須賀次郎のURL
辰巳国際水泳場での練習会日程などを発表しているURL
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2017年 12月 06日
1206 ダイブプランノート 腰に取り付けている。 「海、生きる、学ぶ、探る」1987年に出版された、自分とか、後藤道夫、が書いている。 以下に引用する。 1963年舘石さんと100mの潜水チャレンジをして、 「水深90mまでたどり着き、人生観が変わった。死ぬことが怖くなったのだ。人間が変わった。それまで思い切りの良い性格だったのが、優柔不断になった。 一緒に仕事をしているテレビ番組の監督は、「仕事をしないうちに反省会をしている」と私を評した。当たっている。 今(1987)の私は水に入る前に、水の中で起きるすべての出来事を予測しつくそうとする。失敗は生命を失う事故になるかもしれないから失敗は許されないと思う。本当に安全を願うのであれば、潜水しないのが一番良い。しかし、仕事で潜水する以上、どこかで見切らなくてはならない。優柔不断と決断の間を揺れて、なにがなんだかわからなくなり、最後には覚悟を決めて、水に入る。」 このフレーズの中に、今考えていることが、ほとんど全部はいっているので、驚いた。
ほとんど毎日、ダイビングの安全、つまり、自分も、バディも死なないようにする事をいつも考えている。プロのダイバーのほとんど全員がそうなのではないかと思う。死なないよう、死なせないように、考えている。そうでない人、考えないダイバーはプロではないと思う。外見からはわからないだろうが、そんな風にいつも考えている。僕もプロなので「死ぬ、生きる」を隙間無くかんがえている。
「水に入る前に水の中で起こるすべてを予測しつくそうとする。」イメージを考える。イメトレは大事だが、形(文章)になっていないので、結論がでない。文章にする努力が必要で、それが計画書だ。 「仕事(潜水)する前に反省会をしている」今の時点で考えると、それはPDCA のA、アクトだったのだ。PDCA で論理的に整理して字にしておけば 「優柔不断と決断の間を揺れて、なにがなんだかわからなくなり、最後には覚悟を決めて、水に入る。」ことはなかったかもしれない。
チームで動くならば、言葉が通じない水中では、簡潔な文章にして配らなくてはならない。 その文章が定型化するとローカルルールになる。 寺山君の「オーシャナ」を見たら、パラオのドリフトダイビングのガイドダイバーが書いた、言った?安全ブリーフィングの要綱がでていた。これが、ローカルルールなのだ。そのローカル、パラオで、ガイドとゲストがする約束事、ローカルルールは文書化して、事前に配布して読み上げる形でブリーフィングを行うと徹底できる。言葉は人によっては通じない。事故が起こったときの証拠にもならない。「だから、言ったじゃないですか?」ではダメなのだ。 パラオで文書化しているかいないかは、知らないけれど、きっと何かあるのだろう。 ローカルルール+これからエントリーするダイビングの要点を書いて渡す。これがダイブプラン、今回のシンポジュウムでの提案の骨子だ。 ダイブプランは防水して、それぞれに渡す。 これに類するもの、昔は、スレートだった。スレートは自分でかくので、よりよいかもしれない。 このところ、今村さんが減圧症対策で頑張っているけれど、予測する、計画するダイブプロフィールの図を持っていて、自分がどのあたりにいるのか、認識していると、わかりやすい。これは立体的な地図、プランノートだ。
こんな面倒なことは絵に描いた餅だ。だれがやれるのだ。自分も自信がない。 どうやって具体化するか、そのためのワークショップを開き、研究する。その提案をしている。
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by j-suga1
| 2017-12-06 17:20
| ダイビング運用
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2017年 11月 29日
展示するハウジングから見た日本のテレビ・潜水撮影小史 5 もう一つ、展示映像として、3D 立体映画がある。立体映像は二つのカメラを並べて撮影し、それを電子的に画像処理して、立体映像にする。見る方は偏光レンズのめがねをかけて見る。僕の撮影した頃は青と赤だった。 二つの小さなビデオカメラを連結したものを作り、 これを使ってトラック島のシャークアイランドと呼ばれている鮫の集まるところに行き、鮫の映像を撮った。これは、仙台にある「ササカマ館」笹かまぼこを作って売っている展示館の小さい部屋、シアターで上映した。これは、部屋が小さい効果か、かなりの迫力映像だった。 3D映像は像が飛び出してくる。鮫が飛び出してきて頭の上を泳ぐ、またかみつくように突進してくる。 飛び出し立体効果があるが、これを長時間見ると身体に良くないし、見続けられない。せいぜい15分程度が限界である。立体映画は、ずいぶん昔からあって、僕が初めて見たのは、高校時代だったろうか、ジョン・ウエインの西部劇「ホンドー」だった。これはインディアンの斧が飛んできたり、槍が飛んできたりの映画だったが、途中で疲れてめがねをはずしてしまった。 ディズニーランドの展示映像も飛び出すこの方式であり、上映時間は10分程度である。劇映画の立体は、やや穏やかで、長時間見ていられるよう工夫されている。「アバター」などは傑作であり、見ていてもつかれなかった。 家庭で見る立体テレビ放送は、その意味で無理であり、続かなかった。 なお、飛び出させるには、二つのカメラの写軸を交差させるところに被写体を置く。これが前後にずれると、魚が飛び出さずに二尾になってしまう。飛び出し効果を強調しないならば、写軸は平行でいい。交差を合わせることを、コンパージェンスを合わせるなどという。
葛西水族館(正式名 葛西臨海水族園)と、東海大学(正式名 東海大学海洋科学博物館)に立体映像シアターがあった。 葛西水族園 では、製作コンペ(企画製作を募集して、実績のあるプロダクションが応募する)があり、「伊豆の海」というタイトルで、幸い勝ち取ることができ、1994年は、は、この伊豆の海の撮影ロケをおこなった。伊東の富戸から、下田まで、そして、大瀬崎では、タカアシガニを撮影した。 このコンペは、さすがに、トラック島で使った民生カメラ連結の3Dでは、できず。フィルム立体カメラを使った。これは35ミリカメラ、二つの並べたレンズで撮った映像をプリズムで、35mmフィルムカメラの一つの画面に上下二分割して、撮影する。二つの画像が一つの画面に上下に並んでいる。この立体の現像処理ができるのは、イマジカ(函館昆布館熨斗後とをさせてもらった)だけであった。 1996年、の葛西水族園のコンペ、今度はハイビジョン立体が要求された。これは、放送仕様のソニーのカメラを並べ、上から蓋をする。これも小さなボンベで内外の圧を等しくしないと水没する。イマジカの35ミリ横走りと同じ方式である。このカメラハウジングを作ったのは、上谷成樹という友達で、特許を申請していた。僕のイマジカのカメラの方が早い。僕が特許を出しておけば、このHVのカメラも作れたのだが、それ以前に深海用のカメラで同じ方式があることを知っていたのでださなかった。割と親しい友人だったので、そのままにした。少し残念だった。 コンペには勝つことができ、慶良間の海で撮影する。これは、ベニヤ板のハウスを、親しい宮平秀保のボートに建て込んで、NHK同然、たいへんな撮影になった。 続く1997年にも葛西水族園のコンペがあり、「知床の海」の企画を出して、これも勝ってしまう。 常勝である。 1997年12月、まだ知床の海の撮影中、アクアマリン福島、小名浜にできる水族館のコンペがあった。普通のHVマルチ300インチスクリーンであるから、技術的には楽勝である。福島はホームグラウンドである。絶対に撮りたかった。しかし、NHKに負けてしまう。これが、事実上僕の展示映像カメラマン生活のピリオドだった。2005年の愛知万博の撮影は、取れなかった。話は前後するがその後にスーパー16の東京タワーなどもあるが、一日仕事でしかない。。
