のような気もするが。 ▲
by j-suga1
| 2011-07-18 22:43
| 日記 ログ
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2011年 07月 16日
「出来ること、潜ること」プロジェクトにエールを送ります。
そして、「海から元気を」もらうこと。僕は、7月5日から12日まで、広島から薩南海域への航海にでて、1日目は船酔いに打ち伏して、この航海もこれで4回目だけれど、もうこれで終わりかな、と思ったりしていました。そして、7月7日にようやく屋久島で潜ると、みんな、僕が「人が変わったように元気になった」というのです。もちろん、当人も元気になっていることに気づいています。 考えてみれば、僕のダイビングライフはこの繰り返しで、海から元気をもらって、76歳まで生きて潜っています。 「海から元気を」それは、ダイバーみんな共通なのでしょう。もしかしたら、その元気が、三陸の海の人たちにも伝わるだろうし・・・ 多忙にしんにゅうがつくような毎日、たいしたことはしていないのですが気持ちが忙しくて、自分の目標だけを追う世界に生きているので、このプロジェクトになにも力添えできませんでした。 エールを送るだけです。 ![]() 揺れる船でドレッジを引きます。 7月7日、屋久島で、TSA のIQ 880と僕のソリューションαを並べて腕につけて潜ることにした。残念?ながら、水深も浅く、時間も短いので減圧停止の潜水にはならない。 上がってきて比べてみると、水深は7.4と7.3だからこれは良い。エーツとおどろいたのは、潜水時間だ。TSA が41分、ソリューションが36分だ。ちなみに、時計としては同じ時間をしめしている。なんだこれは、その後も2台ずつ付けて潜水すればよかったのだが、そのあとは、TSA だけを着けて潜水した。二つ着けるのが煩わしかったのだ。船の上では余裕が無い。帰ってきて、並べて写真を撮った時、これはえらいことだと反省した。今後は、毎回二つ着けることにしよう。 ![]() 使って見ての使いやすさ見やすさなどは、とても良いという以外に特筆することはない。TSA のバーグラフは、やはりどの辺の半飽和組織に窒素が溜まっているかがわかって良いけれど、減圧潜水に入りかけた時に、早く浮上しなければとプレッシャーになるのではないかと心配になる。昨日書いたように、ダイバーは、ダイブコンピューターに支配される。その意味でアマチュアが絶対に無減圧の範囲で潜ろうとするときに、よく効くダイブコンピューターだと思う。しかし、アマチュアが使うと、減圧停止潜水になったら、それはすでに事故だと思ってしまうのではないか、それがすこしだけ心配になる。 次回の潜水では、減圧表を使って潜水の計画を立てて、ダイブコンピューターは、2台並べて着けよう。実は、もう一台、スントのD4を持っていたのだけれど、電池が無くなってしまい、交換に7000円もとられるのは納得出来ない。分解してやろうと思ったのだが、壊してしまいそうだから諦めた。ちょうど、娘の潮美のダイブコンピューターが壊れたというので、上げてしまった。ダイブコンピューターを3台着けなくてもすむ。 ちなみに、スントのソリューションαは、簡単に電池交換ができることがわかった。TUSAも交換ができる。これはとても助かる。 減圧表をまた使うことになるので、全日本潜水連盟時代のDCIEM カナダのテーブル・スレートを持ち出してきた。これは、1998年にカナダの防衛省から権利を買ったものだ。その後更新していないから、無効であり、版権の問題があるのかもしれないが、僕はもう理事長をやめたから、問題ない。とにかく、1998年当時世界で一番安全度の高いテーブルとしての評価があった。僕の愛読書であり、スタンダードとしている、「ダイバーのための潜水医学テキスト」後藤與四之 監修・訳 1995 でもこの表を採用している。そして今、取り出してみて驚いた。「浮上速度は毎分15m±3m」と規定されている。15m+3mならば、最速毎分18mで浮上すれば良いことになる。これが僕の時代の常識だったのだ。そして僕は50年、この浮上速度で、多分5000回以上潜水して、なんの障害も起こっていない。もう、もしかして僕の骨はボロボロなのかもしれないと思うことがあるけれど、別になんともない。 TUSAの取り扱い説明書には、浮上速度厳守が書かれていて、ほとんどの減圧症には浮上速度が関わっているように書いてある。毎分15mが体に沁みついている僕は、スントでも、もちろんTUSA でも速度警告マークがでる。 TUSAでは、浮上速度は毎分6mを指定している。 守ることは、潜降索が無い限り不可能な数字だ。水深10mでトリムをとって気持ちよく浮いているためには、水深3m以下では軽いウエイトになる。タンクの重さも、最初と最後では、2キロの差がある。5mでのセフティストップを終えて顎を上げて気道を開いて水面を見る。水深1.5mで止まろうとしても、スーッと上がってしまい、速度警告がでる。僕は、すべて無視して、自分の速さで上がるけれど、やはりダイブコンピューターには負けるから、今回は努力した。5回の潜水で、速度警告が出なかったのは1回だけだった。心配なのは、速度警告を出すまいとして、下を向いてダイブコンピューターを眺めながら、それでも3mから上は浮いてゆく、3mから上での浮上速度のコントロールは、初心者には出来ないから、気道開放を第一に考えないと、空気塞栓になる恐れが有るのではないだろうか。初心者にとって恐ろしいのは空気塞栓であり、若干の減圧症は、風を引いたくらいのものだと僕は思っている。浮上の時に、呼吸と気道開放以外のことに気をとられるのは、とても危険だと思う。なお、この浮上速度の問題は、TUSA のダイブコンピューターの問題ではなくて、すべてのダイブコンピューターで同じであるが、ダイビングの世の中、全て、浮上速度は遅ければ遅いほどよいと思っているのではないだろうか。 なお、DCIEM の30mでの無減圧限界は15分、潜水士の別表第二では25分以下、アメリカ海軍も100フィートで25分である。 30mに15分潜ったときに、バーグラフがどうなっているだろうか、とか、見ることができるので、とても良い。 ▲
by j-suga1
| 2011-07-16 19:30
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