そして、そのアクアマリン福島で勝ったNHKエンタープライズは、南方カメラマン(親友)で、その南方が、この福島の映像撮影中に、神子元島でダウンカレントに引き込まれて死んでしまう。
ダウンカレントでは僕も危機一髪が2回ある。一度は伊豆海洋公園で、もう一度は与那国で、潮美と一緒にハンマーヘッドを追っていた。そのときは、ケーブルでつながっている撮影だった。なんだかわからないままに引き込まれ、ケーブルがボートを支点に振り子になって、水面に浮き上がった。ケーブルが切れたら終わりだった。それでも急浮上でから肺破裂の心配はあった。ハンマーのいる流れの端にはダウンカレントがあるのかもしれない。 南方もケーブルのハイビジョンだったら死ななかった。ダイバーの生死は、運なのかと思っている。 #
by j-suga1
| 2017-11-29 15:42
| 歴史
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2017年 11月 27日
「展示するハウジングから見た日本のテレビ・潜水撮影小史」 4 映像は高画質化。 映像は常に高画質化をめざして進化していくのだが、区切り、段差がある。階段のひとつが、ハイビジョン化である。わかりやすく区切ると1990年がハイビジョンの現場実用化第一歩と考えられる。 ハイビジョンを略してHVとして行こう。現場では、HV化でビデオは振り出しにもどってしまった。ビデオの初期には、幅1インチのテープレコーダーの超大型版を回して録画した。そこに戻ったのだ。 僕はビデオエンジニアではないので、詳しい技術的なことは、よくわからないのだが。 とにかく、HVは現場ではテープに戻った。やがて、テープが録画メモリに変わることでさらなる革命が起こってしまうのだが、とにかくテープレコーダーにもどったそれも、もっと大きく、器機の発熱とか、湿気とか、やっかいな問題を抱えるレコーダーだ。 1991年5月 NHK潜水班は、伊豆大島での研修で、ハイビジョンカメラの習熟訓練をおこなう。その時の写真を見ると、船の上に、ベニヤ板の小屋をつくり、波しぶき、湿気を防ぐとともに、クーラーも着けて、テープレコーダーの発熱を防いでいる。後述するように、後にこのシステムを借りて撮影したこともあるのだが、たいへんな代物である。 一方でHVでない、一般のビデオも画質を保ちつつ小型化していく。テープ幅8mmのハイエイトカセットが普及する。 ここで撮影機材をカメラ部分と録画部分に分けて見てみよう。これは、とても大事なことなのだが、ビデオ録画部分は、まず1インチテープ、リールに巻き取るテープレコーダーから、カセットになり、1インチテープカセット、少しテープ幅がせまくなって 4分の3インチ、しぶさん、などと呼ぶ幅になり、ベータカムカセットが一般になる。そして8mmになり、デジタルテープになり、やがてはテープでさえなくなってしまう。そして、すべてがHVになってしまい、HVもまた進化して行く。
そして、機材の制御もメカニカルから電子に変わって行く。カメラマンは、その流れに押し流されていく。
僕は、ニュースステーションの撮影は中川隆(後に独立して河童隊)に譲り、ハイエイトによる映像記者的な小回りと、大型展示映像撮影に向かった。小回りの映像記者としては、衛星チャンネルという誰も見ていないような局で24本撮り、キャスターの真似事もした。神領プロデューサーの仕事である。
機材の進化にともなっ、現場でのVEも進化する。電子技術者としてのVEの役割はより重要になるが、従来のレコーダーを担いで走るエンジニアは、不要になった。カメラマンは一人で良い。一人で良いならばカメラマンで無くても、監督自らがカメラを回せば良いのではないか、ドキュメンタリーとは元来そういうものだった。フィルムの時代、ベルハウエルのDR70を手に戦場に赴く報道カメラマン、その戦場がジャングルであっても極地でも同じだ。カメラマンであって監督であり、製作者であった。 一人で撮って、一人で編集して、一人でスタジオでしゃべる。スタジオでは司会、まとめ役のアナウンサーと話すことが多いのだが、基本は一人だ。小さくて、どうやら放送で使える映像、ハイエイトは、それができたのだ。
高画質化と廉価機動能力向上、映像は二つの道にわかれた。やがて、それは一つに、高画質と同時に廉価、機動能力を備える方向に収れんしていくのだが、とりあえずは二つの道。 高画質化に話をもどして、映像の大型化、見せ物化、博覧会は映像展示と同時に実物をみせる。そして、それは、3D、立体化、アイマックスになるのだが、その両方について行かなくては取り残される。その中道とも言うべきテレビ番組の撮影もある。三つの道が目の前にあった。
ハイビジョンの道は船の上に小屋をたて、コンテナー一杯の機材をつかうのだが、映像の高画質化は、電子的な方向ともう一つ、フィルムの進歩向上がある。曰く、ハイビジョンは、フィルムに限りなく近づいて行く。ならば、フィルムのカメラに戻れば、小屋を建てなくても良いのではないか。
もう今では、一般のダイバー、一般のカメラマンがフィルムをいじることもなくなったのだが、画質はフィルムの面積に比例する。だからスチルも35mmより6×6判が良く、6×9がさらに良く、一枚ずつフィルムをカットしていくフィルムが最高になる。カメラの値段、カメラの大きさもフィルムの面積に比例する。もちろんフィルムの値段も面積に比例する。 フィルムの時代、一般に使う35mmは妥協であり妥協の中でフィルムの進化で画質を向上させてきた。 電子カメラ、デジタルはフィルムの画質を追って進化してきた。HVはフィルムに追いつく。しかし、1990年代のHVは、まだ35ミリには追いついていなかった。
映画のフィルムには、70ミリ、35ミリと16ミリ、8ミリがある。映像の初期、アマチュアカメラマンは8ミリフィルムで撮影した。8ミリと言っても、前述のハイエイトとは違う。アマチュアは8ミリ、ドキュメンタリーは16mm、劇場映画は35mmだった。 そのプロのドキュメンタリー、16ミリは、音声を記録するトラック部分がある。しかし、機材の進歩で、音声トラックがなくても、音声が記録できるようになり、音声トラックは不要になった。このトラック部分まで画像記録部分を広げると画質が向上して、さらに、フィルムの進歩で、HVに匹敵する。このフィルムをスーパー16という。 すなわち、大型展示映像ではなくて、一般のHV ならば、スーパー16で対応できる。これならば、世界中HVを担いでいける。水中撮影も普通のハウジングで間に合う。 紆余曲折あって、スーパー16のカメラ、フランス製のアトンを買うことにした。ハウジング込みで約1000万円だ。
このカメラで、1993年、網走流氷館のハイビジョンマルチの映像を撮影した。 これで流氷の下のクリオネを撮影紹介して、流氷館の呼び物になった。 ここまでは良かったのだ。 この方面は、環境映像を撮らせてもらっていた神領プロデューサーに仕事を依存していた。愛知万博で、日本の24節季を巨大展示映像で見せる企画も立てたが、これが実現しなかった。 劇映画としては、オキノエラブ島の水中撮影これは、ドキュメンタリー風の劇映画だった。そして、東京タワーという劇映画で、プール撮影をした。これは習志野水泳場飛び込みプールで、10mの飛び込み台の上で、争って突き落とされる岡田准一を撮った。もちろん10mからは吹き替えで、岡田君は3mから飛び込んだ。 スーパー16は、現像代が高く、ストックフィルムを残しておくことができなかった。そうこうしているうちに、電子カメラのHVがどんどん小さく、安価になり、アトーンは、世界を飛ぶ、魔法の絨毯にはならなかった。
イマジカという、映画フィルム現像の日本でトップの会社がある。日本の映画が続く限り、存続して行くであろう会社である。 そのイマジカから35mmフィルムを横走りさせるカメラのハウジングについて相談を受けた。 画質はフィルム面積に比例する。35ミリスチルカメラはフィルムを横に走らせる。映画は縦に走らせていた。横走りの方が面積が大きい。フィルムの画質は面積に比例する。 一方で、映画館のスクリーンも、大きくなる方向で進化する。シネラマは三つのスクリーンを三つのカメラで撮った三つの映像を無理矢理合成映写することで巨大スクリーンを実現した。 フィルムの画質進歩とフィルム面積を大きくすることの相乗効果で巨大スクリーンに対応した。70ミリフィルムである。これで、シネラマは終わった。 35ミリの横走りは、70ミリまで行かずとも、35ミリで巨大スクリーンの映写に対応したものであった。 横走りカメラは横に寝ているカメラで、ハウジングに入れたらタライの様に横面積が大きくなった。横面積は水圧を受ける。水圧で押され歪んだらオーリングの溝が歪み水没する。レギュレーターと小さなボンベでハウジングの中に空気を入れて、内圧と外圧を等しくすれば解決する。それで解決した。 そして、35mm横走りカメラハウジングは完成し、僕はこのカメラで、1993年、函館昆布館の全天周イマジカビジョン展示映像を撮った。全天周とは、プラネタリュウムだ。 今、遊びのカメラで180度、360度のカメラが売り出されていて、1万円弱で、180度(360度と言っている)がある。これで撮ってもプラネタリウムがなければ映写できない。映写はできないが、スマホでスクリーンの方を動かしてしまうことで全天周にする。あるいはPCの上で、指で引っ張って、動かす。 1993年は網走流氷館と函館昆布館、二つの展示映像の仕事ができた。 函館昆布館では、全天周映像と、他に、ハイビジョンマルチで、昆布の林で泳ぐヌードの撮影があった。昆布の林、昆布は天然では横に這っている。横に這って水流を波型の葉で受けて、長いからだを浮かしているのだが、一般イメージでは昆布は縦に葉を伸ばしている。その林を縫うように泳ぐ、ヌードの水中撮影である。昆布の生えている北海道でヌードを撮ったのでは、モデルが凍死する。横を縦にするどっちにしてもうその話なのだ。 #
by j-suga1
| 2017-11-27 17:48
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2017年 11月 24日
![]()
朝起きて、動くのがいやだった。 赤沢着1015 大西からブリーフィングをうける。このようなだんどりはすべてマトンがやってくれた。そのマトンの主導で、作戦会議、現在ダイビングのプランニングの提案を進めているのに、ぼくは、このような段取り、プランは得意ではないのだ。得意ではない反省が、プラン提案に向けて活動している。とは都合の良い、屁理屈。 僕は全行程をタイム記録が画面にでるSJ4000系のウエアラブルカメラをヘッドにつけて記録する。これも12月10日のシンポジュウムでのテーマのシミュレーションになる。 ここからは、SJ の動画撮影を切り出したスチルで説明して行く。 ![]() 11時 44分29秒 エントリー 写真の左端の砂浜からエントリーして、右端の堤防先端までスノーケルで行き、堤防を回り込んで岩礁を左手に見て進む。 砂浜を選んで失敗だった。なだらかな砂浜だったのが、この前の台風の大波で砂が洗われて石が露出した。前にこの石の一つにつまづいて、膝を痛めたことがある。 ![]() ![]() マトンの肩につかまるようにして足をづらしていたら、小久保が肩を出してきた。僕はバルブを開くサインかと誤解した。小久保のようなダイバーがバルブの開き忘れなど考えられないのだが、開いてみた。 うねりがすこしある。 ![]() 46分28秒 潜降開始 ![]() 48分 56秒 角でうねりが巻いていて透明度がわるい。 ![]() 小久保の白いフィンがよく見える。 ![]() 僕が方向を指示する。弱者に従う原則。 ![]() 並んで進む高山さんとマトン ![]() 最初のブロック発見 ![]() 撮影の役割 マトンが撮影する。 ![]() ![]() 地図を見て確認する。 ![]() 54分 26秒 次のブロック発見 ![]() 55分24秒 次のブロック 95点 30点 発見 マトン撮影 ![]() 次のブロック 撮影 81点発見 撮影 132点発見 ![]() 方向を右に振って砂地を行く 散開して探す ![]() 07分05秒 発見 ![]() 発見 ![]() 残圧の確認 ![]() 戻る方向に進路を変える。 10分39秒 ![]() 発見 発見 ![]() コース確認 ![]() 帰りのライン 発見 小久保が離れている。左手にブロックがあるのはわかっているのだが、発見して、ラインをはなれるのは厳しい。 ![]() 隣に高山さん、その向こうが小久保、幅広く散開しているが、僕のエアがない。もどるように手招きする。 ![]() ラインの末端でブロック発見 ![]() ゲージを確認する ![]() コーナーに接近はしているが残圧は80 あと70 小久保は正しく戻る方向に先導している。 戻る方向指示 ![]() 24分01秒 ![]() しかし、心配なので自分の目で方向を確認する。 24分39秒 ![]() 24分54秒 残圧は あと20か ![]() 24分57秒 エキジット ![]() ガラスの膝をかばって這い上がらなければならない。マウスピースは口から放す。 12時27分13秒 ようやくエキジット マトンの残圧は110ぐらいある。 ![]() 僕たちは7位 もう一つの山本、倉田、鈴木組は 4位 ![]() 出場9チーム中の7位 なーんだと言うかもしれないがベストを尽くした。そして、前回のチャンピオンだったイエローフィンは僕たちの後ろ 8位、ブービーだった。前回優勝時は3人のチーム、今回は4人、このゲーム弱者がすべてを決めるゲームなのだ。その結果だと思う。 優勝した北里大学は女子のチーム、空気の消費量が勝負であるとすれば、女子有利なゲームだ。 特に学生クラブは学生連盟主催の大会があってもいい。 ☆★☆ #
by j-suga1
| 2017-11-24 18:13
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2017年 11月 22日
「展示するハウジングから見た日本のテレビ・潜水撮影小史」 これがタイトルとして、良い。 1984 7月 日本列島夜の海 日本初の水中中継 目加田頼子アナウンサー これには因縁がある。1963年の90m潜水でデマンドバルブ付きのフルフェースマスクの実験をおこなった須賀は、さらに使いやすいフルフェースマスクをと考えていた。ダイブウエイズは、窒素環境に入る陽圧マスク(マスクの中の方が圧力がわずかに高く、絶対にそとから気体が入ってこない)を開発していて、これを水中有線通話に使えないだろうかと相談していた。同じ時期NHKの河野も同じ考えを持ち、ダイブウエイズでそのマスクを見て、使う企画をたてた。ダイブウエイズの武田社長も日本潜水会、河野、須賀も日本潜水会である。日本潜水会はなにがあっても争わない協力すると言う不文律がある。 須賀は日本テレビ山中プロデューサーに企画を出していたが河野の方が企画が早く通った。 なお、目加田アナウンサーも彼女が上智大学学生だった時に一緒に仕事をしたことがあった。すでにかなりのダイバーだった。 この撮影は全国多元中継でNHK潜水班総出のようなイベントであり、夜の海からの中継は話題を呼んだ。
この年、NHKの水中撮影は最盛期で、南極の海に南方、河野が潜り、パラオでジュゴンを追い、トラック島の遺骨収集で水深60mに潜った。
7月にNHKにやられてしまったので、こちらがすぐに追従するわけにはいかない。半年間隔を置いて、 1985年 2月 慶良間から 民放初の水中レポート中継をレポーターは、女子大生が売り物の須賀潮美 と田所恵美チャンで、二人が水中で会話して、スタジオの徳光アナウンサーと、さらに札幌の雪まつりと結んだ。 なお、この時から使うようになったカメラは、池上通信のHL-79E でプランビコン3管のカメラで、一世を風靡したカメラだ。さすがにここまでくるとKYの板では、自分で納得ができない。 放送規格のカメラは、ソニーがトップだが、池上も老舗で、フアンが多い。ソニーの色はどちらかと言えば派手で、池上は落ち着いた泰西名画風である。 池上が好きだった。 NHKは、1985年 5月 秋吉台 洞窟発見 カメラマンは 南方 木原 で、南方さんも日本潜水会の指導員で、ニュースのカメラマンとしての腕利きだった。 南方さんは、1981年の僕たちの竜泉洞を見て、負けるわけには行かないと秋吉台に潜った。のだそうだ。 木原も典型的なニュースのカメラマンだった。(親友、および自分より年少は、すべて敬称省略している)南方さんは、同年輩で,敬称略まで親しくなかった。後述するように好きな友達だったけど。
1986年 1月 知床の流氷の下に須賀潮美が潜る、ニュースステーションの水中リポートが爆発的(僕にとって)な成功を収める。船の上でモニターを見て水中の潮美と会話する立松和平さんとのやりとりが新鮮だった。この方法を考え出した小早川さんとの旅がはじまる。 これは、カメラとVTR がケーブルで繋がっている古いシステムだからこそ成立した。そして潮美を育てたのも半ばは日本テレビで、特にスタッフにはかわいがってもらっていた。それが、テレビ朝日で全国区になる。考え込んでしまったが、これが潮美の運、成り行きだった。 潮美のニュースステーションでの水中レポートは、10年以上続く、驚異の番組になった。機材については、フルフェースマスクの改善があり、ダイブウエイズのフルフェースマスクは、水中で誰かが話す、会話、通話をする事について、現在世界最高の評価を得ている。以上述べてきた経緯から、僕はその功績の30%ぐらいを背負って居るだろう。
「NHK 潜水撮影の半世紀」を見るとほんとうにおもしろい。何時どこの海で何を誰が撮影したかの表を見ると、海の出来事のすべてがわかる。 しかし、自分のことも含めて、ここでは、海の出来事ではなくて、機材の進歩変遷を見て行くテーマである。
ビデオ撮影はハイビジョンの時代に入っていく。ここまで、力も金もない個人の零細業がとにかくNHK潜水撮影班と併走してきた。親密な友人関係にあり、特に機材の製作では親類同然の島野製作所、後藤アクア、ダイブウエイズが絡み、情報を共有してきた部分がある。しかし、ここから先は? #
by j-suga1
| 2017-11-22 13:26
| 歴史
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2017年 11月 20日
1120 日本ハウジング史 2 ハウジングから見た日本テレビ映像史 かな 良いタイトルが見つからない。 1980年 ポンペイ 日本テレビ 山中プロデューサーの作品、ナンマタール(ナンマドール)遺跡に潜った。ムウ大陸の遺跡?ナンマタールに潜ると死んだりする。タブー、呪いがあるのだ。その呪いで僕はカメラマンに復活してしまった。 詳しくはここでは書かない。月刊ダイバーのグラフィティに書いている。 このロケで、DR70 ベルハウエルが水没した。水没させたのは、鶴町君、そのベルハウエル、今回陳列する。 すでにフィルムカメラはサブになっていて、水没しても実質上製作に支障はなかった。この水没で、以後、フィルムカメラは、ハイビジョンのためのスーパー16になる時代まで手にすることは無くなった。 日本テレビの撮影で使っているビデオカメラ、あまりにも大きく重すぎる。水中では重くないが。とりまわしにたいへんだった。 このKYシリーズは、撮像管(真空管)ではなくて撮像板を使っている。板の方が廉価、当然、色も劣るが水中ならば、これで我慢できると考えた。 ビデオカメラは、民生用、業務用、放送規格と分化していて、ビクターKYは、放送規格に近い業務用に位置づけられていた。
ENG エレクトロニック・ニュース・ギャザリング 街に進出して撮影する、ニュース取材用のテレビカメラの意味である。 今でこそカメラと言えば、すべて電子的記録で、小さなカードに記録、録画されるが、初期のテレビカメラは、幅1インチのテープに録画される。大型のテープレコーダーで、放送スタジオに、どんと鎮座している。そのレコーダーとカメラは太いケーブルで繋がれていて、大きなカメラは車付きの三脚に乗せられていてスタジオの床を走り回り、ケーブルも床をのたうち回る。 街中、野外はフィルムで撮影する。だからニュースはすべてフィルムである。フイルムは現像して、編集しなければ放送できない。今、編集と言えばすべてPCの中での出来事である。フイルムの時代は現像してからの「切った貼った」である。一度、NHKのニューススタジオに見学に行ったことがある。編集済みのフィルムを放送するのが原則だが、ニュースは時間との競争でもある。カメラマンが撮影してきたフィルムを、秒を争って、現像して、切って繋ぐ、アナウンサーがしゃべっているスタジオのかた隅で、編集マンがフィルムを切って繋いでいる。秒を争って秒を繋ぐ、神業である。もしもカメラマンが、余計なものを撮ってきたとすれば繋げない。間に合わないのだ。ベルハウエルのカメラが3分で30秒のカットが六つ、それで良いのだ。 ニュースのカメラマンも、頭の中で編集しながら撮影する独特の感覚が必要であって、それは編集マンとの闘いとも言えた。編集マンに気に入られるカメラマンが良いカメラマンだ。 一方、スタジオのカメラマン、あるいは野球中継のカメラマンはまた別の感覚である。
ENGは、スタジオのビデオカメラが屋外にでて、走り廻ることだ。そんなに大きいものを担いで走ることはできない。テープレコーダーもできるだけ小さく、カメラもできるだけ小さくしようとするが、それでも大きい。ENGは、ビデオ・テープ・レコーダー(VTR)を肩に掛けて走るビデオエンジニア、いわゆるVEと、カメラを担いで走るカメラマン、二人が一組で、その間はケーブルで繋いでいる、二人三脚となる。
水中撮影の場合は、ビデオ・テープ・レコーダーは船の上に置き、カメラは水中で、これもケーブルで繋がっている。ケーブルは100mぐらいが限界である。やってみればわかるがこのケーブルと言うものが水中で如何にも始末に負えないものであるか、ケーブルの芯線は原則として銅線であるだから重い。沈む。やがては中性浮力のケーブルを作るが、当初は浮きを着けて中性浮力にする。だからかさばる。水中ではこのケーブルを捌くダイバーが必要である。ヘルメットダイバーはホース捌きが技術だが、水中カメラマンはケーブル捌きが技術である。 これは、面倒ではあるが、ダイバーにとって、一つの安全管理になっている。つまりケーブルでボートとつながり、ケーブルを捌くバディがいて、しかも役割分担が明確である。 このシステムのおかげで、どれほど救われたかわからない。僕が生きているのはこのケーブルシステムのおかげ、といっても良い。
カメラとビデオが次第に小さくなり、一体化するのは90年代である。 1981年 竜泉洞 NHK特集「地底の湖・謎の大洞窟」 NHK仙台制作、NHKなのに、僕がカメラマンしている。フィルムとエレクトロニクス録画の端境期だった。 この竜泉洞がヒットで、未曾有の視聴率をとってしまった。当然、NHK潜水班としてはおもしろくなかったかとも思うが、「潜水撮影の半世紀」には須賀次郎氏が潜る と記載されている。撮影とは書いていない。 NHKでも、その1981年 水中ビデオシステムが開発され、これは島野製作所が作っている。サチコン3管型のカメラだ。 3管とは、色の3現色RGBを三つの撮像管で撮るもので、放送規格のカメラである。一般アマチュアが使う民生は単管で、業務用はその中間型である。 なお、撮像管は、ビジコン、プランビコン、サチコンがあり、プランビコンが最高位であるが、サチコンはNHK放送技術研究所と日立が開発したものであり、プランビコンよりも安価であり、性能の差はわずかである。 撮像管は真空管だから、衝撃には弱い。やがてCCD 固体撮像素子に代わって行く。 同81年 ハンディな3管型ソニーBVP300のハウジングシステムを後藤アクアティックが作っている。 これまで、フィルムのカメラ時代は島野製作所が、ハウジングを作っていたが、この1981年のBVP300以来、後藤アクアティックに移り、以後、島野製作所が作ることは無くなった。 島野製作所の島野さんはスガ・マリン・メカニックの取締役であり、後藤アクアの後藤道夫は、日本潜水会の盟友、無二の親友である。葛藤がないこともなかったが、島野製作所とNHKは、河野を通して、つまり須賀のルートで仕事が始まったのだが、以後、製作はスガ・マリン・メカニックではなくて、島野製作所になっている。 争うようなことは全くなかったが、僕は、ダイブウエイズでハウジングを作るようになり、80年代初期は、後藤アクア、島野、ダイブウエイズが特注タイプのハウジングメーカとなり、NHKは、後藤アクアが一手に引き受けるようになった。
1982年 孀婦岩「東京無人島群」これもNHKの番組で僕が撮影し、夏休み特集として良い視聴率だったが、これを最後に僕がNHKの撮影をやることは無くなった。
1984年 NHKは、VTR一体型のソニーBVW-3のハウジングを作っている。 前述したようにENGは、VTRとカメラが別であり、二人がチームで動く。一体型になれば、一人で撮影できる。当然、機材として目指すのは一体型であるが、一体型はそれなりに大きい。一人で担いでバッテリーその他の付属品を持って動くのは容易ではない。 助手としてのVEは、なかなか便利な助手である。 それに、水中はケーブルで繋がっていた方が安全という考え方もある。 一方、VTRを別のハウジングに入れる分離型も考えられ、NHKは、1985年に分離型のハウジングを作っている。 スガ・マリン・メカニックでもソニーBVW50の分離型を作っている。
続く #
by j-suga1
| 2017-11-20 20:23
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2017年 11月 19日
ここから先シンポジウムの報告書の原稿を書かなくてはならない。ので、 ![]() 2016年、昨年のシンポジュウムで、最新ダイビング用語事典Ⅱの編集を決め、それは、ダイビングの歴史中心にしようということで、制作の準備を始め、元JAMSTECの山田稔さんに協力を依頼して、年表の制作、監修を行っていただいた。 本題にもどって、映像(映画、テレビなど動画について) ここでは、僕とNHKの併走、勝負の視点で見ていこう。 次はNHK潜水撮影班が行った全研修の講習内容、講師、参加講習生の名簿が示されている。本来組織が行う講習会はそうあるべきだが、日本水中科学協会のプライマリーコースはここまで完璧ではない。 とにかくこのテキストは、このスタイルとしては完璧に近い。 この「NHK 潜水撮影の半世紀」の中でも、畑中さん河野さん、竹内さんは別格の扱いで、それぞれ紹介に1Pをとっている。三人は、僕にとっても特別な友人なので、紹介しよう。 機材について ![]() 1957年 水産大学学生が行う海底地図の作製を取材。これがNHKカメラマンによる最初のテレビ番組の水中撮影だった。カメラマンはすでに紹介した畑中さん。 確か、僕の一年上の竹下さん、橋本さんが取材されている。僕はまだひよこで、その年に潜水部ができた。今年60周年を迎えた。 1963年には、ボレックスの16mm、これもスプリング巻きを輸入 これで奄美の海を撮っている。撮影は河野、竹内だ。 ![]() さて、自分の方だけど、川崎に島野徳明という人が居て、潜水協会の会員として知り合った。東芝に勤務していたのだが、器用な人で何でも出来る。本当に何でも作れるのだ。何でもできる、何でも作れるというのは才能で、僕の周りで、その一人が後藤道夫で、もう一人が島野さんだ。島野さんには東亞潜水機で僕が作っていたレギュレーターの部品の加工をしてもらうことになった。 1965年 加山雄三の「海の若大将」シリーズが始まり、その水中撮影のカメラハウジングの問い合わせが東亞潜水機に来た。島野さんのことを思い出して、出来るかと訊いてみた。出来ると言うことになり、製作をたのんだ。35mmフィルムのシネカメラで、大きい。無理かと思ったが、巨大なハウジングだが何とか出来た。 ![]() このハウジング カメラ展示する このカメラは鋳物で10台単位で作った。この種のハウジング、しかも水中用としては大量生産だった。 このDR70というカメラは、第二次大戦、朝鮮戦争そしてベトナム戦争で活躍する。すごいタフなカメラなのだ。スプリング巻きだから、電池の充電の心配がない。野戦で使える。そして、カメラマンが地雷を踏んで飛散しても、カメラ直撃でなければ、カメラは生き残る。 使用するフィルムは短尺で、撮影時間はおよそ3分である。スプリングをいっぱいに巻くと、およそ26秒シュートすることができる。26秒とは、そのころ流行した「お富さん」を歌い終わる時間数だ。このカットを6回撮影すればフィルムチェンジをしなければならない。水中ならば浮上しなくてはチェンジできない。 1969年 このカメラを使って、僕は日本テレビの番組で日本初、摩周湖に潜って撮影した。 日本潜水会とか、撮影のための潜水とか、次第に東亞潜水機の仕事が留守になり、わがままいっぱいさせてくれた、東亞潜水機を退社した。1970年、自分の会社スガ・マリン・メカニックを作る。 退社の条件で、僕は潜水機そのものは作らない約束をした。1963年100m実験潜水で送気式のデマンドバルブ着きフルフェースマスクを開発していたので、それを商品化するのは、義理にはずれる。 ![]() ![]() 1977年 マチャアキ海を行く、これは、日本で初めての水中撮影の連続番組であり、後には僕と組むことになる田島プロデューサーの作品で、カメラマンは後藤道夫、益田一、田口哲、中村宏治、中野修三らで、僕はここには入っていないまだカメラマンではない。 この番組で主に使用したのは、NHKも導入したスプリングモーターのボレックスで、ドイツからの輸入品であった。 上から蓋をする形であり、大きく重いが、水密、沈没しにくいということでは、僕の作った70DRよりも確実だった。 ※この番組をフイルム時代のテレビ代表として、シンポジュウムで映写する。 1978年 潜水と水中撮影入門 という本を須賀と後藤道夫、共著で書くが、まだその時点では、須賀はカメラを作る人、後藤はカメラマン写す人という縄張りである。 1979年 日本テレビ 大型 NEC テレビカメラを作り、それを運用して水中番組をつくるプロデューサーとして、山中康夫氏が就任し日本一周の水中撮影があり、水中撮影はスガ・マリン・メカニックが受けるがまだ僕は水中カメラマンはやらない。撮影は好きだし経験もあるが、じっと我慢して社長さんをやろうと心にきめていた。
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by j-suga1
| 2017-11-19 22:47
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2017年 11月 16日
11月13日。 久根津(油井)を出航して、東に向かう。 奄美大島は本島と加計呂麻島に分かれていて、その分かれている海峡が瀬戸内だ。相当風が吹いても、瀬戸内内は静かだ。ただ、その両端はうねりが入ってきている時があり、そのポイントは潜れない。反対側に場所を移す。海峡の両端がダイビングポイントとして良いところがあり、咋12日は西側の出口の両側を潜った。 今日は海峡東側出口の、加計呂麻側の安脚場、本島側の喜鉄にもぐる。
![]() まず一回目のダイビングが安脚場西、ここは潜ったことがあって、たしか中尾先生が目当ての海綿を採集したところだ。期待が大きい。 うねりは入っていないが流れがある。館山ほどのことはないが、今回、一緒になっているもう一つのグループ女性二人組と男性一人、彼らが先にエントリーしたので、上から見下ろす。女性の一人、せっせと泳いだがあまり進まないので、ヘッドファーストで潜り込んで行った。このグループはかなり上手だ。
僕もヘッドファーストかなと思ったが、ボートを止めているブイロープ、潜降索が艫の梯子の前にあり、ロープで繋がっている。これにつかまり、手繰って降りようと考えた。 飛び込んで、索を手繰って,8mほどのところでロープにつかまって待っていたが誰も降りてこない。町田は、途中まで降りてヘッドファーストで流される方向に降りてしまった。流れに乗って追いかけるとすぐに巨大な岩があり、流れを遮っている。だから、流されてもここで止れる。 ![]() 昨日に比べて大きな岩が入り組んでいて海綿は多い。 大きな岩のトンネルを向こう側に抜けると、大きなハマサンゴの群落がある。大きな岩とほぼ同じくらいの大きさだ。そのサンゴまで行かないで、手前の大きな岩で採集する。 昨日に比べて採集点数が多い。少し期待が持てる。
![]() マスクマウントのアタッチメントを忘れてきてしまったために撮影が出来ない。要所で手持ちで撮れば、とやっているけれど、要所では手を使うから撮れない。撮影が目的の潜水ではないのだから、問題ない、とは思うものの、マスクマウントでの撮影が身についてしまっているので、ちょっとつらい。撮影の結果は惨憺たるものだった。カメラを構えないで撮影するから、ほとんどのスチルは流れてしまう。
浮上の頃には流れがゆるやかになっていた。 潜水開始 11時16分 最大水深13.4m 潜水時間53分 水温25度
二本目のダイビング、安脚場の対岸、本島側の喜鉄、黒崎に潜る。ここは始めて潜る場所かも知れない。後でログを調べよう。 砂浜の沖にポイントブイがあるが、潜れば良い岩礁がある。海底から、複雑な形状の大きな岩が立ち上がっていて、海綿の着く陰が多い。 町田が採集した海綿を種類毎にパックに詰めて僕が手に持つ、大きな採集バッグを持てば良いのだが、僕はこのチームの中で、カメラを持ち、バッグを持たない形になってしまっている。町田が採集したパックが次々と増える、カメラのステイを肘にひっかけて、両手でパックに採集した海綿を詰めつつ、いくつものパックを持つ、という手が4本状態だが、パックが4袋が限界だ。鈴木の大袋に入れたいが離れてしまっている。町田を促して、中尾組の方に行く。大きいバッグが一つというのも、グループが離れないためには、良いかも知れない。 空気が80を切ったので、そろそろ戻る方向だ。太田さんが、こちらの動きをだいたい読んでくれている。 ふと、水面を見るとボートの影がうっすらと見える。良い位置に戻ってきてくれている。ここならば30まで大丈夫だ。 町田と僕の空気消費の差は、終了に近くなって30だ。僕が30ならば町田は60だ。中尾先生との差は20だ。悲しいかな僕の消費が一番多い。 ![]() 太田さんが深く切れ込んだ岩の下で良い海綿を見つけた。町田が採集する。その向こうを見ると、岩の形が良くて、チョウチョウウオが数種類、これも悲しいかな種類を忘れつつある。スミツキトノサマダイとなんだっけ、ミスジチョウチョウウオか、コショウダイの類の名は忘れている。岩の重なりが写真的に良いので行こうか、やめて岩陰から外にでる。ボートを探して上を見上げるが見あたらない。
太田さんに合図を送ると戻るリードをしてくれる。意外に離れていた。戻る途中で記念撮影をしてくれる。彼は町田の方向へ戻り、僕は浮上する。セフテイストップは、しないでそのまま上がる、最大水深15mで潜水時間50分、二本目の潜水だ。もちろんDECOマークはでていない。自分の感覚ではOK。潜水時間の大部分、採集は、水深10m以下でやっている。僕の60年のダイビング生活で、その50年ぐらいの期間、水深10m以下ならが減圧停止はしなくても良い時代だった。減圧症の歴史は面白い。
全員無事に上がって、戻る。この場所は今回の4回の潜水では一番良かった。目的のものが採れたか、中尾先生に訊く、首を横に振る。新しい種類はいくつか採れたらしい。一緒に潜水しだして、もちろん、それ以前もあるだろうが、だいたい3000種類以上だという。
![]() 僕たちのダイビングは、これで終わり、別の3人組は、別のガイドでもう一本やる。まだ時間は早いし中尾先生は少し未練があるかも知れない。しかし、さっきのような浮上でも大丈夫なのは、2本までかも知れない。僕は原則としてこのチームでは2本だ。このあたりは判断が難しいところだ。水深が浅くて3回以上の潜水と、深くて1-2本の潜水と、どちらが減圧症になりやすいかと言えば、浅い方だ、というのが常識になりつつある。
潜水開始1時12分 最大15.8m 潜水時間50分 水温25度
太田さんのハウスで、採集した標本の整理。僕はオフだ。 キジトラの猫が、興味を持ったらしく遊びに来た。ここの猫だ。猫の研究?をしている僕としては、友達になりたい。 外で飼っている。外飼いの猫だ。外飼いの方が、飼い主以外の人、たとえば僕に対して、なつく。ダイビングサービスの猫は、だいたいこのスタイルで、お客と遊んでくれ、人気がある。猫としてもこれが幸せなのだろうと思う。あ、猫を飼うと言ってはいけないのかな、猫と暮らす、のだ。どっちでも良いけど。 しかし、奄美の猫は全部外飼いかというと、そんなことは無いらしく、ここでも、捨て猫、そして野良になって捕殺の問題がある。奄美では野猫が、稀少生物で人気のあるアマミノクロウサギを襲ったりしてしまうから、より深刻かもしれない。家の周辺に限定して、なるべくならば室内飼いが奨励されてはいる。 必ず登録して、首輪を着けなければいけない。 太田さんが記念撮影をしてくれた。僕はこの写真がとても気に入っている。
![]() 喜鉄の宿で、もう少し良いオカヤドカリの撮影がしたい。眼をはっきりと撮りたい。ヤドカリのチャームポイントは眼なのだ。食事の後で撮影にでたが、すぐに雨が降ってきてしまって戻ってきた。不満足だが眼は撮れた。このヤドカリはムラサキオカヤドカリ、これも希少種だ。
![]() 11月14日 さて、奄美に来たら、鶏飯を食べないわけには行かない。港屋だ。それほどにこだわっているのに、僕が道をまちがえてしまった。 が、とにかくたどり着いて港屋で食べた。中尾先生のフェイスブックで、奇しくも3年前の同じ日に、港屋で食べていることがわかった。おいしかった。 #
by j-suga1
| 2017-11-16 13:12
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2017年 11月 15日
11日12時発 JAL 奄美大島直行便 満席だった。奄美大島に行く人、増えている。 1430名瀬着、レンタカーで古仁屋まで、小さい、わりと小ぎれいなホテルにまず一泊。ホテルの斜め前でこれも、古仁屋らしくない肉料理屋で夕食、まあまあの味で、フィッシュ&チップはおいしかった。
![]() 12日、朝8時にホテル出発、久根津の太田さんのところ、「コホロ」へ、久根津は僕が大学2年生の時、一夏を過ごした。僕が過ごした、マベ真珠養殖場、油井小島は、造成した石垣が崩れて、廃墟。そうだろう、60年前なのだ。60年前って軽く言うけれど、その時生まれた赤ん坊が、還暦なのだ。
コホロの太田さんのボートは、なかなか、良い。 10年以上続けている中尾先生の海綿採集の手伝いで、目標にしている種類があるのだが、これまで、2回ほど空振りしている。
中尾先生がブランクで、花粉症で咳がでている。3mまでにすると言っているがまあ8mぐらいまでか?。 自分は、3mmのウエットスーツでは寒いので、そしてボロはみっともないので5mmのウエットスーツを買った。 そのいきさつは、以下。
「「昔、レンタルに使っていたスーツが、山のようにあり、かなり捨てたが捨てきれない。その一着を着ていたら、少し、いや、だいぶみすぼらしい。新しいのを買うとして、 フリーダイビングの人たちが愛用しているUGO 後藤勇毅 君の略だ。君と言って、僕より10歳下で、彼が10代のころからの友達だ。10歳下、73か?もしかしたら、5歳下、もちろん息子さんの代になっている。須賀さん、スーツ作ってあげるよと言われてから、30年以上経過している。死ぬまでに一度つくってもらおう。 でも、採寸に行く時間、余裕がない。11月中旬に奄美大島に行く。3mm、にフードジャケットで行かれるか? 水温23度までなら、大丈夫だ。でも、雨だったら、厳しいかも。 悩んでいる話を鈴木君にしたら、今の出来合いは、9800円でも、使える、買ったらどうですか? アマゾンで見たら、9800円、自分の採寸表(10年前)をみて、Mサイズをポチしてしまった。 次の日には届き、辰巳で試着した。太股、腰回りが少し緩い。僕の肉が落ちているのだ。まあ、フィットしている。作りはなかなか良い。生地も良く延びて丈夫そうだ。手足の長さは合っている。 これで、9800円だから、ウエットスーツ屋さんも大変だな。」
5mmの上にフードジャケットを着る。ウエットスーツが新しいので、ウエイトは6キロ着けた。多分重いだろうが、最初だから軽くて沈まないよりは良い。
さて、恒例の忘れ物、今回は忘れ物がないように念入りに準備した。それでもダメだ。GOPROをステイに取り付けるアタッチメントがない。バッグの底にいつでも何個か入っている。そのバッグを交換して持ってきた。仕方がない。GOPROで撮るときには、別に手で持って構えよう。
太田さんが事前のブリーフィング、僕でも聞き取ることができた。それだけ、大きな声で明瞭に話して居る、ということだ。何を話しているのか僕の耳では聞き取れないガイドも居る。今、計画書のプロジェクトをやっている。計画書に記載してあれば耳が遠い僕でもわかる。言葉は、通じていない心配がある。言葉と書類の両方が必要だ。 話していることの骨子は、水中ではぐれたら、探そうとしないで、浮上して浮いて待てということだ。流されても泳がずに浮いて流されれば必ずピックアップするから、パニックにならないで、ただ浮いて居るように。
この前、学生の指導者の集いで、高野君がレクチャーしたとき、同じ事を話した。それではセフテイストップはどうなるのだ。ダイブコンピューターには早すぎるという表示がでるが、どうだ、と質問して困らせた。 セフテイストップだとか、ダイブコンピューターの表示などはどうでも良いのだ。優先順位はボートに収容することなのだ。そのコンセプトをガイドとお客が共有していることが一番大事なのだ。学生であればリーダーとフオロアーの共有の確認だ。
一緒に潜るチームは、中尾先生、町田君、須賀、アシストしてくれる鈴木、ガイドにはオーナーの太田さんがついてくれる。気心がわかっているいつものチームだ。
中尾先生のダイブコンピューターの電池が切れてしまった。僕の日アク ダイブコンピューターを貸して、僕はソリューションを使った。60歳の時から使っているから、22年使っている。これは名機だ。 一回目の潜水 11時28分潜水開始。 9.8m 47分 25度
哀しいけれど、歳をかさねると言うことは、フィジカルが少しずつ退化していく事なのだ。ここが、昨年より良くなったということはないのだ。ボートの後尾にある梯子に腰を下ろして、その姿勢で身体を持ち上げることが出来なくなっている。そのことを誰かに気づかれると手助けしてくれてしまう。何とか苦労して立ち上がり、水面に落ちる。飛び込むと言うよりも、落ちるのだ。 スノーケルで呼吸しようとすると沈んでしまう。BCに少し空気を入れる。6キロでは、やはり少し重いのだ。 レジャーダイビング的には何もないポイントだ。サンゴも少しだし、魚も、どこにでも見られる種類がどこでも見られる数だ。僕たちの他に、二人だけの女性組がいて、彼女らには、別のガイドが付いている。二つのグループがだいたい同じ方向で進む。
![]() ![]() ![]() ここの見るべきものは洞窟であり、向こう側の水面にぬけているちょうど良いサイズのホールだ。中尾先生の目指しているのは、だいだい色のような海綿だという。洞窟の中では、黄色い海綿を採集した。先生も熱心に採っていたから、この種類で良いのかと思ったが、残念ながら目指すものではなかったそうだ。奄美大島は空振りがつづいている。気がかりだ。
5mmの9800円スーツは、45分 24度で、終わりの方になりちょっと寒くなり、ボートにあがってから、我慢できないほどではなく、ふるえもしなかったが寒かった。
2回目の潜水は場所を移して、1時間後に開始。 瀬戸内海峡を、久根津港に戻る方向で移動して、カケロマ側だ。 1時22分潜水開始 水深9.1m 潜水時間49分 23℃
やや、流れがある。上るのに少し力が入る。 ウエイトは5キロで良い。急速に潜降するばあいには、ヘッドファースト、通常の潜降はBCの空気を抜ききれば、降下できる。 ウエットスーツは、水に入ったら暖かかった。 何もない水中で、海綿もめぼしいものはなさそうだ。
![]() 鈴木が中尾先生についていって、町田がひとりで 離れたので、町田に付くことにする。 流れがある澪のような地形で、何も見るべきものはない。海綿の採集だから、この場所でもいい。 橙色の薄い皮のような海綿を見つけたので、町田を呼んで、採集する。岩に貼り付いた薄い皮をていねいに剥がすような採集だ。
宿泊は、前回泊まった久根津の「よーりよーり」ではなく、古仁屋に戻り、通り過ぎて、喜鉄という部落の「ネプス」というペンションだ。「よーりよーり」が満員だったのだろう。 移動に意味なく時間がかかるが悪い宿ではない。 喜鉄を越えて、東の先端に向かうと、ホノホシ海岸とかヤドリ浜とか、良い砂浜がある。恒例の遠足を行ったが、それほど歩いたわけではなく、浜に降りた程度で止まった。美しい砂浜だ。という他特筆することはない。 食事もまあ良いのだが、このごろこういう料理を食べておいしいと感じることが少なくなっている。
食事のあと民宿のご主人の案内で、みんなぞろぞろ出かけていく。説明があったのだろうが、耳が聞こえないからわからない。懐中電灯を一人一個ずつ持って表にでて、道路を渡って向こう側の林、その向こうは浜で、海だ。懐中電灯で照らしてみると、オカヤドカリが出てきている。皆それぞれ、スマホのカメラで撮っている。僕は説明が聞けなかったので、カメラを持ってきていない。しばらく、皆の写しているのを見ていたが、僕もカメラマンだ。スマホを持ってきて、皆に加わった。そのころは皆の撮影は終わっていて。町田君だけが残っていた。 撮影してもうまく撮れない。懐中電灯の光では強すぎるのだ。どうもうまく行かない。スマホのライトを使うことを考えた。やってみるとうまく行く。しかし、スマホのカメラの調子が悪い。設定がうまくできていないのだ。そんなことで、うろうろ戸惑っているうちに、ヤドカリがみんな居なくなってしまった。ライトの光を浴びせると、貝殻の中に引っ込んでしまうか、林の奥に戻っていってしまうのだ。一応何枚か撮ったので、宿に戻ってみると眼が撮れていない。ヤドカリがおもしろいのは眼なのに。
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by j-suga1
| 2017-11-15 10:32
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2017年 11月 08日
風のなりゆき
![]() 村上 春樹&龍 村上という苗字が作家には良いのかもしれない。 水中カメラマンの苗字は中村だろうか、征雄さんと宏治君、僕の頭の中では、そんな呼びかけになっている。 中村さん二人、あ、もう一人庸夫さんという人が居たな。中村さんたちは次の機会に置いて置き、二人の村上さん春樹さんと龍さんだ。 まず、春樹さんだが、最近、彼の小説にはついていけない。決して、嫌いでは無いのだけど、面倒くさくなってしまう。ずいぶん昔になってしまったが、ノルウエイの森も、途中で挫折した。 いつでも、自分に残された有限の時間のことを考えてしまう。限られた時間の中では、ノルウエイにはつきあいきれない。と言いながら、娯楽に徹した小説はずいぶん読む。悦楽の一つ、お金がかからない悦楽なのだ。 その悦楽の枠のなかに春樹さんの小説は入らない。
長いものがだめと言うことではない。上村菜穂子のシリーズは読み通せば延々と長いが愛読している。ついでに言うけれど「宇宙士官学校」鷹見一幸 も愛読、「一二国記」小野冬美も好きだ。その手のものが息抜きに良い。 村上春樹の小説は、ノルウエイの森、あたりからしんどくなった。 今度ノーベル賞をもらったカズオ イシグロの小説などは読む意欲が湧かない。このこと、カズオイシグロのことは、ずっと前に書いたことがある。良い、悪いではなくて、疲れそうだ。
村上春樹は、紀行文とか、紀行に近いのだろう、滞在記とかは、好きで、処分しないで書棚に残っている。「やがて哀しき外国語」は、前に読んだ記憶があるのに、二度買いしている。108円だけど。
ずいぶん昔だけど。「風のなりゆき」 村上陽子の写真集で、で、僕はこの小さな写真集を村上春樹の奥さんだと知らないで、手にとって、気に入って新本で買った。僕にとってこれは珍しいことなのだ。なんと言うこともない写真なのだが、良いとおもった。村上春樹の奥さんだと知って、何となく生々しくて、少し点数が下がった。 その後、村上春樹の「遠い太鼓」というギリシャ エーゲ海の滞在記を読んで、この滞在記も好きなのだが、このとき奥さんの村上陽子が撮った写真なのだとわかった。 ことさらに何でもない写真で、街の猫を撮った写真が多めだが、なんか、こういう写真集を水中写真で撮りたいなとも思う。もうそんなチャンスは無いだろうが、100万円越えの重いカメラセットを振り回して撮ることがあれば、この方向を目指すだろう。という写真集だった。もっとも、陽子さんは、カメラが重いのでもう写真は嫌だと言っていると村上春樹が書いているけど。 僕も、もう重くて高価な水中ハウジングはフィジカルに無理だ。転ぶ時に高価なカメラをかばって大怪我をしそう。
ああ、「風のなりゆき」だけど、僕の友人諸君で、希望があれば、今度見せてあげます。なんだ、こんな写真というかもしれない。 ああ、ああが重なるけれど益田一の写真論もそのうちにやりたいけど、写真論は写真を見ながらしなくてはいけないので、ブログでは書けないのです。
脱線したので、村上春樹にもどって、滞在紀行記が好きだけれど、軽いエッセイの類も好きで、これも残している。 「村上ラジオ2」の中から「エッセイは難しい。」を書き抜く。ちょっと引っかかったので、 実はこの部分を書き掛けたのが、このブログのはじまりだったのだけれど、前にさかのぼる脱線をしてしまって、今、ようやくたどり着いた。 「エッセイはむずかしい」から、 「とはいえ、僕にもエッセイを書くに際しての原則、方針みたいなのはいちおうはある。まず一つは人の悪口を具体的に書かないこと(これ以上面倒の種を増やしたくない)第二に言い訳や自慢をなるべく書かないようにすること(何が自慢に当たるかという定義はけっこう複雑だけど)第三に時事的な話題は避けること(もちろん僕にも個人的な意見はあるけれど、それを書きだすと長くなる。)しかしこの三つの条件をクリアして連載エッセイを書こうとすると、結果的に話題はかなり限定されてくる。要するに(どうでも良いような話)に限りなくちかづいていくわけだ。僕は個人的には、「どうでも良い話」がわりに好きなので、それはそれでかまわないんだけど、」
僕もブログを書いたり、フェイスブックのコメントを書くとき、人の悪口は書かないようにすること、これは、つまり我慢だから、結構つらいけれど、これは必ず自分に返ってくることだし、なんとか我慢している。書いたら楽しいだろうな。 次に、言い訳や自慢を書かない。これはほぼ不可能だ。書いていることはほぼ全部言い訳のようだし、自慢はなるべくしたくないけれど、自己主張と自慢の境界はぼやけている。自慢できるようなことはほとんどないので、自慢していないつもりだけど、 とにかく、自慢と言い訳を書かないと決めると、書けなくなってしまう。今の世の中、生きているだけでかなり難しく、高齢になって、生きていることを書くと、「さあどうだ。生きている。偉いだろう」みたいな自慢になってしまう。 もう一つの時事的な話題だけど、これも書かずにはいられないような時代だ。 日本については、高齢化の地獄が明ければ、そのころには自分はいないということなのだけど、良い時代になるかも知れない。などと思っていたら、人類の滅亡的な戦争を自分の眼で見られるかもしれない。 そのことは、書かないと、つまり意見を言わないと、いけないかもしれない。これはもう、政治の話ではなくて、人間という生き物の、生態の話になってしまうのだから、生態学者の端くれとして、書いても良いかもしれない。 そのうちに、もしも時間があれば。
もう一人の村上さん、村上龍さんだけど、 続く ☆★☆ 続くと書いたけど、書ける時間、余裕があるかどうか疑問? ☆★☆ ちなみに☆★☆の、マークは書きかけで書きかけ地点にもどるマークだ。
この人も僕はあんまり好きではない。前には好きだったが、年とともに好きでなくなったと言うべきか。なのに、書棚を整理していたら、捨てない本の中に、村上龍全エッセイ、1982-1986、1987ー1992 が残っていた。なぜだ?とページを繰ってみたら、「水に遊ぶ、水に学ぶ」というタイトルで、ダイビングを話題にして書いている。これがあったので残したのだ、ともう一度目をとおした。サイパン、パラオのこと、そして、トラックの潜水艦に潜って死にそうになったことなどを書いている。 断片的に拾ってみる。 「ダイビングをはじめて7年になる。私にとって、その魅力は二つある。一つは、言うまでもなく「おさかなさんになっる」ことである。 二つ目の魅力は、生命が一番大事、という当然のことを強く確認できることだ。中略 ダイビングは子供も女も年寄りもすぐにできる、やさしいいスポーツなのだが、あっという間に死んでしまう怖いスポーツでもある。 そして、「生きがい」よりも「空気」の方が大切だという真理に到達できる、崇高なスポーツなのだ。」
「ダイバーのなかには、潜水中毒ともいうべき、本当のフリークが居る。とにかく潜りたい。ハコフグしかいない中伊豆でも良い。透明度ゼロの千葉の泥海でも良い。ヘドロの東京湾でも良い、北極海でもいい、プールでも良い、とにかく水に潜りたいという人々だ。そういう人のことは大好きだが、ちょっとわたしはついていけない。」 うん、確かに、ダイビングは僕のような、僕の周りの友人のようなフリークと南の海にだけしか行かないレジャーダイバーもいる。村上さんは生涯の一時期ダイバーだった普通のダイバーだったのだ。彼ほどの作家が、フリークになって海の中のことを今でも書いていてくれたらおもしろいのにと思ったりする。
「パニックというにはもともとダイビング用語である。」村上龍 彼はトラックで、潜水艦に潜ってパニックになり、空気が来ないと思い込んでマウスピースを口から離してしまう。そして、ガイドに無理やりに口にマウスピースを押し込まれて、「ものすごい勢いで空気が入って来た。水を飲むのをやめた途端苦しくなった。すべての細胞に針を刺されたようだ」 なるほどマウスピースを放してしまう人は、そういう事情だったのだ。溺れたとき、水を飲む、吸い込みはじめると、それはもう苦痛ではなくなり、空気に呼吸を戻すのが苦痛になるのだ、と。やったことは無いけれど、そういうことなのだろう。 それはそれとして、引っ張り出した「村上龍全エッセイ 1982ー1986、1987ー1991」二冊。 これが読み直してみたらおもしろい。彼の意見には同調できない。たとえばダイビングについても、ダイビング論としては、素人論だが、良いところを突いている。だからおもしろい、みたいなものだ。 と、読みかけたら、途中で嫌になった。
まあ、両村上さんとも、エッセイは面白いと思うし、何かがある。 小説は疲れる。両者とも 僕が我慢、根がなくなったのだろう。
でも、どうでも良いことだね。結局。「風のなりゆき」 #
by j-suga1
| 2017-11-08 11:21
| book・映画・テレビ
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